5.権利調整

 区画整理事業に併せて商店街近代化事業を推進するという大方針が決まった当時(昭和48年)、商店街建設委員会では、勉強のため先進地視察を行った。
 佐久商工会議所や県中小企業総合指導所などのアドバイスを頂きながら、全国で先進地と言われる商店街を幾つか視察した。(長野市、松本市、中野市、駒ヶ根市、伊那市、横浜市、桑名市、酒田市など)その中で三重県桑名市の駅前再開発事業と大阪・枚方市の「くずはショッピングモール」を視察した時のことである。(昭和49年6月・参加者25名)

 そのときの視察目的は
(1)区画整理事業に併せての商店街づくりの問題点
(2)新しい場所へ新しい商店街をつくりなおすことの問題点
(3)新しいショッピングモールをつくることの問題点
 などであった。

 この視察研修の中でわれわれの最も印象に残っているのは、桑名市での話しである。説明してくれたのは、再開発事業を担当していた都市計画課長であった。彼は、中込の近代化計画の概要を聞いたあと「中込商店街の近代化計画は、実に素晴らしいし、立派である。しかし、私が経験したところから申し上げるならば、これは“月へ行くよりムズカシイでしょう”」と評された。さらにこの課長はこの事業を担当した当時は「夜は眠れないし、時には夜中に脅迫電話がかかって来るなど食欲はなくなり、体重は5キロも減ってしまった」とも言っていた。

 その一番の難問は「権利調整」であると力説した。
視察団の面々は、権利調整と言われてもその意味を十分理解していなかったので余り気にも止めなかったが、“月ヘ行くよりむづかしい”という表現については、かなりのショックを受けたのは事実である。
 しかし、どんな困難が待ち受けていようと、また、それが月へ行くよりムズカシイ事業であっても、それを乗り越えなければ街づくり計画は水泡に帰してしまう。これらを乗り越てこそ立派な街ができるのだから万難を排して取り組もう、という意識にも燃えた。
 事実、現実に見る中込商店街の約80%は、権利調整によってでき上がったと言っても過言ではない。権利調整は、一言で言えば区画整理事業によって商店街近代化区域内に換地された商店以外の人の権利を、組合が、その権利者に権利を放棄または移動して貰い、そこに商店を並びかえて連たんした商店街をつくるということである。
では、権利とは何か
(1)土地の所有権
(2)借地権
(3)借家権
 以上の3つである。
 そもそも区画整理事業による換地は、商店街の近代化を前提にしての換地ではなく、従前地の立地条件を第一義として行なわれたものである。(現地主義・照応の原則)
 ところが、商店街近代化事業では、今までの銀座、駅前・中央(一部)、横町などの商店街が道路と共に消え去ることに伴って、これらの商店を歩行者専用道路を中心にした商店街近代化区域(45ページ参照。ピンク色の部分)内に移転させ、新しい商店街にこつくりなおす、という計画になっている。
 しかし、別図を見ればわかるとおり、従来の商店街で近代化区域内に含まれているところは、銀座と駅前・中央商店街のほんの一部に過ぎない。近代化区域の大半は、今まで商店がなかったところに設定されている。従って、銀座と駅前・中央商店街の一部の店舗は近代化区域内に換地されたが、それ以外の商店のほとんどは区域外に換地されてしまった。逆に言えば、近代化区域の大部分は、従来からその周辺に住んでいた人達に換地されるという結果になってしまった。その中には、一般住宅、商店以外の業種の営業者もいたし、かつての弁天小路の料飲店街も含まれていた。これでは、全く商店街にはならない換地である。
 しかし、区画整理事業の建前からすれば文句の言いようがない。権利調整によって、近代化区域内に換地されたこれらの方々にお願いして、近代化区域外に出てもらう。そのあとへ、近代化区域外に換地された商店を入れ替える、といういわゆる権利調整をしなければ街にならないということになったのである。
 区画整理事業は、土地区画整理法という法律に基づいて行なう公共事業であるから、最後まで反対している人に対しては行政代執行(強制執行)ができる。しかし商店街近代化事業は、法律に基づいての事業ではなく任意の事業である。従って強制力などまったくない。あくまでもその権利者との話し合いで、理解と協力をお願いする以外方法がないのである。そこに権利調整の難しさと困難さがある訳である。
 “近代化区域内に換地された一般の人々からすれば「何んで俺が、商店街の犠牲になって、追い出されなければならないのだ」「俺は先祖伝来何年もここに住んでいる。そこへ商店街が勝手に近代化区域などを設定して、たまたま、その中へ俺の家が入ったからといって、出て行って欲しいとは余りに虫が良すぎる」あるいは「近代化区域を設定して、ここに商店街ができれば、この区域は橋場の1等地になって、一番地価の高い所になる。俺が何んで2等地なり3等地へ追い出されなければいけないのだ」…など被害者意識がいっぱいであった。
 それだけに街づくりに理解を示してくれたとは言っても、その条件(要求)は、みなきびしいものであった.
 代替地の要求、移転後の生活補償の要求、金銀の要求など、その人その人によって千差万別である。しかも、そのいずれもが、出される人の立場からすれば当然な要求であるかも知れないが、組合の立場からすれば法外なものであった。
 もちろん、相手のすべての要求を呑むと言うことであれば、話し合いは誠にうまくゆくのは当然である。しかし、そんな訳にはゆかない。
 実際に、近代化区域内から区域外に出て貰った人の数は70人から80人にも及び、しかも6年もの長い間にわたっての調整である。相手の要求通りに調整などすれば、それこそ大混乱になってしまう。資金などいくらあっても足りないことになる。先に調整した人と、後で調整した人との間に極端な差異はつけられない。話し合いは長びき難航した。事実10回以下の話し合いで調整できた人は一人もいないし、調整期間も1年〜2年、長い人は3年もかかった人がいる。

 いくら街づくりのためという大義名分はあっても、他人の権利を動かすということは、まさに「月へ行くよりむずかしい」ことであった。
 組合では、理事会の諮問機関として設置する委員会の中に「調整委員会」という常任委員会を設置して、初代の委員長に川井吉次郎氏(三河屋商店社長)を選任した。
 委員会は設置されたがこのメンバーが即、権利調整のための個人折衝をした、ということではなかった。調整ができるか、できないかは、あくまでも相手が、こちらの言うことを信じてくれるか、くれないかによって決まる。相手から「あの人の言うことなら大丈夫だろう」「後でダマされたと言うことはないだろう」という信頼感を持たれる人でなければならない。口先だけの、その場限りのウマイ話しなどは絶対通用するものではない。相手の立場に立って誠意をもって話し合い、街づくりに協力して貰うという姿勢が求められていたのである。
 その点、川井氏は最適任者であった。
 弁舌は決してうまい方ではなかったが、温厚で、誠意を持って話し合うという性格、また頭の中での計算力は抜群で、人望があり説得力があった。
 川井氏は、調整委員長という責任上、自分の店舗の敷地(所有地)は、権利調整のために提供し、新しい店舗(サンテラス内)は借地の上に建てるなど自ら範を示したほか、ほとんど一人で約6年間にわたって日夜を問わず調整一本に打ち込んでくれた。
 私も途中から川井氏と共に調整の任に当たった一人であるが、今更ながら当時の苦労を思い出し、感ひとしおのものがある。
 人を得たとは言いながら、そんなに順調に調整ができた訳ではない。2人でヤケ酒を飲んだことも2度や3度ではなかった。
 長い期間にわたっての調整ではあったが、結果的にはグリーンモールに面しての権利者で最後まで調整に応じてくれなかった人は一人もいなかった。お陰で、商店と商店の間に一般住宅が残ってしまったということもなく、連たんした商店街ができ上がったのである。
 とは言っても、組合が個々の権利者と折衝したことによって、すべての調整ができた訳ではない。
 折衝過程における裏の事務的な処理のほとんどは区画整理事務所が処理してくれた。特に、金銭だけで解決したという権利者は少なく、大半の権利者は代替地を要求するというケースであった。
 代替地と言ってもその土地は他人の所有地であり、減歩率も異なれば、面積、形状、評価額も違う。これらの調整は組合ではできない。どうしても区画整理事務所の専門家に計算して貰わなければならなかった。もちろん区画整理事務所は、その都度われわれに協力してくれたし、アドバイスもしてくれた。まさに「官」と「民」合作の調整であったと言って良いと思う。


 それでは権利調整のやり方について若干述べてみることにする。

(1)調整基準について
 まず、調整をするには、一つの基準がなければ調整はできない.そこで、近代化区域内(A・B・Cブロック)数ヶ所について、坪当たりの基準価格を決めた。この価格は、不動産鑑定士による鑑定価格と、売買実例による実勢価格とを勘案して決めたものである。(この価格は公表していない)
 次に、借地、借家に対する貸主と借主との権利割合(87ページ)、あるいは借地権売買、建築確認申請などのとき地主に支払う承諾料(88ページ)、新しい地代の算定方法(89ページ)などについて決めた。
 調整は、これらの基準や申し合せ事項に基いて行なわれたのであるが、実際には、この通りにはいかなかったことのほうが多かった。なぜなら調整される人は、少しでも自分に有利な条件を出すためであり、ある程度やむを得ないものであった。しかし、この基準と考え方の精神だけは、いつの場合も貫かれた。

(2)土地の所有権について
 一番簡単なのは、所有権を買取るという方法であるが、この所有権買取りというケースはごく僅かで、ほとんどの権利者は代替地を要求するのが通例であった。しかもこれには、歩増しや割増金の要求ということがつきまとっていた。
 代替地と言われても当時、市が保有している土地だとか、組合が持っている土地などは全然なかったので、これを探すのが大変であった。やっとの思いで探しても、相手が嫌だと言えばそれまでである。中には、代替地の場所を指定する人もいたが、これとても他人の土地であり、その所有者がたまたま売ってくれれば良いが、その人までも代替地を要求するという始末である。
 従って、ひとつの権利を取得するためには、一度に2人も3人もの権利者を相手に折衝しなければ、決まりがつかないことになる。しかも相手は勝手なことを言う。怒る訳にはいかない。権利調整とは、まさに「忍耐と金と時間のかかる仕事」であった。
 なお、調整がついた時の区画整理事業の処理方法は、権利の異動届けによる換他の入れ替や従前地の売買という方法がとられた。

(3)借地権について
 借地権の調整については、何といっても地主(土地所有者)の理解と協力がなければできない仕事である。そこで、前述のとおり借地権の権利割合や地主の承諾料、あるいは新地代などについて、基準をつくり地主の協力を求めた。これに対しては、ほとんどの地主が、好意的に受け止めて協力してくれた。
 今まで組合員が借りていた土地が、近代化区域内に換地された場合は、業種などの関係で多少位置を変動したことはあっても、そのまま引き続いて借地することができた。しかし、近代化区域内の商店ではない人達の借地権については、その借地権を放棄して近代化区域外に出て貰わざるを得ない。この時に、借地権売買という方法を執った。この方法は、地主の了解を得て、今まで借りていた人と新たに借地する人(組合員・商店)との間で借地権の売買をさせ、売主(今までの借地人)は、売買価格の1割を地主に承諾料という名目で支払う。この方法だと、地主は土地の面積が減る訳でもなく、ただ借地人が変わるだけで1割の承諾料が入る。また今までの借地人も、借地権を放棄するということで相当額の金が入ることになるので、双方とも合意しやすかった。
 また、新しい借地人と地主との賃貸借契約の締結から、新地代の設定、あるいは建築確認申請に伴なう地主への承諾料の支払いなど、すべての事務的な処理は、組合が仲に入って行なった。そのため、地主からは信頼もされたし、大変喜ばれもした。このことが、借地権による権利調整を比較的スムーズに進展させた要因であったと思っている。
 なお、従来からの借地権を、この際だからということで、買取って自分の所有地にした例も若干はあった。

(4)借家権について
 簡単そうに見えて案外難航したのが借家権による権利調整であった。善良な貸借関係の人もいたが、家主と借家人との間に感情的なモツレをもっている人が多かった。その大半は、家主の家賃増額要求に対して借家人が応じないというケースであった。
 極端な例では家賃を法務局に供託しているという例もあったし、日常の挨拶さえ交わさない、という程こじれてしまった例も幾つかあった。従って、家主はこの機会に“追い出したい”という意識があり、借家人は“立退料をたくさんと取って出たい”という考えを持っていた。さりとて、当事者同志で話し合っても喧嘩になってしまう。従って、こういう状態での権利調整では、双方から「時の氏神」として好意的に迎えられたものの問題は立退料の額についてであった。
 組合としては、中立的な立場で、権利の持分割合によって立退料の額を算定し、これを双方に提示して調整するのであるが、何分にも底流に感情的なものがあっただけに難航した。しかし、結果的にはほとんどの場合「持てる者」いわゆる家主が譲るという形で決まりがつけられた。
 また、借家人の移転先についても心配しなければならなかった.今まで借家のミジメさや苦しさを身を持って体験してきた人達だけに、「何とか自分の家を持ちたい」という意識は強かった。
 自分の家を持ちたいと言っても、先立つものは土地である。この土地を確保するには、所有権あるいは借地権の売買という権利調整をしなければならない。
 この傾向は料飲関係業者に多かったが、料飲店街区は近代化区域外であったため、区画整理事務所と一緒になってお手伝いの形で調整をした。
 事実、今まで借家であった人達が、今では大半の人が持ち家で営業していることを見ても、いかにこの区画整理事業を機会に多くの権利調整が行なわれたかを伺い知ることができる。

 近代化事業について、建設途上から今日まで(昭和51年度〜平成2年度)の間に視察に訪れた団体数は1,026団体、人員は19,010人にのぼっている。これら視察団の視察目的は、外観的な街並みもさることながら、街づくりの「裏ばなし」「苦労ばなし」を聞きたい、というのが大半である。「その苦労ばなし」の最たるものは権利調整についての話しである。私はいつもこの話をしてきたが、視察者の受け止め方は、“理論としては分かるが、現実にそのようなことができるのか”と半信半疑で聞いていたように見受けられた。
 それだけに中込商店街の権利調整は特異であったのかも知れない。
 とにかく難しい仕事であった。


前のページ 次のページ