淡い雪、聖なる橙火



「どうぞ、お掛けになってください」

長い廊下を進み、ふかふかとした豪華な絨毯の広がる、大きな暖炉のある広間に着くと私はミカエルさんに勧められるままにソファへ腰を下ろした。

ゆっくりと辺りを見回していると、じきにメイドさんが温かい紅茶を持って来てくれたので、お礼を言ってからカップの取っ手を握り、それを口へと運んだ。

広間には、見上げるほど高い天井まで届きそうなくらい大きなクリスマスツリーがそびえ立っている。どうやら本物のモミの木のようで、様々なオーナメントで美しく飾られていた。

(……すごい)

以前にこのお邸に訪れたのは夏だったし、数週間のみの滞在だったので、このようなものはなかった。相変わらずその豪華さに驚いてしまう。

(本当に、よかったのだろうか……)

跡部先輩に会いたいと言って、これまでの経緯を話した私を、あの後ミカエルさんはお邸へ連れて来てくれた。けれど自分でそう望み、頼んでまでおきながら、なんだか不安になってくる。

勝手に上がり込んでよかったのだろうか。迷惑ではないだろうか。ここまで来て、そんなの、今さら過ぎるけれど。

「景吾坊ちゃまはただ今お出掛けになっておりまして。じき、戻られるかと思いますので」
「……お忙しいのでしょうか」
「クリスマスですから。コンサートを観賞なさっておられるのです。昨夜もパーティーなどがございまして……」

ミカエルさんは穏やかな笑顔と口調でそう話す。

そうだ、クリスマスなんてたくさんのイベントがある。先輩なら、色々と参加する行事も多いだろう。よりにもよってそんな忙しい時期に来てしまうなんて。ただでさえ迷惑だというのに。

相変わらずタイミングが悪くドジばかりする自分のことが嫌になって、うんざりとする。

「すみません、お忙しい時に来てしまって……」
「いいえ、お気になさらず」
「私なんて、先輩のご迷惑ではないでしょうか……その、」
「そんなことはありませんよ。坊ちゃまもきっとお喜びになられます」
「……」

本当にそうだろうか。ミカエルさんはにこにこと笑っていても、同じように笑い返すことができない。緊張と不安で、なんだか気分が悪くなってきた。

「雨に降られてお体が冷えてしまったのではないですか。湯浴みの準備をしてございますので、どうぞ」
「い、いえ、そんな。大丈夫です」
「まだ坊ちゃまが帰られるまで時間がありますから。さ、遠慮なさらず」

半ば押し切られる形で、私はお風呂を借りることになった。ほんわりとした白い湯気に包まれて体が温まってくると、なぜだか不安も少しだけ、なくなったような気がする……。

(お風呂もまた、なんて豪華な……)

乳白色の湯船には赤い薔薇の花びらが浮き、シャンプーやボディーソープなどはみんなとても良い匂いで。うっかり、自分の体ではないのかも、と思うくらいに肌もすべすべとしていた。

お風呂から上がって用意してもらった衣類に着替えると、ダイニングルームへ案内された。大きくて長いテーブルの上には食事が一人分並べられていて、よくわからぬうち、促されるまま椅子に腰掛ける。

「あの、これは……」
「お夕食もまだ召し上がられていないのでしょう」
「……。ですが、こんなにまでしていただくわけには……」
「どうかご遠慮なさらず。様は大切なお客様ですから」
「……」

家人の不在時にお邪魔してお風呂に入れてさせてもらって、さらには夕ご飯まで。こんなにまで至れり尽くせり、いいものなのだろうか。

美味しそうな食事を前にしばし考え込んでみても、今日一日ろくに何も食べていなかった私のお腹は、待っていましたと言わんばかりにグウと音を立てる。

結局は素直に夕食をいただいて、すっかりお腹は一杯になった。それからまた広間へ移動して、大きなソファへ腰を下ろす。柔らかなクッションに身を委ね、ぼんやりと暖炉を眺めていると、そこではパチパチという音とともに炎がゆらゆら揺らめいている。

静かな暖かい空間で、気が緩んだのか少し眠たくなってしまった。ミカエルさんは最初、跡部先輩はじきに戻ると言っていたけれど、あれからもうだいぶ時間が経っているような気がする。時計を見てみると、もうだいぶ夜も遅かった。

そのまま首を動かして大きな窓の外を眺めてみると、暗い闇の中を小さな白いかたまりがいくつも、はらはらと舞って見える。

(……雪、)

ホワイトクリスマス……。外は、どんなに寒いだろう。積もるだろうか。跡部先輩は大丈夫かな、などと考えていると突然、遠くで重そうな扉が開き、そして閉まる音が聞こえた。

(……!)

床の上を歩く靴の音、誰かの話し声。見回してみるとミカエルさんがいない。もしかして、出迎えに行ったのだろうか……そう思えば、次第に鼓動が速まってくる。

どうしようと思っているうちに足音はどんどん近付いて来て、あまりの緊張にいっそ気絶してしまいそうだった。

「坊ちゃまに、お客様がいらしておりますよ」
「客、だと?」

跡部先輩らしき声が聞こえて、私は弾かれたようにとっさにソファから立ち上がった。

広間へやって来たのは、跡部先輩、そのとなりに樺地先輩。そして、コートを手に持った執事のミカエルさん。ミカエルさんは、にこにこと穏やかな笑みを浮かべていた。

私は立ち上がったきり凍り付いたかのように動けず、言葉も発せず、ただそちらを見ることしかできない。

「……」

私と目の合った跡部先輩は、同じく少しの間、身動きせず黙ったままだった。

「…………、……?」
「景吾坊ちゃまにお会いになりたいと」
「……何、」

跡部先輩は、一瞬ミカエルさんのことを見た後にまた私の方へ顔を向けると、一歩ずつゆっくりとこちらへ近付いて来る。その間も、私は何もできないままでいた。

すぐ目の前までやって来ると、じっと見下ろされ、久しぶりに見るその美しい青い瞳に吸い込まれそうになる。どんどん呼吸は浅くなり、頭の中には、何も思い浮かばない。考えられない。やはりこれは、夢なのではないだろうか。

高級そうな三つ揃えのスーツを身に纏った跡部先輩は、顔立ちや雰囲気もすっかり大人の男性になっていた。

「……どうやってここまで来たんだ」
「……え。……えっと、……その……」

飛行機に乗ってロンドンまで来て。それからは電車やバスで移動して……でも、結局このお邸にはミカエルさんに連れて来てもらったわけだし。経過をなんと説明していいか一瞬では整理できず、口籠ったままでいると。

「まさか一人で来たんじゃねえだろうな」
「……あ、あの、……イギリスには、私一人で来ました」
「……何だと?」
「す、すみません、突然……。ご迷惑かとは思ったんですけれど……」
「……」
「その、お忙しいところ……申し訳ありません」

跡部先輩は少し眉間に皺を寄せていて、もしかしたら怒っているのかもしれない。突然連絡もなしにやって来れば、そんなの当然だ。そう思えば急に不安になって、私はとにかく頭を下げて謝った。

けれど跡部先輩はそれ以上何も言わず、くるりと踵を返すとミカエルさんに向かって自室へ行くと言った。それから、「を連れて来い」と続けると、さっと広間から出て行ってしまった。

私が茫然と立ち尽くしたままでいると、ミカエルさんはにこやかに笑って「様、こちらです」と案内をしてくれようとする。

先輩、なんだか怒っていた風だけど……やっぱり私は迷惑だったんじゃないのだろか。そう不安になりながらも、なんとか足を動かして近付いて行くと、まだその場に残っていた樺地先輩と目が合った。

「あの……お久しぶりです、樺地先輩。突然、すみません」
「……ウス」
「お元気でいらっしゃいましたか」
「ウス……」

私のことを見下ろす樺地先輩は、以前と変わらず無表情だけれど、こちらは怒っているような雰囲気ではなく少しほっとする。樺地先輩も、会わない間に随分と大人っぽく立派になった気がして、改めて二年間の長さが身に沁みる。

お辞儀をして別れた後、案内してくれるミカエルさんに続いてまた長い廊下を歩いた。

「……その、跡部先輩、怒ってらしたような気が……」
「そうでございますか?」
「は、はい。大丈夫でしょうか……」
「わたくしにはそうは見えませんでしたが。様がご心配なさる必要など、なにもございませんよ」
「……、はあ……」

先を歩くミカエルさんの背中に向かって、おずおずと尋ねてみると彼はまるでなんでもないことのように答えた。それは本心なのだろうか、それとも、慰めるために言ってくれているのだろうか。

結局答えはでないまま、先輩の自室の前まで着いてしまった。

ミカエルさんが軽くノックしてから「景吾坊ちゃま、様をお連れしました」と言うと、中から「入れ」という声が聞こえる。それから部屋のドアを開けてくれると、微笑みながら中へと促され、そろそろと足を踏み入れてみると扉はパタリと閉まり、先輩と私の二人だけになった。

「座れ」

立ち尽くしていると、ソファに座っている跡部先輩にそう言われたので慌てて返事をし、目配せされたとおりそのとなりへ腰を下ろす。

「……すみませんでした……」

再度謝ってみても、どこか物憂い気な表情の先輩からは、返事がない。

じ、と見つめられて、呼吸が止まりそうになる。もしも跡部先輩にもう一度会えたら、どんな話をしようか。色々、考えていたのに……やっぱり、私は肝心な時に何もできない。

深い夜の色を映す窓の向こうでは、今も儚げな白く雪が、淡い花びらのように舞っていた。

あれは、いつかに見た薔薇の花びらの色に似ている。寂しげな白馬を囲み、それを慰めるかのように咲き誇る、美しい……白薔薇、だった。