エトランゼ



冬休みに入るとすぐに私は、友達の別荘に泊まらせてもらうのだとあらかじめ家族に話していたとおり、旅行の支度をして家を出た。それは数日間のことで、年越しまでには戻ると言い残して。

けれど実際には誰とも合流せずに、一人で空港へと向かう。
行き先は……

”LONDON”

最低限の荷物を詰めたスーツケースを引きながら、たくさんの人達が行き交うフロアの中。電光掲示板に映し出される文字を目の当たりにすると、急に不安が押し寄せてくるけれど。

(……もう、決めたんだ)

滝先輩と話したあの日。私は、胸の中にずっと隠して忘れようとしていた自分の本当の気持ちに気が付いた。なによりも大切な、失くしたくない記憶。

たとえ、もう二度と私の元へは戻らなくても……。

(もう一度、跡部先輩に会いたい)

滝先輩は、「困ったことがあったらなんでも協力するから言ってね」と言ってくれたけれど。やっぱり、自分一人でやらなければいけないと思ったから。先輩には、何も話していない。

それどころか、他の友達にも、家族にすら。嘘をついてまで、ロンドンへ行くことにした。

両親にきちんと話すべきか、長い間、ずっと悩んでいた。ロンドンへ行きたいのだと言えば、必ず理由を聞かれる。けれど私には、まだそれを話す勇気がなかった。隠す必要など、ないというのに。

それなのに、私は、まだ……跡部先輩と過ごした、懐かしい大切な思い出を……口に出して誰かに伝えることができない。怖いのだろうか。それとも、触れられたくないのだろうか。

いつまで経っても、答えは出ないまま……。

飛行機の中で、窓から眺める日本の街の明かりは、無性に懐かしく。そして、なぜだかひどく切なく感じた。




長時間のフライトの末、無事にロンドンへ到着すると、当然の如く街の中は英語で溢れていて気後れをしてしまう。以前に跡部先輩と一緒に訪れた際には、こんなにも不安に感じることはなかったのに……。

けれど、私の拙い英語でも、なんとかやってみるしかない。

「……クリスマス、か」

宿泊する予定のホテルへと向かう途中、そこらじゅうにクリスマスの飾りが施されていることに気が付く。この頃はロンドンへ行くことばかり考えていたから、すっかり忘れていた。

今日はクリスマスイヴ。明日は、クリスマスだ。

(跡部先輩は、今頃どうしているかな……)

跡部先輩のことを考えると、思い出すと、いつだって胸が痛い。思慕と畏怖と後悔と……。様々な思いが胸の中を駆け巡って、きつく締め付ける。

思わずにじみそうになる涙をぐっと堪えて、私は再び歩き始めた。



迷いながらも、なんとかホテルには辿り着くことができた。荷物を置いて、ひとまずほっとする。そして部屋の窓から、ぼんやりと街の風景を眺めているうちに不安は、時間とともに薄れるどころかどんどん大きくなっていく一方だった。

先輩は、もう私のことなんて忘れているかもしれない。どうでもいい存在なのかもしれない。

何度も、ちゃんと先に連絡しようと思った。けれど、どうしてもできなかった。
……怖かったから。

もし、覚えていなかったら。冷たくされたら。他に大切な人がいたら。そんなことばかり考えてしまい、いつだって最後には泣いて、それでお終い。

連絡する勇気もないのに、一人で勝手にロンドンまで会いにやって来るなんて。自分のやっていることだというのにちっとも理解できない。

こんなことをしていいのだろうか。迷惑かもしれないのに。
もしも、相手にしてもらえなかったら……。

決心して来たつもりだったのに、いざその時になると心はいつもの様に迷ってしまう。不安に駆られて、目にはまた涙がにじみそうになる。

雨がポツ、と一粒窓ガラスへと当たり、それからいくつも当たるうちにあっという間に本降りになった。すっかり日も暮れた薄暗い街に、サアサアという雨の音が響くのをまるで私の心の中のようだ……と思う。

日本は今何時だろう。家族はどうしているだろう。後悔なんてしたって仕方がない、なんの意味もないことは、もう痛いくらいわかっているつもりなのに。


……明日、跡部先輩に会いに行こう。

決心するためそう声に出そうとしたけれど、できなかった。だから、手帳に書いた。いつか先輩に貰った万年筆で書いたインク文字は、どこか滲んで、震えている。泣いている様に見えるのは、気のせいだろうか……。

眠る前、ベッドの中で目を瞑りながらも遠くで聞こえる雨音に、先輩の姿ばかりを思い浮かべてしまいなかなか寝付けない。

先輩も、今、この音を聞いているのだろうか……。あんなにもずっと、遠く離れていたのに。今は同じ街の中にいるのだと思えば、まるで夢の中にいる様な気持ちがした。






次の日、クリスマスの朝。目を覚ますと雨はまだ止んではいなかった。

見知らぬ薄暗い街の中、不安な気持ちで傘を差して歩く。ロンドンの街の人達は雨に慣れているのだろうか。私の他に傘を差している人は、あまり見掛けなかった。

(……この辺りだったと、思うんだけどな……)

ちゃんと調べて来たつもりでも、少し迷ってしまった。先輩のお邸が見つけられるかいくらか不安だったけれど、地図を見たり、時々勇気を出して現地の人に道を聞いたりしながら、なんとか近くまでやって来ることができた。

雨で視界が悪く、目を凝らしながら、きょろきょろと辺りを見回す。

「……あれだ……」

ロンドンの中心部からは少し離れた場所にそびえる、一際大きくて、豪華な門。それはいっそ気後れしてしまうくらいに。この辺りだけ急に緑が多いから、おそらく一帯が跡部財閥の所有地なのではないだろうか。

だけど、せっかく見つけたというのに、私はしばらくその近くへは行けなかった。少し離れた場所で、ただ眺めているだけ。守衛らしき男の人に見つからないように、隠れて。

だって、中に入るためにはあの人と話をしなければいけないけれど。一体、なんて事情を説明すればいいのだろうか……。いざとなると、頭の中には何も浮かんでこない。

私は跡部先輩の、後輩?友人?それとも……。

ポツポツと傘に落ちてくる雨の音ばかりを、いったいどれくらいの間聞き続けただろうか。冬の雨は寒くて、次第に手や足の先が冷えて体が震えてくる。

行かなきゃ、と思うのにちっとも足が動かない。それどころか、くるりと方向転換して元来た道を戻ろうとさえ、している。

(私、なにやってるんだ……)

せっかく、ロンドンまで来たのに。先輩のお邸まで、来たのに。

少し歩いたところで、横断歩道の赤信号で立ち止まっているうち、そんな自分のことが心底嫌になってくる。私ときたら、いつもこうだ。だから、先輩は遠くに行ってしまったんじゃないのか。

そう思うのに、この心とは裏腹に、体は勝手にどんどんとお邸から離れてしまう。

だって、二年間なんの連絡もなかったのだ。今さら、私になんて会いたいと思ってるわけない。先輩は私などとは違う世界に住む人で、もっとずっと大切なものや人がたくさんいて。だから……。

『跡部には……きみが、必要だと思うんだ』

滝先輩の声が、今はもう遠く聞こえる。

違う。私には先輩が必要でも、きっと……先輩はそうじゃない。一度は受け入れようとした考えも、今はもう、それに頷くことができない。

(……決めたはずなのに……)

迷いと悩みとを長い間何度も何度も繰り返し、やっと。出せた、自分の答えなのに。

雨に濡れた薄暗い街中を、行き交う人々を避けながら歩く。通り過ぎる車が跳ね上げる水の音。母親を急かし、その手を引っ張る幼い少年の声。開いた店のドアから漏れ聞こえるクリスマスソングのメロディ。

故郷を離れた、遠い異国の言葉、人々、風景。急に心細くなって、なぜだか不安に押し潰されそうになる。過去も未来も現在も。私は、やはり変わることなどできないのだろうか。

なによりも大切なものの名前を、とうの昔に知っているはずなのに……。


私はいつの間にか、大きな広場に入って来てしまっていたらしい。クリスマスだから何かイベントでもやっているのだろうか。お菓子の露店や、聖歌隊などがいて、雨だというのに大勢の人で賑わっている。

見渡しながらゆっくりと歩いていると、視線の先にあるものを見つけて思わず立ち止まった。

……メリーゴーランド。

その電飾の光は、雨で濡れたコンクリートの地面に反射してきらきらと、まるで宝石の様に美しく輝いて見える。

どこかノスタルジックで憂いを帯びたメロディーと共に、白馬や馬車がくるくると回り、乗っている子ども達はみな楽しそうにはしゃぎながら見守る親へ手を振っていた。

思い出されるのは、いつか、先輩のお邸で見たメリーゴーランド……。

中庭の白薔薇に囲まれて、美しいけれど寂しそうなあの白馬達は、まるで、誰かの帰りをずっと待っているみたいだった。きっと、その”誰か”というのは……。


生温かいものが瞳の奥から溢れ出して零れて、頬を滑り落ちてゆく。子ども達が笑顔になればなるほど、涙は込み上げてくるばかりで、止まらない。

あの日、先輩のお邸の中の教会で、話してくれたこと。先輩の……大切な思い出。炎の揺らめき。震える睫毛。白薔薇の香り。

『……私は、妹の代わり……ですか……?』

いつの間にか、私は嗚咽を漏らしながら泣いていた。雨はどんどん強くなって、耳に入ってくる雨音も大きくなる。傘の中だから。雨音が大きいから。だから、誰にも気付かれないだろう。

しばらくの間、私はメリーゴーランドのそばに立ち尽くして泣いていた。吐く息は白く、傘を持つ手が震えている。それは寒さのせいだろうか。それとも……。

すっかり雨で濡れてしまった靴の中の足先は冷たくて、痛みさえ感じるのに。ここを動けない。

優しく切ないメロディ。楽しそうな笑い声。彼女もこんな風に笑っていたのだろうか。兄である跡部先輩に向かって手を振っていたのだろうか。

どれだけ自分に聞いてみたところで、わかるわけがない。私には知るはずのない、記憶なのだから。