海の旅☆ダイビング水中写真旅日記
マルコス政権時代のフィリピン
Philippine Cebu
私が初めてフィリピンに行ったのは・・・Mr.Matsuda
マルコス政権末期の、1985年2月13日。1986年に起る 2月革命
のちょうど1年前でした。フィリピンが、そんなに政情不安という
ことも知らず、フィリピン航空機内で旅行の夢を見てる私です。
若いですね〜!(笑)今回のセブ島はダイビングではなく、、会社
の旅行での参加でした。 海の旅☆ダイビング水中写真旅日記
マニラに着いて驚いたことは・・・
マニラ国際空港に、集まっている群衆が皆やせ細
っていて、目だけが暗くギラギラしていたことです。
フィリピンの現状を垣間見た瞬間でした。
マニラについて、市内観光をし夕方 国内便に乗り
セブ島ヘと向かいました。写真の「危険人物」と
書かれたTシャツを着ているのは、私の後輩なの
ですが、彼には面白いエピソードがあります。
成田のホテルで、夕食の注文を取る時皆に日本語
で聞いていたのですが、彼の前に来た時突然中国
語で注文を聞かれ皆、呆然です。(笑)
セブ島はトロピカル!
もう一つはマニラのホテルのエレベーターに
乗り込んだとき、彼がガードマンから急に引きず
り出されてしまいました。
日本人に見えなかったのか?着ていたTシャツ
が悪かったのか?(笑)皆さんTシャツを選ぶ時
は気をつけましょう!

当時のマニラ市内は、中心部を抜けるとスラム街
が続いていましたね〜!
でもセブ島は、マニラと比べパラダイスでした。
田舎でのんびりしていますし警備もしっかりして
いました。
フィリピン人のガイドさんとの写真です。
皆さんやせていましたね〜!
この後リゾートを離れ 宿泊ホテルのセブ
プラザホテルに戻ったのですが、窓の下
に大勢の子供達が集まって、何か言って
います。
よ〜く聴いてみると「ギブ・ミイ・マニィー」
と言っているではないですか〜!
海から見たセブ島タンブリ ビーチリゾートです。当時の日本から見てもパラダイスでしたね〜!
1985年2月15日(金)
セブ島から11時発の国内線に乗りマニラに戻りました。12時過ぎにマニラへ到着後、市内のレストランで昼食をとり
タガタイ観光へ。果物屋さんで甘いパイナップルやバナナを頂きました。とても美味しかったですよ〜!夕食マニラ市内
のレストランで撮ったときの写真です。Lサインはアキノ支持の合図、Vサインはマルコス支持の合図なのです。
もちろん私はアキノ支持になりました。このレストランに入る時も大変でした。バスの周りに人だかりが出来てショットガン
を持った警備の人に通路をつくってもらい、やっと入ることが出来ました。トイレに行く度チップは要求されるし大変でした。
フィリピンマルコス政権 末期症状! 1985年 当時なんと1ドルは250円
でした!
その証拠の両替時の書類があり
ました。
100ドルはフィリピン人の3か月分
の給料だったのですね。
この監獄跡にも地元の子供達が
何処から入ってきたのか観光客の
そばに来て「ギブ・ミイ・マニィー」
を繰り返していました・・

1985年2月16日(土)
フィリピン旅行最後の日、午前中マニラ市内観光をしたました。写真はスペイン領時代の監獄跡です。
この観光地の入り口の警備をしている警察官が、自分の帽子や驚いた事に拳銃を買ってくれと言うのです。
100ドル位だったと思います。この当時フィリピンで一番給料のいい軍人で月給が9千円でした。
でもここの警察官と空港の税関が組んでいて、買ったものは空港で取り上げられる仕組みだそうです。
この当時フィリピンで太っている人は警察官だけでした。
この年マニラでは、強盗、火付けが相次ぎサイレンの音が
夜中まで鳴り響いていました。次の年の2月に革命が起き
るとも知らずに・・
日本の平和を実感しながら私は機上の人でした。

翌年クーデターが起きマルコス政権からアキノ政権へ

↓前途多難のフィリピン海の旅1986年へ。まだまだ続く↓
第1話 フィリピン航空でマニラからセブ島、アルガオでボートダイビング
第2話 カビラオダイビング〜タンブリ〜セブ空港閉鎖!法定伝染病 コレラ発生!
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