区画整理堆進委員会

1.目的と組織

 本書文中に「区画整理推進委員会」(設立当初は「都市計画推進委員会」と呼称)がしばしば出てくるが、これは佐久市施行の区画整理事業を側面から支援、推進するために設置された地元民を中心とした団体である。この団体の当初の目的は、区画整理事業とはいかなるものかを一般住民に理解して貰い、これに賛同するよう啓発すると同特に、地元の"取りまとめ役"ということであった。しかし、後には事業の促進に協力する一方、各区民に対する情報伝達、あるいは地元民の意見集約など市との仲介役的な役割を果してきた。
 昭和45年6月に設立、初代会長は田中泰江氏であったが、47年6月に改選があり古屋猛氏が会長になった。以来古屋氏はこの委員会が解散(平1・3・25)するまで実に16年間会長の要職を務めた。
 設立当時の委員会構成は、区画整理区域内各区(橋場第1・2・3・東・第5の5区のほか、佐太夫町・中込新町・鉄道の合計8区)の区長を中心に各区の広さなどを勘案して3名から27名の地区委員121名を選び、これに商店会役員と地元市議を合わせて総員128名という大きな組織であった。
 これは当時、区画整理事業なるものを一般住民に理解して貰うとともに、賛同して貰うという大きな目的があったため、各区の主な人達をほとんど地区委員に選んだことによるものである。
 しかし、余りにも大きな組織であったため、趣旨徹底がムズカシイということから、各区から2〜3名の代表者を選び、これに同委員会の役員、及び商店会選出の委員、地元市議を合わせ、30名からなる代表者会議を設けて、実質の活動に入ることにした。
 委員会の事務局は、昭和50年3月までは商店会が、それ以後は商店街協同組合が担当した。この委員会の活動経費については商店会(後には協同組合)の負担金と一部市の補助金以外は、各区が戸数割によって負担することにした。
 昭和49年、この委員会組織に佐久商工会議所の会頭を顧問としてむかえ、新たに平賀新町区を加えた。さらに今までは地元市議として田中泰江氏、中川正氏、中島袈裟秋氏、清水洋太郎氏、関口甲子男氏であったのに、中込地区選出全議員ということで、原田功氏、小林勝人氏、小林茂太氏、関口浅吉氏を加え、地元市誌は9名となった。その後何度か改選が行なわれ、現在(平2.3.31)では、清水洋太郎氏、小林茂太氏両市議のみとなっている。
 52年からは事業もはじまり既に地元住民の理解もほぼ得られたことから規約の改正を行ない、地区委員の数を大巾に縮小して、各区とも区長ほか2名ずつ(ただし、橋場5区と佐太夫町区以外は各1名)にし、これに従来からの団体を加え、総勢36名の組織にした。


2.委員会の活動

 まず、委員会の方々に区画整理事業に対する意義と認識を深めて貰うために、岩村田本町通りの防災建築街区造成事業の経過や裏ばなしを聞いたり、市の都市計画課の職員による説明を聞くなど、何度か勉強会を開いた。
 続いて各区ごとに地区委員が中心となって説明会(部落指導会)を開催し、区民の事業に対する理解と協力を得るための活動に入った。
 説明会はすべて夜に開催され会場は区長の自宅、または地区の公民館、銀行や会社の事務所などであった。会議は区長自らが主宰し、説明役は市の職員、地元市議などが当たった。
 また、区民の事業に対する同意書の取りまとめをするとともに、同意を得られない人達には個別に訪問して説得に努めるなど、行政と一体となって事業の推進役を努めた。
 特に中込新町区の一部から、この事業に対する反対運動が起きた時には、会長以下役員の方々は市とともに説得に当たった。(しかし、結果は、説得も効なく、この地域の一部は区画整理区域からの除外地になってしまった)
 このほか、委員会には市から区画整理事業に関する一切のことが、報告され、諮られ、決定されていった。(区画整理事務所の設置、道路計画の設定(歩行者専用道路を含む)、減歩率の軽減、事業着工までの間の建築制限、着工順位、過小宅地の取扱い、権利調整の方法、商店街近代化区域の設定、駐車場問題、中込用水の水温低下対策、下水道問題など)
 従って、この委員会は、市と地元とのパイプ役的な存在であって、その果たした役割は大きく、まさに官民一体となっての区画整理事業となったのである。

 昭和52年2月、いよいよ区画整理事業による建物移転が始まってからは委員会の性格も変わった。それは事業費予算が少ないことによる事業の遅れに不満が続出してきたことから、委員会活動は予算の確保という方向へ重点が移っていったからである。どんなに地元の体制が整ったからと言っても、事業費(予算)が確保されない限り、区画整理事業も進まないし、商店街近代化事業も進まない。ちなみに52年度当初子算までの状況を見ると次のとおりであった。

○事業計画(5ページ参照)
施行年度 48年度〜58年度(工事期間は51年度〜55年度の5ヶ年間)
総事業費 54億5,300万円 (負担割合…国が6/9 県が1/9 市が2/9)

○実施状況

事 業 費

48年度〜50年度(調査費及び事務費・実施済み)

2億2,050万円

51年度    (事業費・実施済み)

1億5,000万円

52年度(事業費・当初予算計上額)

2億0,400万円

小 計  

5億7,450万円

 
○今後の実施計画
 施行年度 53年度〜58年度(工事期間は53年度〜55年度の3年間)
 事業費  (53年度〜58年度)       48億7,850万円

 上記の通り、51年度の事業費は着工初年度であり、着工が年度末ぎりぎりの52年2月であったので事業費が少ないことは理解できる。
52年度からは事業を本格的に軌道に乗せるため、市は国に対し事業費8億の予算要求をしたという。ところが結果はこれが2億400万円に削られてしまった。その時の市の説明によると、当時松本市は松本駅前の土地区画整理事業と商店街近代化事業を実施していた。これは松木市が昭和54年に「やまびこ国体」を迎えるための事業であったため、国も県も重点的に予算を松本市に配分したことが大きく影響しているとのことであった。
 しかし、松本の事業が終れば中込の予算が増額されるという保証はどこにもない。もし、今後52年度のようなペースで進むことになれば、区画整理事業は20年以上もかかることになってしまう。工事は5年間で完結するという話しがこれでは到底住民も納得しない。このことは市政に対する不信にもつながり、区画整理事業そのものの崩壊を意味することととなり商店街近代化事業も断念せざるを得ないことになってしまう。これは大変重大なこととして受け止められ、大挙して市長(当時は神津武士氏)に陳情をし、市議会には請願書を提出した。また代表者が県や国に対しても陳情するなどあらゆる手段、方法を執った。
 陳情の趣旨は事業費予算の増額ということであった。特に市に対しては「施越(せこし)」という方法によって緊急に対応して欲しい、というものであった。この「施越」という方法は、翌年度の予算を繰り上げて、前年度の事業費に充てるという方法で、緊急の場合、または万やむを得ない場合以外は行なわれない措置である。
 この、方法をとるとその年度分の事業費は増えるが、翌年度分の事業費(予算)はその分だけ減ってしまう。これでは、本当の意味での事業費増額にならないので、国庫補助金が増額されるまで継続して欲しいとお願いした。
 市、市議会、地元市議も、国や県に対し積極的に陳情してくれたし、佐久商工会議所も日商(日本商工会議所)を通じて陳情をしてくれた。
 もちろん委員会としても、商店街協同組合としても「市にお願いしているだけでは無理だ。自分達の街づくりである以上、自らも汗を流すべきだ」ということになり、積極的に陳情活動を展開することになった。
 まず陳情費用の捻出方法については「区画整理事業を促進するための陳情
である」という建前から区民皆んなで負担することになり、毎年区費の中から1戸200円ずつを拠出し、これに商店街協同組合と市が定額を負担するという方法で昭和53年度から実施された。
 この金は、一部会議費や事務費に使われたが、そのほとんどは建設省や
県への陳情費に使われた。陳情は毎年、国の予算配分が決まる12月から1月頃にかけて行なわれ、推進委員会と商店街協同組合の代表が主体になって、これに市役所の担当部課長(所長)も同行した。時には、市長、議長、地元市議なども同行陳情してくれた。
 また、陳情の際にはいつも井出一太郎代議士や荻原秀男秘書が同行して根回しやロ添えをしてくれた。このことが、国の予算獲得に大きな力になったことは言うまでもない。今さらながら感謝している。
 この陳情は、60年までの8年間に及んだ。
 まず、市では52年度には「施越」を実施してくれ、国の予算も53年度頃から逐次増額されるようになり、54年度以降は8億台から10億台の事業費が確保できるようになった。54年度には区画整理事業の実施計画が大幅に見直され、工事期間は7年間も延長され、事業費も倍近くに膨れ上った。しかし予算が順調に確保できることになったため、区画整理事業も商店街近代化事業も計画年度で完結を見ることができた。
 このように委員会が最も活発に活動したのは、昭和46年から事業着工の52年頃までの間であった。最初の頃は1ヶ月に一度ぐらいのペースで会議が持たれていたが、地元体制が整ってくるにつれ会議も少なくなり、予算確保のメドがついた55年頃からは年に一度の総会だけという形になっていった。
 昭和63年9月24日両事業の完成祝賀式典の席上委員会は区画整理事業推進のために多年努力、協力したということで市長より感謝状が贈られた。
 なお、この祝賀式典に際しては、古屋会長自ら区画整理事業関連工事会社から総額230万円の寄付金を集め、これを式典経費に充てたほか、記念の手拭を全戸に配布した。
 平成元年3月25日この委員会は一切の業務を清算し剰余金は橋場公会堂の運営費に寄付をして解散した。



佐久市長感謝状


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