憧憬と背徳 あの日のことを、友達には話せなかった。何より私自身が信じられなかったし、なぜ、それが私だったのかがどうしてもわからなかった。 それとなく友達に、跡部先輩はどんな人なのか聞いてみたら、その会話の中で先輩は全校生徒全員の顔と名前を覚えているのだということがわかった。 「そうなんだ……たくさんいるのに、すごいね」 「まあ、さすがって感じだよね。私達一年のことも、知ってると思うよ」 そうだったのか。だから、私の名前も知っていたんだ。跡部先輩が、生徒全員のことを記憶しているすごい人だから、ただそれだけ。特別なことなんて何もない。 よかった、勘違いをする前に知ることができて。 あの時だって、話といっても学校についての質問が多かったし、きっと新入生に対する何かアンケートみたいなものだったに違いない。それが、たまたま通りかかった私だっただけで。 「でも、どうかした?急に跡部先輩のこと聞いてきて」 「ううん、なんでもないの」 「もしかして好き、とか?この前もなんか泣いてたし」 「ち、違うよ、そんなんじゃないから!」 大きな声で思い切り否定してしまい、その友達と、近くにいたクラスの他の生徒達が驚いたような顔をして私を見る。 「ちゃん、どうしたの」 「……ごめん」 あの人を好きと思うのは、私にとってはまるで何かの罪悪のように思えた。 私のような人間が、たやすく、好きになんてなっちゃいけない。近付いて、話をして、そんな気持ちはよりいっそう強くなっていった。 だけど、思い出すあの日の彼の瞳の色はとても優しくて、心が癒されるような気持ちになる。 (……跡部先輩) 望んではいけない。もう一度、会いたいとか、話してみたいとか。あの人は本来、私となんて関わることないような人なんだから。 ……と、思うのに。思わなくちゃいけないのに。 「じゃあね、部活頑張ってね」 結局、私はテニス部には入部せず、友達だけが入部することになったので放課後は校舎の玄関を出たところで別れる。新入りは早く行って準備をしなければならないのだという。 笑顔で手を振って歩いていく彼女を見送って、自分も帰ろうと校門の方向に向かって歩き出したところでふと、自分の名前が呼ばれた気がして立ち止まる。 (……?) 「」 気のせいではなかった。恐る恐る声のした方向を見ると、そこには跡部先輩が立っていて、そして私の名前を呼んでいる。一瞬、意識を失いそうになったけれどなんとか踏み留まり、とにかく呼ばれたので走って近くまで行った。 「今、帰りか」 「は、はい、そうです……」 これもまた夢だろうか?先輩に気付かれないように、こっそりと右足で思い切り左足の甲の辺りを踏んでみたけれど、それは地味に痛いだけだった。 「そうか。ならどうだ、男子テニス部の練習でも見に来ないか」 「……え?」 「やらなくても、見るのなら好きじゃないのか。以前見学に来ていただろう」 「……は、はい……」 テニスを見るのが好きというよりかは、ただ、跡部先輩が見たくて忍び込んでまで行っただけだったのだけど。そんなことをした私に対して、叱ることもなく、どうしてそんな風に言ってくれるのだろう。 わからないことは色々あるけれど、とりあえず、男子テニスコートは女子立ち入り禁止なのではないのかな……と思うと、察したように跡部先輩が少し笑う。 「俺が、特別に許可を出してやる」 特別……?どうして、私が特別? これも、新入生アンケートか何かの一貫なのだろうか?それに私が選ばれただけなのだろうか?それならば、納得がいく。というか、もうそれ以上に理由が思いつかない。 「どうする、見に来るか」 「は、はい、行きます」 素直に、行きたいかどうかと聞かれればそれは行きたいと思う。何しろもうこれ以上、色々難しいことを考えるのは私の思考回路が無理だと言っているので、結局自分の心の思うとおりにした。 「……すごい」 氷帝の男子テニス部は、強いこともあってすごく人気がある。部員の数も、女子テニス部よりもずっと多くて、レギュラーに選ばれるのはほんの一握りの人だけと聞く。 入部したばかりとみられる一年生もたくさんいて、彼らはまだテニスコートには入れず筋トレやボール拾いをしていた。同じクラスの男子など、見覚えのある生徒も何人かいる。 そんな様子を、スタンド席に座ってただ眺めていたけれど、みんな練習に真剣で私には気が付いていないようだった。 (あ、跡部先輩……) レギュラーの人達だろうか?数人を集めて何か話をしている。 せっかく見学をさせてもらっても、それほどテニスのことがわかるわけでもなく。結局、ただ跡部先輩の姿を眺めているばかりだった。時折、ふと先輩がこちらを見ているような気がした。……気がした、だけだけど。 「最後までいたのか」 好きなタイミングで帰っていいと言われていたけれど、気が付くと私はみんなの練習が終わるまで残っていた。スタンドまでやって来た跡部先輩の声にはっとすると、辺りはもう薄暗くなり始めていた。 顔を上げて視界に入る先輩は、さっきまでの真剣な少し険しい表情とは違って、以前見たような柔らかい感じになっていた。 「どうだ、気に入ったか?」 「……はい」 実際には、ほとんど跡部先輩のことしか見ていなかったけれど。あんな風に、テニスをしている先輩の姿が見られて本当はすごく嬉しかった。でも、心のすみのほうで、何だか友達に申し訳ないような気持ちになる。 「そうか。また、いつでも見に来ていいぞ」 「……ありがとうございます」 嬉しいはずなのに素直に喜べない。まるで自分だけが抜け駆けをしているような、そんな気分。 「もう暗くなるな。家はどこだ?送ってやる」 「い、いえ、そんな。大丈夫です、一人で帰れます。ありがとうございました」 大きく首を振ってから思い切り頭を下げる。それから慌ててバタバタとその場を走り去った。 男子テニス部のコートを出て、途中、女子テニス部の部員たちがやって来る姿が見えたので、友達に見つからないよう、隠れながらひたすら走った。 (……なんで、) 跡部先輩が、どうしてそんなにも私によくしてくれるのかわからなくて、でも、聞けなかった。 あのとき一緒にいたはずの友達と私の、どこがどう違うのか、わからないのに聞けなかった。頭の中が混乱して、走りながらもまた涙がにじんでくる。 (わからないこと、ばっかり……) どうして、嬉しいはずなのに、幸せなはずなのに、こんなにも苦しくなるのか。 どうして、美しい先輩の瞳を見る度に、こんなにも泣きたくなるのか。 全部全部みんな、教えて欲しいのに。 |