泣き疲れたのか、ちゃんはいつの間にか俺の腕の中で眠ってしまい、起こしたらかわいそうだからずっとそのままの体勢でいた。 あどけないその寝顔にそっと頭を撫でてやると、眠ったまま「……仁……」と彼女が小さく呟き、切なげな声にまたこの胸は締め付けられる様な苦しさを感じていた。 「……ごめん……、ごめんなさい……」 朝になって目を開けた彼女は酔いも覚めていて、初めぼんやりとしていたけれど次第に意識がはっきりとしてきたらしい。俺の体から離れると、自分のしたことを思い出したようで先程から謝っていた。 「いいよ、いいよ。それより、具合はどう?大丈夫?」 「うん……」 頷きながら自分の胸元のボタンが外れていることに気が付き、はめ直している彼女の目は、泣き晴らしたせいか赤くなっている。 「付き合わせてごめんね……」 「俺は全然平気だけど。ちゃんは、今日は仕事だったりするの」 「ううん……、今日はない」 「そっか」 ベッドの上で向かい合って座る彼女は、反省しているのか随分としゅんとしている。そろそろ帰ろうかとも思うけれど、泣きながら「死んじゃいたい」と言っていたあの言葉が気に掛かって、なんだか躊躇してしまう。 あれが酔った勢いなどではなく、彼女の本心だったとしたら……。 「ちゃん、お願いがあるんだけどさ」 「……なあに」 「俺に、新しい電話番号教えてくれないかなあ」 「……」 「ね、やっぱり可愛い女の子の連絡先はなんとしても抑えておかないと」 なるべく明るい雰囲気でそう頼んでみると、彼女は少し考えている様子を見せるけれど、次第に俯いてしまった。余程何か事情があるのだろう。まあ、その何か、はもうわかってはいるのだけれど。 しばらく経っても返事がないので、俺は仕方なく脱いだ上着のポケットに入れていたどっかの飲み屋の名刺にそこら辺にあったペンを借りて自分の電話番号を書くと、それをちゃんに手渡した。 「じゃあ、なにかあったらいつでもここに連絡して」 「……」 「愚痴でもなんでもいいよ。気が向いたら、電話してくれると嬉しいな」 「……」 彼女は黙ったまま何も言わなかったけれど、受け取るのを拒否することもなく、きゅっと手の中に握っていた。 ベッドから下りてコートを着ると、帰ろうとして玄関へ向かう。靴を履いて振り向くと、そこまでついて来たちゃんは相変わらず落ち込んでいる様子で、伏し目がちだった。 その姿に、初めて会った中学1年生の頃のまだ幼いあの面影を思い出し、なんだかまた胸が痛くなる。……かわいそうだ。そう思っても、彼女は同情なんてされたくないだろう。 「じゃあねちゃん。電話、待ってるからね」 玄関のドアを閉める間際、笑ってそう言ってみても、遠慮がちに顔を上げたその憂いを帯びた瞳と視線が合うだけで、それに頷いてはくれなかった。 それから何日経っても、彼女から電話が掛かって来ることはなかった。今どうしているのだろう。一人で大丈夫なのかな、と仕事中だろうといつも気に掛かってしまう。 最悪、住所はわかるからアパートまで行ってみる手もあるけれど、ほとんど留守みたいだし。心配のし過ぎなのかなあと思いつつも、やっぱり苦しそうに泣いていたあの姿を思い出せばいつもみたいに楽観的ではいられなかった。 一応、以前に約束していたとおり優紀ちゃんには、ちゃんと会ったことを伝えていた。連絡先は聞き出せなかったけれど、とりあえず無事だったことを知れば、随分と安堵している様子だった。聞けば、お父さんも酷く心配しているらしい。 寂しそうに「のパパじゃない」と言った横顔に、優しい良いお父さんなのにどうして……と思うけれど、彼女の気持ちまでは俺にはわからない。とりあえず、また何かわかったら連絡します、と言って電話を切った。 元気そうだったと嘘を吐き、情緒不安定で自暴自棄になっていたことは、いたずらに彼女の両親の心を煩わせるだけなので黙っておいた。自分の部屋で、暗くなった携帯の画面を眺めながら、亜久津のことを思い出してなんだか少し苛立つ様な気持ちになる。 ……亜久津。お前、今どこにいるんだ……? あんなに可愛がってた大事な妹のこと放って、一体、どうしてるんだよ。 しばらく待ってみても、ちゃんから連絡はなかった。カレンダーを見れみれば、もう2月も中旬になっている。あれからもう一カ月経っているけど、どうしてるのかな。大丈夫かな、と不安は大きくなっていくばかり。 思わず、仕事帰りに彼女のアパートに寄ってみたこともあったけれど案の定留守で。郵便受けの中にメッセージを残してみたけれど、電話が掛かってくることはなかった。 まさか、思い詰めて妙なこと考えたりしてないだろうな……といつも気に掛かる。やっぱりあの時、帰らずにもっとそばにいてあげればよかった、なんて。そんなこと今になって思ったところで仕方ないのに、後悔ばかりを繰り返していた。 そんなある日、夜中に携帯に着信があって俺は目を覚ました。見てみればそれは知らない番号からで、こんな深夜に誰だろう……間違い電話かな、困るなあ。と、俺は半分寝ぼけながらもつい、反射的に通話ボタンを押してしまう。 「……はい、千石ですけど……」 「……」 「……もしもし……?」 「……」 電話に出てみても、その相手は何も答えない。誰なんだよ、自分から掛けて来たくせに……。しばらくの間無言が続いているうちに、次第に意識がはっきりとしてくると、俺は一人だけ心当たりがあることを思い出した。 「………、ちゃん……?」 「……」 「……」 「……うん……」 しばしの沈黙ののちにそれだけを答えた彼女の声はか細く、なんだか震えて聞こえる。とりあえずに無事だったことにほっとしたし、連絡をくれたのは嬉しいけれど、こんな夜中に浮かない様子で一体どうしたのだろう。 「どうしたの、ちゃん」 「……」 「なにかあったの?」 「…………夢、見たの」 「夢?」 「うん……、こわい夢……」 そう口にしながら、彼女はどうやら泣いているみたいだった。俺は思わず「大丈夫?」と聞いてしまったけれど、そんなの、大丈夫なはずがない。今まで一度も寄越さなかった電話を掛けて来るくらいだ、それもこんな夜中に。 怖い夢を見て泣くなんてまるで子どもみたいだと思うけれど、この前会った時の彼女は随分と幼げな印象だったし、きっともう今は、俺の知っている彼女とは違うのだろう。 うっかり、大丈夫かと尋ねれば、泣きながらもちゃんは「うん」と言った。だけど、そんな風に聞けばそう答えるしかない。 「一人で平気?俺、今からそっちに行こうか」 「……いい」 「でも、怖い思いしたんでしょ」 「……」 「すぐ行くからさ。そのまま待ってて、ね」 「……うん」 すぐに起き上がると、急いで支度をして自宅を出た。こんな真夜中に、俺は何をやってるんだろう……と目的地へ向かうタクシーの中で、ふと冷静になる。 彼女のため、それとも自分のためか。そんなの、考えたところでわからない。でも、以前に別れた恋人が最後に、どこか悲しそうな顔で俺に言った「清純は優し過ぎる」という言葉を、窓の外の暗い街並みを眺めながら……何故か今、ぼんやりと思い出していた。 アパートについて彼女の部屋の前まで行くと、夜中なので呼び鈴は押さずに電話を掛けた。するとそれには出ず、すぐ静かに玄関のドアが開くと、柔らかい明かりに照らされる中彼女の瞳はやはり潤んで見えた。 「……ごめんなさい」 並んで床の上に座るちゃんは、自分のしたことを反省しているのかずっと浮かない様子で、この前みたいに俺に謝ってばかりいる。 「いいんだよ、俺もちゃんのこと心配だったし」 「……でも……清純くん、お仕事があるのに……」 「そんなこと気にしないでよ。それより、怖い夢見たんだってね」 「……うん」 頷くなり、その目には涙が滲む。どんな夢だったのだろう、ちょっと気にはなるけれど思い出させるのもかわいそうだから、それは聞かなかった。代わりに、そっと頭を撫でてやる。 「ちゃん、あれからどうしてたの。一人で平気だった?」 「……」 「まだ飲みに行ったりしてるの」 「……してない」 俯いたままそう答える彼女に、俺は心底ほっとしてた。いつも、誰にでも、あんなことをしているのだろうかと気になっていた。まあ、たまに会うというあの男には随分と冷たい態度を取っていたから、見境なくというわけではないだろうと思いつつも、やっぱり心配だった。 兄の亜久津がいない今、俺はいつの間にか勝手に、ちゃんのことを自分の妹の様に感じてしまっているようだ。 「そっか。仕事は?まだ、続けてるの」 「うん……」 「今日は?」 「ある……」 「じゃあ、寝ないとね。俺、そばにいてあげるからさ。もう一回寝なよ」 「……やだ、寝たくない」 彼女は小さく首を振る。やっぱり、もう一度怖い夢を見るかもしれないからだろうか。そう思いつつも、とりあえずベッドに入る様促すと、初め若干抵抗しつつも最終的には大人しく俺の言う通りベッドに横になった。 「……手、繋いでもいい……?」 「いいよ」 照明を消して、小さなランプがほんのりと照らすだけの部屋の中でベッドに寄り掛かって座りながら、望み通りその手に指を絡ませる。 ゆっくりと瞬きしながら俺を見つめる彼女のことを眺めながら、自分はなんて酷なことをしているのだろう、と内心思っていた。以前に、寂しさから抱いて欲しいと泣く彼女の誘いを断っておきながら。 そんなにも言うのなら、一度くらい抱いてあげればよかったのだろうか……。あれから何度も考えては後悔していたけれど。でもやっぱり、亜久津があんなに可愛がっていたこの子に手を出すなんて、できない。 なら、なんでまたここへ来たんだ。せめてもの、罪滅ぼしのためか。結局は、自分の都合なのだろうか。 「……清純くん、……」 「……ん?なに、ちゃん」 「……」 「どうしたの」 「……仁は、もう私のことなんて……忘れちゃったかな」 静かに、悲しそうな表情でそう尋ねる彼女の瞳には、またじんわりと涙が滲む。そんなことないよ、と言ってあげたいけれどすぐには喉から声が出ない。だって、そんなのは一時の気休めに過ぎないとわかっている。 「私より……奥さんの方が、好きに決まってるよね……」 涙は瞳から溢れて、ぽろりとこぼれた。震える声で独り言の様に呟く彼女の言葉は、きっとずっとその心の中で誰にも言えないままに、繰り返し思い続けていたことなのかもしれない。 「……なのに私……仁のことが、ずっと忘れられないの……」 「……」 「今も仁が好きなの……。大好きで、くるしい……」 涙はぽろぽろと、次から次へと溢れては落ちて枕に染みを作ってゆく。俺は、その頭をそっと撫でてやるだけで、何も言葉が思い付かない。本当に苦しそうな彼女の様子に、この胸も締め付けられる思いがしていた。 「……仁、どこにいるの……」 「……」 「私……仁がいなきゃ、生きていけないよぉ……」 その声は、次第に嗚咽へと変わり、涙はとめどなく流れる。 何も言えない。なんて言ったらいいのかわからない。俺はただ、頭の中であいつの姿だけを思い浮かべて、そして問い掛けていた。……お前、今どこにいるんだ。何してるんだ。可愛い妹悲しませて泣かせて、それでも兄貴かよ。 あれから、ちゃんには毎日夜になったら電話することして、それを彼女もいいと言ってくれた。それはもう彼女のためではなく、自分自身が安心したいからかもしれないけれど、そんなことは今さらどうでもいい。 何度か実家に連絡してみる様促してみたけれど、それには返事をしなかったので無理強いするのはやめて、両親には、本人から連絡があるまでそっとして置いてあげて欲しいとお願いしておいた。 だから、とりあえず無事を確認するために俺だけでも毎日電話をしていた。こっちが話すことに「うん」と相槌を打つばかりだけれど、それでも彼女が泣いていないだけで随分とほっとする。 同時に、亜久津に対する苛立ちみたいなものは、日に日に大きくなっていった……。 ある日、俺は以前に優紀ちゃんに教えては貰ったけれど一度も連絡したことのなかった亜久津の電話番号へ掛けてみた。 それまでは、これは俺が口を出していい問題じゃないと思って控えていたけれど、電話口での彼女の浮かない声を聞けば、いい加減俺の方が耐え切れなくなってしまった。 何度か呼び出しのコールが鳴るけれど、出ない。まあこっちの番号なんて知らないだろうし、出なくて当然かもな……と思いつつも、もしかしたら。と、つい淡い期待を抱いてしまう。だけど、やっぱり出るわけはなかった。 それから、日を置いてはそんなことを繰り返していると、ある時、もう諦めようとして切ろうとした瞬間に突然電話が繋がって俺は自分から掛けた割に思わず驚いてしまう。 「……えっ?」 「……」 「……あ。えっと、亜久津……だよね……?」 「……」 だけどそれに何も返答はなく、まずい、切られる前にと思って俺は慌てて自分の名前を名乗った。 「俺だよ、千石。いやあ久しぶり、元気してた?」 「……なんなんだよ、テメエ」 「いや、そんな怒んないでよ。たまには亜久津と話がしたくってさあ〜」 「あ?気色悪りいんだよ。何度も掛けてきやがって、相変わらずふざけた野郎だな」 「まあまあ。それよりさ、お前って今どこにいんの?」 「テメエにゃ関係ねえだろうが」 そりゃそうだ。あの亜久津がそんなこと簡単に教えてくれるわけないよなあ、と思いつつも、だってそう聞いてみるしかない。下手に、回りくどい言い方して電話切られても困るし。仕方ない、とりあえずべつの話題から振ってみるか。 「そういやお前、結婚したんだってな。おめでとう」 「……誰に聞いたんだよ」 「誰でもいいじゃん。なになに、奥さんどんな人なの。美人?」 「うるせえな」 「だって亜久津の奥さんなんて、気になるじゃん。会ってみたいなあ〜」 「ふざけたこと抜かしてんなら切るぞ」 「わーっ、待った!」 ごめんごめん、と謝りながら俺は一体何をしているのかと頭の片隅で考える。亜久津に連絡して、どうするつもりだったのか。こいつはもう結婚してるんだぞ。今さら、ちゃんのところへ戻って来てやれ、なんて。そんなこと言えるわけない。言えるわけないのに……。 「いや、本当はさ、そんなこと言うために電話したんじゃないんだ。あのさ、お前……、ちゃんとはどうなったんだよ」 「……」 「あんなに大事にしてただろ。なんで急に、妹のこと放ってどっか行っちゃったんだよ」 「……なに言ってんだテメエ」 亜久津は俺が二人の関係に気付いてるって、知らないから、不思議に思って当然だ。だけど今はもうそんなこと説明してる時間なんてないし、余裕もない。 「そりゃ、お前が結婚しようとどこへ行こうと、それはお前の勝手だけどさ。ちゃん、寂しがって泣いてたぞ。お前も、実の父親みたいに自分のこと置いてどこかへ行っちゃったって」 「……」 「どうせお前のことだから、ロクな説明もしないで急にいなくなったりしたんじゃないのかよ」 俺に、亜久津のこと責める権利なんてあるのか……?家族でもなければ、そこまで親しい間柄というわけでもないのに。そう思っても、妹のあの涙を思えば、どうしても止められない。 「結婚してたって、連絡くらいできるだろ。なんでしないんだよ」 「うるせえな、関係ねえだろ」 亜久津の言う通りだ。俺には関係ない。そんなことは、十分わかっているけど。 「……お前、ちゃんが今どうしてるか知ってるか」 「知らねえよ」 「あの子……、一人にさせとくと危ないよ。そんなこと、兄貴のお前が一番よくわかってるんじゃないのか」 「……」 初めて会った時から、彼女はどこか不安定だった様に思える。周囲に対する態度は冷たく素っ気なく、平気そうな振りをしていても、心の中ではいつも誰かに甘えたくて仕方なかったのかもしれない。 亜久津は、それに気付いていたんじゃないのか。だから、あんなにまで妹のことを気に掛けてそばにいてあげていたんじゃないのか。父親のいない代わりに、誰より彼女を大事にして守っていたはずだろうに。 それが、ただの兄妹ではない関係になったから、崩れたのか?だから、妹を置いてどこかへいなくなってしまったのか……?何があったのかなんて知らないし、お前の気持ちなんて、俺にはわからない。わかるはずもない。 亜久津のことを責めながら、俺は、自分自身のことも責めていた。 「……ごめん。俺が口出ししていい問題じゃなかった」 「……」 「お前達のこと、俺、実は……勝手に知ってたんだ。本当、ごめん。お前がどうしようとそんなの、勝手だよな。ただ……ちゃん、すごく寂しそうだったからさ。余計なお世話だとはわかってても、つい……」 「……」 「あのさ、お前がもし、まだちゃんのこと大事に想ってるんだったら、連絡してあげてくれないかな。きっと喜ぶと思うからさ」 ずっと何も言わない亜久津に対して俺は一方的に話し続け、聞いているのかもわからないけれど彼女の連絡先と住所を口頭で伝えた。きっと、亜久津ならこのくらい、耳で一度聞けば覚えられるだろうと思ったから。 俺にできることはもう他にない。これ以上首を突っ込むわけにもいかない。 「じゃあな亜久津……、悪かったな」 それだけ言うと、最後まで向こうからは何の返事ないまま。俺は、電話を切った。これでよかったのだろうか……携帯の画面を眺め、自問したところでそこに答えなんかない。 ただ、部屋の中で一人。しばらくの間、黙ったまま。これが間違いではなかったことだけを、願っていた。 |