美しいものになら



果たして、夢であった方がよかったのか、現実であった方がよかったのか、もうそんなこと私にはよくわからなくて。



あれ以来、度々、校内で跡部先輩が私に声を掛けてくれるようになった。これから授業か、とか、校舎内の地理はもう把握したか、とか。そんな他愛もない会話だけれど私には信じられないくらい嬉しかった。

でも、それを「どうして」と思うのは私だけじゃなくて、もちろん周りの人もそうだった。 なんでなんでと質問攻めにしてくる友達に、しどろもどろ言い訳をしながら、頭の中では自分が一番混乱していた。

それは、”どうして”という思いと、”もしかしたら”という思い。

嫌いならば、声なんて掛けるはずない。見学になんて誘うはずない。勘違いをしていはいけないと思うのに、それでもやっぱり何かを期待している自分が心のどこかに住んでいるのもまた事実だった。

(……違う、なんでもないの)

私が特別なんじゃない。跡部先輩が私を好きなんじゃない。

こんなの、きっとただの気まぐれだから、思い上がってはいけない。だって、私は跡部先輩のとなりを歩けるような人間じゃないから。先輩のとなりに並ぶのは、先輩と同じように、美しい人であって欲しいと思うから。

薔薇には、薔薇が似合うと思うから。



は、紅茶は好きか?」

ある日の休み時間に、廊下で会った跡部先輩は私にそんなことを聞いた。紅茶なんて、たまにしか飲まないし、銘柄もよく知らないけれどとっさに「はい」と答えると、放課後にアフタヌーンティーでもどうかと誘ってくれた。

誘ってもらえたことは、飛び上がりたくなるくらい、すごく嬉しかった。だけど、それというのはカフェテリアでだろうか……?みんなの前で跡部先輩と一緒にいるというのは、いささか気が引ける。

(……私と、なんて……)

「気が進まないのなら、無理にとは言わない」
「い、いえ、そんな。あの……是非お願いします」
「そうか。なら、放課後生徒会室に来い」

(……?)

頭を下げながら、なんで生徒会室……?と不思議に思ったけれど、ただ「はい」と答えるだけだった。よくわからないまま、放課後に言われたとおり生徒会室の前に行って、ドアをノックすると跡部先輩が開けてくれたので軽くお辞儀をする。

それから、「入れ」と促されて中に入れば、そこには樺地先輩がいて、すでにお茶会のような準備がなされていた。その他には、誰もいない。

「ご苦労、樺地」
「ウス」

樺地先輩は小さく頭を下げると、部屋から出て行こうとした。その途中で一瞬、すれ違ったときに私のことをチラリと見たような気がしたけれど、それは本当に一瞬で、何も言わずそのまま去っていった。

私と跡部先輩だけが残されてしまい、ぽかんとして立ち尽くしていると、跡部先輩が「座れ」と言って椅子を引いてくれたので慌ててそれに腰掛けた。

いつもは会議に使うような机に、白いテーブルクロスがかけられたり、お花が飾られていたり。なんだか、ここだけ学校じゃないみたい、と思う。


「あ、ありがとうございます」

それから、向かいの席に座った跡部先輩が紅茶を注いでくれたり、お菓子を差し出してくれる度にお礼を言って頭を下げていたら、「いちいち礼を言わなくていい」と言われてしまい、それからはただ小さく会釈をするだけだった。

先輩と私だけのこの部屋で二人だけのお茶会だなんてそんなの、まるで信じられなくて。
それに、お茶会の作法なんて何にもわからないし、手に持つティーカップが小刻みに震える。あまりにも緊張して味なんて微塵もわからない。

「……あ、」

手に持ったつもりのクッキーが、テーブルの上に落ち、そのままコロコロと床に転がってしまった。慌てて拾おうとして手を伸ばせば、それより先に跡部先輩の手が伸びてそれを掴んだ。

「す、すみません」

先輩が紙ナプキンの上にそれを置くのを見ながら、恥ずかしくてどうしようもなくなる。これは、前に椅子を倒したときと似ている。私はなんでいつもこうドジなことをするのか、自分のことが恨めしかった。

「そんなに緊張しなくてもいい。ここには俺しかいない」
「はい……すみません」
「お前はすぐに謝るな」
「すみません……」

跡部先輩は少し苦笑いをした。こんなにも真正面から見る先輩の姿はすごく綺麗で、私は上手く息をすることができなかった。まるで目の前に、童話に出てくる王子様が座っているかのような、そんな気分になる。

本来ならば、今この私の席に座る人はお姫様のように綺麗な人でなきゃいけないと思うのに。……なんで、ここにいるのが私なんだろう。

ティーカップの中で揺らめくその水面を見つめながら、遠い意識の中でそんなことを考える。


「お前は、俺のことが苦手か?」
「い、いいえ、そんなことはありません……」

突然、聞かれて驚く。私の態度がそんなだから、先輩に嫌な思いをさせてしまっただろうかと、おろおろとしていると、先輩は急に黙り込んでじっと私のことを見た。

それに思わず目を逸らして、とっさにうつむいてしまう自分を意気地なし、と心の中で思えどそうするしかなかった。美しい人の視界に自分が映るのは、居たたまれない気持ちになる。

「そんな風には見えないが」
「あ、あの本当に……違うんです、私……」

あなたがあまりに綺麗だから、直視できないんです。本当は、本当は……初めて見たときからずっと好きなんです。その瞬間心が凍りついたみたいになって、ずっとそのままなんです。

心の中ではそう言えるのに、それは言葉にはならない。そんなセリフ、私みたいな人間が言っていいこととは思えないから。ここに座ってもいいのは、綺麗な人で、私とは思えないから。

体中が熱くなって、じんわりと汗をかいているのがわかる。

「無理に言わなくてもいい。俺が悪かった」
「いえ、その……」

嫌な感じに思われただろうか。でも、何か言わなくちゃと思うのに、なんて言ったらいいのかわからない。頭の中が余裕を持てなくなって、思わずまた泣きたくなる。

好きです、なんて言ってはいけない。そんなこと、許されない。

私の瞳に映る世界と、跡部先輩の瞳に映る世界では、きっと違う。先輩の美しい瞳で見た世界なら、私の世界よりも、もっとずっと美しいに違いない。そしてその世界に、私はいない。

(いてはいけない)


「……すみません」

やっと口から言葉が出ても、そんなことしか言えなかった。まるで「すみません」しか喋れない人間のようだと思いながら、恐る恐る顔を上げると跡部先輩は少し首を傾げるようにして、私のことを見ていた。

ちょっと呆れたような感じで、でも、それはどこか見守るような優しい雰囲気もあって。心が安らぐような、癒されるような、そんな気分になる。
だから、自分でも不思議なくらい自然と、私は跡部先輩のその目を見つめ返すことができた。

「……嫌いじゃ、ないんです……」
「そうか、ならいい」

嫌いじゃないだなんて、私は一体何様なのか。跡部先輩に対して、そんなことを言うなんてと心の中で自分に腹が立つ。だけど先輩は少しも怒った風はなくて、微かに微笑んでいた。

(どうして、そんなに優しいの……)

いっそ、怒ってくれたらよかったのに。見捨ててくれたらよかったのに。こんな私に、そんなにも優しくしてくれて、いけないと思うのに心はゆらゆらと揺らめく。キャンドルの炎みたいに、右へ行ったり、左へ行ったり。


跡部先輩のとなりに並ぶのなら、美しい人であって欲しいと思うのに。
跡部先輩の世界は、美しいままであって欲しいと思うのに。

(……思うのに)

胸が苦しい。先輩の優しい表情を見ると、安心して、なんだか泣きたくなる。
自分じゃないと知っているのに、先輩と同じ世界に生きてみたくなる。

(……そんなの、だめなのに……)



跡部先輩の瞳を見つめると、遥か遠い異国が見える。
私の知らない、空や、海や、街や、人。


そこは、どんなに美しいだろう。

その人は、どんなに美しいだろう。