フレンズ...16




ヒカルに名前を呼ばれて、はっとする。ぼんやりしているうちに私の手を引いて家へと連れてきてくれたようで、心配そうに私の顔を見ている。

「……ありがと……」

そう言いながら、ずっと柔らかい力で握られていた手をそっと解くと、ヒカルは小さく「うん」と言った。そうして玄関に入って、ドアを閉める前に私は足を止めてもう一度そちらを振り返る。

「…………ヒカル」
「何?」
「……もう私に関わらないでって、言ったけど……」
「うん、ごめん。これからはしないよ」
「あれ……もう、いいの」

関わるなと言ったり、それはもういいと言ったり。相変わらず自分勝手な私にもヒカルは怒ったりせずに、ちょっとだけ目を見開いてから「そう」とだけ答えた。

それからドアを閉める瞬間、「じゃあね」と言ったら、ヒカルは何も言わずに小さく頷いた。

階段を上がり自分の部屋に入ると、暗い部屋の中に窓から月の光が差している。
あの優しい光は、誰にでも与えられているようで、だけど誰にも手に入れることはできない。近づくことも、触れることもできない。どんなに綺麗でも。

窓を開けて夜空を眺めようとしたところで、ふと誰か人影が見えて下を向くとそこにいたのは、こちらを見上げているヒカルだった。

「……ヒカル」

さっきからずっとそこで待っていたのだろうか?
何か言い忘れたことであるのかと思ったけれど、ヒカルは特に何も言わず軽く手を振ったあと、しばらくこちらを眺めていた。

、また明日」

そうしてそれだけ言うと、ゆっくり背を向けて帰って行った。


(……………)

(…………あ、)


私の頭の中には、小さい頃の自分と、ヒカルの姿が思い出された。これは、まだ保育園児だった頃、私がいつもヒカルにしていたことだったから。

ヒカルを家へ送ったあと、私はいつもすぐに帰らずにしばらく下から二階のヒカルの部屋の窓を眺めていた。そうすると、ヒカルが窓からひょっこり顔を出すのでそれに大きく手を振った。

『ヒカルくん、またあした』
『うん、ちゃん、またあした!』

初めはにこりとも笑わなかったはずのヒカルが、私と一緒にいることで、あんなにもにこにこと楽しそうにするのが本当に嬉しかった。

(…………)

いらないと捨てたはずの思い出なのに、どうしてこんなにも大切で、愛おしく感じるのだろう。 戻れるものなら、どうか戻りたいと、思ってしまうのはなぜなのだろう。

視界がにじんで、生温いものがぽたりと頬をすべり落ちてゆく。

私はもうあの頃の私ではないのに。ヒカルは今も変わらずに、ずっとあの頃のように私を慕ってくれる。私がどれだけ弱くなっても、ずるくなっても、あの頃のまま。

「……ごめんね、ヒカル。……ごめん……」

守ってあげなくちゃいけないのは、私の方なのに。





「……。おはよう」

朝、玄関のドアを開けて外に出ると、そこにはヒカルがいた。
小さい頃、私がいつもヒカルにそうしていたように。

「……おはよ……」

心の中ではどんなに申し訳なく思っていても、やっぱり私は馬鹿だから、その通りの態度なんてとれなくて、まっすぐにその目を見られずにどこか不機嫌そうな風になってしまうばかり。

だけど私のそんな態度にもヒカルは少しも腹を立てたりなんかしなくて、学校に着くまでの間、ただ黙って私の少し後ろを歩いていた。

今日は朝練のない日なのだろうか?
小さな疑問が胸に湧くけれど、結局それを聞くことはできないまま。

校門を入ってしばらくして、私が急に足を止めるとヒカルも同じように立ち止まった。

少し前を歩く、虎次郎ちゃんとその彼女の後ろ姿。楽しそうに虎次郎ちゃんのことを見る彼女の横顔を眺めるだけで、胸が張り裂けそうな思いがした。

だけどそんなところをヒカルに見られるのは嫌で、すぐに何でもないようにまた歩き出す。ヒカルは、結局最後まで何も言わないままだった。




「あれ、届かない……」

日直だった私は、昼休み、次の世界史の授業で使う地図を取ってきて欲しいと先生に頼まれて資料室にいたけれど思いのほか地図が高い所にあって手が届かず、困っていた。

「お、じゃねえか。どうした、こんなとこで」
「あ、……ハル」

そこへ偶然通りかかったハルが、状況を説明する前に察して「これか?」と容易くひょいとそれを取って渡してくれた。

「……ありがとう」
「おう。こんぐらいのこと、いくらでもやってやるからいつでも言えよ」
「うん……」

シン、と静かな部屋の中に思いがけずハルと二人きり。こうして二人だけになるのは、あの日海で話をしたとき以来で、私はやけにドキドキした。

ハルはあれから何もなかったかのように接してくれていたけれど、何でもなかったわけじゃない。いつかちゃんと、ハルの真っ直ぐな気持ちに答えなくてはいけないと……思っていた。

「……」

「……え、あ、……何?」
「悪かった。お前を悩ませるつもりはなかったんだ」
「……え?」

突然、ハルは頭を下げてそう言った。私は驚いて、どうしたのと言うと顔を上げたハルは、あの日のようにどこか悲しそうな目をしていた。

「俺は馬鹿だから、昔からいつもお前の気持ちも考えずに自分の意見ばっか押し付けてたな」
「……そんなこと……」
がサエやダビデのことで悩んでるの知っていながら、俺は自分のことしか考えねえで、ただお前を困らせた。マジで最低な奴だ」
「……ハル、いいんだよ、そんなの」
「いやよくねえ。俺は、お前のこと兄貴として守ってやらなきゃいけねえってのに」

ハルはどうしても自分のことが許せないようだった。責任感の強いハルは、昔から、そうやって自分のことを責め過ぎてしまうクセがあって、私はハルのそんなところが心配だった。

「ハル、ありがとう。私、ハルの気持ち……すごく嬉しかった」
「……」
「小さい時から、ずっとハルがそばにいてくれたから、私今日まで生きてこられたんだ」
「……
「あの、だから……」
「ありがとよ。それだけ言ってもらえりゃ、俺はもう思い残すことなんてねえよ」

ポンポン、と私の頭を撫でるハルの手はとても大きくて、温かくて。

優しいハル。ハルは、自分の意見を押し付ける奴なんかじゃない。いつだって、みんなのことを一番に考えてくれてる。それは、そう。今だって。

「ハル……ありがとう」
「おう」

ハルがいつものように笑ってくれると心底ほっとして、大事なものがどこかへ行かずに済んだような気持ちがした。

「お前のためなら、俺は何でもやってやるからな」
「うん、ありがとう」
「いつでも何でも言えよ。あ、勉強のこと以外ならな」
「うん、わかった」

冗談ぽく笑って言うハルに対して、少し自分の頬を緩んでいくのがわかる。昔から、ハルと一緒にいると本当のお兄ちゃんといるみたいですごく安心した。

「……その、今は色々あるけどよ……。それでも、いつかまた俺達のところへ戻って来てくれるか……?」

ハルはみんな仲良くいて欲しいのだと思う。幼馴染はみんな思いやりのある子ばかりだから、今までケンカもろくにしたことがなくて。優しいハルには耐えれないのだろう。

少し不安そうに聞かれて、罪悪感で胸が押し潰されそうになるけど、それを顔に出さないように私は今できる限りの笑顔を作った。

「うん、きっと戻るよ。だから心配しないで」
「……そうか」

ほっとしたような表情を見せるハルに対して、心の中で「ごめんね」と謝る。
みんなが……ハルが、ずっと大事にしてきたものを壊したのは私だから。

(……ごめんね、ハル)

ハルにもみんなにも、いつも笑っていて欲しい。悲しい顔なんてして欲しくない。
これからもずっと、仲良く楽しくいて欲しい。

……だから。


(私は……、もう戻れないよ)





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