雨のクリスマス 私が再び跡部先輩のお邸の前まで戻った頃には、辺りは暗くなり始めていた。雨はいつまで経っても振り止まず、街や人々を濡らし続けている。 先程はただ遠くから眺めていただけの、看守の人のそばまでそろそろと近付いて行くと、その距離が縮まるごとに胸の鼓動はどんどん大きく速くなっていくのを感じていた。 現地の英国人らしき彼に声を掛けると、英語で問いかけてくる。はっきりとは聞きとれなくても、おそらく私の名前、職業、要件などを聞かれているだろうことはわかった。 緊張と不安の中、必死に頭の中で考えを巡らせながらたどたどしい英語でなんとか跡部先輩に合わせて欲しいと懇願をするも、彼は首を横に振るばかり。 思い切って、友人なのだと話してみても反応は変わらない。完全に怪しまれてしまっているけれど、それも仕方のないことだ。もしも私が本当に友人なのであれば、直接跡部先輩に連絡をとればいいのだから。 もしかしたら、私のように友人を騙って訪ねて来る人は多いのかもしれない。跡部先輩は世界にその名を轟かせる跡部財閥の御曹司だから、命を狙われる可能性だってある。 だから、私なんて拒否されて、当然だ。自分は怪しくないと言う人間ほど怪しいものはない。むしろ今まであれほど近くにいられたことの方が、不思議なくらいだ。 私とは元々、住む世界が違う。ずっと理解していたつもりでも、結局のところ、こんな風に思い知らされるまでちっともわかってなどいなかったのだろう。先輩の優しさに甘えて、私は思い上がっていたに違いない。自分は特別なのだと、勘違いしていた。 そんなはず、なかったのに。 捕えられなかっただけありがたい。私は守衛の彼に謝って頭を下げると、元来た道を歩き始めた。 雨はまだ止まずに、傘を持つ手は震え、吐く息の白さは濃さを増す。どこかぼんやりとした意識の中、自分の靴が異国の地を歩く音を、どれほどの間聞いただろうか。 夜の空気は頬を刺すように冷たくて、次第に涙がにじんでくる。これは、寒いからだろうか。街のネオンがぼやけるのは、雨だからだろうか……。 立ち止まって、自分の足元を黙ったまま見つめる。 ……会うことすら、できなかった。 会って、話して、それがどんな結果になったとしても受け入れて、諦めるつもりだった。どれほど傷付いてもいいと……心に決めた。けれど、実際には、今の私は跡部先輩に会うことさえできない。会うことのできる人間ですら、ない。 それは悲しむことさえ、おこがましいとわかっている。だって、ただ、元の位置にもどっただけの話だ。私という人間の、初めの位置に。私なんて、本当なら跡部先輩の視界にも入らないはずだから。 だから……、 瞳から生温い透明の滴が一つ、二つ、コンクリートの地面に向かって落っこちていったけれど、それは足元を濡らす雨にのまれて、すぐに見えなくなった。 ホテルに帰らなくては、と思うのに足が動かない。もう夜だし、体は雨ですっかり凍えてしまった。早くしないと危ないし、道にも迷ってしまうかもしれないのに。 通り過ぎて行く車は何台も、道端に溜まった雨水を跳ね上げては走り去ってゆく。その中で、そろそろと私の横を通る車があって、なんだろうと思っても顔を上げる前にいなくなってしまった。 なんだか急に不安になって、私は視線を落としたまま少し早足で歩き始める。あんなに訪れたいと思っていた場所なのに、今は、早く帰りたいと思ってしまう。嘘を吐いて出てまで来たのは自分なのに。 傘の外で、再び近くを徐行する車の音が聞こえて、鼓動が速くなる。怖い、嫌だ、と思っても頼れる人も助けてくれる人も、いない。 とにかく逃げたくて、走り出そうとしたその時、いつかどこかで聞いた声が聞こえた……気がした。 「……様、……?」 おそらく年配の男性であろう声。それに、この異国で酷く懐かしい祖国の言葉。それも自分の名前を耳にして、私は思わず逸らしていた顔をそちらに向けてその姿を視界に捉えると、そのまま固まってしまった。 「ああ、やはり様でしたか」 「……」 「大変驚きました。まさかこんな所でお会いするとは」 「……」 「お久しぶりでございます」 黒いセダン車の後部座席の窓ガラスを下ろし、そこから顔を覗かせるのは跡部先輩の執事である、ミカエルさんだった。 驚いた、というわりには以前と変わらず穏やかな笑みを浮かべる彼とは反対に、私の思考は停止したままただ茫然と、その場所に立ち尽くすことしかできなかった。 「お一人ですか」 「……、はい……」 「もう日も暮れますが……。どちらかへ御用事ですか」 「……」 先輩のお邸まで行ってはみたけれど、当然中へは入れてもらえなかったので、諦めてホテルへ戻るところです。と、心配してくれているミカエルさんに説明しなければならないところ、喉からは何も言葉が出てこない。 黙ったままでいると、「寒いですから、よろしければお乗りください」と車のドアを開けてくれた。けれどもう私には、大丈夫です、と断る元気もなくて、気が付けば促されるままにその中へと乗り込んでいた。 ゆっくりと走り出した車の窓の外を、クリスマスの夜の街並みが流れていく。高級そうな車内は、冷たい雨の降る外の世界とは違い、とても暖かい。 「こちらへは、御旅行でいらしたのですか」 「……は、はい……」 「まさか、お一人で?お連れ様は……」 「……」 ミカエルさんからしてみれば、確かに不思議に違いない。突然私が、日本から遠く離れたロンドンの、夜も近い街を一人で歩いていたりなどすれば。 「……私一人で来ました」 「それは……どうして、また」 「……」 そんなの、言えるはずがない。心配してくれているのに、申し訳ないとは思いつつも答えられずにしばらくの間黙り込んでいると。 「もしや、景吾坊ちゃまにお会いになるために……ではありませんか」 静かな声音で発するその言葉を聞いた途端、この心臓は跳ね上がったかのようにどきりと大きな音を立てた。すっかり冷めきっていたはずの体温が、急に上がった気分がする。 「…………違います」 違うことなどないのに。気が付けば咄嗟に、否定をしてしまっていた。 私はきっと知られるのが、恥ずかしかった。私は先輩に相応しい人間などではないのに。それでもまだ今でも先輩のことを忘れられずに想い続けているのだと、誰かに知られるのが……恥ずかしかったのかもしれない。 「申し訳ございません。失礼をいたしました」 私のぼそりとした返答に、ミカエルさんは頭を下げた。謝る必要なんてない。それなら、それは私の方だ。本当は違うことなどないのに、嘘を吐いた。 (……最低だ) 一体、何のためここまでやって来たのだろう。自分のことがが情けなくて、苛立たしくて、また泣きたい気持ちになる。ホテルまで送ってくれると、場所を尋ねられたので、それに答えて以降はずっと俯いて黙り込んでいた。 (…………) 『……、』 『』 柔らかな陽の光に包まれる中、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。穏やかな微笑みと、優しいその声は、懐かしさと愛しさに溢れ、この上もない程に心は幸福と安らぎで満たされてゆく。 (……、先輩………) もしもこの世に楽園と呼ばれる場所があるのなら……、それはきっと、跡部先輩と共にあるに違いない。全てが救われ、赦される……誰もが夢にまで見た悠久のエデン。 (…………) 「様、到着いたしました」 暖かさからか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ミカエルさんの言葉にはっと目を覚まして顔を上げると、私の宿泊しているホテルの前だった。運転手の人がドアを開けてくれて、さらには濡れない様に傘を差してくれている。 「……」 「どうかなさいましたか」 「……」 「様?」 「……ミカエルさん、私……」 夢の中で私の名前を呼ぶ声が、まだ耳の奥に残っている。 「……私、……跡部先輩に会いに来たんです……」 「……」 「嘘を吐いてごめんなさい……。私、本当は、ずっと先輩に会いたくて……だからここまで……」 雨の音が聞こえる。行き交う人々の話し声や、車のエンジン音。ゆっくりと瞬きをするミカエルさんの瞳に映る私は、一体どんな風に見えているのだろう。 震えているのか、それとも泣いているのか。自分のことだというのに、わからない。 「跡部先輩に、会いたいんです……」 悠久のエデンは、今、どこにあるのだろう。 たとえ、手には入らなくとも。その場所には、いられなくとも。 |