10.組合ニュース及びタウン紙の発行

(1) 協同組合ニュース

 「街づくり」という大事業に当たって、最も大事なことのひとつに「関係者の意志統一」ということがあげられる。特に直接の当事者である商店経営者(組合員)の理解と協力を得るということは、事業を進める上から絶対的な要件である。
 幹部や役員など一部の人達は事業に対し理解や知識を持っていても、末端の人達にまではなかなか浸透しないというのが実状である。もちろん意志統一を計るための会議や説明会などは開いている。しかし、関係者全員が出席し、全員が、理解するということなど期し得られない。特に数字的なこととなるとその場限りで忘れられてしまうのが普通である。そこで、これらを補完し末端までの趣旨徹底を図るには、文書による伝達方法が最も有効で確実な手段になるのではないか。
 こんな考え方から、関係者の意思統一を図るひとつの手段として広報紙を発行することになった。

 第1号は、当時区画整理事務所へ出向していた市役所商工観光課係長・大井昭二氏(後に佐久市教育長)によって発刊された。その時は、商店街協同組合設立直前の昭和50年1月23日付けであったため、名称は「中込商店会近代化ニュース」・発行者は「中込商店街建設委員会」であった。しかし、同年2月15日に商店街協同組合が設立されたことから名称は「ニュース中込商店街協同組合」に、発行者は「中込商店街協同組合」に変更されたが、編集は相変らず大井係長に担当してもらっていた。

ニュース第1号

   (近代化ニュース第1号  850 x 1200pix  120KB

 当初の頃の紙面はB4判片面で手書き、これをコピーして組合員や関係者に配布していた。
 昭和52年2月に入り、いよいよ区画整理事業に併せて近代化事業が着工されるようになってからは、紙面もB4判ウラ・オモテ2面になり、編集は7月から組合事務局が担当するようになった。しかし、いずれも仕事の片手間を利用しての編集であったため、2〜3ヶ月に一回ぐらいしか発行できなかった。

 組合広報紙として何とか毎月定期発行し、キメ細かく理事会の決定事項、事業進捗状況、あるいは各種の情報を組合員に伝達しようと試みられた。
 何分にも当時は近代化事業に本格的に取り組みはじめた頃で、事務的には多忙を極めていた。そのうえ、編集について専門的な知識や技能を持たない事務局が、資料を集めてそれなりの文章に仕上げるということはなかなか大変なことであった。
 "思いながらも、できなかった"と言うのが実状であったと言える。しかし、そのとき時の状況というものは、その時点で何等かの形で残しておかなければ、この近代化という大事業の経過は分からなくなってしまう。組合ニュースは、組合員に対する広報的な役割を持っていると同時に、将来に向かって組合としての歩みを記録に残すという役割も持っている。そのためには、多少の困難や苦労はあっても、何とか毎月の定期発行に踏み切ろう、ということになった。
 昭和53年10月発行分(第14号)から実施に移された。(この時までの発行状況は、平均すると 3〜4ヶ月に一回発行であった)
 編集については、私(組合専務)を中心にした「組合ニュース編集委員会」をつくり、この人達によって編集することになった。しかし、委員会が機能したのは最初の頃の2〜3回だけで、あとは私まかせということになってしまった。
 私とて、専門的な知識がある訳でもなく経験もない、まして仕事の合間を見ながらの編集であったので、いつも原稿作成に追い廻されていたというのが実体であった。
 それでも、この時から活字印刷に改めどうにか毎月の定期発行を続け、平成2年3月31日現在では151号を数えることができた。
 この間、名称も「協同組合だより」「協同組合ニュース」「中込商店会ニュース」と、何度か変わった。

 また、紙面の内容についてもそのとき時の状況によって変えられた。従来はとかく「上位下達」的な「お知らせ」形の紙面になりがちであったため、どうしてもお役所的で堅苦しい、という批判があった。そこで内容の充実と、組合員の組合ニュースに対する関心を高めようと「グリーンモール」という投稿欄を設けることにした。
 しかし、今まで何度か紙面を通じて組合員の投稿を呼び掛けたが、結局は皆無に等しかった経験から、半強制的な割当制を執ることにした。「題材は自由」「文章の長短・上手下手は問わない」という条件で、毎月1人ないし2人を指名し、順次全組合員に書いて貰うことにした。
 昭和54年8月から実施したが、案の定、組合員からは敬遠され苦情も多かった。ほとんどの組合員は久しく文章など書く機会がなかったうえに、その文章は組合ニュースの記録として永久に保存されるということだから、尻込みしてしまう心情は分かる。
 でも最終的には「全組合員が順次書かなければいけないのなら・・・」ということで、シブシブ筆を執ってくれた人が大半であったと思う。また、原稿が締切日までに提出されるということは稀であった。この方法は57年3月までの2年7ヶ月にわたって続けられ、投稿した組合員の数も42名にも及んでいる。
 想えば、確かに無理なところがあったと思う。しかし、今になってかつてのページをめくって見ると、近代化事業の真っ最中の時代であっただけに、当時の組合員の決意や心意気のほどが随所に見られ、感ひとしおのものがある。
 さて、その後は何としても投稿者がいなくなってしまい、己むを得ず、また組合事務局で編集することになった。

 昭和61年9月に長い間の念願であった「中込商店街青年部」が設立されたことから、紙面の一部に「青年部だより」の欄を設け、その編集は青年部副部長の井出一典氏が当たることになった。なお、この「青年部だより」欄にはほとんど毎月にわたって、青年部の活動状況や若い経営者の意識啓発のための情報、あるいは若者の立場からの提言、各種調査資料の分析などが掲載されており大変有意義に活用されている。
 このように組合ニュースは、幾多の変遷を経ながらも過去15年有余にわたって、組合の歩みを要点だけとは言え綴り続けてきており、それが現在でも続けられている。
 そして、この組合ニュースは組合員の広報紙としての役割を果たしてきたと同時に、組合の歴史を記録してきたものとして貴重な資料になっている。現に、本書作成に当たって、組合ニュースからの資料に負うところが大きかった。


 平成11年12月号の時点では、A3判両面を使いA4判4ページ組の体裁で発行を続けていて、225号を数えている。


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