商店街近代化事業
1.組合設立までの経過
昭和36年4月に、長野県下で17番目の市として佐久市が誕生した。
当時の佐久市の商店街は、岩村田、野沢、中込の3商店街で、いわゆる3眼構造であった。それが中込原に市庁舎ができたことから、この周辺部にも商店街が形成され、今でば4眼構造になっている。
昭和41年より岩村田商店街が中心部を防災建築街区造成法の手法により商店街の近代化を行ない、続いて野沢商店街も一部ではあるが同じ手法で近代化をした。このため、かつては佐久平の商都とまでうたわれた中込商店街は衰退傾向をたどり始め、多くの商店経営者は危機感を深めると同時に、商店街近代化意識を強く持つようになった。
昭和44年、当時中込商店会会長であった市川邦男氏が提唱して「中込商店街建設委員会」(商店経営者、地元市議、金融機関代表、学識経験者等を含めて総員37名)を設立し、自らが委員長になり街づくりのための調査・研究に入った。当時の発想は、区画整理事業に併せての近代化というようなことではなく、既存商店街の道路拡巾や、アーケードの設置あるいは駅前広場の拡張という程度のものであった。
これに基づいて市当局と折衝を重ねた結果、中込の場合「街の中央部を中込用水(巾員4〜6m)が流れていること。道路も狭く曲屈している上、自然発生的に商店や飲食店、住宅が混在密集してしまっていて、生活環項が劣悪であり公共的な施設整備ができない」ということから、最終的には区画整理事業により環境を整備することになった。
地元でも区画整理推進委員会を組織して協調体制をとったため、昭和46年には同事業に賛成する者が7割以上に達し、議会に提出していた請願書は採訳されるに至った。
そこで、商店街建設委員会では、今までの発想を全面的に変更して区画整理事業との合併施行による近代化計画に切り替えることになり、市はマスタープラン(基本計画)の策定を「トータルプラニングセンター」に依頼してくれた。
区画整理事業との合併施行による近代化計画の骨子は、歩行者専用道路を中心として「商店街近代化区域」(2.6ha・45ページピンク色部分)を設定し、この区域内に既存商店を集め、今までの線的な商店街を面的な商店街につくり変えるという画期的な計画であった。
さらに、この近代化区域をA、B、Cの3ブロックに分け、ブロックごとに立地に合った業種構成と店舗配列をするというまったく思い切った発想のもとに「マスタープラン」は作成された。このように、"新しい場所へ新しい街をつくりなおす"という計画については、全国的にも稀に見るような発想であったため、関係者の意志統一も仲々大変であった。
市や商工会議所にお願いして、県中小企業総合指導所による商店街診断(昭和48.6)、同指導所による研修会やコンサルタントによる講習会も折にふれて開催し、商店関係者の意識の向上と、意志統一に努めた。
一方、区画整理事業は、昭和48年10月には都市計画決定、50年1月には事業計画が決定し、52年2月(51年度)からは仮換地指定による建物移転が開始される運びとなった。
従って、建設委員会もこれに併せて、商店街近代化計画の策定、組合設立のための準備などを急ぐため、事務局長に本間徳衛氏(前山在住)を迎え事務局体制を整えた。(昭和49.12)
事務局体制ができたことから、早速に建設委員会の中に組合設立発起人会をつくり(11人)、組合設立のための書類づくり、手続き、関係行政政機関などとの折衝あるいは組合加入者募集、実施計画の策定など、日夜にわたって準備作業が進められた。
昭和50年2月15日佐久商工会議所(中込公会堂)で設立総会を開き、定款、事業計画、収支予算などの各議案を議決したあと役員選挙を行い、初代理事長に市川邦男氏を選び、正式に中込商店街協同組合は発足した。
これにより、ただちに長野県知事と新潟陸運局長に対し、組合設立認可申請を行ない同年4月30日付けで認可。続いて法人登記をして名実ともに組合は近代化事業に取り組む体制ができた。
組合設立の時の「設立趣意書」には次のように書かれている。
数多くの先輩が営々努力して築きあげ、そして我々に受け継がれた由緒ある中込商店街は、かつては佐久平の商都とうたわれ栄えた時代もありました。しかしながら、昨今、この旧態依然たる商店街は、街並みの老朽化も甚だしく、道路も狭いので、車の時代に交通の混雑を来たし、駐車場も不足し、消費者が安心して楽しみながら買物ができる状態ではなくなってきております。
また、消費態様の変化や、近隣競合商店街の近代化や大型店等の進出による影響も大きく、年々衰微の一途をたどり、消費者から忘れられようとしている現状です。
このまま放置したならば、中込商店街は衰亡するばかりとなり、やがては破滅を招くことにもなりかねません。
幸いにして、このたび中込橋場地区を中心に、市施行による区画整理事業が進められることになっておりますが、これは天が我々に与えてくれた大きなチャンスであると思います。
この機会を逃すべきではありません。
区画整理事業に併せて商店街の近代化を強力に推し進める絶好のチャンスであります。
資金のこと・権利調整のこと・今後の売上げのことなど不安は数多くありましょうが、これらの苦難を乗り越えて、中込商店街百年の大計をたて先輩にも顔向けができ、子や孫からも「よくやってくれた」と喜ばれるような立派な商店街づくりをやるべき機会であると確信します。
そのためには、個々のカだけでは不可能です。同じ中込の地に「商」の道を歩もうとする同志が相集まって力を合せてこそ完成されるものと思います。
そこで、魅力ある近代的な商店街を造るため、この趣旨に賛同する者を組合員として、共同事業を行ない、組合員の経済的地位の向上を図ることを目的として、相互扶助の精神に基づいて、中小企業関係法令の定めるところにより商店街協同組合を設立しようとするものであります。この設立趣意書に、商店街近代化事業を行なおうとする動機と決意のすべてが述べられている。
中込商店街協同組合設立総会
附 記
この協同組合設立とは別に、小平和利氏が中心になって、特定高度化資金(無利子)を借入れて「店舗共同化事業」を行なうべく、昭和50年3月「協同組合パラス」(構成員17店)を設立した。
このため、中込商店街の中には「中込商店街協同組合」と「協同組合パラス」という2つの法人化した協同組合が設立された。しかし、パラスの構成員はすべて中込商店街協同組合の組合員でもあることから、俗に中込商店街協同組合が「親組合」協同組合パラスは「子組合」という関係になっている。
なお、パラスの近代化事業については別組織であるため、本書での記述は省略する。