モドル

■君の名を呼ぶ静かな声 (二)



「よう、ちょっと邪魔するぜ。」
 ノックの後の返事も待たずに、ビクトールはドアを開けた。隙間から光が漏れていたので、クラウスは起きているはずだし、物音もしないので来客もないはずだから、というのがその理由だ。本音をいうなら、いやな役目はさっさと済ましてしまいたい。
 こんな夜中にやってきたビクトールを、クラウスは不快な顔一つ見せずに迎えてくれる。これが彼の師匠なら嫌味や皮肉の一つや二つはいただけるところだろうが。
 サイドテーブルに置かれた灯火の下、ぞっとするくらい厚みのある書類の山を視線の端に捉えたビクトールは小さく肩をすくめた。所謂、戦後処理ってやつなのだろう。戦死者の名簿から、新しい辞令や公布。傭兵の役目は終わっても、この手の事務が残っている限り、文官の仕事は終わらないというわけだ。
「…すまんな、仕事中に。」
「いえ、ちょうど一休みしようかと思っていたところですから。」
 手際よく、お茶の準備をしてくれる若者の優しさに、またビクトールのプレッシャーが増した。彼の師匠のように、多少なりとも憎たらしいヤツならば、ビクトールの罪悪感も軽減されたろう。
「はい、どうぞ。」
「お、サンキュ。いい香りだな。」
「シーナがこの間、交易のお土産にって持って来てくれたんですよ。」
 静かに笑いながら、ビクトールに椅子と紅茶を勧めてくれる。
「へえ、あいつが?珍しい。」
 カップからの懐かしい香りに、ビクトールの相好がゆるんだ。シーナがお土産だなんて…と思ったら案の定。このお茶はトラン共和国のものだ。実家から貰ってきたお土産を、さぞや大仰にシーナはクラウスに捧げたんだろうし、ちゃんと判っているクラウスも丁重にそれをいただいたろう。
「シーナは、見かけよりもずっと優しいですよ?」
「は…ははは。それを本人に話したら、かなり面白い反応が返ってくるんじゃないか?」
「ふふ、そうですね。」
 クラウスは両手で包み込んでいたカップを、ようよう口元へと運んだ。
 それっきり、会話が途切れる。最初に口火を切ったのはクラウスのほうからだった。
「シエラさんが行ってしまわれたのですか?」
 危うく、紅茶を噴出すところだった。人の言葉を先取りするってのは、軍師の特殊能力なのか?だとしたら、悪趣味もはなはだしい。
「おまえ、知ってたのかよ?」
「昨夜、シエラさんにお聞きしたんですよ。」
 ビクトールは更にぎょっとした。そうすると、この軍師殿はシエラがここを去ることを知っていたことになるではないか。
「…なんでだ…?止めなくていいのかよ?」
 クラウスとシエラがお互い憎からず思っているのは、周知のことだったのだ。
「・・・・。」
「おまえ、行って欲しくなかったんだろう?傍にいて欲しいって思ってたんだろう?ずうっと一緒にいたいって思ってたんだろう?」
 ビクトールの言葉を受けても、クラウスの面には漣すらたたない。優しげな笑顔、いつもどおりのクラウスだった。
「昨夜、シエラさんがこの部屋に来られました。きちんとノックされて入ってこられるから、誰かと思ってしまって・・・。」
 いつもは大抵、窓から入ってくるか、私よりも先に部屋にいらっしゃるんです、とクラウスは小さく笑った。そんな青年の様子に、どこかしら違和感を感じて、ビクトールは不安になる。
「…クラウス?」
「可笑しいですね、あの人も私も、お互いのことをちゃんと見つめようとしていなかった。それに気がついていたのに、何もしようとしなかった。お互いの嘘に騙されていた方が都合がよかったから、このままでいられないと判っていても、それ以上なにもしなかった・・・。」
「クラウス・・・。」
 深青の瞳に、虚ろな色が漂う。確かに自分の傍にいるはずの、ビクトールの声が、その存在が、頼りなく崩れ去って空へと流れ去っていった。
 何もかもが幻だった。いや、そうであって欲しかったのだ。自分のいる場所がハイランドでないこと、父が死んだこと、シュウという名の師、笑っているシーナ、自分の存在ですら、遠くに霞んでいる。そして、シエラという名の少女も。
 もうここにはいない彼女。その笑顔がどうしてクラウスには思い出せないのか。他人行儀な「さよなら」の言葉と、諦めと憐憫に縁取られた瞳。あの人はあのとき、少しも自分の不実をなじろうとはしなかった。ただただ悲しげに笑うだけで。
 息が苦しい。心が押しつぶされそうだ。大切だったのに、誰よりも好きだったのに。それなのに、自分は。おそらく必死の思いで差し出したろう彼女の手を選べなかったのだ。

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(2002/11/16)



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