2.区画整理事務所

 区画整理事業に併せて商店街近代化事業を行なうことに決まった昭和45年頃から、区画整理事業の事業主体である佐久市の担当職員が市役所の中にいたのでは、事業は進まない「何としても現地に派遣して貰うべきだ」という声が強く出てきた。

 建設委員会では陳情を繰り返し、地元市会議員を通じてもしばしば市へお願いをした。
 しかし、容易には実現しなかった。市としては市政全般を執行している立場上、陳情があったからと言って簡単に職員の配置を変える訳にも行かず、また人員の余裕もなかったことは理解できる。
 さりとて商店街近代化事業は区画整理事業との併行事業である以上、市行政と密接に連携しなければ、事務的にも作業的にも一歩も進まない。その都度市役所へ出向いての連絡ではラチがあかない。たび重なる陳情に対し、市もようやく腰をあげ現地へ職員を派遣してくれることになった。

 昭和47年度、当時、市有建物で空家になっていた佐久酪農協同組合(佐久酪・元中込農協農業倉庫南側)の建物を事務所として使用することになり、ここへ建設部・都市計画課の今井都市計画係長と、新たに採用した松本主任を派遣して準備体制を整えた。
 また、これに併せて区画整理事業の設計技術面を担当するために依頼した長野県建設技術センター(佐久建設事務所内)の技術職員(田沢部長以下3名)も同建物に同居することになった。

開設当時の区画整理事務所
開設当時の区画整理事務所

 昭和48年度からは、この事務所を正式に「区画整理事務所」とし、所長制(課長職)のもとに職員も所長以下8名に増員された。
 さらに商店外近代化事業を指導支援するために、経済部商工観光課からは係長1名を派遣するなど、両事業に対応する職員体制は充実強化されることになった。
 一方、商店街近代化事業を推進する立場にある商店街建設委員会では、体制の強化を図るため、今まで中込公会堂に入っていた事務所を区画整理事務所に移転し同居することになった。
 これにより、区画整理事務所の中には、区画整理事業を堆進するための区画整理事務所職員、県建設技術センター職員、及び商店街近代化事業を推進するための商店街職員、商工観光課職員あるいはコンサルタント会社職員などが、一つの建物に入ることになった。
 従って、同事務所の総勢は柳沢有人氏(初代区画整理事務所長)以下17〜18名にも及び、この建物は名実共に両事業を推進する一大拠点になったのである。
 その後、昭和50年2月商店街では商店街協同組合を設立して、職員体制を強化し、区画整理事務所、涌工観光課も、年を追うごとに増員したため
最高時には20名を超える状態になった.

 お互いに人員は増え、事務量も膨大になる一方ということから、事務所は手狭になり、やむを得ず商店街協同組合は昭和52年、また元の中込公会堂へ移転して事務を執ることになった。
(当時中込公会堂は佐久商工会議所が一階部分を事務所にしていたため、二階の広間の一角を仕切って事務所を設置した)
 しかし、和和55年には区画整理事務所が位置していた区域の建物移転工事を始めることになり事務所は移転せざるを得なくなった。
 移転先は、"区画整理事業が終了するまでは再び移転の必要ない場所"ということから佐太夫町児童公園予定地に決められた。
 一方中込公会堂に間借りしていた商店街協同組合の事務所も、公会堂解体のため早晩移転しなければならない立場に追い込まれていた。
 そこで、市と協議の結果、商店街協同組合も、区画整理事務所と同じ場所にプレハブの建物を新築して同居することになり、昭和55年9月に両者ともそこに移転をした。
 その後、協同組合は中込橋場公会堂が新築されたことに伴って、昭和57年12月に同公会堂1階(現事務所)へ移転したが、区画整理事務所はそのまま残った。
 昭和62年度をもって、区画整理事業の工事関係業務が完結を見るに至ったことから、同事務所は昭和63年3月31日閉所され同年4月1日からは市役所本庁で「区画整理課」となった。
 昭和48年に事務所を開設して以来、実に16年という長い期間にわたって区画整理事業に関連するすべての業務をこの事務所が処理をしてきたのである。

 区画整理区域内の権利者数は、所有権者、借地権者、借家権者合わせて841人、移転戸数は963棟(全体数の99%)にも及んでいた。16年という長い年月の間、権利者はもちろんのこと、多数の関係者を相手に折衝してきた訳である.換地の問題、補償の問題、権利調整の間題など権利者ごとに言い分や要求は、十人十色であった。このほか、予算の確保、関係行政官庁との連絡調整など、その心労は大変なもので残業は日常的なものであった。特に、商店街近代化事業の権利調整に当たっては、商店街協同組合と一心同体の立場で協力してくれた。個々の権利者との折衝は協同組合が行なったが、裏の事務的処理はほとんど区画整理事務所が担当してくれた。
 権利者との折衝は1回や2回の話し合いで解決できるものではない。10数回に及ぶ人もいれば、1年も2年もかかる人もいた。その都度図面の書き直し、計算のし直しをして、組合が折衝する資料をつくってくれた。まさに、官と民と不離一体の体制があったからこそ、近代化事業の権利調整ができた、といっても過言ではない。


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