隠された楽園



両手でも抱えきれないほどの花束をもらったのは、それが生まれてはじめてのことだった。

私宛てにお花の贈り物が届いていると家族に呼ばれたので自室を出て見に行ってみると、そこには見たこともない美しい白薔薇が何輪も重なり合うように咲き乱れていた。

「これは……?」

聞いてみても、ただ配達されただけで家族も知らないのだと言う。だけど誰からなのか、私は心のどこかではわかっていたのだと思う。だから、花束についていた小さなメッセージカードに「Keigo.A」と書かれているのを見たその時も、驚くというよりかは、どこかほっとした気持ちだった。

(……跡部先輩……)

そのあまりにも繊細な純白の花びらは、まるでウエディングドレスのレースのようにも見えて、とても綺麗だった。そして甘くて優しい香りに、この心は一瞬にして癒されていくように感じながら、ぼんやりと。

もしも、どこかに天国と呼ばれる場所があるのなら。
きっと、こんな花が咲いているのだろうかと、思ったりした。




ちゃん、どこか行くの?」
「あ、うん。ちょっと用事があって……。午後の授業までには戻るね」

土曜日にはせっかく跡部先輩がテニスを教えてくれたというのに、私は、途中で泣き出したりして結局それ以上練習を続けることができなかった。だけどそれにも先輩は決して怒ることはなくて、早く帰って休めと車で自宅まで送り届けてさえくれた。

そのうえ、日曜日にはあんなに綺麗な白薔薇の花束まで贈ってもらい、私は泣きたいくらいの嬉しい気持ちでいっぱいだった。

だから、どうしてもお礼を言わなければと思って、意を決して3年生の教室のあるフロアまで来てみたけれど、それには想像以上の勇気を要した。足は若干震えているし、心臓は不必要なほどドキドキと脈を打っている。

なんとか跡部先輩の教室の前に着いたのはいいけれど、肝心の先輩の姿が見当たらない。どうしよう、誰かに聞いてみようか……でも、誰に……?

おろおろしていると、廊下を通り過ぎるたくさんの上級生たちに不思議そうに見られていることに気付き、居たたまれなくなって下を向いてしまう。どうしよう、やっぱり帰ろうか……と思ったとき、誰かが私に話しかける声が聞こえた。

「あれ、きみ、どうしたの。跡部を探してるの?」
「……えっ」

顔を上げるとそこにいたのは、髪の毛を肩の辺りで綺麗に切りそろえている、すらりとした男子の先輩だった。なぜ、私が跡部先輩を探していることがわかったのだろうか、と、思わず驚いた声を出してしまった私に彼はにこりと微笑んだ。

「きみだよね?跡部のお気に入りの1年生って」
「え、あの、私……」
「ああ、ごめん、驚かせちゃったよね。俺は滝。跡部と同じ3年で、テニス部なんだ。よろしく」
「は、はい。あの、といいます……。よろしくお願いします」

お気に入り?私が、跡部先輩の?まさか……。でも、少なくともこの滝先輩はそういう風に思っているみたいだ。頭を下げながらそんなことを考えて、それから顔を上げて目が合うとやっぱり彼は微笑む。

「教室にはいないみたいだけど……、生徒会室か、監督のところかな。一緒に探そうか?」
「い、いえ、そんな……大丈夫です」
「そう?でも、何か用があったんじゃないの。いいよ、一緒に探すよ」
「え、あの……はい。すみません、ありがとうございます……」

急用ではないことだし、特段今でなくてもよかったけれど、せっかくの厚意を断るのは逆に失礼にもなるような気がして、結局申し訳ないと思いながらも一緒に校内を探してもらうことになった。

はじめに生徒会室を訪ねたらそこにはいなくて、次に榊監督の部屋に行ってみようかと、向かえばちょうどその近くの廊下で跡部先輩の後ろ姿を見つけることができた。

それに滝先輩が「跡部」と声をかけると、気がついて振り返った跡部先輩は、一瞬、私と滝先輩の顔を見比べるようにして、何故ここに私がいるのかと不思議に思ったようだった。

「よかった、さんが探してたんだよ。跡部に用があるんだって。ね?」
「あ、は、はい……」
「そうか。悪かったな、萩之介」
「ううん。じゃあ、跡部も見つかったことだし俺は行くよ。さん、またね」
「すみません、どうもありがとうございました」

お礼を言うと滝先輩はまた、にこりと笑って去っていった。その背中を少し見送って、くるりと首を元の位置に戻すと私のことを見ている跡部先輩と目が合った。

あまり生徒が通りかかることはないこの廊下で、二人きりの静けさに一瞬息をのむ。
……そうだ、私はここに用があってきたのだから、早く用件を言わなくてはいけない。

「あ、あの、跡部先輩……。私、土曜日は本当にすみませんでした……」
「あんなの、気にしなくていい。それより調子はもういいのか?」
「はい、大丈夫です……ご迷惑お掛けしました。あの、それと、あんな綺麗なお花まで贈ってくださって……。本当に、ありがとうございました」
「いや。お前の気に入ったか?」
「はい、とても……」

とても。

綺麗で、気高くて、でもどこか儚いような花。眺めていると、まるでその向こうに見たこともない美しい世界が見えるようで、でもそこがどこかはわからない。近いような遠いような。幸せなような切ないような、そんな場所。

「嬉しかったです……。ありがとうございました」

私のことを見下ろす跡部先輩が緩やかに微笑んでいるのを見て、さっき、滝先輩に言われた言葉が頭の中をよぎっていく。私が先輩の「お気に入り」だなんて、そんなのありえないと思うのに……、でも、本当はそう言われて嬉しかった。

そうならいいのに、って、思ってしまった。

部活の見学だって、アフタヌーンティーだって、テニスの個人レッスンだって。それにあんなに綺麗なお花を贈ってくれたのだって、きっとすごく特別なことだってわかっていた。

それは偶然なんかじゃなくて、新入生アンケートなんかじゃなくて、誰でもよかったわけじゃなくて。私だったから、なら、いいのに……って。思ってしまった。

(……だけど、理由がない)

私が特別扱いされる理由が、どこにも見つからない。
誰が見たって、どうしてと言う。

(どうして私なの、と言う)


「……あの、跡部先輩。私……、先輩にお聞きしたいことがあって……」
「聞きたいこと?何だ、言ってみろ」
「……それは……その、」

頭の中では何度も繰り返し質問していたのに、いざとなれば何と聞いていいのかわからなくなって、口ごもってしまう。だけどモタモタとする私にも、跡部先輩は急かしたりしない。ただ静かに、私の次の言葉を待ち続けてくれていた。

「……せ、先輩が、私にとてもよくしてくださること、すごく嬉しいんです。でも、あの……」

まるで異国の美しい海のように透明な、その青い瞳に柔らかに見つめられて、私は次第に呼吸が浅くなっていくような気がしていた。

「不思議というか、その……どうして私なのでしょう、と思いまして」
「……?」
「私は……、先輩のおそばにいてもいいような人間とは、とても思えないのですけど……」
「……どういう意味だ?」

そこではじめて跡部先輩の眉が少し動いて、その声は静かだったけれど、私は気分を悪くさせてしまったかと、はっとしたような気持ちだった。だから聞かれても、もうそれ以上言葉を口に出せなくなって、何も返すことができくなってしまった。


「……」
「お前は、俺と一緒にいるのは息苦しいか?」
「……いいえ……」
「そのわりには、俺といるといつも、あまり浮かない顔をするな」
「いいえ、違う……違うんです、本当に……。ごめんなさい……」

嫌なわけがない。そんな風に思ったことは一度もない。だって、いつだって先輩のそばにいれば、嬉しくて温かくて、癒される気持ちになるのに。まるで楽園にでもいるような、そんな幸福な気持ちになるのに。

なのに、私は跡部先輩を悲しませて、傷つけるようなことしか言えない。

「ごめんなさい……、先輩……」
「謝らなくていい」
「いいえ……。私、本当に、とっても嬉しかったんです。跡部先輩がそばにいてくださると、いつも、癒されるというか。すごく……幸せな気持ちになるんです。本当です。だけど、その幸せは……何だか、私のものではないような気がして……」

私は、誰かの幸せを奪っているんじゃないのか。と、いつも、そんな考えがつきまとってくる。 それなら、いつか返さなくてはいけない日がくるのではないのか。

「私なんて先輩に気に入っていただけるような長所もないですし……。なのでこうやって、おそばにいるのも変かなって、思いまして……」
「俺はそうは思わない」
「……」
「俺はお前を気に入っている。が俺をそう思うように、俺ものことを思っている」
「……そんな、……」

私が先輩のことを思うように、先輩も私のことを思ってくれているなんて、そんなのまるで夢のようで信じられなくて。一体、私のどこをそんなによく思ってくれているのだろうと、思ってもそれ以上口には出せなかった。

「できれば、もっとよくのことを知りたいと思う」
「……」
「お前さえよければ、もう少し、俺のそばにいてくれないか」

跡部先輩越しに、どこか、美しい世界が見える。咲き乱れる花や、輝く泉や、さえずる鳥。
そこが楽園と呼ばれる場所なのだろうか。それはすぐ近くにあるような気もするけれど、でも、永遠に遠い場所のような気もする。

安らぎを覚えるのに、でも、どこか切ない気持ちにもなる。


「……はい」

もっと色々伝えたかったのに、自分の想いも、感謝の気持ちも、いざとなれば言葉になんてできなくて。ただ、呟くようにそう答えることしかできなかった。

そうしたら、跡部先輩が少し微笑んだのを見て、急に泣きたくなる。
その美しい瞳に映るのは、私でいいのだと、言ってくれているようで。


どこかにある、美しい楽園。
そこには、あの薔薇も咲いているのだろうか。

跡部先輩の贈ってくれた、白い薔薇。
悲しいほど綺麗で、透けるように繊細なあの花びら。


私もいつかは、そこへゆけるだろうか。