2.商店街近代化基本計画(マスタープラン)

 中込商店街が近代化事業に取り組むに当って、佐久商工会議所は昭和48年6月に、県中小企業総合指導所による商店街診断を行なった。
 また、佐久市では翌49年7月、近代化事業実施のための基本計画(マスタープラン)の作成を「潟gータルプラニングセンター」(東京都・代表取締役 深川晃一氏)に依頼してくれた。
 これを受けて深川コンサルタント(中小企業診断士)は7月30日に商店街建設委員会と打合せ会を持ち地元の意向を聴取したあと、数回に渡り現地調査や資料蒐集を行ない、12月にマスタープランは完成したが、これはあくまでも「中込商店街の理想像」を画いたものであった。従って、各ブロックごとの具体的な実施計画については、このマスタープランを基に権利調整の結果や個店の考え方、資金力、組合の意向などを勘案しながら改めて作成する、ということになっていた。
 12月10日報告会が開かれたが、その骨子となる部分を拾ってみると次のようなものである.(51〜ページ参照・抜粋)

1)計画の概要

(1)商圏の設定
 商圏の範囲は、業種によって差異はあるが、「各種小売業・衣料・身の回り品小売業」関係は、人口で約12万人、世帯数で約3万2千になっている。また、市町村の範囲では、佐久市及び南佐久全域のほか、御代田町と浅科村を含めてある。(吸引率5%以上の町村を商圏とみなしている。)

(2)造成構想(商店街造成基本プランニング参照)

 イ)歩行者専用道路(グリーンモール)を中心にして商店街近代化区域を設定し、これをA・B・Cブロックに分け、それぞれのブロックに立地に合った特性を持たせる。

ロ)中込農協敷地(現在の橋場公会堂と組合第2駐車場敷地)をロータリー式のバスターミナルとし、2階以上を農協資本による核店舗とする。(これにより、中込駅との間に回遊性を持たせる)

ハ)歩行者専用道路に面した各店の2階部分は店舗にして、この2階はデッキ歩道(ペデストリアンデッキ)でつなぎ、昇降ロは駅前、各ブロック、一般道路各所に設置する。これにより、人の流れは地上とデッキ歩道の2層にする。

ニ)国道並びに八十二銀行横の道路などは、このデッキ歩道を延長して高架横断とし、国道を横断したCブロックの広場に空中喫茶を設置する。さらに、Aブロックのデッキ歩道は、桜木町道路を高架横断して中央名店2階部分と連結する。

ホ)各ブロックの街区ごとに、店舗裏側に共同減歩による駐車場を設置する。

へ)各ブロックとも2階以上の階層は、ホテルまたは住居部もとする。

ト) 業種構成並びに店舗配列は、別紙65ページから71ページのとおりとする。(各業種下欄の数字は店舗面積m2である)

 


マスタープランによる模型


2)マスタープランと実施計画

 組合では、マスタープランに基づく実施計画の作成を、トータルプラニングセンターに依頼することになり、50年1月に委託契約を締結した。ところが、理想像として画いたマスタープランと、実際に事業を進めるための実施計画との間に大きな差違が出てきた。
 まず、マスタープランの目玉として計画されていた中込農協敷地のバスターミナルと核店舗構想は、農協とのたび重なる折衝にも拘わらず実現不可能になってしまった。(当時中込農協は、平賀・内山農協との合併問題が論議されていたさなかでもあり、単独での資金力では到底対応できない、ということであった)
 また2階部分の全店舗化によるデッキ式通路については、これを実現させるとなると個店も組合も莫大な経費負担になる。組合の経費負担といっても特別な財源がある訳ではない。一時的には高度化資金を借りるにしても所詮は組合員の負担ということになってしまう。2階部分の全店舗化にしても果たして出店者がいるかどうか。また、2重通路にするほど来客があるのかどうか、採算が採れるのか・・・などなど。
 さらには肝心の権利調整についても、マスタープランに叶ったような調整ができるという保証もない、各個店でもそれぞれ立地あるいは規模などについて思惑がある。
各ブロックの街区ごとの駐車場設置という構想についても、この用地は、その街区に出店する人達全員の減歩によって捻出しなければならない。当然店舗面積はその分だけ狭くせざるを得なくなる。既に区画整理事業によって公共減歩をされている上に、さらに駐車場用地で減歩をすると店にならなくなってしまう。それよりは、組合で共同駐車場を設置すれば事足りるのではないか。・・・・・など。
 総論的には賛成のマスタープランも、いざ実施計画になると、さまざまな意見や考え方が出てきてしまい、結局は「出来る範囲内で最善のものを」ということで、現在のような形態の街になったのである。


3)各ブロックごとのコンサルタント

 前述のとおり、マスタープランと現実との食い違いから、次第に深川コンサルタントに対する批判が強くなり、すべてのブロックの実施計画依頼については反対意見が出てきてしまった。
 結局ブロックごとの実施計画は、それぞれのブロックの判断により、別のコンサルタントに依頼してもよいことになった。従って深川コンサルタントは、Bブロック全部(パラスを含む)とAブロックの一部についての計画を策定しただけで、52年7月には委託契約を解約した。
 以後、Aブロックは「大建設計」及び「奥付建築設計事務所」(奥付聖氏)、Cブロックは「潟uレーン」川上喜則氏)及び「SD企画研究所」(本田豊氏)に、それぞれ計画作成を依頼し事業を進めた。
 コンサルタントの委託料の負担については、自分のブロック分については、そのブロックが8割、他のブロックが1割ずつ負担する、という方法で処理した。しかし、その委託料は各ブロックごとに金額が違っていたので、最終的には近代化事業が終わった時点で改めて調整するという申し合せをした。何度か調整のための会議を持ったが、各ブロックとも「自分のブロックが多く負担している」という意識が強く、お互いに「貰い分」を主張するという結果になり、結局はまとまらず「既に負担した額をもって調整済み」ということでケリがつけられた。


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