ちゃん、……ちゃんもう帰ろう?」
「んー……」

俺の肩にもたれ掛かり、酔って眠ってしまった彼女の肩を抱きながら軽く揺すると、目を瞑ったまま眉を寄せる。

あれからすっかり機嫌の悪くなったちゃんは、俺が何か言っても「清純くん、うるさい」と怒って話を聞かず、最終的には俺の分のグラスまで奪い取ってそれを飲み干していた。

こんな子じゃなかったのに、どうしちゃったのかなあ……と思いつつも、でもこれが今の彼女には違いないのだから何と比べたところでそれに意味などない。

「送っていくよ。家どこ?」

二人分の会計を済ませた後、とりあえずコートを着せて、支える様に肩を抱きながら外に出ると真夜中の空気は突き刺さる様に冷たかった。早く帰してあげなければ、と思うけれど、問いかけに返事はない。

ちゃん、家の住所」
「……わかんない……」
「わかんないことないでしょ」

それだけ言ってまた目を瞑ろうとするちゃんに「寝ちゃだめだよ、起きて」と話し掛けるけどそんなの聞くわけない。仕方なく、「ごめんね、ちょっと見させてもらうよ?」と言って彼女のバッグを開けて住所のわかるものを探した。すると、急にぱちりを目を開けて俺の腕をきゅっと掴む。

「やだ、まだ帰りたくない……」
「だめだよ、もう夜中なんだから。女の子がこんな時間まで出歩いちゃ危ないよ」
「平気だもん」
「平気じゃない。いいから、俺の言うこと聞きな」
「やだ!清純くんなんか、もうきらい」
「はいはい、わかったよ」

住所の書かれているものを見つけると俺はタクシーを拾い、やだやだと嫌がる彼女を押し込むのと一緒に自分も乗り込むと、行き先を告げた。車窓から眺める真夜中の街はちっとも眠る気配など感じられず、まだまだ人も多く、明るくて騒がしい。

横を見れば、しばらく文句を言っていたちゃんはいつの間にか、俺に寄り掛かりながらまた眠ってしまっていた。今の彼女の姿を見たら、亜久津はどう思うだろう……なんて、寝顔を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていた。

目的地のアパートに着くと、運賃を払った後、眠ったままの彼女を抱きかかえて降りる。そのまま部屋の前まで行き、一旦下ろすと鞄の中から鍵を探し、それでドアを開けるとまた抱えて中へ入った。

手探りで照明のスイッチを入れると、真っ暗な部屋の中が急にぱっと明るくなる。とりあえずコートを脱がせてベッドに寝かせると、随分と寒く感じたのでエアコンのリモコンを探し、暖房をつけた。

そう広くないこの部屋の中には、ベッドと小さめのテーブルが置かれているだけで、後は備え付けのクローゼットがあるくらい。物は少なく、あまり生活感が感じられないから、優紀ちゃんの言っていた通り留守が多くほとんど家にはいないのかもしれない。

連れて来たのはいいものの、いつ帰ったらいいのかなあ。などとベッドに寄り掛かりながら考えていると、ふとちゃんが目を覚ました。

「……ん、……」
ちゃん、大丈夫?」
「……」
「水でも飲む?」

寝ぼけているのか酔っているのか。問い掛けてみても黙ったまま、とろんとした目で俺のことを見つめて、ゆっくりと何度か瞬きするのを眺める。

少しの間そのままでいたけど、そういえばこの家、冷蔵庫に水とかあるのかなと思って立ち上がろうとしたところ、ちゃんが腕を伸ばして俺の服をぎゅっと掴んだのでちょっと驚いてそちらを見る。

「だめ、帰っちゃやだ……」
「帰らないよ。ちょっとキッチンにね、」
「いや、行かないで……そばにいて」
「わかったよ」

どうしたんだろう、と思いつつもそう言って引き留められるので仕方なく諦めてまた腰を下ろし、そのままそばにいることにした。だけど彼女はずっと俺の服を掴んだまま、離さない。「どこにも行かないよ」と言っても、離してはくれなかった。


しばらくそのまま何もせずに近くに座っていると、俺も段々眠たくなってきた。今日はもう帰れないだろうな、明日は仕事休みでよかった……などと遠い意識の中で考えていると、急に「清純くん」と俺の名前を呼ぶ声ではっとする。

「どうしたの、ちゃん」
「……あつい……」
「え?」
「あついの、……」

確かに、見れば彼女の額には僅かに汗が滲んでいる。じゃあ、暖房止めようか?と聞くと、それには首を横に振る。だと言うならどうすればいいのだろう、と思っていると、彼女は掛けていた布団を自分で全部めくってしまい、すると、隠されていた白い太股までもが露わになる。

「……脱がせて……」
「えっ」

熱く、とろけそうな視線で俺を見つめながらちゃんは囁く様に言った。まさか、それは俺に服を脱がせろということなのだろうか。

「ちょっとそれはできないよ」
「だってえ、あついの……」
「でもさあ」
「……あつくて、くるしい……」
「ええ」

少し呼吸を荒くしてるから、本当に苦しいのかなと心配になって、「大丈夫?」と言いながら仕方なくブラウスのボタンを上から2、3個下着が見えない程度に外した。それから、近くにあったタオルで顔や鎖骨辺りの汗を拭ってやる。

「気分が悪いの?」
「うん……背中さすって……」

そう言うので俺もベッドの上に乗ると、仰向けに寝ていた彼女の身体を自分の方に向けて、抱き込む様な形でそっと背中をさすった。

「どう、こんな感じ……?」

しばらくそのままさすっていると、伏し目がちだったちゃんがふと俺の顔を見上げ、視線が合う。それからその手が動き、俺の胸辺りをそっと撫でた。

ちゃん、どうしたの」
「……ぎゅってして」
「え、?」
「ねえ、ぎゅってして……」

甘えた声でねだられ、断ることもできずに仕方なくそのままそっと抱き締めた。俺の胸に体を預ける彼女は、確かに体が熱いな、と感じながらも一体自分は何をやっているんだ、とふと正気に返る。

彼女でもない女の子の家に上がり込んで、ベッドの上で抱き合うなんて……。いくらなんでもちょっと、と思って「もういい?」と聞いてみても彼女は嫌がって離れようとしない。心の中で溜息を吐きながらも仕方なくしばらくそのままの体勢でいると、じきにまた「くるしいの」と言い出した。

「大丈夫?どこが苦しいの?」
「……胸がくるしい……」
「胸?」
「うん……」

上目遣いで俺の見つめる彼女の瞳は、うるうるとしている。そして、その胸元に目線をやればさっきボタンを開けたせいで、角度的にその下着が視界にちらりと映り込んでしまう。可愛らしい顔をして、随分と大人っぽいセクシーなデザイン……いや違う、そうじゃない。

何を考えてるんだ、俺は……と雑念を拭い去ろうとしていたところ、彼女はまた甘えた声を出す。

「胸さすって……」
「だめだよそれは、さすがに」
「やだあ、なんで」
「なんでもなにも……」
「……おねがい……」

困ったな、と思いつつ女の子に潤んだ瞳で頼まれるとやっぱり無下にすることなんてできない俺は、言われるがまま、遠慮がちに手をブラウスの中に入れて鎖骨の少し下辺りをそっと撫でる。

頼まれたとはいえ、まさかこんな風にちゃんの胸を触る日が来るなんて夢にも思ってなかったな……。その肌は柔らく滑らかで、そして温かい。そのうえ、彼女がなんだか艶めかしい溜息を漏らすものだから、妙な気分になってくる。

いい加減まずいと思って手の動きを止め、服の隙間から抜くと、それに彼女が「もっと」とねだる。

「これ以上はだめだよ」
「……やだ、もっと」
「あのね、ちゃん」

酔っているとはいえあまりに無防備が過ぎる彼女に諭す様に言い掛けると、急に俺に向かって腕を伸ばし、首に回すとぐっと自分の方に引き寄せる。え、と思っているうちに至近距離まで顔が近付き、よくわからないままキスをされていた。

数秒後に唇が離れた後、俺は半ば呆然としながら彼女の顔を見ると、その目は相変わらずとろんとしている。「ちょっと、ちゃん酔い過ぎだよ……」と言い掛けたところでもう一度キスされたので、思わずその肩を軽く掴んで顔を離した。

ちゃん、」
「……抱いて」
「え、?」
「私のこと抱いて……」

吐息を含んだ声で甘く囁く彼女の言葉に対して、一瞬、何を言っているのかよくわからなかった。けれど、その潤んだ瞳を見つめているうちに、次第に、理解してきた。

「そんなことできないよ」
「なんで……?がきらい……?」
「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃなくてさ」
「清純くんはのことなんかきらいなんだ……」
「いや好きだよ、好きなんだけど。好きの方向性が違うっていうか……。とにかくちゃんとは絶対できないんだって」

以前とはまるで様子の異なるちゃんの様子に戸惑いながらも、きっとこれは酔っているからなのだろうと自分に言い聞かせて、必死に断った。俺は何があってもこの子に手を出すわけにはいかない。

「彼女がいるの……」
「いてもいなくても無理なの」
「……」
ちゃん、どうしちゃったの。だめだよ、もっと自分のこと大切にしなきゃ。ね?」

言い聞かせる様な口調で話すと、じっと俺のことを見つめた後に、その瞳にはうるうると涙が滲む。だから慌てて「ごめんごめん、泣かないで……」と謝って、頭を撫でた。

しばらくそうしていると、じきに彼女はぽろぽろと涙を零して泣き出したのでそっと抱き起こして、またぎゅっと抱き締めるとその背中を優しくさすってやる。


「……さみしい……」
「ん、?」
「さみしいの……」

俺の胸の中でしくしくと泣きながら、ふいに、そう彼女が言った。頬を濡らす涙を手で拭ってやると、本当に寂しそうな目をして俺の目を見るその姿はあまりに扇情的で、この心がぐらりと揺らぐ。

「ね、して……」
「だめなんだよ、ちゃん」
「……おねがい」

そして、いつもこんな風に他の男を誘っているのだろうか、と心配にもなった。だって、彼女にねだられたらなんでも言うことを聞いてしまいそうになる。ちゃんのことを亜久津の妹としか思わず、性的な目で見たことない俺ですら、そうなら、他の男なんて。

「ごめんね。それにさ、ほら、俺ゴム持ってないし」
「しなくてもいいよ……」
「こら……、そんなこと他の男には言っちゃだめだよ?」
「……」

嗜める様に言ってその頭を撫でると、瞳からまたぽろりと涙が一粒、零れ落ちる。酒に浸ったり、自分から抱いて欲しいとねだったり。あまつさえ避妊しなくていいとまで言うなんて、あまりに自暴自棄過ぎる。

ちゃん、いつもこんなことしてるの?だめだよ、危ないからもうやめな。世の中には悪い男がいっぱいいるんだからね……ひどいことされちゃうよ?」
「……」
「ね、良い子だから俺の言うこと聞けるよね」
「……」

彼女は精神的に随分と不安定に思える。これまで、一体どうしていたのだろう。一人で大丈夫だったのだろうか。記憶の中の落ち着いた大人っぽい彼女の姿はもうここにはなく、今はあの頃よりもずっと幼く、まるで子どもの様に感じた。

どちらが本来の彼女なのだろう……。でもそんなこと、俺にはわからない。

ちゃんはしばらく黙っていたかと思えば、ぎゅ、と俺の服の生地を掴み、嗚咽を漏らしながら苦しそうな声を出す。

「……私……もう死んじゃいたい……」
「……え、?」

突然の彼女の言ったことに、俺は思わず固まった。何を言っているのだろう、そう思いながらも頭の中では彼女の発した「死んじゃいたい」という言葉が何度も繰り返される。

「なに言ってるの……、そんなこと言っちゃだめだよ」
「やだ……もう生きてたくない……」
「どうしたの、ちゃん」
「もうやなの……」

子どもの様に腕の中で泣きじゃくる彼女をなんとか落ち着けようと、一層ぎゅっと抱き締めて頭を撫でる。一体どうしちゃったんだよ、と困惑しつつそれでも確かに、この子からは危うげな空気を感じ取っていた。

冷めた様な振りをして、いつもどこか寂しそうな目をしてた彼女。素っ気ない態度を見せながらも、いつだって兄に甘えたくて仕方なかったのだろう。母子家庭で育ったちゃんにとって亜久津は、兄だけでなく父親の様な存在でもあったに違いない。

きっと、単に男として亜久津のことを好きなだけじゃなかったんだろうな……。

なんだか以前よりも痩せてしまった彼女の儚げな体を抱き締めながら、俺は、中学3年の、あの日。ただ、亜久津の妹がどんなものかと面白がって、興味本位でこの子に声を掛けたことを反省し、そして後悔していた。

ちゃんは……、軽い気持ちで関わってなどいけない子だったんだ)

兄を好きで愛していること、ずっと誰にも言えずに一人で抱え込み、絶望し……。だから、みんなの前から姿を消した。

俺が思っているよりかもその心に広がる寂しさの闇は、もっとずっと深いに違いない。彼女があまり他人に関わろうとしなかったのは、きっとそれによって自分自身が傷付くのが嫌だったからじゃないだろうか。

(……ごめん)

俺は、生半可な気持ちできみ達兄妹二人に関わって、中途半端にその秘密を知って。それをまるで他人事の様に、ベつにいいんじゃないのかなどと軽く考えていた。けれど。当の本人達にとってみれば、想像もできないくらいにつらく、悩み、苦しんでいたに違いない。

亜久津もきっと、ちゃんのことを嫌いになって離れていったのではないのだろう。だって、こんなに可愛い妹を簡単に捨てられるはずがない。もしかしたら、好き過ぎるあまりに、手放したのかもしれない。

よく事情を知りもしなければ、なんの根拠もないけれど。それでも、あいつは、本当に妹のことを愛していた。例え今は他に愛する人がいたとしたって、きっとどこかで、ちゃんを大切に想っているんじゃないのだろうか……。

お互いに愛し合っているのに、どうして一緒には生きられないのだろう。何故、兄妹ならばいけないのだろう。……そんなこと、俺に言う権利もないけれど。


「……ちゃん。お兄ちゃんに、連絡してみたら……?」

彼女は俺の腕の中で泣きながら、無言で首を横に振る。長い間一人で苦しんでいたのに、そんなこと簡単できるわけないとはわかってはいても、彼女を救うためにはもうそれしかない。

「だけど、今でもお兄ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「……」
「ね、連絡してみなよ。番号消しちゃったなら、教えてあげるからさ」
「……できない……」

ちゃんは俺の服をぎゅっと掴みながら、苦しそうな声を出した。その頭を撫でながら、「どうして?」と優しく聞くと、彼女は嗚咽交じりに小さく答える。

「……仁には……もう、奥さんがいるんだもん……。仁のしあわせ、邪魔できない……」

またその瞳からはぼろぼろと、涙が零れ落ちてゆく。好きなのに、愛しているのに、それを口に出すことは許されない。誰にも理解されない。そんな想い、俺はしたことがない。唯一の兄を失った彼女の悲しみは、俺には……わからない。

もう掛ける言葉もなく、ただ抱き締めることしかできなかった。彼女の首元から漂う香りが、微かに鼻をくすぐる。それはさっき店にいた時からずっと、どこかで嗅いだことある様な気がしつつも、わからなかった。なんだか男物みたいな気がするけれど、何故だろう……と。しばらく考えてみたけれど、やはり思い出せなかった。


「……仁も、パパみたいに……のこと置いていなくなっちゃったの……」
「……、ん?」
「パパは、が嫌いだから……だから、一度も会いに来てくれないんだ……」
「パパ……?」
「パパも仁も……のことなんか、嫌いなの……」

尋ねてみてもそれには何も答えず、俺の胸に顔を押し付けながら、また子どもの様に泣きじゃくる。パパというのは彼女の実の父親のことだろう。その父親と、兄の亜久津のことを重ねているのだろうか……?二人とも自分のそばからいなくなったことを、嫌われているからなのだと思い込んでいるらしい。

「そんなことないよ」

わからない、俺は彼女の家庭の事情なんて何一つ知らない。それでも、今はそう言ってなだめて、頭を撫でてやるしかない。

「そばにいるだけが、愛情じゃないんだよちゃん」
「……」
「二人とも、ちゃんのこと嫌いなわけない。きっと今も大切に想ってるはずだよ」

泣いているその顔を覗き込み、絶えず滴の零れ落ちるその瞳を見つめてみても深い悲しみの色が消え去ることはない。そんなこと言って慰めてみたところで、なんて残酷な言葉なのだろうと、自分自身でさえ思っていた。

たとえ、愛してくれてはいなくても。彼女はそばにいて欲しかったに違いない。
父親にも、……亜久津にも。

嗚咽を漏らし、まるで子ども様に泣くその幼げな姿に、胸が酷く痛い。ごめん、許してくれと謝りたくなる。俺に、何かしてあげられることはないのだろうか。言葉には出せないまま、力いっぱいその体を、ぎゅっと抱き締めていた。










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