元テニス部の飲み会からそういくらも経たない頃。夜遅くのバイト終わりに、なんだか腹減ったなあ、などと考えながら帰宅を急ぐ人々に混じって駅へ向かって歩いていると、ふと、その中で頭一つ分出ているガタイのいい男が目に付いた。 (……え、亜久津?) あいつは、いつどこにいても何故だか目立つ。例え、何もしていなくても。それにしても、なんでこんなところにいるんだろう。亜久津の大学ってこっちの方向じゃない様な。ま、あいつにも出掛ける用事くらいあるか。 この前、テニス部の奴らでちょうど亜久津の話をしたばかりなのに、このタイミングで出くわすって、やっぱり俺って持ってるのかなあ〜と思いつつ、人波にのまれないうちに駆け寄って声を掛けた。 「よっ、亜久津じゃないか。久しぶり」 「……千石」 誰だテメエとか言われたらどうしようかと思ってたけど、よかった。一応俺のこと覚えてるみたいだ、ととりあえずちょっとほっとする。 「なに、今帰り?いや俺もなんだよ、偶然」 「……だったらなんだ」 「お前今どうしてんの?まだ大学通ってる?この前さ、テニス部だった連中で集まっ……ちょ、待った、待った!」 世間話をしようとしたら、亜久津はそれを無視してさっさと歩き出そうとしたので、その腕を掴んで引き留める。 「せっかくこうして会えたんだし、ちょっと飲みに行かない?」 「……んでテメエとサシで飲まなきゃなんねーんだよ」 「いいじゃんいいじゃん、俺達元クラスメイトの仲でしょ」 「知るか」 掴んでいる俺の手を振り払って、再び歩き出す亜久津の横に並んで「なあいいだろ、久しぶりなんだからさ」などと言っていると、急に足を止めて俺の方を向き、間髪入れずにグッと襟元を掴んで一際低い声を出す。 「うるせえんだよ、テメエ。ドタマかち割んぞ」 「まあまあ、そう怒るなって。実は俺、お前に大事な用事があったんだよ」 「あ?」 「だからちょっと付き合って。奢るからさ、な?いいだろ?ちょっとだけ!亜久津頼むよ」 「……チッ」 亜久津がバッと手を離すと、反動で俺の体は少しよろけた。べつに用事なんてないけど、こうでも言わないとどうせ付き会ってくれないもんな。せっかく会えたのに、このまますぐに別れてしまうのはなんだか勿体ない様な気がしていた。 普通の奴ならここまでして亜久津のことなんて誘わないだろうに、俺ってちょっと変わってんのかな。まあいいか、べつにそんなこと、どうでも。 それから近くの居酒屋へ入ってカウンター席へ並んで座り、酒と適当に食べる物をいくつか頼んだ。がやがやと騒がしい店内で、俺が手始めに世間話を振ってみても、亜久津はいつも通りの不機嫌そうな顔をして煙草を吸っているだけで何も答えない。 「にしてもさ、お前もう本当にテニスやってないのか?勿体ないなあ〜、留学の話だって蹴っちゃってさ。あ、そうそうこの前、元テニス部のみんなで集まったんだよ。それであいつらさあ、今は……」 「オイ」 「え?」 「テメエさっきからつまんねえことばっかほざきやがって。とっとと本題に入れや。くだらねえ話だったらぶっ殺すからな」 亜久津はどうやら随分と苛ついた様子で俺のことを睨み付ける。まあ、そんなこと言われてもまず本題なんて存在しないんだけど、と思いつつ正直に言ったら絶対怒り出すから、何かいい誤魔化し方はないか思案する。 うーん、ちょうどいいや、あの話してみよう。少し考えた後、痺れを切らした亜久津の手がこっちに伸びて来る直前で、「あーそうだったね」とさも覚えていたかの様に言った。 「亜久津って今、彼女いる?」 「……あ?」 「いやー俺さ、知り合いの女の子に亜久津紹介して欲しいってずっと頼まれてたんだよ。よかったら会ってあげてくれない?亜久津のこと好きなんだって」 「……んなくだらねえことか」 吐き捨てる様にそう言うと、亜久津は煙草を灰皿に押し付けた。彼女と一緒に歩いていたらしいことは聞いて知ってたけど、少し前みたいだから、今もまだ続いてるとは限らないしな。と淡い期待を抱いてそう告げてはみたものの……。 「会うわけねえだろ、馬鹿か」 「……だろうな。だってさ……、お前、もう結婚してるんだろ?」 喋っている途中で、俺は、ふと見た亜久津の左手の薬指に指輪がはまっていることに気が付いてしまった。もしかしたら室町くんが見掛けたのは彼女じゃなくて奥さんだったのかもしれないな。 ちょっとがっかりしながら、やっぱりヤンキーって結婚するの早いのかなあ、などと頭の中でぼんやり考える。 「……あ?違えよ」 「えー?じゃあ、なに。もしかして彼女とペアリング?」 聞いてみても亜久津は答えない。黙ったまま、もう一本煙草に火を点けている。 「お前ってそういうことするタイプだったんだ。ちょっと意外〜」 「笑わせんな、俺はこんなもん興味ねえ。してねえとあいつがうるせえからな」 「へえ、案外彼女想いなんだね。やっさし〜。彼女のこと大好きなんだ?」 面白いこと知った。と思って、笑いながらそう聞いてみてると凄い目付きで睨まれたけれど、それにも慣れ過ぎてもういちいちビビったりはしない。 「なになに、どんな子なの?亜久津がそんなに惚れ込んでる女の子なんて」 「うるせえ殺すぞ」 「歳いくつ?芸能人でいうと誰似?同じ大学の子?彼女のどこが好き?」 「……」 「亜久津の彼女だから、モデルみたいな美人かなあ。それとも意外に天然癒し系とか」 「……」 「おーい、ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃん。減るもんじゃないし」 「……テメエはどうなんだよ」 飲んでいた酒のグラスをゴン、とテーブルの上に置くと亜久津は俺のことをじろりと見ながら、低い声を出して言った。 「え、俺?」 「人のことばっかうるさく聞きやがって。テメエだって女いんだろ」 「いや俺は今彼女いないからさあ。ちょっと前に別れちゃったんだよ〜、だから羨ましくて。ラブラブな彼女のいる亜久津くんのことが」 「……ふざけやがって」 ふざけてないよーと笑うと胸ぐらを掴まれそうになったので、「ごめん、わかったもう聞かないよ」ととっさに謝った。それからは彼女の話題を避けて適当に関係ない話ばかり振っていたけれど、ふと、亜久津のグラスの酒がちっとも減っていないことに気付いた。 「あれ、亜久津それ全然減ってなくない?」 「……」 すでに数杯飲んでいる俺に比べて、まだ二杯目?よく見てなかったけど、随分とゆっくりだな。ゆっくりすぎないか? 「もしかして亜久津ってあんまり酒強くないの」 「……だったらなんだってんだ」 「えっそうなの?俺勝手に酒豪のイメージ持ってたよ、めちゃくちゃ強そうじゃん。浴びるほど飲んでそうだもん」 「ほっとけ」 そういえば、初めほど罵倒されなくなったな。目付きにもいつもの鋭さがないっていうか。あれ、まさか亜久津の奴ちょっと酔ってたりする……?よし、ちょっとこれチャンスだから試しに亜久津のこと色々聞いてみよう。 「亜久津って今も大学通ってるんだろ?」 「ああ」 「バイトとか、なにかやってんの?」 「……知り合いのバイク屋」 「あーお前バイク好きだったもんな。てか既に中学の時から乗ってただろ?本当、ありえないよ。よく捕まらなかったよな。な?亜久津」 「……そうか?」 見た目には全然わからないけど、これやっぱり絶対に酔ってるな。よしよし、と思って内心ちょっと面白がって笑っていると、ふと携帯の震える音が聞こえた。だけど、どうやら俺のじゃない。 「亜久津、お前電話掛かって来てんじゃない?」 「……」 俺がそう言うと亜久津がポケットから取り出した携帯は、確かに震えている。だけど画面を見ただけでそれには出ることなくすぐに電話を切ってしまい、またポケットにしまった。 「あれ、出なくていいの?」 「……」 「彼女からだったんじゃない?怒られちゃうぞ〜」 「うるせえ黙れ」 これ以上言ったら亜久津の方が怒り出しそうだったからとりあえずそこでやめた。ていうか、亜久津っていつも女の子の話とか下ネタとか、「くだらねえ」って全然話さなくてつまらなかったんだよな。今ならうっかり喋ったりするのかな。 「で?亜久津は彼女のどこが好きなの?」 「……しつけえんだよ」 「やっぱり、おっぱいかなあ〜。ねえ、おっきい子なの?そうなんでしょ、なにカップ?」 「前歯へし折るぞ」 「まあそう照れないで教えてよ。俺達男同士じゃん?絶対秘密にするからさあ」 「……」 「教えてくれないと、亜久津は彼女のおっぱいが大好きなんだって〜、ってみんなに言っちゃうからね。それでもいいのかな〜」 「ガキかテメエは」 亜久津って意外と硬派なんだよなあ。あんな不良のくせに。だからってべつに女子に優しいわけでもないのに、なんでこいつって謎にモテるのかな。俺の方が絶対良いと思うのに。なに、みんなマゾなの? 「ま、いいや。じゃあ、とりあえず亜久津の好みはそういうことにしとくよ。でさあ、話変わるけど……」 「……ツラ」 「え、なに?」 「だからツラだっつってんだろ、何遍も言わせんな殺すぞ」 亜久津は睨み付けながら言った。だけど俺は問い詰めていた割に、急に出たそんな本音に対してちょっと驚いてしまい「ああ……そう」と薄いリアクションしか返せなかった。 へえ、亜久津って、彼女の顔が好きなんだ。よっぽど綺麗な子なのかな。……ん?そういえば、この前室町くんが何か言ってたな。東方がどんな人か聞いてて、確か可愛い感じの子だったって。じゃあ、可愛い系か。 (……あれ?待てよ、……) そんなわけないと思って払拭した後、すっかり忘れてたけど。なんか優紀ちゃんに似てたとか、そんな話してたよな。でも亜久津より歳下っぽかったから優紀ちゃんじゃないだろうってことになって……。 一度はすっかり消えたはずの、頭の中に引っ掛かる何か。それを今、また感じる。 (……まさかね) そうは思いつつも、やっぱり何だか気になってしまう。 「なあ、亜久津。ちゃんどうしてるか知ってる?」 「……あ?」 「ちゃんだよ。元気にしてるかな」 「知らねえよ」 不機嫌そうな顔する亜久津に、でもさあ、と言い掛けたところで亜久津は煙草を灰皿に押し付けると、立ち上がって席を離れた。「どこ行くの」と聞いてもシカトされたけど、まだ煙草の箱とライター置いたままだし。たぶん、トイレかな。 そう思ってしばらく一人で飲みながら待っていたけど、なかなか戻って来ない。まさか、あんまり俺がからかったから怒って帰っちゃったとか?それともトイレで潰れてる? ちょっと心配になって一応様子を見に行ってみると、トイレにはいなかった。あれ、もしかして本当に帰っちゃったのかなあ、と思っていると通路を曲がった少し先で亜久津の声が聞こえた。 「……お前まだ起きてんのか」 あいつ誰と喋ってるんだろう、知り合いでもいたのかな。気付かれない様にこっそり近付いてみると、どうやら誰かに電話をしているみたいだ。さっき掛かって来てた人かな。 「飲み屋にいんだよ……あ?んなわけねえだろ、くだらねえこと言ってねえで先に寝てろ」 もしかして相手ってやっぱり彼女?先に寝てろって、なに、まさか同棲してんの……?勝手に聞いたら悪いなとは思いつつも、つい気になって聞き耳を立ててしまう。 「……酔ってねえよ馬鹿。……なんだよ……、んな声出すな。ったく、すぐ帰りゃいんだろ。ああ……いいから大人しくしてろ」 言葉遣いこそいつもの様に荒いものの、その声はさっきまで俺に対して出していたドスの効いた低音とはまるで違って、随分と穏やかに聞こえた。 亜久津がこういう優しい話し方をする相手を一人だけ知ってるけど、でもまさか、そんなわけないし。きっと彼女にだって、口調が柔らかくなったりするよな、いくらあいつだって。 一人でそんなことを考えていると、亜久津が電話を切った様子だったので、慌てて元いた席に戻り何食わぬ顔でまた酒を飲んでいると、じきにあいつが戻って来た。 「亜久津おかえり、遅かったね〜」と笑い掛けてみてもそれには何も答えないまま、席には座らずにテーブルの上に置いてあった煙草の箱を掴む。 「なに、もう帰んの?」 「テメエのくだらねえ話なんかにいつまでも付き合ってられるか」 「えーいいじゃん、まだ一緒に飲もうよ」 「うるせえ」 テメエが払っとけよ、という捨て台詞とともに亜久津はさっさと店を出て行った。やっぱり彼女に早く帰って来る様に言われたのかな。あいつって意外と尻に敷かれるタイプ? (……うーん) ……ないない。相手がちゃんかもなんて、そんな考えありえないよ。だってあいつだって、知らねえって言ってたし。 いや、でもな……と自問自答していると、亜久津のいた席にライターが残されていることに気が付いた。あれ、あいつこれ置いていっちゃったのか。 まだ近くにいるかな。電話してみようかと思ったけど、そういやせっかく会ったのに連絡先聞くの忘れた。ま、聞いたところで教えてくれないだろうけど。 いつかそのうちまた偶然会うかもしれないし、と思って俺はとりあえずライターを自分のバッグに入れ、預かっておくことにした。 それは幸か不幸か。あれから少し経ったある日、俺は街でばったり優紀ちゃんと出くわした。 「あら、千石くんじゃない」 「あはは、どうも。お久しぶりです〜」 愛想良くにこにこ笑う優紀ちゃんにつられて笑い返しながら、俺はつい、ちゃんのことを思い出してしまっていた。 顔立ちは確かに母子だから似てるんだけど、娘のちゃんは割とクールな感じで、母親の優紀ちゃんの方がより人懐こくて愛嬌があるから、性格はあんまり似てないのかな。 「すごく今さらなんですけど、ご結婚おめでとうございます」 「やだ、知ってたの?どうもありがとう」 「はい、以前ちゃんに会った時に聞いてて……。あのー、ちゃん元気にしてます?」 「あら知らない?はね、今、家を出てるのよ」 「えっ?」 前に会った時はまだ実家にいた気がするけど、知らない間に出てたんだ。え、でもそれってもしかして……。この前亜久津が電話で話していた「先に寝てろ」という言葉を急に思い出してしまい何故か妙に焦る。 (……まさか) 「仲良しの女の子とルームシェアですって」 「……ルーム、シェア?」 「そう。最初は反対したんだけどね、あの子、なかなか女の子のお友達ができなかったでしょ?だから嬉しかったみたいで。一緒に住みたい、って」 「はあ、そうなんですか」 「でもね、あんまり実家に帰って来ないし、詳しい事ちっとも教えてくれないのよ。今度千石くんからもに言ってあげてくれない?」 「あ、はい。……はは」 なんだ、やっぱり気のせいか。俺の考え過ぎだよな、となんだかほっとして軽く溜息を吐いた。いや、べつに俺が焦る必要もないんだけど。 「そうそう、仁も全然顔見せないのよ。あの子ってば」 「はあ、そうなんですか」 「千石くんは仁と会ったりしてない?」 「あっ、この前ですね……」 言い掛けて、そういえば亜久津が忘れて行ったライターのことを思い出した。ちょうどいいや、優紀ちゃんに預けちゃうか、と思ったけどしまった。今日ライター持ってないや。 俺は亜久津に会ったことと、そして忘れ物を預かっていること、それを今は持っていないことの経過を説明した。 「俺が届けてもいいんですけど、あいつの連絡先も住所も知らないし」 そう言うと、優紀ちゃんは「あらそうなの」とにこにこしながらさらっと教えてくれた。「いいんですか勝手に。怒られませんか」と聞いても「平気よお」と笑っている。 さすが亜久津のお母さんなだけあるな……、と思った。あいつも、母親の無邪気な天然ぶりに割と苦労してんのかもしれないな。 「ごめんなさいね。もし近くを通り掛かったら届けてあげてくれる?」 「あーはい、それは全然。……あ、でも、彼女と同棲中だったりして……」 「えーまさか。そんなこと言ってなかったわよ」 可笑しそうにころころと笑う優紀ちゃんに、言ってないだけなんじゃ……と思いつつ笑顔で手を振って、そこで別れた。 まあいいや、渡す約束しちゃったし。同棲してないって言うんだから、してないんだろう。もしいなかったら郵便 ポストにでも入れて帰ればいっか。と、あまり悩まない事にした。 |