記憶に残る跡部先輩の姿は、卒業式に壇上で答辞を読んでいるのを遠くから見たのが最後だった。

式が終った後、友達に跡部先輩のところへ行こうと誘われたけれど、私を見たときの跡部先輩は、一体私をどんな表情をするのだろうかと思ったら、とても怖くなった。

先輩はもう私のことなど嫌いになってしまったに違いない。顔すら見たくないと思っているに違いない、と勝手に決めつけて、友達の誘いを断って、逃げるように一人帰ってしまった。


あれから月日は流れて、私は高等部の3年生になり、季節は秋から冬へ向かおうとしている。

ちょうど二年前、跡部先輩にイギリスへ行くと告げられたのと同じ時期だった。
今でも、あの頃を思い出すだけで胸がきしむように痛く、苦しくなる。

後悔は、もう、どれほどしたかわからない。

(あのとき、ちゃんと跡部先輩と会っていたら。勇気を出して、話をしていたら)


跡部先輩のいなくなった日々は、信じられないくらい、長く退屈に感じた。

毎日毎日同じことを繰り返すばかりの、気の遠くなりそうな日々。一体いつまで続くのかと思われた高校生活も、ようやく、終わりが見えようとしているところまできていた。

私を含め、ほとんどの生徒がそのまま氷帝の大学へ進むことがすでに決まっているので、友達はみんな彼氏を作ったり、合コンをしたりして、卒業までの日々を楽しそうに過ごしているけれど、私はちっともそんな気にはなれなかった。

ちゃんも彼氏作ればいいのに。楽しいよ」

と、友達に何度も言われ、何人もの男の子を紹介されても、誰かを好きになったりすることはなかった。連絡先を聞かれても、デートに誘われても、謝って断り続けた。



思い出すのは、私の名前を呼んで優しく微笑む跡部先輩の姿ばかり。

もう、二度と会えないのに。
私の名前を呼んでくれることはないのに。

(……跡部先輩……)

それでも、跡部先輩以外の誰かを好きになるなんて、きっと一生できないような気がしていた。



「……はあ」

放課後、友達グループからのカラオケの誘いを断り切れず、仕方なく数曲付き合った後、罪悪感を感じながらも適当な理由をつけて自分だけ先に抜けて帰ってきてしまった。

溜息交じりに玄関のドアを開け、なんとか靴を脱いでから自分の部屋へ行き、ドアを開けてパタリと閉めた後、灯りも点けないまましばらくそこに立ち尽くす。

(……何やってるんだろう、私……)

楽しそうな同級生たちと一緒にいるのが、どうしようもなくつらく感じる。本当は、彼女たちと同じように笑いたいと思うのに。

……私の中の時計は、まるであの時から止まってしまっているようだ。
跡部先輩を失ったあの日から、時間が前へ進まない。

(…………)

左腕を見ると、腕時計の秒針は規則正しく時を刻んでいる。金の装飾が施された美しくも華奢なその時計は、高等部の入学祝いに先輩が贈ってくれたものだった。

貰ったその日から、今日までずっと大事につけてきたその腕時計はどこか悲しそうだ。
見る度に先輩のことを思い出してしまうので、いっそ違う物にしてしまおうと探したこともあるけれど、結局これ以上に気に入る物を見つけることができなかった。

(……ロンドンは、今何時だろう……)

私は、事あるごとに、跡部先輩のいる場所のことばかり考えてしまっていた。
イギリスには行かないと言ったのは私なのに。今日本にいるのは、自分で望んだことなのに。

(……どうして、私は今ここにいるんだろう……)

跡部先輩が日本を発った後、私は、すべてがどうでもいいような気がしていた。何をしても、誰といても、楽しくなく、毎日後悔を繰り返して、ただ泣いてばかりいた。

この先、大学へ行っても、大人になっても、跡部先輩がいないのならば何の意味もない。そんな未来に興味を持つことができず、自分の人生なのに、まるで他人事の様だった。

溜息をつき、気力なく自分のベッドに腰掛けてただぼんやりとする。

(…………)

時間が経てば経つほど、あの日々は遠く薄れてくように思えた。
何よりも大切な思い出なのに、いつか、思い出せなくなってしまう日が来るのではないかと考えたら、怖くて、私の心はいつも過去ばかりを見つめていた。

あの日々を失うくらいなら……明日なんて来なくていい。

跡部先輩の微笑みも、透き通る青い瞳も、柔らかな香りも、私の名前を呼ぶ優しい声も、ひとつだって忘れたくない。

もう、二度と会うことはできないから……。


『きみ、跡部のこと好き?』

いつか、滝先輩に言われたことを思い出す。 あの時の私は、自分の気持ちを無視して否定ばかりしていたけれど、本当は誰よりも何よりも跡部先輩のことが好きだった。

好きな気持ちは今でもずっと変わらない。
変えようとしたって、結局変えることなんて、できなかった。

どれだけ時が経っても、もう会うことはできなくても、先輩のことだけが今でも一番好きで、それ以外のことはどうでもいいくらいに思えた。

(……私は、本当に馬鹿だ……)

失ってから後悔したって、もう時間は元には戻らないのに。

跡部先輩は、一緒にイギリスへ行かないかと言ってくれた。本当は嬉しかったのに、心の中に棲む欲張りな私は、妹の代わりは嫌だと言った。

私の、私だけの跡部先輩なのに、結局はずっと妹の役をしていただけなのだと思えば、急に悲しくなって、くだらないプライドのために私は世界で一番大切なものを失ってしまった。

そばにいられるのなら、妹でもよかったのに。

視界がじわりと滲んで、鼻の奥の辺りがツンとする。涙はどんどん込み上げてきて、そのうち、こぼれ落ちた生温かい涙が一滴、頬を滑り落ちていった。

『私は……先輩の妹にはなれません……。だから……イギリスにも行けません』

私がそう言ったときの跡部先輩の瞳は、本当に寂しそうな色をしていた。そして、ただ「そうか」とだけ言って、それ以上何も言わなかった。


最後に跡部先輩を見た卒業式の日、壇上で3年生を代表して挨拶をする姿を遠くから眺めたのは、まるで、中等部の入学式で壇上に立つ先輩を初めて目にした時と同じ様だった。

あの日、あまりの美しさと圧倒的な存在感に目を奪われた中学一年生だった私の心は、これからの希望に溢れた学校生活を夢見て、どきどきと高鳴っていた。

けれど、高等部の卒業式で先輩を見た時、私の目には涙が滲んでいた。
後悔とか寂しさとか、色々な思いが混ざり合って苦しくて、先輩の姿を見られるのは今日が最後なのだと思えば、もう、この先の未来に希望なんて持てなかった。

「……跡部先輩」


好きだと言えばよかった。

一緒に行きたいと言えばよかった。


ぽたぽたと、こぼれ落ちた涙が腿のあたりへ落ちてゆく。今さらこんなにも後悔したところで、もうどうにもならないことなんてわかりきっているけれど、どうすることもできない。

「……跡部、先輩……」


いくら季節が巡って、世界は回っても、私の中の時間は止まったまま。
どれだけ泣いても。何度後悔を繰り返しても。

もう……あなたには会えない。