モドル

君の名を呼ぶ静かな声 三 

戦死者のリストに、ハイランドの戦後処理。戦死者の遺族への保証、ハルモニアへの折衝、やらねばならないことはあまりにも多い。勝利することで仕事が終わるのは戦士だけだ。クラウスやジェスたち、内政に携わる者たちが死ぬほど働かねばならないのは、寧ろこれから。クラウスの目の前に山と積み上げられた書類の山。執務時間に処理しきれず、とうとう自室にまで持ってくる羽目になってしまった。泣き言は言うまい。アップルやフリードの机の上にも同じほど、正軍師殿にいたってはこの倍の書類を抱えているはずだ。とはいえ、この量ではやる前から嫌気がさしてくる。
――ま、一日くらいなら寝なくても大丈夫だろうし…。
 誰かが代わりにやってくれるわけもない。やらねばいつまでたっても終わらないのだ。それに、徹夜がきかない年でもない。覚悟を決めて、クラウスは机に向かおうとした。

 とんとん。

 ノックの音で、クラウスの勢いは削がれてしまった。どうやら、神様は彼に仕事をさせたくないらしい。
「どうぞ。開いてますから。」
 小さく肩をすくめて、クラウスは机から離れた。誰だか知らないが、こんな時間にやってくるなんて非常識も甚だしい。重大なことならよし。もしもくだらない用事なら、嫌味どころじゃ済まさないぞ。そんなことを思いつつ、クラウスはドアを思いっきり引いた。
「あ・・・。」
「失礼します。ごめんなさい、こんな時間に。」
 ぺこりとクラウスに向かってシエラが頭を下げる。
「い、いえ、いいんです。」
 しどろもどろになりつつも、クラウスはシエラを部屋に招きいれた。終わりが見えないほど溜まってしまっている仕事のことなど、あっという間に頭から吹っ飛ぶ。我ながら現金な、と思うけれど、これくらいは大目に見て欲しい。ティントの町で、彼女に初めて会った時から。シエラはクラウスにとって、特別の女性なのだから。そう、例え彼女が何者であったとしても。
「こんな夜更けに、一体どうなさったのですか?」
 いつにもまして大人しいシエラに椅子を勧め、彼女が黙って腰をおろすのを見届けてから、クラウスは自分も向かいに腰を下ろした。こんな夜中に、若い女性が男性の部屋を訪ねるなんて尋常のことではない。とはいえ、夜型のシエラにとってはそんなに珍しいことでもなかったので、クラウスも軽い気持ちでそういったのだ。ところが、彼女の返事は思いがけないものだった。
「…お別れをいいにきました。」
「え…?」
「戦いも終わったですし、もうここにいる理由がなくなってしまいました。また、旅に出ようかと思って。だから…。」
「シエラ…さん。」
 シエラの濡れた瞳は、紅く憂いに色づく。
「だから、もうお別れです。クラウスさん。私はここにはいられません。」
「…。」
 どうして私は、彼女に何もいえないんだろう?”行かないでください”でも”傍にいて欲しい”でも、何か口にしたかったのに。馬鹿みたいにシエラの顔を見つめるだけで、その言葉はどうしても私の舌にのぼせられなかった。こんなにも胸が痛いのに。こんなにも寂しいのに。どうして私は何もいえない?
 シエラの紅い瞳に、クラウスは捕らえたままだった。それから逃れたくて、知らずにクラウスは俯く。
 ”私とずっと一緒にいてください。”
 その言葉が言えないわけは、お互い判りすぎるほど判っていた。そして、宿星の役目を終えた今となっては、二人が一緒にいる必然はない。それは確かにその通りで…。
 不意にクラウスの手に、シエラの手が重ねられた。人の熱を持たない少女の手は、否が応でもクラウスに現実を思い起こさせる。
 今まで彼女と過ごした時間は幸せだった。だが、そのときが来るまでの偽りの時間が終わってしまい、いざ現実が目の前にやってきたとき、初めてクラウスは理解する。いずれ来るべき現実を乗り越えるための準備を、彼は何もしてこなかった。何も知らぬふりをして、目をそらしてきた結果、今こうして追いつめられ狼狽えるだけの自分の情けなさはどうだろう?シエラの方が、よほどに潔いではないか。少なくとも、彼女はけじめを付けてくれようとしている。それを受け入れることが、彼女にしてあげられる最後のことなのでは?
 でも、一度触れてしまったものを諦めきることなんて本当にできるのだろうか?彼女の声も、仕草も、笑顔も、白い肌も、みんな覚えてしまっているのに。
「……クラウス。」
 シエラの声に、びくりと体が震えた。彼女の手は、いよいよ冷たくクラウスを追い詰める。そして、今、シエラは「クラウス」と呼んだ。その言葉に、クラウスはもう顔を上げることはできない。見知った少女がどこにもいなくなってしまったことが、彼にも判っていた。
「妾と一緒に来ぬか?誰も知らない遠くへ、おんしがそれを望むなら、一緒に・・・。」
「シエラ・・・さん。」
「世界はおんしが考えているよりもずっと大きくて、広いもの。見たことのない景色、聞いたことのない音楽、想像もできないような生き物。それを見てみたいとは思わぬか?そこではハイランドのことも、都市同盟のことも、誰も知らぬ。戦争があったことでさえ、知るものはおるまいよ。おまえのことも、妾のことも、誰も知らぬ国。紋章の存在も知らぬ国、そこへ行ってみたくはないか?クラウス?そして、妾と同じ時を生きてはくれぬか?」
 シエラと同じ時を生きる・・・?人の命を捨てて、月の民の一人となる・・・?でも、その代わり、クラウスはシエラ以外のすべてを無くしてしまう。
「私は・・・。」
 シエラのことを、どれだけクラウスは好きだったろう。彼女がいなかったら、ハイランドへの裏切りも父親の死もきっと乗り切ることはできなかったに違いない。だけど。
「自信が、ありません。」
 何もかもを捨てて、彼女と共に過ごす”永遠”。身も心も、人外のものとなりはて、時間に倦みつかれて、ただ生きるだけの時間。いくら傍らに彼女がいたとしても、そんな時間に果たして自分は耐え切ることが出来るだろうか。ましてや、月の紋章がまた失われるようなことになれば。
 息をするのさえ重苦しい沈黙の時間が、室内に澱む。シエラは、一言も発しなかった。押しつぶされそうな空気から逃げ出してしまいたい一心で、あらぬことを口走ってしまいそうな自分をこらえるのにクラウスは精一杯だ。
「判った。」
 やがて、シエラが口を開いた。
「すまぬな、埒のない戯言を聞かせてしもうた。忘れておくれ。」
 優しい言葉が、クラウスの心を鋭く抉った。
 今ならまだ間に合う。シエラと共に生きることを選びなおせる。好きだといえる。いや、私は本当に彼女のことが好きだから、ずっと一緒にいたいと思っているから。

だのに、どうして?

 クラウスはどうしてシエラを見ることが出来ない?
それは。
  最後の最後になって、クラウスは怖いのだ。人ならざる、夜の顕現したる者。闇の中に息づく、紅い魔物。恋人としての偽りの時間が、甘やかであればあるほど、シエラの真実の姿が怖い。
 衣擦れの音と共にシエラの手が、クラウスから離れた。
「さようなら。」
 シエラの言葉にクラウスの顔が上がる。泣いているのかと思った彼女は、ただ微笑んでいた。
 何も言えず、何も出来ず、部屋を立ち去るシエラを引き留めることもできなかった。
 ひどく寒い。シエラが去った部屋の中で、クラウスは動けない。シエラは行ってしまった。もう二度と戻ってはこないだろう。クラウスは最後の最後で恋人を裏切ってしまった。しかも、もっとも相手を傷つけるやり方で。
――私は、人を好きになる資格がないのかもしれませんね・・・。
 止まってしまった時間の中で、彼はぼんやりとそれだけを思った。

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(2002/11/24)



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