カタルシス



ある休日、私は氷帝大学のキャンパスを訪れていた。

授業で提出するレポートの参考にするため、とある本を探していたけれど高等部の図書館にはなくて、司書の先生に調べてもらうと氷帝学園の大学図書館ならあるということなので借りに来ていた。

「見つかってよかったな」

図書館を出て空を見上げると、空はどこまでも青く、日差しはきらきらと輝いて見えたけれど、頬に当たる風は少し冷たく感じた。

手に持っていた本を自分のバッグにしまいながら、辺りを見渡す。休みの日ということもあって、キャンパスの中の大学生たちの姿はまばらだった。

あと数カ月もすれば、自分もここで日々を過ごすことになるというのに、少しもわくわくとした気持ちにはならない。

友達はみんな、楽しいキャンパスライフを夢見てあれやこれやと語り合っていたけれど、私はいつも黙ったまま彼女たちの笑顔を眺めるだけ。会話に入っていくことは、できなかった。

自分のことが嫌になって、ふと溜息をついた。……その時。


「……あれ。…………さん?」

少し離れたところから私の名前が聞こえて、大学のキャンパスの中で私を呼ぶ人のいることを不思議に思いながら、声のした方を見て驚いた。

「やっぱり、さんだ。どうしたの、こんなとこで」
「…………滝先輩……?」

私に歩みよりながら笑うのは、滝先輩だった。滝先輩のことも最後に見たのは高等部の卒業式だったから、すごく久しぶりだったし、私服を着ていたから一瞬わからなかった。

「久しぶりだね。元気にしてた?」
「は、はい……お久しぶりです。先輩もお元気そうで……」
「どうしたの、今日は。何か用事でも?」
「あ、はい。大学の図書館に、本を借りに来たんです」
「そう。本は見つかった?」
「はい」

久々に見た滝先輩は、私の記憶の中の姿よりももっとずっと大人っぽくなっていた。まあそれも当然、先輩は今年成人する年齢なのだから。私などよりも、大人に違いない。

(そうか、滝先輩はそのまま氷帝の大学に進んだんだな)

冷たさをはらんだ風が、滝先輩の綺麗な髪をさらさらと揺らすの眺めていると、まるで、あの幸せだった日々に戻れたかのような錯覚に陥る。

さんも、しばらく会わないうちに随分大人っぽくなったね。驚いたよ」
「え、……そうですか?」
「うん。もう三年生だっけ?もうじき卒業か。ほんと、早いよねえ」
「はい……」

滝先輩は柔らかく笑いながら、しみじみと言った。
たしか、初めて滝先輩に会った時、一緒に跡部先輩のことを探してくれたっけ。

(……懐かしいな……)

そうしてまた、ふと跡部先輩のことを思い出してしまって胸がズキリと痛んだ。
思い出の頃に戻れた様で嬉しかったのに、同時に、寂しさも一緒に襲ってくる。

「俺も今、ちょうど用事終わって帰るところなんだよ。もしこれから時間があればなんだけど、よかったら少し話さない?これも偶然だしさ」
「あの……はい。滝先輩さえよろしければ、喜んで……」
「よかった。近くに紅茶の美味しい店があるんだよ」


それから、滝先輩の後をついてキャンパス近くの喫茶店へとやって来た。
アンティーク調の店内にはクラシック音楽が流れて、とても落ち着いた雰囲気をしている。お客さんもみんな常連さんばかりの様だ。

「素敵なお店ですね。紅茶も、とっても美味しいです」
「気に入って貰えたならよかったよ」

ティーカップの紅茶を二、三口飲んでからそう言うと、向かいの席に座る滝先輩は柔らかく微笑んだ。

さん、もう進路は決まってるの?」
「はい。このまま内部進学するので……」
「そう。じゃあ、また時々会えるね」
「はい」
「大学は結構楽しいよ。高等部より自由だしさ」
「そうなんですね……」

無理をして笑ってみたけれど上手くできていたか少々不安だった。

やりたいことも特にないし、将来就きたい仕事も思いつかない。大学生活に希望も見出せない。せっかく学べる場所があるというのに、私は一体何をやっているのだろう……。

「なんだか、あんまり元気がないね」
「え、いえ、そんな……大丈夫です。すみません、気にしないでください」
「そう?」
「……あの、はい……」

滝先輩の言葉にどきりとして、慌てて否定するけれど、ちっとも誤魔化せてはいない様子だった。どきどきしながら、その目を見られずに、カチャリとソーサーにカップを置く先輩の手元ばかりに視線をやる。

「……」

私のせいでしばらく沈黙が続いてしまい、何だか気まずくて申し訳ない気持ちになりながら必死に話題を探すけれど、何を考えても最終的に跡部先輩のことになってしまう。

そうして、ティーカープの中の紅茶が微かに震えるのを眺めていると、こうやって何度も跡部先輩と紅茶を飲んだことを思い出してしまった。

(最後に先輩のお邸に行った日も、一緒に紅茶を飲んだんだっけ……)

(…………)


「……この前、跡部に連絡してみたんだ」
「……えっ……!」

急に出た跡部先輩の名前に驚いて、私は思わずぱっと顔を上げて滝先輩の方を見てしまった。私のおかしな態度には気づいただろうけれど、滝先輩は何でもないようにそのまま続けた。

「跡部の奴、ろくに手紙も寄こさないからさ。どうしてるかな、って思って」
「……」
「たまに電話するんだけど、いつも留守電で。この前も、何回目かでやっと繋がったんだ。なかなか忙しいみたいだよ、向こうの大学も」
「……そう、なんですか……」

跡部先輩の名前を誰かの口から聞いただけで、懐かしさで胸が張り裂けそうだった。泣きそうになるのを必死に堪えながら、独り言のように話す滝先輩の話に耳を傾ける。

「元気そうだったよ。まあ、樺地も一緒だしね。あいつら元々イギリスで暮らしてたんだから、向こうの暮らしの方がむしろ馴染んでるのかもね」
「……」
「でもイギリスに行ってからまだ一度も日本に戻らないからさ、たまには戻ってきなよって言ったら、「ああ、考えておく」だって」

ほんとひどいよね、と言いながら滝先輩は笑ったけれど、私はもう何も返せずにずっと黙っていることしかできなかった。

あんなにそばにいたのに、今はもう、遠い世界の人のようだ。というか、実際にそうなのだけれど。勝手に近くにいると思い込んでいただけで、元々私なんて、跡部先輩のそばにいられるような人間ではないのに。

それでも、今でも、先輩のことを思うだけで胸が苦しくなる。


さんは、跡部と連絡とったり……した?」

急に私に問いかけてきた滝先輩の言葉に、体が固まってしまい、しばらくそのまま動けなかったけれど、何回か浅く呼吸をした後、

「……いえ、私は……何も……」

とだけ答えた私の声は、微かに震えていたかもしれない。そう言う間も、ずっと自分のティーカップだけを見つめていて、滝先輩の方は見られなかった。

「そう……。こんなに可愛い子を放っとくなんてさ、ほんと跡部ってばひどい奴だよね」

滝先輩の、冗談ぽく笑いながら言う声が聞こえた。詳しい事情は知らないまでも、きっと突然そばからいなくなった私のことに気付いて、気に掛けてくれているのだと思った。

何でも察してしまう滝先輩は、とても聡明で優しくて、今もそれは変わらない。心の中では「ごめんなさい」と思うのに、口に出せないまま、ずっとティーカップの中ばかり眺めていた。

その時、店内でかかっていたクラシックの音楽がどこかで聴いたことのある曲になってはっとする。悲しげで切ないけれど、とても美しいこのピアノの旋律は……

(……亡き王女のためのパヴァーヌ……)

跡部先輩のお部屋にあったオルゴール。蓋の内側には、妹……の写真……。

一気に思い出が頭の中を駆け巡って、切なさで胸がいっぱいになった。

跡部先輩は今どうしているだろう?もう、私のことなんて忘れてしまっただろうか。私は今でも、こんなにも先輩のことばかり考えてしまって、忘れることなんてできない。

悪いのは私だから……。失って、当然なのに。


「……さん。今でも、跡部のことが好き?」

ふいにそんな質問をされて、私は思わず顔を上げて滝先輩の顔を見た。先輩は茶化す風でもなく、真面目な顔をしている。私は何も言えないまま、しばらく黙っていた。

「きみと一緒にいた頃の跡部はさ、いつもすごく幸せそうに見えたんだ」
「……」
「事情はよくわからないけど……。跡部は、本当にきみを好きだったと思うよ」
「…………それは……」

違うんです、と言いたくても言えなかった。私は妹の代わりだったからとは、いくら滝先輩でも言えなくて、途中でやめた。きっとこれは秘密のことだから。跡部先輩はきっと誰にも、私にすら、触れて欲しくなかったに違いない。

「ごめん、俺が口を出すことじゃないってわかってるんだけど……」
「……」
「きみと跡部のこと、俺……好きだったからさ。上手くいけばいいなとずっと思ってたんだ」

優しい滝先輩は、心から私と跡部先輩のことを心配してくれているのだとわかる。中等部や高等部の頃もいつも私のことを気に掛けて、色々とアドバイスしてくれたことを思い出した。

『好きになっても、いいんだよ。好きだって言って、いいんだよ』

早く、自分の気持ちに素直になればよかった。滝先輩は、あんなに私のことを思って言ってくれていたのに。失ってから気付いたのでは、もう遅いのに。

「もし、きみが心の中で、今でも跡部を好きと思うなら……。いつか、また跡部のそばにいてあげてくれると嬉しいな」
「……」
「跡部って、ああ見えて、案外無理するタイプでさ。表には出さないんだけど、実は色々抱え込んでたりするから……。きみがそばにいてくれれば、あいつも心が安らぐだろうし」
「……」
「跡部には……きみが、必要だと思うんだ」

滝先輩が言い終わらないうちに、私の視界は滲んで、涙が何粒か頬を伝ってゆく。

何年もかかってやっと自分の気持ちに正直になれた。もう、これ以上嘘なんてつけないくらい、もう私の心はこんなにも跡部先輩のことを想っている。

「………私、………」

遅すぎたかもしれないけれど。もう、過去には戻れないかもしれないけれど。

「私……跡部先輩のことが……好きです……」

長い間、隠そうとし続けた想いを初めて口にした時、その言葉は涙に濡れていた。
たとえ跡部先輩が私自身を見てくれないのだとしても、それでもいい。もう一度会えるのなら、そばにいられるのなら。

滝先輩は、優しいまなざしで私のことを見守っていてくれるようだった。小さく頷いて、まるでそれでいんだよと言ってくれているように思えた。


「……跡部先輩に、……会いたい……」

ずっと、誰にも言えなかった。「好き」だと。「会いたい」と。

自分の胸の中で湧き出して溢れる想いに、いつも気付かない振りをして目を瞑り続けた。けれど、もうそんなことしなくてもいいのだと思えば、何だかほっとして次から次に涙が溢れてくる。

「…………会いたいです……」

いつか、樺地先輩も言ってくれた。跡部先輩には私が必要だと。それはきっと私が妹の代わりだから、だとあの時は思った。今でもそれは、そうかもしれないと思う。でも、もうそれでも構わない。

(私にも……跡部先輩が必要だから)

滝先輩のおかげで、やっと気付くことの自分の本当に気持ち。
頬を伝ういくつもの涙は、とても温かいように思えた。