(倉庫移転と公会堂3)

 一方、期成同盟会内部においても様々な動きがあり、その対応策に苦慮した。
 農協や市との折衝で、懸案事項がほぼ解決を見るに至ったので、昭和57年4月16日に第4回期成同盟会の総会を区画整理事務所で開催した。
 ところが、この総会で経過報告や決算報告は承認されたものの、57年度の事業計画と予算案は承認されず保留ということになってしまった。この事業計画及び予算案は、今までの経過を路まえての公会堂建設に関わる一切の処理と資金計画が盛り込まれていたのである。
 従って、これが承認されないということは具体的な作業は、すべて進まないことになる。
 保留になった原因は、期成同盟会の組織について次のような不満が一部の人から強く出されたことによるものであった。

1)期成同盟会は、中込地区内16団体によって構成されているとはいえ、実際は、橋場区区長会と一部役員(理事)によってすべてが進められており、地区住民は何にも知らされず蚊帳の外に置かれている。
2)期成同盟会の役員構成は、橋場区区長会のほかは、商店街関係の人達によって占められており、極めて不自然で異例な組織といえる。
3)地域住民の公平な利益を考えるならば、橋場区区長会を項点として、純粋な地元公共団体と各地区から特別に任命された委員によって役員 (理事)を構成し、商店街関係団体は後援団体として参加するのが本筋である。
4)一般住民から多額な寄付金を集めるからには名実ともに明朗な役員構 成に改編して、住民の意志が十分反映できる公会堂を建設すべきである。

 このことは、とりもなおさず、商店街協同組合、商店会の幹部役員が期成同盟会の副会長や理事に名を連ねていたことと、私が事務局を担当していたことによるものであった、と思われる。
 そこで、橋場区各区選出の役員(理事)を増員するとともに、改めて各区で区民総会を開き、区民の意志を確認することになった。
 早速各区ごとに区民総会が開かれたが、賛成の区が3つあったのに対し2つの区は反対気運が強く、1回の総会だけでは結論が得られなかった。
 そのため反対区については、期成同盟会の正副会長が総会に出席して説明したり説得に当たったが、何分にも感情的なものが裏にあっただけに、話し合いは夜遅くまで続き難航した。
 私もその掌に当たった一人で、矢面に立たされたこともしばしばであった。
 これに合わせるかのように、期成同盟会の組織や事業計画の批判、あるいは中傷的な怪文書が流される一方、中込農協に対しては土地の賃貸借契約を締結しないよう陳情書が提出されたり、さまざまな"いやがらせ"の行動があった。また、「公会堂の1室を事務所として貸して欲しい」という商店街協同組合の要望に対しては「一旦貸してしまえば、軒先を貸して母屋を取られてしまう」とか「出入ロを別にしろ」、「自分で金を出して造れ」などといろいろなことを言われた。
 一方新しく選出された理事を含めての会議もしばしば開かれ、善後策について何度か協議が重ねられた。その結果、反対区の区民総会でも多少の条件的なものはあったものの、ほぼ原案どおり承認されるに至った。
 そこで、5月28日に再度期成同盟会の総会を開き、4月16日に提出した議案を再提出した。ここでは、既に区民総会の承認も得られていることと、新しく各区選出の理事も出席していたことから、議事は比較的スムーズに進み、事業計画と予算案は原案どおり可決承認された。

 一連の公式的な手続きが終わったことから、農協とは土地賃貸借契約、建物の設計・維持管理などについて協議が進められ、内部では、寄付金集めの問題などが具体的に進められることになった。
 寄付金については他の財源との関係もあり、2,000万円を目標に資金計画がたてられた。 2,000万円という額は、橋場区500戸として1戸平均4万円になるが、これは他地区に比べれば比較にならないほど安い額である。しかし、各区ごとの総会や期成同盟会の総会で「これ以上は絶対に増額しない」という確約をしてきた経過もあったことからこれを増額することはできなかった。
 資金委員会が主体になって何回も各区ごとの割当額を検討したり調整を行なった。寄付金は、特志寄付を除いて各区長が中心になって集められた。一部に今回の公会堂計画に反対を理由に寄付に応じなかった者はいたものの、総額1,964万円(457戸分)に達した。
 寄付金集めも予定どおりの成果をあげることができたため、全体の資金計画(市補助金、旧公会堂取り壊し補償料、商工会議所寄付金、土地売却代金など)は、ほぼ計画どおり確保できることになった。
 昭和57年8月19日、公会堂建物の入札を行ない、大進建設鰍ノ8,740万円で落札した。(中込農協分32,112千円、公会堂分55,288千円) 翌20日には起工式を行ない、10月5日上棟式、11月30日には完成を見たのである。
 また、商店街協同組合は周りの土地を農協から借りて駐車場として整備した。(12月末に完成)

 翌58年1月22目に、中込農協と期成同盟会共催により、落成祝賀式典を行ない関係者約100名で完成を祝った。
 期成同盟会は、公会堂建設に関する、一切の業務を終え、今後の維持管理、運営を、橋場区区長と区選出委員、中込商店街協同組合、中込農協とで組織する「中込橋場公会堂運営委員会」(会長は歴代橋場区区長会長)に引継ぎ58年8月2日をもって解散した。
 想えば、この公会堂問題は苦難の連続であったといえる。当時「とんでもない発想だ」「無謀だ」とも言われたが、結果的には"橋場区百年の大計''という大義名分のもとに、区民と中込農協の理解と協力によって、見事にこれを実現させることができた。
 「土地ころがし」「ある特定の人のための仕事」あるいは「商店街のための公会堂」など、さまざまな批判、中傷、嫌がらせもあった。
 しかし、この公会堂は、ただ単に橋場区民の寄りどころというだけでなく、佐久市の一つの拠点として広く活用されており、「市内の集会施設の中では最も利用率の高い施設である」と高く評価されている。


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