モドル
注意! この話の中で、軍曹は人化します。その手の話の苦手な方は、ひきかえして下さいませ。

■もしも願いが叶うなら 二 

 風を感じればいつも気持ちが晴れるものだけれども、今回ばかりは軍曹の鬱屈をはらしてくれそうになかった。ビュッデヒュッケ名物、乗り上げた帆船の上から一人海を望む軍曹は、ぼんやりと水平線を見つめていた。
 彼が人間になってからもう一週間が経つ。ダックが人間になったなどという、軍曹にとってはこれ以上ないくらい恥辱的な事件も、この城の住人たちにとっては大した出来事ではなかったらしく、二、三日、好奇の視線やいきさつを知りたがる人々につきまとわれた後は、もうすっかりまんますべて受け入れられてしまった。今では人間の姿で交易に参加し、ヒューゴの護衛につき、ルシア族長と会話する。こうなると、彼自身、ダックだった自分自身の存在を忘れてしまいそうになる。ダックだろうが、人間だろうが、そんなことは周りのものからみれば些細なことなのだろう。それを証拠に、もっとも近しいヒューゴでさえも、衝撃のご対面から立ち直った後は、すっかりいつも通り。まるで何事もなかったかのようで、それどころか、喜んでいるような素振りも見せるようになった。

 ため息は、つけばつくほど彼をどん底へと引き込んでいく。

 ダックだろうが、人間だろうが、やはり周りの人々にはどうってことのない些末なことなのだろう。ならば、悩んでいるだけ馬鹿馬鹿しい話だ。それに、ジンバに借りた古着を身に纏う軍曹は、どこをどうみたってカラヤ族以外には見えない。トレードマークのヘルメット、チョッキに休暇をとらせれば、ますます彼はダックから遠ざかる。一体、自分は何者だ?
 アイデンティティの喪失に悩む軍曹は、海に向かい一人苦悩していた。その横顔がかなり魅力的だったのは、彼としては喜ばざることであろう。
「軍曹。」
 いついかなる時でも、この声だけは聞き逃さない。振り返ればそこにいるのはやはりヒューゴで、軍曹は慌てて笑顔を取り繕う羽目になった。
そんなささやかな努力にも気がつかぬように、ヒューゴは軍曹の隣にそっと近寄る。
「随分探したよ、俺。」
「ん、ああ。すまん。ここは風が気持ちいいから…つい、な。」
「草原の風の方がずっと気持ちいいよ。」
 ぬめりを含んだ潮風に、ヒューゴは眉根を寄せている。海独特の匂いと湿気に、彼は未だ慣れていない。
「城を勝手に離れるわけにもいかんだろ。」
 ”一応、俺は軍人なんだからな。”そう付け加えた。それが言い訳なのは、軍曹自身が一番良く知っている。本当のところ、外にはあまりでたくないと思っている。人間になった無様なダックだと蔑まれている、と悪意なき視線にもそんな色づけをしてしまう。例え、誰も自分を軍曹だと気がつかないとしても、こんな姿をこれ以上外に晒したくはなかった。
 フト気がつくと、ヒューゴがまじまじと軍曹を覗き込んでいる。
「なんだ?」
「ううん、こうやってみると軍曹って男前だなと思ってさ。」
「はは、そりゃどうも。」
 人間になった軍曹は、背丈も手足もぐんと伸びたし、黒髪で日焼けした肌はダックの時の彼にはなかったものだ。体型が元から変化したので、ミスティプラジュリが馴染まなくなったし、背が伸びた分だけ視界も違う。ヒューゴを見下ろすなんて何年ぶりかの出来事なのだ。不用意な願い事が、すべてを変えてしまっていた。軍人の瞳だけが、唯一以前の自分の縁だった。それが残っていなかったら、立ち直るのにももっと時間がかかったはずだ。
「軍曹…?」
「ん?」
「これからどうするの?」
 正直、それは軍曹が誰かに聞きたかった。”これからどうしたらいいのだろう?”と、その答えが知りたい。いや、そもそも自分はどうしてあの女性に”人間になりたい”などと願ったのだろうか。寝ぼけた自分の適当な願い事が心底恨めしい。
「まあ…そうだな。」
 だが、ヒューゴの言葉で腹が決まった。今更じたばたしても、現実は変わらないのだから。
「とりあえず、任務続行だ。おまえのお守り役としては、ダックよりも人間のほうが何かと都合がいいだろうし。戦争が終わったら、元にもどる方法を考えるさ。」
「もし、戻れなかったら?」
 ヒューゴは真剣な顔で、痛いところをついてくる。
もし、戻れなかったら。
 当然、一生このままだという可能性もあるのだ。一生、人間のままという可能性も。
「そのときは、カラヤで厄介になる…ことになるんだろうな。今までも俺はずっとカラヤで生活してたから、それほど迷惑にはならないと思うが。」
「ダッククランには戻らないってこと?」
 軍曹が苦笑を浮かべたのは、多分無意識だ。
「でも、軍曹、ダッククランに奥さんと子供がいるっていってたじゃないか。」
「………そうだな。」
「俺が一人前になったら戻るって、そういってたよね?俺…俺、時々思ってた。軍曹が…軍曹は俺のお守り役を母さんから言われたから、小さい頃から俺の面倒をみないといけなくなったから、ずっとカラヤにいてくれて、俺の傍にいてくれて…俺、それが当たり前だと思っていたけど…軍曹は自分の家族との時間をずっと犠牲にしてくれてて…それなのに、こんなこと…俺…俺…ごめんなさい、軍曹…俺…ごめんなさい…。」
 泣き出しそうなヒューゴの、その口元に軍曹はそっと手をおいた。放っておけば、聞きたくない言葉を聞いてしまいそうで、正直怖かった。ヒューゴが口に出してしまうことのなかには、自分があえて目をそらしていたことがあるはずだから。
「大丈夫だ、ヒューゴ。俺の経験上、この手の類はそうそう長く続くもんじゃない。」
 軍曹の手を振り払うように、ヒューゴは海へと視線を逸らす。そんな仕草はやっぱり幼くて、自然と軍曹の口調も子供への慰めになってしまう。いつものように。
「それに、どうしてお前が謝るんだ。こうなったのは俺の不注意だ。お前のせいじゃないだろ?」
 船縁のヒューゴの両手が、ぎゅと握り込まれる。
「だって…。」
「お前が俺のことを心配してくれてるのは嬉しい。だから、そんなに思いつめてくれるな、かえって心配になっちまう。」
「……。」
 いつも通りに、ヒューゴの頭をぽんぽんと撫でる。顔を覗き込んで笑う。

 大丈夫、ダイジョウブ。きっとなんとかなるから、泣くんじゃない。俺が何とかしてやるから。そんな思いを込めて。何の根拠もない、口だけの慰めを、軍曹はまた口にした。

「…違う。」
「??」
「違う…違うんだ…!」
 涙をいっぱいにためたヒューゴの瞳は、緑色に燃えていた。こんな目は今まで見たことがない。怒りも悲しみも、軍曹に向けられているのは確かだが、彼には全く身に覚えがなかった。
「俺、ずっと思ってた…軍曹が、軍曹がカラヤの人だったらずっと一緒にいられるって…ダッククランに帰らないで欲しいって…家族よりも俺の方がずっと軍曹に近いって…。軍曹が…軍曹が人間だったら…って…!軍曹を人間にして下さいって…!俺…俺は…。」
 風呂場のゴロウが階段から顔をのぞかせ、物干し場の女性が興味津々にこちらを伺っていた。止まらない涙を拭おうともしないヒューゴの前で、見事に思考硬直に陥って立ちすくむ軍曹の様は、彼らの目に一体如何に映ったろう。
 それでも、ヒューゴの感情のままの言葉の、問題のセリフを軍曹はどうしても聞き流すことができなかったのだ。
「…お前も、あの女に願い事をしたってのか?」
「そう…軍曹を人間にして下さいって…俺が願った。」
 足下の温度が一気に冷えた。歪んだ視界の先、ヒューゴの顔も歪な貌に変わる。
「なんで、そんな馬鹿なことを、願ったんだ。」
 軍曹自身もその願いを口にした。だが、その報いは我が身で受けた。人々の好奇の視線と、無遠慮な質問、軍人のプライドはずたずたになったし、何より自分というもののよりどころを失った。自分で招いたことならば、まだ納得がいくが、そうでないというのならまた話は別だ。
「…俺…軍曹が好きで…。」
 そんな理由でか?と。そんなことで、俺はこんな姿になったのかと思った。この感情が八つ当たりだとは判っていたし、ヒューゴを責めるのは間違いだと知っている。が、振り上げた手を止められなかった。

 バシッ。

 三年と二ヶ月ぶりでヒューゴにした平手打ちは、軍曹が思ってたよりもずっと痛そうな音がした。

(2003/11/25)


※…ヒューゴはとにかく、軍曹はヒューゴのことを保護の対象としかみてません。



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