ツバサ



「景吾、あの子は天使だったんだよ。だから、天に帰らなくてはいけなかったんだ」

普段ならそんな夢みたいな話、絶対に父親がするはずもなかったけれど、その時彼は本当に真面目な顔をしてそう言うと、じっと俺の目を見つめ、軽く頭を撫でた。

まだ子どもだった俺に対しての気休めだろうか、それとも彼が自分自身に言い聞かせるためだろうか。あの時の、俺のように。

心の奥底ではそれを嘘だとわかっていながらも、ただ黙って頷いた。

(違う、天使じゃない……)

薄暗い教会の中で、ほのかに揺らめくキャンドルの灯り。響き渡る賛美歌。パイプオルガンの音色。棺の中で、白薔薇に埋もれて眠り続ける妹の姿。

こんなにも美しいのに、もう、二度と目を覚まさない。もう、二度と笑わない。


(だって、翼なんてなかったじゃないか)





「お前たち、一年か?ここで何してる」

立ち入り禁止といえど、部員目当てに男子テニスコートに忍び込む女子生徒は少なくない。あの日も、コートの近くに女子生徒の後ろ姿を見つけ、俺は注意をしようと声を掛けた。

驚いたように振り向いた二人の女子生徒は、まだ幼い外見で、新入生であろうことはすぐにわかった。入学したばかりでもうこれか、と少し呆れていると一方の女子生徒が口を開き、見学をしていたのだと述べた。

「見学?許可は出てるのか」

そんなのもの出ているわけがないと知りながらも、そう聞けば、やはり女子生徒はばつの悪そうに「いいえ」と答える。新入生だからこそここできちんと叱っておくべきか、それとも見逃してやるべきか、少し考えているとふと視線を感じてそちらに目をやる。

そこには、先ほどからただ黙って微動だにしないもう一人の女子生徒がいた。その今にも泣き出しそうな目と視線が合うと、そいつはハッとしたようにすぐに顔を下に背けた。


(…………翼?)

まさか。そんなもの、あるはずがない。

一瞬、その女子生徒の背に白い翼のようなものが見えた気がした。何度か瞬きをしてもう一度よく目を凝らして見てみても、もうそこには何もなく、ただうつむいている少女の姿しか見えなかった。

(……気のせいか……?)


「……まあいい」

結局、気がそがれてしまったこともあって見逃すことにした。帰るように言うと、その翼の女子生徒は再び顔を上げることなく、不安定な足取りでもう一人の女子生徒についてそこを去っていった。

(あれは、誰だ……)

本来であれば、入学式の時点ですでに新入生の顔と名前はすべて把握していたはずだけれど、この頃少し忙しかったのと、例の夢を度々見ることが重なり、あまり体調が優れずまだ全員覚えきれていなかった。

その日、家に戻ってから新入生名簿に目を通し、あの女子生徒を探してみると彼女は名前をといった。写真に映る彼女の顔を見ていると、ふと何か、遠い記憶がよみがえりそうな気持ちになる。

あの、純白に包まれた柔らかな少女の面影……。

「……」

ただの気のせいだと自分を言い聞かせるには、あまりにも胸に引っかかるものが多すぎる。 一体、こいつは何者なのだろう。なぜ、あんなものが見えたのだろう。

……もう一度、会って、確かめなければ。話して、それを見極めなければ。



「まあ、座れ。他に誰もいないから、気楽にしていい」

じきに教室に様子を見に行ってみようと思っていたところ、ちょうどが通りかかったのは奇遇だった。彼女は少し動揺しながらも、招き入れれば素直にそれに従った。

小さくなって椅子に腰掛けているその少女は、俺が何か尋ねれば、おずおずと答える。それをしばらく眺めていても、再びその背に翼は見えなかった。やはりあの日のあれは、ただの気のせいだったのだろうか?

……まあ、それもそうか。妹にだって、翼なんて一度も見えなかったのだから。

(だが……、)

この娘、少し気に掛かる。

調べてみたところ女子テニス部に仮入部しているようだから、そのまま入部すれば同じテニス部として少しは近くで様子が伺えるかもしれない。と、そう思ったけれどどうやら本人に入部の意思はないらしい。それを聞いて少し落胆する自分がいた。

のその顔、その声。そばにいると、辺りがセピア色に包まれるかのような不思議な感覚に陥る。失ったものを取り戻せそうな、そんな気分になるのはなぜなのか。

(もう少し、近くで見ていたい)

何か接点が欲しくて、それから数日後に男子テニス部の見学に誘った。それは彼女が以前見に来ていたこともあったし、少しは興味があるだろうと思ったからだった。

多少迷った風はありながらも、案の定はついて来た。テニスコートから、スタンドに佇んだ少女の姿を眺めれば、それはただの平凡な女子生徒にしか見えない。けれど近くに寄れば、一瞬辺りの空気の和らぐような気持ちになる。

「どうだ、気に入ったか?」
「……はい」

時折、俺を見上げるの表情は、少し怯えているようにも見える。俺のことが怖いのだろうか……?そう思うけれど、ふと、控えめに嬉しそうな表情を見せたりもして、嫌がっているようには感じなかった。

またの機会を作るために、いつでも見学に来てもいいと言えば複雑そうな顔で礼を言い、家まで送ると言えば慌てたように断り去っていった。

それでもう、この少女がここに来ることはないのかも知れないと思うと、心の中の薄氷が割れるような、そんな気分になった。

(……なぜだ)

なぜ、こんなにも懐かしく切ない気持ちになる?なぜ、遠い昔に失った大切なものが、また俺の元に帰ってきたような気持ちになる?


気が付けば、校内で彼女の姿を見つけると声を掛けるようになっていた。はそれに少し遠慮がちに「はい」と答えるも、この頃では少し笑顔も見せるようになるのが嬉しかった。

が笑えば、妹が笑っているような気分になった。

お茶に誘ってそのカップに紅茶を注いでやれば、昔、妹にも同じようにしてやったことを思い出す。一体、過去の行いをこの少女になぞらえたところで俺はどうしようというのか。

それでも、の近くにいれば、欠けたものを満たすことができるような、錯覚が続く。

「お前は、俺のことが苦手か?」

自分でも、一体どんな答えを期待してそんなことを聞いたのかわからない。ただ、時々俺に気後れしていると感じるそれは、妹にもそうされているかのような気分になるのだった。

「……嫌いじゃ、ないんです……」

しばらくの間焦ったように否定をしたあと、急に黙り込んだと思えば。今にも泣き出しそうな声で、そんな風に答えるのを、心のどこかで安堵しながら聞いていた。

が何を言おうと、まるで腹の立つことはなかった。むしろ、何でもいい、もっとその口から言葉を聞きたいと思う。彼女が何を思い、考え、感じるのか。それを知りたい。


そうすれば、俺の胸の中につかえている見えないもののその姿が、わかるような気がした。 奪われた何かが、またこの手の中に取り戻せるような、気がした。

もしも。

が、もしも、本当に翼を持っているのなら。


きっと、いつか天使に辿り着けるはずだ。
翼のない天使もいるのかと。きっと、それを知ることができるはずだ。