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薩長因縁の昭和平成史  【日本を蝕む魔の触手】

 その1 薩長因縁の昭和平成史 .  その2 薩長因縁の昭和平成史 .  その3 薩長因縁の昭和平成史 .
 その4 薩長因縁の昭和平成史  その5 薩長因縁の昭和平成史  その6 薩長因縁の昭和平成史
 その7 薩長因縁の昭和平成史  その8 薩長因縁の昭和平成史  -



薩長因縁の昭和平成史
その8
満州をめぐる因縁 ・ 靖国神社をめぐる因縁(1)
靖国神社をめぐる因縁(2) ・ 自民党をめぐる因縁
□あとがき
満州をめぐる因縁

 マッカーサー解任を見てみよう。マッカーサーが中国の海上封鎖、満州への原爆投下も辞さない爆撃、国民党軍の中国南部侵攻を提案したことがトルーマンとの対立を生んだと言われている。日本に続いてマッカーサーもまた満州という虎の尾を踏んだのである。この点について松本重治が非常に興味深い裏話を披露しているので紹介しておきたい。

 松本は『上海時代』(中公文庫)や『われらの生涯のなかの中国』(みすず書房)で、原爆をも視野に入れた満州爆撃を止めさせたのは19世紀にアヘン貿易で巨大な富を築いた香港の英国系大財閥ジャーディン・マセソンのオーナー一族の一人、ジョン・ケズウィックだと書いている。ジョン・ケズウィックが満州爆撃の中止を求めて当時のクレメント・アトリー英首相(労働党)をワシントンに飛ばせた。そして、この事実はジョン・ケズウィック自身も認めていたと書いている。

 ジョン・ケズウィックはその理由として「中国人民がこれ以上の戦禍に巻き込まれることは堪えられなかった」としているが、明らかにビジネス上の計算があったはずだ。従って、マッカーサーを間接的に解任に追い込んだのはジョン・ケズウィックだったということになる。

 ケズウィック・ファミリーと日本との繋がりも深い。長州ファイブを支援したのもジョンの祖父・ウィリアム・ケズウィックだった。松本は共同通信の前身である同盟通信上海支局長時代にまたデービッド、トーニー、それにジョンのケズウィック3兄弟と出会い、このジャーディン・マセソン人脈を頼りに英国紳士が集う「上海クラブ」に入会する。松本の招きでこの上海クラブのゲストとして優遇されたのが樺山愛輔であった。松本はケズウィック3兄弟の親友となり戦後もその親密な関係は続いた。

 このジョン・ケズウィックはビジネスマン以外にもう一つの顔を持っていた。英国が中国に送りこんだ工作員だったのである。すでに紹介した英国特殊作戦執行部(SOE)の中国での活動指揮にあたっていたのがジョン・ケズウィックだった。そして、ジョンはコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員も出入りしていた国際問題研究所(IIS)とその下部部門の資源調査研究所(RII)を活用して、巨大なスパイ網を掌握した。さらに42(昭和17)年に独立した連絡事務局を設置し、自由フランス代表団や内務人民委員部(NKVD、KGBの前身)、米戦略事務局(OSS、CIAの前身)、インド方面軍司令部から送りこまれた英国各機関との関係を密にしている(『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』リチャード・オルドリッチ・光文社)。このスパイ活動の目的は日本と戦う中国をどうやって援助できるかであった。

 松本がジョンの裏の顔を知っていたのかどうかは不明であるが、二人の間で極めて深刻な情報のやりとりが行われていた可能性が高い。このジャーディン・マセソン人脈の中に吉田茂もいた。むしろ、吉田こそがその元祖と言える。吉田の養父である吉田健三はジャーディン・マセソンの横浜支店支配人であった。ただし、ケズウィック3兄弟を吉田に結び付けたのは松本である。吉田が戦後初めて訪英した際、松本がケズウィック兄弟を通じてお膳立てしていたのである。

 現在の北朝鮮問題に通じることだが、吉田は朝鮮有事が米国有事であっても日本有事につながるとは考えていなかった。背後にいるソ連は断じて軍事的な侵攻で日本を脅かすことがないと確信していた。吉田が米国のみの情報に頼っていれば、米国の思惑通りの再軍備に走っていたであろう。

 吉田の確信が単なる勘に頼っていたとは思えない。おそらく松本やジャーディン・マセソン人脈などを通じて広範囲に情報を入手していたものと思われる。今吉田が生きていれば、米国のためだけに舞い踊ることだけが国益ではないと断言したであろう。

 なお中西輝政などが中心に右派系言論誌などではコミンテルンの策略によって日本が戦争に追い込まれたかのような論説が飛び交っている。しかし、英国というスパイ王国の関与に言及したものは皆無に等しい。一方でこうした歴史を今なお無視し続ける左派などはもはや問題外と云える。

 大敵の存在はイデオロギーなども飛び越えて周辺を結びつける。重ねて書くが、いざ戦争となれば、策略、謀略などは当たり前。むしろ嵌められる方が悪いのである。嵌められやすい日本の体質改善が今なお手つかずのままになっていることの方がより重大な問題であろう。

靖国神社をめぐる因縁(1)

 結局戦争を回避できなかったのは戦前期の(太平洋問題調査会(IPR)などに集う日本の自由主義者グループが非力だったのである。『日米関係史3』(東京大学出版会)に収められている『国際主義団体の役割』と題する論文には「自由主義的民間団体の敗北は、組織的に行動し得なかった自由主義者の政治行動の敗北でもあった。」と結んでいる。この論文の筆者は国連難民高等弁務官として世界的に名を馳せた緒方貞子(現国際協力機構理事長)である。

 緒方貞子はIPRのロックフェラー人脈を受け継ぐトライラテラル・コミッション(TC)のアジア太平洋委員会委員を務め、その夫・緒方四十郎がアジア太平洋委員会副委員長を務める。グローバリストが集うTCには富田メモを掲載した日本経済新聞社の専務取締役や論説主幹を務めた小島明も委員として名を連ねている。従って、富田メモの公開が、日米間、日中間の摩擦回避に向けたグローバリスト達の組織的な政治行動であったとする見方も成り立つ。

 今や緒方貞子は麻生太郎やTCの小林陽太郎・アジア太平洋委員会委員長とともに日本のカトリック人脈の代表格である。靖国神社とカトリックとの関係は、特に『諸君!』を中心に右派系言論誌で今や大流行で、長州系宮中グループの血を引く安倍晋三も『美しい国へ』で軽々しく取り上げている。

 当時マッカーサーは軍の意向や米国プロテスタント側の考えから靖国神社を廃止する計画だった。マッカーサーは意見を聞くためにカトリックのブルーノ・ビッター(ビッテル)神父(当時駐日ローマ法王庁代表、バチカン公使代理)とメリノール会のパトリック・バーン神父を招いた。

 不思議なことに靖国原理主義者達はビッター神父だけを取り上げることが多い。開戦後、メリノール会宣教師は日米交換船によって全員本国送還となったが、唯一の例外として京都に留まったのがバーン神父である。日米和平交渉の糸口として、日本政府官憲による身柄の保証を条件に、河原町教会から高野教会に移される。バーン神父の食糧不足を見るに見かねて、人目をしのんで、食糧を援助していたのが「モルガンお雪」だった。米国のモルガン財閥一族と結婚し、夫と死別後、京都に住んでいた。

 ビッター神父とバーン神父の二人はマッカーサーに対してこう意見する。

「わたしたちは、それ(靖国廃止)に反対です。(略)靖国神社の存廃はその本質にかかっていることで、こんどの戦争の正不正とは関係がありません。いかなる国民も、祖国のために身命を賭した人びとに対して、尊敬を表わし、感謝を献げることは、大切な義務であり、また権利でもあります。(略)いま靖国神社は神道の単なる霊廟ではなく、国民的尊敬のモヌメントであることを申し上げねばなりません。なぜなら、そこには、神、仏、基いずれの宗教を問わず、戦没者の英霊が平等に祀られているからです。したがって、このようなものを廃止するのは、国民の大切な義務と権利を否定することになりはしないでしょうか? そればかりでなく、もしこれを廃止したら、どういう結果が起こるか考えるべきです。それは天皇を廃止すると同様に、国民の感情を強く傷つけ、占領政策を危うくすることになりはしないでしょうか? 以上の理由で、国民を現下の精神的混乱から救うためにも、わたしたちは、靖国神社の存続を希望するものです。」(『教会秘話』志村辰弥・聖母文庫より、一般的に『マッカーサーの涙』・朝日ソノラマ刊が引用されることが多いが、『マッカーサーの涙』が入手できないため『教会秘話』を用いた。)

 数日後、司令部は二人の意見を取り入れた指令を発表、ここで靖国神社の存続が認められた。『教会秘話』によれば、その指令には次の文言が入っていた。

「ただし、今後は国がこれを管理し、いずれの宗教においても、そこで固有の宗教儀式を行うことができ、それらの費用はすべて国が支弁すべきである」と。つまり、この時点で靖国神社の存続は再国有化が前提となっていた。

 後日談も残されている。『教会秘話』を書いた志村辰弥神父は当時ビッター神父と行動を共にしていた。後に高橋紘とのインタビューに応じた志村神父は次のように語ったことが『天皇の密使たち』(文春文庫)に記されている。

「あの当時はたしかにああした気持ちでした。しかし、今こういう(右傾化の)時代になりますとね、私たちの判断が正しかったかどうか」

 右派のご都合主義はこうした志村発言を完全無視する姿勢にも表れている。

靖国神社をめぐる因縁(2)

 南部藩士の父を持つ東条英機と板垣征四郎親子は、賊軍にしてA級戦犯の汚名を着せられることになる。そして、陸軍悪者論が歴史に刻み込まれた。

 今一度富田メモを振り返ろう。このメモで東条や板垣らA級戦犯の合祀に踏み切った人物として靖国神社宮司、松平永芳の名前があった。

 毎日新聞(8月6日朝刊)によれば、富田メモ報道の8日後に最高意思決定機関である崇敬者総代会が緊急招集され、山口建史権宮司が「厚生省から66年に祭神名票が送られ、70年の総代会で『速やかに合祀すべきだ』と青木一男氏から提案があり、了承されました。78年10月6日の総代会で松平永芳宮司から提案があり、再度了承しております」と説明し、小田村四郎・前拓殖大総長が「松平宮司が独断でやったのでないことを(世間に)言うべきだ」と語ったとされる。

 また、半世紀にわたり昭和天皇に仕えた徳川義寛元侍従長も「戦時中に大東亜大臣をしていた青木一男さん(当時参院議員)が強く推進した」と証言している。

 この青木の近くに長州系宮中グループの生き残りである岸信介がいた事実がある。

 総代会の最強硬派として知られた青木は大蔵省を経て、企画院次長から大東亜大臣となり、戦後A級戦犯として巣鴨拘置所に収容された。青木と共に最後まで拘禁されていたのが岸である。巣鴨を出た二人は、揃って工作機械の名門・津上製作所(現ツガミ)の社外重役を務めた。(岸は津上製作所以外にも日東化学の監査役、東洋バルブの会長を務めていた。)

 日経産業新聞(1993年1月4日付)は、後に明らかになった米国の資料から、日本のあらゆる軍需生産の基礎となる津上製作所のゲージブロック工場を壊滅させるために、新潟県長岡市が米軍の原爆投下目標となっていたと書いている。この米国資料が不明のため、真相はわからない。ただし、広島、長崎への原爆投下直前に、米軍が予行演習として「原爆模擬爆弾」が全国で計49発投下され、その中に長岡市左近町も含まれていた事実はある。

 原爆や空襲の犠牲者、そして薩長に逆らった賊軍も祀られていると思われる鎮霊社が、靖国神社の本殿脇にひっそりとたたずんでいる。靖国側によれば「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊が祀られています」とされている。

 実はA級戦犯は一時鎮霊社に祀られてから本殿に合祀されたようだ。そうなるとA級戦犯が鎮霊社から分詞されたことが過去すでにあったということになる。分詞を拒む靖国の矛盾がここにある。

 現在の靖国神社宮司は南部利昭、姓が示すとおり南部藩第45代当主である。かつて家臣の無念は今なお本殿と鎮霊社に切り裂かれている。南部藩はまたもや長州によって担がれているのであろうか。

 実は日本における新渡戸稲造を生んだ新渡戸家も南部藩の功臣であった。新渡戸の願いである「われ太平洋の橋とならん」は南部藩当主にして靖国神社宮司である南部利昭に今重くのしかかる。

 実家と事務所を放火された加藤紘一は、石原莞爾と同じく庄内藩士の血を引いている。しかも、加藤家と石原家は縁戚関係にある。外務省出身が影響していると思われるが、中国や韓国を持ち出しての靖国神社参拝批判は現状の日本では逆効果でしかない。靖国問題とは国内問題であり、庄内藩士の血を引く日本人として正々堂々と議論をすればよい。

 この点で麻生太郎を見習うべきだ。保守本流を担う麻生は自身のホームページの「靖国に弥栄(いやさか)あれ」で、靖国神社を可能な限り政治から遠ざけ、静謐な、祈りの場所として、未来永劫保っていくために、靖国の非宗教化、即ち再国営化を提言している。

 薄っぺらい歴史観を持つえせ日本人などは麻生の主張を戦時回帰と見なすだろう。しかし、麻生の主張は靖国の発祥である東京招魂社に戻すという原点回帰であり、批判には当たらない。麻生はさらにこう続ける。靖国は神社本庁に属したことがなく、戦前は陸海軍省が共同で管理する施設であり、靖国の宮司もいわゆる神官ではないこと。さらに、「靖国神社は、古事記や日本書紀に出てくる伝承の神々を祀る本来の神社ではありません。」と言い切った。

 薩摩系宮中グループの血を引く麻生は祖父である吉田茂夫妻の影響からカトリックとなった。都合のいい時だけ靖国神社の救世主のようにカトリックを取り上げる右派系言論誌や安倍晋三は麻生の意見に対して沈黙を続けている。

自民党をめぐる因縁

 「近衛上奏文」によって反戦信任状を手にした薩摩系宮中グループは、「反ソ・反共」が追い風となって米国との強い絆を生みだした。首相の座についた吉田茂は、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結、米国と二人三脚で「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」を軸にした吉田ドクトリンを掲げて、保守本流として揺るぎない地位を築いて行く。しかし、この吉田ドクトリンは、皮肉にも自らも関与した「昭和天皇=平和主義者工作」を通じて生み落とされた憲法九条によって、その限界も明らかになる。

 この吉田の限界を見抜いた岸信介も不死鳥の如く復活する。A級戦犯容疑を解かれた岸は、満州人脈や巣鴨人脈を再結集させ、仕返しとばかりに吉田一派を「ポツダム体制派」とするレッテル貼りを行い、鳩山一郎と共に反吉田旋風を巻き起こす。「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンを掲げた。 

 岸は防共協定の日独を打倒した米国に対する不信感を抱きつつも、吉田の元祖「反ソ・反共」に対抗するために、後に反共から勝共へと発展させていく。米ソ冷戦を利用することで、日本の真の独立を勝ち取ろうとしたのである。

 しかし、岸政権も日米安保条約改定は成し遂げたものの、結果として見れば、素振りだけで自主憲法制定はおろか憲法改正までも見送った。狸と狐の騙し合いによって憲法九条を楯にする戦略が今まで受け継がれてきたのである。

 岸も国内経済の再建を重視せざるを得ず、軍事費と軍備水準を飛躍させようとはしなかった。満州に端を発する社会主義的な官僚統制経済システムによって日本株式会社を完成させたかに見えるが、吉田の経済復興路線の継承の上で成立し得たものである。現実に直面した岸ドクトリンはやがて吉田ドクトリン化していく。その評価は長く保守傍流に追いやられた。

 この岸が一年生代議士時代に反吉田勢力の同志40名を虎の門「晩翠軒」に集めたことがある。これが後の岸派の母体になった。保守合同前に鳩山一郎と岸が中心となって結成された日本民主党には晩翠軒メンバーも参加している。その一人が小泉純也、つまり小泉純一郎の父である。薩摩出身でありながら岸に合流した小泉純也の異端ぶりは、その息子にも引き継がれた。

 保守本流を自負した宏池会は、池田、大平、鈴木、宮沢と4人の首相を輩出してきたが、加藤の乱を経て現在は丹羽・古賀派、谷垣派(谷垣禎一)、河野派(麻生太郎)に分裂し、往時の勢いを失う。元祖「反ソ・反共」の吉田がまいた種から飛び出てきたのは意外にもハトだった。弱ったハトによってバランスを欠いた中で登場したのが小泉である。

 この小泉が掲げた改革路線も実は原点回帰に過ぎない。宮崎正義が描き、岸が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移した「満州産業開発5か年計画」も「小さな政府」を目指した行政機構の抜本的な改革であった。内閣の規模を三分の一に縮小しつつ、中央集権体制の中心機構として総務庁が新設される。その下で経済各部門の国家管理を提唱した。

 「官から民へ」も行政機構の大改革となった中央省庁再編で旧自治省、旧郵政省、旧総務庁が一緒になった総務省などの巨大官庁が誕生、その下で中央集権体制を維持したまま小泉改革が実行される。郵政も含めてそもそも完全な民営化などできるはずがない。

 この小泉は8月に山口県に入り、長州藩の思想家・吉田松陰と幕末の志士・高杉晋作ゆかりの地を訪れる。このイベントによって「改革ロマン」は長州8人目の本家に委ねられた。

 結局「改革ロマン」も岸ドクトリンへの回帰に過ぎない。「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンに向けたたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートし、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれたのである。

 首相就任後の安倍晋三を見ていると岸から受け継がれたDNAがはっきり見える。それは妖怪でもカミソリでもなく、「両岸」である。

 安倍晋三の父方の祖父は安倍寛。翼賛選挙といわれた1942(昭和17)年の総選挙で軍部を批判、政府側の推薦を受けずに再選を果たした。その反骨心から「昭和の松陰」あるいは「今松陰」と慕われた。

 父・安倍晋太郎は安倍寛の血にこだわった。しかし、安倍晋三は隠し続けてきた。小泉がエルヴィス・プレスリーなら、安倍晋三が成蹊大学時代に聴いていたのがキャロル・キングだったと言う。当時アルバム「タペストリー(つづれおり)」が流行っていたという理由だけかもしれないが、何かここに安倍寛につながる安倍晋三の感性の根っ子があるような気がしてならない。

 安倍晋三にとって頼みの米国人脈はリチャード・アーミテージ前国務副長官やマイケル・グリーン前国家安全保障会議アジア上級部長とされるが、すでに二人とも政権を去った。ブッシュ政権とて決して安泰と言える状況ではない。時にはジョン・ケリーの応援歌にもなったキャロル・キングの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」でも口ずさめば新たな友達に出会えるかもしれない。

 平成の時代にあってリアリストの立場を堅持しながら、「右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なる存在」として、そつなく両岸を操れば、岸を越える存在になるのだろう。

 安倍晋三の背後にはさらに強力な第三の男・中川秀直がいる。中川の岳父である中川俊思も鳩山・岸の日本民主党の同志だった。中川は新たな保守本流の地位と岸ドクトリンの完遂を目指して、米共和党タカ派中枢のカール・ローブ大統領上級顧問や水曜会のグローバー・ノーキスト全米税制改革協議会(ATR)会長にまで人脈を拡げながら着々と準備を進めている。

 はたして小泉から始まったたすき掛けリレーは新たな保守本流の座を手にすることができるのだろうか。吉田茂を超えることができるのだろうか。悲しくもこれまた米国の意志で決まるのかもしれない。

 □あとがき

 「ビッグ・リンカー達の宴2」から「薩長因縁の昭和平成史」に至る一連のシリーズの皆様からたくさんの応援メールを頂き本当にありがとうございました。新渡戸基金、キリスト友会、国会図書館の皆様方、関屋貞三郎氏の貴重な資料を提供いただいた平福様と藤尾様、いつもながら貴重なアドバイスを頂戴した坂本龍一様、伴様、大塚様、寶田様、津田様には深く感謝申し上げます。なお、バック・パッシング理論についてさらに深く知りたい方には、今年12月末頃に発売が予定されている奥山真司君が手掛けたジョン・ミアシャイマーの翻訳本をお勧めいたします。