優紀ちゃんと会ってから数日後。大学の授業が午前で終わった日があったので、ああそうだと思い立って亜久津のアパートへ寄ってみることにした。多分、時間が経つと忘れちゃうし。

若干迷いつつもなんとか住所に辿り着き、”亜久津”と書かれたプレートのあるドアの前に立って、まあこんな時間だけどあいつよくサボってるらしいし。いるといいけどな、と思いながら呼び鈴を押した。

それから少ししてドアが開いたので、俺はてっきり亜久津が顔を出すものだと思っていたのだけれど。でも、違った。

「……え、……ちゃん……?」
「……」

そこにいたのは、亜久津じゃなくて……いや亜久津は亜久津なんだけど、妹の方で。驚いている俺と同じ様に、向こうも同じくらい、いやそれ以上に驚いたのかしばらくの間固まったままだった。

「……えっと。亜久津は……いるかな?」

なんでここにいるんだろう、という当然の疑問は口に出さずに、とりあえずそう聞いてみると今はいないらしい。住んでいる当の本人が留守なのに家にいるなんて……どういうこと?と、思いつつ顔には出さない。

無理やり平気な振りして笑顔は作っていたけど、内心随分と動揺していたので「また来るよ」と言って帰ろうとしたけど、彼女にそれを呼び止められて、家に上がっていく様に勧められた。

初めは断ろうと思ったけど、俺女の子の誘い断れない性分だし、それになんだかやっぱり色々と気になってしまい、「いいのかなあ」と悩みつつも結局は中へ上がらせてもらった。


「ごめんね、今コーラしかなくて」
「全然いいよ、ありがとうちゃん。お構いなく」

氷が浮かぶコップの中でシュワシュワと炭酸の弾ける音がする。それをちょっと眺めながら、亜久津、コーラなんて飲む奴だったっけ……?と顔では笑いながら心の中で首を傾げた。

ちゃんはよくここに来るの?」

思い切って聞いてみたけれど、彼女は首を横に振った。だけど、滅多に来ないと言いながらも飲み物を用意する手付きなんかは慣れた様子に見えるし、それに彼女は随分とラフな格好をしていて、およそ自分の物ではなさそうな大きいサイズのトレーナーをワンピースの様にして着ている。

その上どうやら素顔みたいだし、髪だってよく巻いたりしてるのに今日はストレートのまま。たまたま寄っただけには到底見えないんだけど……と内心思いつつ追及はせずに「そうなんだ」と頷いた。

それから要件を聞かれたので、ちょっと迷ったけど正直に答えてライターを彼女に渡した。こんなこと、嘘吐いても仕方ないし。

とりあえず、それからもなるべく気にしない振りをして何気ない話をしていると、ふとちゃんの左手の薬指にはまっている指輪に気が付いて、俺はそこから目が離せなくなった。

べつに指輪をしてることに驚いたわけじゃない。可愛い彼女に彼氏くらい、いたっておかしくないし。だけど、なんだかこのデザインには見覚えがあった。

……亜久津がはめてた指輪と似てる気がする……。


「あれ、ちゃん彼氏いるの?」

ちょっと緊張しながらも、笑顔で尋ねてみるとちゃんは少し俯きがちになって頷いた。それからどんな人か質問してみても、なんだか誤魔化す様な、曖昧な返事ばかりして、そのうち話題を変えてしまった。

それに、彼女は先程からずっと亜久津のことを「仁」と呼んでいて、確か以前は「仁くん」と呼んでいたはずだけど……。自分でも、指摘されるまでそう呼んでいることに気が付いていないみたいだった。

兄である亜久津のことを呼び捨てにする妹のちゃんの姿は、まるで彼氏のことを話している彼女の様にも見える……。


亜久津の留守中に家にいることといい、ちょっと寄っただけには到底見えないことといい。それに、さっきからこっそり部屋の中の様子を窺っていたけど、亜久津らしい物の少ないシンプルなこの部屋に不似合いな可愛い雑貨とか、化粧道具とかが、隠し切れずに置かれたままだった。

しょっちゅう泊まりに来てるか、もしくは一緒に暮らしてるか……。女の子の友達とルームシェアしてるはずのちゃんが、何故か亜久津の家にいる。理由はわからないけど、だとしたら、この前亜久津が電話してた相手っていうのもやっぱりそうなんだろうか。

でも、ちゃんって亜久津のことあんなに嫌ってたのになあ。なんでだろう。

今一つ納得できないまま。でも、そんな振り見せない様に、なるべく明るく振る舞う。そんな中、彼女との会話に笑いながらふとベッドの上に目をやると、枕元に無造作に置かれた避妊具が目に入った。

(…………)

気付かれないうちにそこからはすぐに視線を逸らしたけど、それについて、もう今度は「いや、まさか」などとは思えず、俺の心の中で静かに疑問は確信へと変わっていった……。


「じゃあ俺はそろそろ帰るよ、ありがとうねちゃん」

もしかしたら、とっても仲の良い兄妹になっただけで、べつに俺が想像している様なことは何もないかもしれない。と、まだ思い込みたがっている自分がどこかにいたけれど、やっぱりそんなことはなかったのだろう。

ちゃんには亜久津と会った時何を話したのか聞かれて、酔っててよく覚えてないと嘘吐いたけど本当はちゃんと全部覚えている。

あいつが頑なに彼女の話をしたがらなかったのもそれなら納得だし、それに、そもそも亜久津があんなに優しい口調で話す相手なんて、妹のちゃんしかいないって本当はわかってた。

だって亜久津が他にあんな話し方するの、一度だって聞いたことがない。あいつは、相手が男だろうと女の子だろうと態度は同じで、例え誰であろうと、全部一緒だった。壇くんには多少柔らかい気がしたけど、それでも妹に対するのとは比べ物にならない。

違うのは……いつもちゃんだけだ。


急に胸の鼓動が速まってきた俺は、亜久津が戻って来る前に早々にここを出ることにした。ちゃんは「もっとゆっくりしていって」とちょっと寂しそうな顔するけど、だけどもしあいつが戻って来るまでいたりなんかしたら。

一応妹とはいえ、あいつにとっては彼女であろうちゃんと、しかもその留守中の家に上がり込んで二人きりなんて。今ここで会ったらまずい……いくらなんでもまず過ぎる。

「じゃあ、仁に清純くんが来てくれたこと伝えておくね」
「いや待って。それは内緒にして、お願い!」

何も知らないのならまだしも、俺は知ってしまった。それも本人達には一切聞かされていないというのに勝手に。自分の妙な勘の良さを恨みつつ、絶対に亜久津には言わないで欲しいと念を押すと、逃げる様にあいつのアパートを後にした。







(……ハア)

とぼとぼと帰り道を一人で歩きながら、俺はまだ未練がましく自分の思い違いだったらいいのにな、などと考えていた。

でも亜久津の彼女が他にいたとしたら、ベッドの上にあんな物があって、それであの子が平然としていられるはずがないし。やっぱり、違うわけないんだよなあ……。

……なんで?いつの間に?

べつに拒絶感とかはない。二人の関係を確信した後も、それを否定するつもりなんて微塵もないけど、単純に不思議だった。

まあ確かに亜久津とちゃんって全然似てないから、兄妹だって知らなければ一緒にいるところを見掛けても恋人同士にしか見えないんだけどさ。

ちゃんって、男にあんまり興味なさそうで、態度は素っ気ないし、誰かに好意を寄せられてもちっとも嬉しそうじゃなかったから。

あんな亜久津みたいな奴が小さい時からずっとそばにいて、そんな彼女が好きになるのは一体どんな男なんだろうって、実はちょっと興味あったんだよな。まさかその兄と、とは思わなかったけど……。

そういえば、中高の頃、校内で亜久津に話し掛けられるといつもちゃんは不機嫌そうな顔して顔背けてたけど、あれも今思えば兄である亜久津に甘えていたのかもしれないな。

「嫌い」は「好き」の裏返しだったってこと?

(……難しいな)


次の日ちゃんから電話があって、若干どきっとしながらも出てみると、昨日のお礼と以前に連絡もらってたのに気付かなくてごめんねという謝りの連絡だった。

「いや全然大丈夫だよ、気にしないで」
「ごめんね」
「いいっていいって。えっと……それより亜久津は大丈夫だった?」
「うん、仁には清純くんのこと言ってないよ」
「そっかー、ありがとね」

それから、また、たまには会おうね。という適当な口約束をして電話を切った。もう彼女を気軽には誘えないから、多分しばらく会えないと思うけど、そんなこと言えないからとりあえず明るく笑っておいた。

…………。

気になることは色々あるけど、俺が聞いていい様なことじゃないしな。あんまり首突っ込んでも悪いし、そっとしておこう。あの二人が幸せなら、べつにそれでいいんじゃない。

そう思って、このことは誰にも言わないと心に決めた。











二度あることは三度ある。いや、もう既に四度目……?ちょっと用事があったので休日に電車に乗って一人で外出した先の街中で、俺は偶然、二人を見掛けてしまった。

なんで、こんな普段滅多に来ない様なところで会ったりするんだろう。逆に近所に住んでる人なんかは、不思議なくらい顔見掛けなかったりするのにさ。

これってラッキーなのか……?

もしかしたら、幸運と不運というのは、表裏一体なのかもしれないな。幸運だけでも不運だけでもきっと成り立たないんだ。きっとそうなんだな。と、俺は半ば悟り始めていた。


指を絡ませて手を繋ぎながら少し先を歩く二人に気付いた瞬間、とっさに隠れてしまったけれど、つい気になってちょっと距離をとりつつ後を追い掛けてしまっていた。

ちゃんは、時折亜久津の方を見上げながら何か話し掛けている。それに対してあいつは首だけを向けて、黙ったまま聞いている様子だった。

(……本当に恋人同士に見えるなあ)

なんか、二人が一緒にいると大人っぽい雰囲気で妙にセクシュアルに感じ、こっちの方がどきどきしてくる。すごくお似合いなカップルで、兄妹だなんてとても思えない。

そういえば……亜久津とちゃんって中高の頃から、兄妹のはずなのに二人でいるといつもどこか他人同士の男女みたいな、妙な緊張感があったよなあ。

あの、なんとも言えない張り詰めた空気は……。もしかしたら自分達でも無意識のうちに異性として意識してたりして……?いや、まあそんなこと俺にはわかんないけどさ。


そんなことを考えながら赤信号になったので立ち止まると、ちゃんは亜久津にぴったりと体をくっつけて、上目遣いをしながら繋いでいない方の手であいつの胸の辺りを撫でる。

すると亜久津が屈み込み、顔を近付けるとちゃんはちょっと背伸びして、キスした。


(…………え、……)

……その光景を見て、俺は思わずフリーズしてしまった。

眺めながら茫然と立ち尽くしていると、数秒してから唇を離した後に、亜久津に何か言われてちゃんはそれに笑っている。

彼女があんな風にいたずらっぽく笑うところなんて、初めて見た。

それからもしばらく固まったままでいると、いつの間にか信号は青に変わっていて、二人はそのまま道を渡って行ってしまうけれど俺はそこから動けなかった。

頭の中では理解しているつもりでも、実際に目の当たりにするとなかなかの衝撃だ。もう、どう考えても兄妹の関係じゃないよなあ、と思いながら、俺はいい加減追いかけるのはやめて二人とは反対の方向へ進んだ。

今までにあんなちゃん見たことなかったな。いつもちょっと冷めてるっていうか、あんまり誰かに笑い掛けたりとかしなかったし。でも、亜久津と手繋いでなんだか嬉しそうだった。やっぱりあいつのこと好きなんだ。

(へえ……)

まあ亜久津の方は元々ちゃんのこと相当好きそうだったしな。でも、それはあくまで妹として気に掛けてた様に思えたけど……女としても好きだったってこと?でもそうじゃなきゃできないよな。うーん……、わからん。

まあ、いいや。何も見なかったことにしよ。

もういい加減帰ろうと駅に向かって歩きつつも、道中ついついイケナイ想像をしてしまう。いやいや、そんなのよくないよ勝手に……と自分に言ってみてもなんだか逆効果みたいでちっとも止められやしない。

普段はクールなちゃんが、亜久津に抱き付いて甘えているところを興味本位で見てみたい、なんて思ってしまった俺は変態なのか。やっぱり、どう考えても変態だよな。

……まずい、もうやめよ。忘れよ。

ちらりと振り返ってみたけど、もう二人の姿なんて見えるはずない。たくさんの人に埋め尽くされる騒がしい夕暮れの街を眺めながら、あの二人の幸せを願いつつも、俺は少しだけ心配にも思っていた。







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