時は永遠に



少しの間、緊張したまま黙って跡部先輩の青い瞳を見つめていると、ふとその唇が動いた。

「なぜ、一人で来たりしたんだ」
「……え、」
「危険は考えなかったのか。お前の親は知ってんのか」
「……」
「何かあったらどうするつもりだ」

低いその声に、自然と体は委縮し、俯きがちになってしまう。先輩の言う通りだ。誰だってそう思う。何も言い返せないまま黙っていると、先輩は小さく溜息を吐いた。

「いや……違う」
「……」
「説教がしたいわけじゃねえ。とにかく、……無事でよかった」
「……」

もしかしたら、跡部先輩は怒っていたわけではなくて、私のことを心配してくれていただけなのかもしれない。心配することなどない、と柔らかな笑顔を浮かべていたミカエルさんの言葉を思い出す。

先輩は、今でも……私なんかのことを気に掛けてくれるのだろうか。胸にチクリと針が刺さる。

「俺に……、会いに来たらしいな」
「……はい」
「何だ?」
「……あ、あの……。私……、ただ跡部先輩に一目お会いしたくて……」
「……」
「ただ、それだけなんです……」

違う。それだけなんかじゃない。

離れている間。自分の心の中で、いつまでも忘れられずにいた大切な想い。誰にも言えないほど、隠し続けてきたほど、好きと想うこの気持ちを伝えたくてここまでやって来たのに。

言葉にしようとすれば、涙が勝手に……にじんでくる。

先輩は、この二年間、どうしていましたか。何をして、どんな生活を送っていましたか。大学は、友人は。……大切な人は、できたりしましたか。

私は、跡部先輩には到底釣り合わない、不相応な人間なのだということは痛いくらい知っている。そのうえ、その優しさを踏みにじって、酷いことを言って、傷付けた。

……それなのに。

悩み、迷い続けた時間の先に見つけたものはただ一つだけ。どれだけ時が経っても、どんな人に出会っても。この心の中に棲み続けるのはただ一人……。

神様。この想いは、許されますか……。


「……跡部先輩、……私、」

思い切って発した声はどこかか細く、そして微かに震えていた。

「……私……、先輩のことを……お慕いしています」
「……」
「ずっと……、中学一年生の、初めてお会いした時から。本当はずっと、ずっと心の中でお慕いしていたんです……」

言いながら、瞳からは勝手に、生温い滴がぽろぽろとこぼれ落ちる。いくつになっても子どもの様にみっともない、と思っても今の私は止める術を知らない。

「離れてからも、どうしても忘れられなくて……。私、先輩にとてもひどいことをしたのに……。本当に、ごめんなさい」
「……」
「ずっと後悔していました。……私、先輩に大切に想われている妹が羨ましくて、それに嫉妬して……だから、あんなことを言いました。自分でも、なんて愚かだったのだろうと、何度も思いました。……本当は、妹の代わりでも構わなかったんです……。おそばに、いられるのなら……」
「……」
「おこがましい願いだということは、重々承知しています。こんなこと、言ってはいけないのだとも……。それでも、どうか、……どうか私を先輩のおそばに置いてくださいませんか」

言葉は、涙とともに後から後から湧いてくる。自分がどんなに勝手なことを言っているかなんてことは十分わかっていても、もう止めることができない。

どんな形でもいい。誰になんと言われてもいい。
先輩の、そばにいられるのなら。

「……」

私の話す間、黙っていた跡部先輩の美しい瞳はあの日の蝋燭の炎のようにゆらゆらと。その大きな手の平がこの頬を撫でたかと思えば、次の瞬間には抱き締められていて、私はその腕の中にいた。

「……

懐かしい香り。柔らかい体温。名前を呼ぶ優しい声。……いっそ、今ここで死んでしまえたら。頭の片隅で、そんなことを考える。

「俺が間違っていた」
「……」
「全部、俺が間違っていたんだ……」

苦しそうな声で、跡部先輩はそう言った。どういう意味なのか、不思議に思っても聞くことなどできずにいると、先輩は静かな声でそれに続ける。

「俺は、お前を妹の代わりにしようとしていた。お前の気持ちも考えずに……」
「……」
「だけど、だ。妹じゃない。お前が俺にとってどれほど大切な存在だったか……そのことに、離れてやっと気が付いた」

その声は、苦しそうで……、どこか悲しそうでもあった。

「何度も連絡しようと思ったが……できなかった。きっと、これ以上、自分が傷付くのが嫌だったからだ。またお前に悲しそうな顔をされたら。泣かれたら。……思い浮かべるだけで、苦しかった」
「……」
「それならいっそ、会わない方がどれほどマシだろうかと。俺は、そんなことばかり考えて、逃げていた。一生のうちに顔を見ることなど、もうないと思った」

私は口を閉じて何も言えないまま。先輩がそんな風に思っていただなんて……想像もしていなくて、驚いたけれど言葉にはならない。すると先輩は、自嘲するかのように小さく笑った。

「俺は、お前のことになると随分と意気地がなくなってしまうようだ。こんなことは、他にはなかった。頑なに日本へ帰国しなかったのも、そのせいだ。もし、万が一、に会うことがあれば……。そんなことは、あり得ない。だが、なぜだかためらわれて、だから、気が進まなかった。……馬鹿だと思うだろう」
「…………いいえ、そんな……」
「お前が目の前に現れた時……、夢かと疑った。実際、俺は何度も夢に見た。お前が、俺の元に戻って来る夢だ。お前は、そばで幸せそうに笑っていた。けれどそれは、所詮夢でしかない。目が覚めれば、ひたすらに虚しさが残るだけだ」
「……」
「そんなことを繰り返すうちに、俺は……、空虚なうつつの中で生きていくことを悟った。おそらくは、それが罰なのだろうと。妹も、も失って。もはや、かりそめの夢に縋って生きていくしかないのだろうと……、そう思っていた」

跡部先輩が、こんな風に自身のことを色々と聞かせてくれることなんてほとんどない。他に思い当たるのは、いつか、まだ先輩が日本にいた頃。お邸の中の教会で、妹のことを話してくれた時くらいだった。

そのどこか憂鬱とした雰囲気と、己の弱いところまでも包み隠さずに吐露する姿は、かつての先輩からはまるで想像もできない。いつだって決してそんなところを見せることなどなく、強く、気丈に振る舞い、気高く羨望の眼差しを集めていた、美しいその人からは……。

それなのに、それすらも綺麗だと思ってしまう。陽の当たらない、影の掛かった暗い場所も、……月のない夜も。

先輩は、この体を抱き締めていた腕の力を少し弱めると、私の顔を覗き込む。美しい、その瞳の色。この胸の中はもう、色々な想いでいっぱいで……今にも張り裂けてしまいそうに感じた。


「……はい」
「俺は、何よりものことを大切に思っている。それは、妹としてじゃない。決して代わりなどではなくて、自身として。あれから一日だって、お前のことを想わない日などなかった」
「……」
「自分のせいとは分かっていても、それでも、忘れることなどできずにいた……」

大きな温かい両手で、頬をそっと包まれて、なんだか心が安らぐ。ずっと望んでいた場所に帰って来られた時のようにほっとして、瞳にはまた涙がにじんだ。先輩の落ち着いた静かな声が、耳に心地いい。

「――愛している……。どうか、俺のそばにいてくれないか」

一つ、瞬きをすると涙の粒はぽろりと頬を滑り落ちていった。心の底から嬉しいはずなのに、なぜ、涙は溢れてくるのだろう。

「……はい」

伝えたい想いは、たくさんあった。聞きたいことも。けれども、私は小さく頷き、震えた声で一言、そう応えるしかできなかった。

優しく微笑んだ先輩の顔がそっと近づいて来ると、唇には柔らかいものが重なった。

そのまま、またそっと抱き締められて、私はその胸の中でそっと目を閉じる。もしも夢ならば、永遠に醒めないで欲しいと思うけれど、それでもこれが夢などではないことは、わかっていた。

長い時間、探し求め続けた最愛の人……。

いつも感じていた切なさや苦しみ。そんな思いを今は感じることもなく、ただひたすらに懐かしさと温かさに包まれ、私は、この上もなく幸福だった。

その時、廊下の辺りから、12時を告げる時計の音が聞こえて来た。

ボーン、ボーンと低くゆっくりと響くその音に、いつからか止まっていた私の中の時間がやっと動き始めたのだと……目を瞑りながら。そう、静かに感じていた。