冷たいロザリオ



あれから私は、校舎内で偶然跡部先輩の姿を見かけても、いざとなれば気が引けてしまい、そこから慌てて逃げ出す始末。

どうしてかなんて、もし、そんなことを聞いて気分を悪くさせてしまえば、もう、二度と私と話してはくれないかもしれないという不安ばかりが頭をよぎって、どうしても言い出せなかった。

(…………)

あの時、樺地先輩は何て言おうとしていたのだろう……。 知りたいという自分と、知りたくないという自分がいて、両方の気持ちがせめぎ合っている。

(……跡部先輩……)

先輩の優しい眼差しが好き。落ち着いた声が好き。穏やかな微笑みが好き。

それが遠くへ行ってしまうくらいなら、知らなくてもいいと思ってしまう自分が嫌だった。 そんなの、私が望んでいいことじゃないのに。私は、そばにいていいような人間じゃないのに。

……だけど、跡部先輩のあの優しい微笑みを友達は知らない。温かさを、柔らかさを、みんなは知らない。近づくと、とてもいい匂いがすることも。きっと、知らない。

(なのに、私はそれを知っている)

私は、それが嬉しいのだろうか。他の人の知らない、跡部先輩を知っていて、嬉しいのだろうか。 優越感に浸っている自覚なんてなくても、知らないうちに、そうなってしまっているのかもしれない。

特別な存在になって、特別な場所に立って、そこから友達を見下ろしていい気分だと思っているのかもしれない、私は。

(違う、そんなこと思ってない)

思って、ない。

……本当に?



「きゃ、」

考え事に真剣であまり前を見ていなかった私は、誰かにぶつかってしまい、思わずよろけた。そのときの振動で、どこか遠くに飛んでいっていた意識が急に戻ってくる。

「すみませ……」

とっさに謝ろうと顔を上げて、でも、それは途中で止まってしまった。なぜならそこにいたのは、さっきまでずっと頭の中で何度も思い浮かべていた人だったから。

「ちゃんと前見ろ、危ねえだろ」
「す、すみません……。あの、大丈夫でしたか」
「俺はお前の心配をしてんだよ。転んだらどうすんだ」
「え?私……」

そこで初めて、跡部先輩が私の肩から背中の辺りにかけて、手で支えてくれていることに気がついた。さっき、よろけて転びそうになったところをとっさに庇ってくれたのだろう。

「あっ、あの、ありがとうございました……」
「ったく、お前は本当に危なっかしいな」
「……すみません」

謝りながら、また、顔が赤くなってしまう。跡部先輩の前では、いつも以上に、何かしらドジをしてしまうことが多かった。なんでこんなときに限って……と思うことばかりだけれど、その綺麗な姿の前では、緊張してしまって、どうしても普段どおりではいられなかった。

「一体、何をそんなに真剣に考え込んでたんだ?」
「え、あ、それはその……。何だっけ……」
「忘れたのか?」
「いえ、あの……そうだ、ちょっとテニスのことを……」

違う、そんなこと考えてなかったのに。動揺して、とにかく思いついたことを口にしてしまった。

今こそ、先輩に聞けるチャンスだったのに。一体何を言っているのか、と自分を叱責してももう遅い。今さらやっぱり違ったとも言えず、テニス?と聞き返す先輩の声に、「はい」とうなずくしかなかった。

「テニスの何だ?言え、答えてやる」
「それは……あの、今度体育でテニスをやるので、練習しようかな……なんて」
「へえ、そうか。感心じゃねえの、

テニスがあるのは本当だった。だけど、テニスかソフトボールかの選択で、私はすっかりソフトボールにしようと思っていた。たくさんの人に紛れ込めば、運動神経のなさを露呈しないで済むし、外野ポジションなら、そんなに周囲に迷惑をかけないでいられるだろうから。

テニス部に少しだけ体験入部していたといったって、ほとんど基礎的なトレーニングやボール拾いで、いざ実践的なことに入る前に辞めてしまっていた。だから、正直何もできないし、そんな私なんかがテニスをするのは申し訳ないという気持ちもあった。

「いえ、あの……はい。そんなわけで……」
「待て。俺が、お前の練習を見てやろう」

冷や汗をかきながら、そそくさと去ろうとしたところ、跡部先輩がまさかの予想外なことを言って、動き出した私の右足がフリーズする。

「えっ、いえ、そんな。大丈夫です。先輩も部活とか、色々お忙しいでしょうし……」
「今度の土曜ならオフだ。特に予定もねえし、付き合ってやる」
「は、……はい。ありがとう、ございます」

どうしてですか。どうして、そんなによくしてくださるんですか。
それは、私が特別だからなんですか。

なんで、私が特別なんですか。

ほら聞いて、と心の中の自分が急き立てるけれど、それは声にはならず喉の外には出ないまま。額にかいた汗を手の甲の辺りで拭いながら、引きつった笑顔を浮かべることしかできなかった。




土曜日、約束どおり跡部先輩は私のためにテニスの練習に付き合ってくれていた。場所は、跡部先輩の家が経営している、スポーツジム。迎えをよこすと言ってくれたけれど、それを必死に断り、自分で電車に乗ってやって来た。

「打つときは、ボールをよく見ろ」
「は、はい」

練習といえばてっきり、普段男子テニス部で行っているような厳しい内容かと思っていたけれど、実際にはそんなことはなくて、跡部先輩は初心者の私にもとてもわかりやすく、親身になって丁寧に教えてくれた。

「疲れたか?少し、休憩するか」
「はい……。すみません、私、本当に運動が苦手で……」
「いや、お前は筋がいい。練習すれば上手くなる」
「……そう、でしょうか」

自分ではまったくそんな風には思えないのだけれど。

ホラ、と渡してくれたスポーツドリンクを両手の内で握り締めるように持ちながら、私の心の中は、嬉しさと罪悪感とでまるでマーブル模様のようになっていた。

私と、跡部先輩、二人きりの屋内テニスコート。
二人きりの、プライベート・レッスン。


……違う。偶然なんです、これは。

あの時、そんなつもりで言ったのではなくて、その、はずみというか。そう、たまたまなんです。たまたま、とっさに思いついて、テニスの練習だなんてそんな嘘を吐きました。

だから、もしそれが私じゃなくて、他の誰かだったとしてもこうなっていたんじゃないかと思います。だって、私は特別な人間なんかじゃなくて、全然そんなのじゃなくて。いつだって、そこにいるのかいないのかもよくわからないような、そんな生徒だから、この前だって先生に……、


「……オイ」
「……」
「オイ、。どうした、意識が飛んでってんぞ」
「……え?あ、」
「大丈夫か、そんなに疲れたか?」
「い、いえ、違うんです。ちょっと、考え事をしていて……、すみませんでした……」

物事には、必ず起こる理由というものがあって。だから、私がこんなにもよくしてもらえるのにも、きっとそれなりの理由があるのだと思うけれど、でも考えても、考えても、私にはどうしてもそれがわからなくて。

だけど、「知りたい」という気持ちは、時が経つつれてだんだんと、恐怖と隣りあわせになっていった。それを聞いてしまえば、もしかして、私は跡部先輩を失ってしまうのじゃないか?

あの優しい微笑みも、声も、眼差しも、失ってしまうのじゃないか……?どこからからそんな思いが、胸の中に湧いてきて、それはもう消えてはくれない。

「お前は、よく考え事をするな」
「……すみません……」
「べつに、怒ってるわけじゃねえよ」

私ではない。跡部先輩のそばにいたいと願っても許されるのは、私などではなくて、もっと美しい人だけなのに。それだけは、はじめからわかっていたことなのに。

だけど、一度手に入れてしまったものは、それが自分に相応しいものではないと知っていたとしても、なかなか手放すことができない。……たとえ、他の誰かのものであったとしても。

「何か、悩みごとか?」
「いいえ……」
「その割には浮かない顔しているな。どうした」
「……なんでも、ありません」

せっかく心配してくれた先輩に、そんな失礼なことを言ってしまって、心底自分が嫌になった。けれど少し間の空いたあと、跡部先輩は「そうか」とだけ言うと、それ以上問い詰めたりはしなかった。

そのあとまた練習を再開して、さっきまでのようにフォームなどをとなりで教えていてくれたけれど、その横顔を見ていると無性に胸が締め付けられる思いがして、うまく呼吸ができずにいた。

「どうした、
「あ、いえ、大丈夫です……すみません」

(……跡部先輩)

私は、自分がこんなにも欲深い人間だということを、今まで知らなかったんです。
違うと思うのに、この手に掴んでいるものをどうしても放すことができないんです。

「……?」
「なんでも、ないんです、ごめんなさい……」
「どうした、何かあるなら遠慮しないで言っていいんだぞ」
「いいえ、いいえそんな……本当に、……」

突然泣き出す私をみて、跡部先輩は少しだけ驚いたような顔をした。何をやっているのだろうと自分に呆れてみても、湧き出してしまった悲しみにも似た感情はちっともいなくならない。

私のものなんかではないから。いつかは遠くにいってしまうのに。

先輩の落ち着いた優しい声が聞こえると、胸の苦しみは増すばかりだった。もうこれ以上押し込めきれない罪悪感に締め付けられて、息ができない。

(苦しい)


今、ここで手放してしまえば楽になれると知っているのに。

それは、それだけは、どうしてもできない。