注意! この話の中で、軍曹は人化します。その手の話の苦手な方は、ひきかえして下さいませ。
■もしも願いが叶うなら 三
酒はすべての憂さを忘れさせてくれるなどと、よくもまあ世々の小説家は根も葉もない嘘を世間に広めてくれたもんだ。
グラスの酒は、飲みなれたいつものものではない。アンヌが仕入れてきた辺境諸国産のそれは、憂さどころか記憶も飛ばしてくれそうな類の代物だった。グラスを煽れば、焼け付きそうな熱が喉を落ちていく。
グラスが空になったら注ぐ。ボトルが空になったら、もう一本頼む。それを機械的に繰り返す。アンヌが黙々と自分の注文をこなして、テーブルに持ってきてくれるのが有り難い。こんなやけくそな飲み方は生まれてこの方したことがないから、きっとアンヌも気遣ってくれてるのだろうと思った。夕方から酒場に籠もって酒を飲みまくる自分の姿は、傍目からみればみっともない以外の何者でもないのだろうけれど、そんなことはもうどうでもいい。
ヒューゴのことを、考えずにいられるなら、どうだっていい。
殴った後、ヒューゴをその場に残して逃げるように立ち去った。
怒りにまかせて暴力を振るった自分を許せない。ヒューゴに会うのが怖い。自分は守り役失格だ。そんなことがぐるぐると頭の中で回る。
ヒューゴを殴ったのは昨日の話。それからずっと右手が痛む。そんなはずはないのに、ずきりと痛んで、自分のしたことを忘れさせない。ヒューゴの目が、涙が、いつまでたっても離れない。
──駄目だ、いや、なんなんだ、これは。そうじゃなくて、いや、俺は…。
訳が判らなかった。ヒューゴのことを思い出すたびに、きしきしと心が悲鳴を上げるのを聞いているのに。酒を飲めば忘れられるはずが、全く効果がないばかりか、ヒューゴのことしか考えられなくなっている。
泣きながら、自分を睨み付けている顔。
炎の紋章を受け継いだとき、一瞬みせた不安な表情。
泥と涙と血にまみれて、それでもルルの体を抱いていたヒューゴ。
ブラス城の大橋を、ルルと並んで駆け出した後ろ姿。
笑顔。寝顔。名前を呼ぶ声、泣き声。喧嘩して、仲直りして。
左手の動きで読めてしまう剣の間合い。なかなかなおらないその癖。
流行病の時は、徹夜でヒューゴを看病して。結局、うつされて逆にヒューゴに看病されて。
記憶の中のヒューゴは、どんどん幼さを増していく。
産着の中で笑う赤子。
”ヒューゴ”と名付けられたその子供。
触れた指を握り返されて、慌てる自分。
「落とすなよ、ジョルディ。」
ジンバが笑う。
「その子のお守り役を頼まれてよ、ジョルディ。」
駆け出しのヒヨッコだった俺に、ルシア族長はそう言った。そのときからずっとずっと傍にいた。父のように、兄のように、友達のように、師のように。
──俺…軍曹が好きで…。
好き?好きだって?勿論、軍曹だってヒューゴのことは好きだ。誰よりも大切で、いつだってヒューゴを守ってやりたいと思っている。大事な、養い子。それなのに、どうしてこんなことになったんだろう。
──軍曹を人間にして下さいって、願った。
人間だろうが、ダックだろうが、そんなことが何の関係がある。種族は違っても、二人は上手くやってきたし、これからもきっと上手くやっていける。
なんで、なんでヒューゴはそんなことを願った?いや、どうして俺はあのとき、人間にしてくれとあの女に言ってしまったんだろう。寝ぼけていたから?いや、それは違うような。人間になって、そして俺は一体何をしたかったんだろう?何故?何故だ?俺は一体、何を考えて、俺はどうして…??何故?
ドン。
酔っぱらいのエンドレス思考を断ち切ったのは、許可なく向かいの席に腰掛けてきた男。上から見下ろすようなヤな笑みを浮かべた金髪の、できればこんな自分の姿を見られたくない奴──ナッシュがそこにいた。
「よぉ、色男。酒場でお会いできるとは嬉しいね。」
そう言いつつ、ナッシュはテーブルの酒を勝手に自分のグラスへと注ぐ。
酒の一本や二本でがたがた言うほど小さくはないが、この男に飲まれるのは腹が立つ。虫が好かない相手ってのは、どんな奴にでも一人や二人はいるもので、軍曹にとってのそれは目の前にいるハルモニアのスパイ殿らしかった。
「これはまた…珍しい酒を飲んでるなあ。」
口に含んだ酒の、あまりのアルコール度の高さにナッシュは目を瞬かせ、それでも飲みこむ。ざまあみろ、という気分になって軍曹は我に返った。
俺の酒だぞ、これは。
「何のようだ?」
「いやいや、特に用事というわけでもないが、ヒューゴと大喧嘩した上に泣かせちまった輩が酒場でつぶれてるって噂を聞いたんでね、面を拝みにきた。」
「ふん、顔をみて満足したならとっとと出ていったらどうだ。」
「荒れてるなあ、軍曹さんよ。そんなに後悔するぐらいなら、なんでヒューゴを泣かせたんだ?」
「…お前には関係ない。」
「優しくしきれなかったことが、そんなにショックだったのか?それとも、何かほかの理由があるのか?」
なんなんだろう、この男は。一々鬱陶しく絡んでくれる。
軍曹はどんどん腹が立ってきて、さらには気分も悪くなってきた。追いつめられたような気分になっていることを、認めたくはなかったし、知られたくもなかった。この男の口を今すぐ塞いでやりたかった。
「五月蠅い。」
「ヒューゴを判っているつもりで、ちっとも判ってなかっただろう、あんた。」
「黙れ。」
「認めたくなくて目をそらしてて、ヒューゴのこと、全然考えてなかったんだ、認めろよ、いい加減。」
「!!…おまえ…喧嘩売ってるのか?」
「さあね、その様子をみると図星…っ…!」
もう沢山だ。胡散臭いハルモニアのスパイ風情に説教されるのも、自分の酒を飲まれるのも、ヒューゴのことを考えるのも。
卓をはねとばして、軍曹はナッシュに飛びかかる。瓶やグラスの破砕音、アンヌが自分の名前を叫ぶのを聞いた。目ざとい酔漢のはやし声や指笛が響く。
にやけ男の不意をついて、殴りかかった軍曹の拳が相手の顔にクリーンヒットした。速攻でくらったお返しは腹に一発。しかも足で。
膝を折った軍曹の体に、更にもう一発。今度は顔だ。
──畜生、飲み過ぎた!
と、後悔しても先には立たず。足下が危ういから、パンチに体重を乗せられない上に、狙いまでずれてる。
ギャラリーがわっと盛り上がる。勝敗が見えかけたのを喜ぶ声か、それとも、早すぎる勝負の終わりをなじる声か。軍曹がナッシュの足をとって、床にひき倒したとき、その声は更に大きくなった。
無責任なヤジの中、軍曹たちは散々殴り合い、酒場を荒らし尽くし。
そして、最後は。アンヌに泣きつかれたルシア族長に一喝され酒場を追い出される羽目になった。
「二人とも、いい加減にすることだね。」
この上なく冷たい、彼女の言葉をお土産に。
(2003/12/01)
※ナッシュってなんとなくヒューゴのことを微妙に嫌っているような気がするんですが…チシャクランでも気になるセリフをヒューゴにいってましたし。多分、昔の自分を思い出すから等の理由からだと思います。 |