9.青年部の設立

 商店街協同組合設立当時から、国(中小企業事業団)、県(中小企業総合指導所)の指導を受けるたびに、組合組織の中に「組合青年部」と「組合婦人部」をつくるように指摘されてきた。
 これは、商店街近代化事業という大事業に取り組むに当たっては、家族全員の理解と協力を得ることが大切である、ということを意味している。店の主人(経営者)は、事業の趣旨や内容を理解し推進しようと思っても、陰で支えている家族の理解や協力がなくては、折角の事業もうまくゆく筈がないのである。
 しかし、なかなか実現できないというのが実状であった。その一番の原因は、店の経営が家族経営というのがほとんどで、従業員を使っている店は数えるほどしかないということであった。当時組合の役員構成は、理事をはじめ常任委員会の委員まで含めると100名以上にも及び、店の経営者は多かれ少なかれ役員ということになっていた。(137ページ組織系統図参照) しかも、会議や打合わせ会・説明会などが頻繁に行なわれていた時期でもあり、主人が会議に出席中は当然家族が店を守らなければならないという状況であった。

 こんな中で、さらに青年部や婦人部がつくられ、会議などの出席が多くなると店はツブれてしまう。主人だけで精一杯というのが本音であったと言える。従って、組合としても勧奨はしてみたものの余り強く言えないままに推移してしまったというのも事実であった。
 しかし、昭和59年3月商店街近代化事業の完成にともない理事の数も減少し、委員会構成も縮小されるようになり多少余裕が出てきた。
(138ページ参照) また、理事会の中から「これからは若い人達の出番だ」という声も出されるようになり、改めて青年部設立に大きな期待が持たれるようになった。
 一方、若い人達の間でも青年部設立について、機会あるごとに論議されるようになり、設立する場合の条件、要望というものが固まってきた。

 その要望というものは次のようなものであった。
(1) 県(中小企業団体中央会)の指導や援助のもとで青年部を設立すると、いずれは県組織の中へ組み入れられてしまうがこれでは困る。その理由は、県組織に組み入れられると、県主催の会議や研修会などに、その都度出席しなければならない。当面時間的にも経済的にも、そんな余裕のある会員はいない。まして役員になど選ばれたら、大変である。
(2) 商店街協同組合の中の組織ではなく、あくまで中込商店街全体の青年部として独立した組織にしたい。その理由は、協同組合の中の組織ということになると、いわゆる「組合青年部」であって、理事会の意向や指示に従わざるを得なくなり、主体性がなくなり活動範囲が制約されてしまう。また、会員の範囲も協同組合員の中からのみとなってしまい、街全体の青年部でなくなってしまう。
(3) 事業費は会員の会費と、協同組合などからの補助金でまかない独立会計にしたい。その理由は(2)と同じ。

 このような要望について、組合の理事会で協議した結果、要は「形態はともあれ発足させることが先決である」ということで了解された。特に県中央会では、61年度事業計画の中に、中込商店街青年部設立のための予算(補助金)を計上してくれた。これにより、青年部設立の気運は急速に高まり、昭和61年9月25日に設立総会を開き、会長に西尾正夫氏(レディスランドココ)を選出し正式に発足した。(男33名、女9名、計42名) 発足当初は会員相互の親睦と会員を増やすことを第1義とし、事業活動については、全体討議を重ねる中から逐次取捨選択をしてゆくという方法をとった。
 従って、発足後の一年間は親睦のためのボーリング大会、視察研修放行(山梨県甲府市)、「第三者から見た中込商店街」について八十二銀行中込支店長の話を聞いたりなどの勉強会が中心であった。

 このような期間を経て、発足1年目の昭和62年11月にいよいよ本格的な事業活動に入るため、委員会構成を行ない次の4つの委員会をつくった。
(1) タウン紙編集委員会 イベントを中心にしたお客さま向けのミニ情報紙を発行する。
(2) なかごみってどんなまち委員会 街の現状を分析して“夢と理想を追う”ビジョンづくりをする。
(3) お祭さわぎ委員会街に楽しさとにぎわいを演出するため、中込独特のイベントを創設する。
(4) コミュニケーション委員会会員相互のコミュニケ←ションを計るとともに、青年部全体の親睦事業を企画、実施する。

 1年間の準備期間を経ての委員会構成であったため、各委員会ともただちに事業活動に取り組むことになった。 まず「タウン紙編集委員会」では、早速12月の年末イベントを機にタウン紙創刊号発行に踏み切った。
 「なかごみってどんなまち委員会」では“商店街CI事業”に取り組むなど、それぞれが積極的な活動を開始した。 特にこの“商店街CI事業”については、それがどのようなものであるのか、一般商店の人達にはサッパリ意味が分からなかった。そのため、趣旨や内容を理解するために63年2月に講師(三木国愛先生)を招いて研修会を開いた。
 このCI事業というのは、企業が自分の企業の現況・問題点を認識したうえで、企業の基本理念を確立して、これを大衆にアピールする、というものであるが、この企業の考え方を商店街に置き換えたのが「商店街CI事業」ということである。
 言葉で言えば簡単のように見えるが、これを実際の活動に移すということになると、これは大変な事業になる。ひとつの委員会だけでは手に負えるものではないということから、この「商店会CI事業」については青年部全体で取り組むことになった。
 その第一歩として「街の現況を分析する」ことから手をつけることになり、平成元年3月に、来街者によるアンケート調査を実施した。
 207名からの回答があり、4月から集計・分析を始め、この結果を約1年間にわたって毎月、組合ニュースの「青年部だより」欄で発表した。 この発表によって組合役員はもとより、一般組合員までが、街の現況について関心を持つようになりCI事業の必要性を認識することになった。
 時を同じくして国(中小企業庁)でも、大型店の出店規制緩和策の一環として、この「商店街CI」について「商店街活性化構想策定事業」という事業名で補助金を出すことになった.(補助額570万円) このため組合では、県当局の指導もあり、討議の結果、平成2年度の組合事業として取り組むことになった。しかし、この国庫補助事業は、平成3年度から県でも国と同じような補助制度をつくるとになったため、これに切り換えられた。
 このように、青年部が口火を切った「商店街CI事業」が、「中込商店街活性化構想策定事業」という組合の一大事業にまで発展したことは、特筆大書されてしかるべきであり、青年部の存在意義は高く評価されることになった。

 青年部は、このほかの事業についても活発な活動を続けており、タウン紙発行については、今では、中込のミニ情報紙として定着し、お客さまから親しまれている。またイベントなどはそのほとんどが青年部を含めた若い人達によって企画、実行されている。
 一方、委員会の名称については時とともに変わり、いまは「タウン紙編集委員会」「CI戦略委員会」「研修委員会」の3委員会に編成換えされている。
 ただし「CI戦略委員会」は、後に組合が実施した「中込商店街活性化構想策定委員会」のメンバーとして青年部全員とともに吸収された。

 なお、婦人部については青年部が設立され、その構成員の中に女性も多数含まれていることもあって、その後は余り話題にのぼっていない。


 平成10年に「中込おかみさんの会」が発足し、「ニューオリンズジャズフェスティバルin佐久」を開催したほか、鯉祭など商店街のイベントにおかみさんの会独自のミニイベントを企画実施するなど活発な活動をしている。


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