色紙、短冊の記録 その二 : …………… 【贈呈などの記録のため】

【色紙、短冊の記録へ】  三と四は その三 その四へ移ります
ここの欄は park19. です。この欄には出ないので上記の
 その三 をクリックして開いてください。

        01 うばすてやま
        02 般若心経
        03 君死にたまふことなかれ
        04 原爆許すまじ
        05 吉田松陰
        06 国 破 山 河 在
        07 色紙 艱難汝を玉にす
        08 色紙 絶対矛盾的自己同一




01 色紙 うばすてやま(月の百姿)

   歳をとると「姥捨て山」の ジィジ バァバ から学ぶことが、とても
   大切な心がけになります。

   ① うばすてやま  月の百姿(ツキ ノ ヒャクシ)画あり
   ② うばすて山  まんが日本昔ばなし 動画一覧
   ③ 「姥捨て山」 森竹高裕
   ④ 『楢山節考』 深沢七郎の短編小説
   
wikipedia
① うばすてやま
     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%B0%E3%81%99%E3%81%A6%E3%82%84%E3%81%BE

うばすてやま(姥捨て山)は、棄老伝説に材をとった民話。

   月の百姿 / 月岡米次郎 画   HTML版を開きコピーできる
     http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi05/chi05_04369/index.html


大きく「枝折り型」と「難題型」、それらの複合型に分けられる。法令、口減らしなどのために高齢の親を山に捨てることとなった息子と、その親の物語である。

・難題型

ある国の殿様が、年老いて働けなくなった者を不要として山に遺棄するようにというお触れを出す。ある家でもお触れに逆らえず泣く泣く老親を山に捨てようとするが、結局捨てることができず、密かに家の床下にかくまう。しばらくの後、隣国からいくつかの難題が出され、解けなければ国を攻め滅ぼすと脅されるが、それらの難題を老親の知恵によって見事に解き、隣国を退散させる。老人には長い人生の中で培われた知恵があり、それが粗末にできぬものであることを知った殿様は、お触れを撤回し、老人を大切にするようになった。

・枝折り型

山に老いた親を捨てるために背負っていく際に、親が道すがら小枝を折っている(あるいは糠を撒いていく)のを見た息子が何故か尋ねると、「お前が帰るときに迷わないように」と答える。自分が捨てられるという状況にあっても子を思う親心に打たれ、息子は親を連れ帰る。

他に、年老いた親を捨てに行く際に子供も連れて行くが、担いできたもっこごと親を捨てようとする。すると、子供に「おっ父を捨てるときに使うから、もっこは持って帰ろう」と言われ、親を捨てる非道さに気付き(あるいはわが身に置き換えて思い知った恐怖から)姥捨てをやめるという内容のものがあり、同様の物語は中国やヨーロッパ、アフリカなど広範囲に分布している。枝折り型のあとに難題型が続く複合型、また数は少ないが、嫁にそそのかされた息子により一度は山に捨てられるが、知恵により鬼から宝を巻き上げ財を成し、猿真似をした嫁は命を落とすという嫁姑の対立がテーマになっているものもある。


まんが日本昔ばなし 動画 一覧あり
② うばすて山 姥捨山
    http://dougalinkmukasi.blog.fc2.com/blog-entry-7.html

   このURLには、たくさんの童話が載っています。
   紙芝居に利用できるといいと思う。


枝折り型
③ 「姥捨て山」 森竹高裕
    http://homepage1.nifty.com/moritake/doutoku/uba03.htm

 昔のある山村の話です。その村では六十歳になると、里から五里以上も離れた山奥に捨てられるならわしでした。年老いて働けなくなるからです。一日二度の食事にもこと欠くほど人々は貧しい生活をしていました。ですから、働かないものが食べることはできなかったのです。老人が捨てられるのは口べらしのためでした。吾助の母親せつも、とうとう六十になる日が来ました。

 孝行息子の吾助は、母親を山の奥に連れていくのが忍びなく、なんとか助ける方法はないものがとずいぶん思い悩みました。いっそうのこと、母親を連れて村を出ようかと考えましたが、妻や子どものことを考えるとそれもできません。それに、村ではもう何件もの家がおきてに従っているのです。吾助のところだけ、それをまぬがれることができようはずはないのです。

 その日、吾助は夜明け前に母親を連れて出発するつもりでしたが、決心がつかぬまま、昼過ぎまでぐずぐずしていました。いつまでもそうしているわけにもいかず、 「おっかあ、すまねぇ。村のおきてを破るわけにはいかねぇ。日がむれるまでに戻ってこなくちゃあなんねえから-」やっとの思いで言いました。せつは黙ったまま手を合わせていました。たとえ、せつに言いたいことがあっても、口はきけないのでした。三日前に歯を自分で石に打ちつけて、砕いてしまっていたからです。その前から、せつはほとんど食べ物を口にしませんでしたが、山に入ったとき、ひもじさに木の根っこでもかじって生きながらえたら困ると思ったのです。吾助が背負ったせつは、まるで枯れ木が背中にへばりついているみたいでした。それが、いっそう吾助を悲しくさせました。吾助は山道を奥へ奥へと歩いていきました。道はだんだん細くなり、うっそうと茂った木々に陽ざしはさえぎられ、ときおり山鳩らしき鳥が鳴くだけです。しばらくして、背中のせつがときおり木に咲く花をもぎ取っては落としていることに気がつきました。吾助はせつが山に捨てられる不安や恐怖をまぎらわすために、そうしているのだと思いました。が、ふと(もしや、山を出るための目印にでもしようとしているのでは-)という疑いをもちました。(気丈夫と言われてきたおっかあでも、死ぬのは怖いに決まっている。ましてこんな山奥に捨てられて、たった一人で死んでいくなんて耐えられることではない)そう思うと、吾助は自分がひどく罪深いことをしているように思い、足の運びもにぶります。しかし、同時にせつがこの期におよんで、自分のことしか考えていないように感じられ、腹立たしい気持ちがしないでもありません。

 「おっかあよ、花を落としとるのは目印にすんでねえのか?気持ちはわかるがよ、おっかに戻られると、おらたち一家は村にいられねえだ。頼むからあきらめてくれろ」

 せつは、言葉にならない声を出し、吾助の背中を強く押しました。それが、吾助には自分に対するうらみのように感じられ、

 「二平のとこでも、喜作のとこでも、ばあさん、山へ入ったべが。おっかあのように未練を残したりしなかったと聞くぞ」と、ついいらだった声で言ってしまいました。

 せつは相変わらず花をもいでいましたが、吾助はもう何も言いませんでした。たとえ、目印があっても、せつの体力ではこの山から帰ってこられるはずはない、と吾助は思いました。

 どのくらい歩いたでしょうか。川原のように石がごろごろしている広い場所に出ました。あちこちに白骨がころがっているのを見ると、その場所に相違ありません。

 吾助は大きな岩陰を選ぶと、せつをそっと降ろしました。

 (資料後半部)  ふと気がつくと、つるべ落としの秋の日は、吾助の予想より早く、辺りを闇に包み始めています。ぐずぐずしていると帰り道がわからなくなってしまいます。

 「おっかあ、すまねえ、すまねえ」

 吾助は泣きながら立ち上がりました。

 せつは目を閉じ、手を合わせお経を唱えているようでした。吾助は心を決めてその場をあとにしました。

 しばらくは何も考えず、足早に歩いていました。ところが、半分も戻らないうちに、とうとう日が暮れてしまいました。なにしろ、うっそうとした山の中ですから、夜の訪れも里より早いのです。

 細い道も闇の底に沈んでしまい、見分けがつかなくなりました。吾助は途方にくれて立ちすくみました。

 そのときです。足下にかすかに浮かび上がるものがありました。白い花です。それは来る途中にせつが落としたものに相違ありません。吾助の胸に熱いものがこみ上げてきました。

 「おっかあ-」

 吾助は山の奥に向かって叫びました。

 木の上の鳥が驚いて飛び立った羽音のあとに、山びこがかすかに聞こえてくるだけで、山は再び静寂に包まれました。

※ 出典および参考資料静岡教育出版社「心ゆたかに」(参考「楢山節考」)


深沢七郎の短編小説
④ 『楢山節考』
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83

『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。

・作品成立と背景

深沢七郎は、「姥捨伝説」を、山梨県境川村大黒坂(現在・笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを、肝臓癌を患った実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死に重ねながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した。また、おりんの人物造型には、キリストと釈迦の両方を入れているという。

なお、作品舞台は「信州」となっているが、描かれている人情や地形は山梨県の大黒坂の地であることを深沢は以下のように語っている。

拙作「楢山節考」は 姥捨の伝説から題材を得たので信州の姥捨山が舞台だと思われているようだが、あの小説の人情や地形などは、ここ山梨県東八代郡境川村大黒坂なのである。もちろん現在のここの風習ではなく、もっと以前のこの土地の純粋な人情から想像してあの小説はできたのだった。だから「楢山節考」に出てくる言葉―方言は信州ではなく甲州弁である。
                                     深沢七郎「楢山節考・舞台再訪」
また、作中には、「三」と「七」という数字が多用され、「三つ目の山を登って行けば池がある。池を三度廻って」、「七曲りの道があって、そこが七谷というところ」などと語られ、「楢まいり」に行く年齢が70歳、おりんの歯が33本、といったような神秘性がある。深沢七郎の「七郎」という名前も、故郷の身延山の山奥にある七面山から由来しており、仏教信仰の厚い両親が、その神聖な山に因んで名付けたという。

・あらすじ

信州の山々の間にある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾けた。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていた。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかった。安心したおりんには、あともう一つ済ませることがあった。おりんは自分の丈夫な歯を石で砕いた。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥かしいことだった。

塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る と、村人が盆踊り歌を歩きながら歌っているのが聞こえ、「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、ぼんやりと元気がなく、母の「楢山まいり」に気が進まなかった。少しでもその日を引き延ばしたい気持だったが、長男のけさ吉が近所の娘・松やんと夫婦となり、すでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、そうもいかなくなってきた。雑巾で顔を隠し寝転んでいる辰平の雑巾をずらすと涙が光っていたので、おりんはすぐ離れ、息子の気の弱さを困ったものだと思ったが、自分の目の黒いうちにその顔をよく見ておこうと、横目で息子をじっと見た。「楢山まいり」は来年になってからと辰平は考えていたが、おりんは家計を考え、急遽今年中に出発することを決めた。ねずみっ子(曾孫)が産まれる前に、おりんは山に行きたかった。

あと3日で正月になる冬の夜、誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山まいり」へ出発した。辛くてもそれが貧しい村の掟だった。途中、白骨遺体や、それを啄ばむカラスの多さに驚きながら進み、辰平は母を山に置いた。辰平は帰り道、舞い降ってくる雪を見た。感動した辰平は、「口をきいてはいけない、道を振り返ってはいけない」という掟を破り、「おっかあ、雪が降ってきたよう~」と、おりんの運のよさを告げ、叫び終わると急いで山を降りていった。

辰平が七谷の上のところまで来たとき、隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていた。「楢山まいり」のお供の経験者から内密に教えられた「嫌なら山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいい」という不可思議な言葉の意味を、辰平はそこではじめて理解した。家に戻ると、妊婦の松やんの大きな腹には、昨日までおりんがしめていた細帯があり、長男のけさ吉はおりんの綿入れを着て、「雪がふって、あばあやんは運がいいや」と感心していた。辰平は、もしまだ母が生きているとしたら、今ごろ雪をかぶって「綿入れの歌」(― なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ ―)を考えているだろうと思った。


02 色紙 般若心経

   仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
   観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
   色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。
   舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無
   色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・
   味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、
   無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、
   菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離
   一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅
   三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、
   是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。 即説呪
   曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経


     観自在菩薩
    行深般若波羅蜜多時
    照見五蘊皆空
    度一切苦厄


       自分の中に 菩薩の心があることを はっきりと認識し
       お釈迦様が目指したことを実践していきましょう
       そして 五蘊はみんな本質的なものではないことを見極めて
       生涯に出会うすべての苦を乗り越えていきましょう


    ………………………………………………………………………………………………

   舎利子  … さて 皆さん

     色不異空、空不異色、色即是空、空即是色 であり

     受・想・行・識 もまた 是と同じことなんです

   舎利子  … だから みなさん

     この世の中のあらゆる存在や現象には実体がないのであり
     不生不滅、不垢不浄、不増不減 なのです

     実体がないのだからこそ

     無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・
     味・触・法。 無眼界、乃至、無意識界 であり

     無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽 であり

     無苦・集・滅・道。 無智亦無得 なのです

     本質を求め彼岸に至る智慧によって

     心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃 に至ります

     三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提
        … 多くの先覚者は諦観の智慧によって喜悦を得たのです

     故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪
     是無等等呪、能除一切苦、真実不虚
        … 五蘊はすべて実体がないことを深く理解し真実を得るのです

     故説、般若波羅蜜多呪
        … 最後にお釈迦様の智慧を言いましょう

     即説呪曰
        … それは次のような言葉です

     羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶

     般若心経
        … 智慧の経典


03 色紙 君死にたまふことなかれ

   軍国主義の真っ只中に、女流詩人与謝野晶子が詠った非常に有名な反戦歌です。
   この思いは、時代が変わっても決して変わることのない思いだと思います。

     旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて  與 謝 野 晶 子

         原文

     あゝおとうとよ、君を泣く
     君死にたまふことなかれ
     末に生まれし君なれば
     親のなさけはまさりしも

     親は刃をにぎらせて
     人を殺せとをしへしや
     人を殺して死ねよとて
     二十四までをそだてしや

     堺の街のあきびとの
     旧家をほこるあるじにて
     親の名を継ぐ君なれば
     君死にたまふことなかれ

     旅順の城はほろぶとも
     ほろびずとても何事ぞ
     君は知らじな、あきびとの
     家のおきてに無かりけり



04 色紙 原爆許すまじ

     ふるさとの街焼かれ
     身よりの骨埋めし焼土に
     今は白い花咲く
     ああ許すまじ原爆を
     三度許すまじ原爆を
     われらの街に


   私のブログでも、広島・長崎の原爆のことや長崎の女性の方が語るお父さんの思い
   思い出などを記事にしましたが、二木さんのおっしゃるように、政府の中にも過去の
   痛みに目をつぶり再軍備の方向へ行こうとする人間が増えました。安部首相も顔が
   祖父の岸さんにだんだん似てきました。やろうとすることが似てくると顔まで似てくる
   のかと思います。日本の若者がアジアでの戦争に駆り出されそうで恐ろしい時代で
   す。                            江尻 陽一 | 2007年8月11日

05 色紙 吉田松陰

   親思う 心にまさる 親心
         今日のおとずれ 何ときくらん


http://www.yoshida-shoin.com/shiryo/kazoku.html

① 明治41年に発行された「日本乃日本人 臨時増刊 吉田松陰特集号」

明治41年に発行された「日本及日本人 臨時増刊 吉田松陰特集号」
同雑誌には、松陰の妹のインタビュー記事の他に門下生・野村靖や乃木希典大将が松陰について寄稿している文章など興味深い記事が沢山掲載されている。山口県の出版社・マツノ書店より限定復刊されており、現在でも入手することが出来る。

② 【門下生から見た吉田松陰】

門下生・野村靖(神奈川県令、逓信大臣、枢密顧問官などを歴任、留魂録を沼崎吉五郎から受け取った人物)は、この雑誌のなかで「吉田松陰先生の真髄」という談話を寄せており、その中で「松陰先生の事を話すと言っても、先生の真髄を得るように語ることは、到底できないことである。まして、先生の精神・面目を人に知らせようなどということは絶対に不可能といってもよい」「先生もまた、伝記その他のものによって己の精神を知られることは好まぬであろう。むしろ、自分の手で書いた議論・文章・詩歌・随筆などの類によって自分の精神・面目が彷彿とされることを喜ばれるだろうと思われる」「先生の精神・面目を知ろうと欲するならば、私の話を聞くよりも先生の至誠の凝縮とも言うべき、先生の著書、幽囚録以下を熟読することが必要である」「先生は、真に国家の士、すなわち日本国の士であって、主として国を外国に対して憂いたのである。その結果として勤王を唱えるに至った訳で、勤王よりして、国家を憂いたのではない。もとより航海雄略の人にして、鎖国攘夷の人ではなかった」などと語っている。

また、乃木希典は、「吉田松陰先生の薫化」という文章のなかで、「私は直接松陰先生より、ご教授を受けたことはなくまた御面会する機会も得られなかったため、先生のご行動その他においてはあまり多く語るべきことを持たないが、その教訓、その感化は、間接とはいえ深く私の骨髄に浸潤して、幼少よりこの年に至るまで、在住坐臥、常に先生の教訓に背かないようしている」「私の受けた先生の薫化は、皆間接的であるが、玉木先生(文之進※松陰の叔父)と玉木先生のご夫人から、一挙一動に至るまで松陰先生を模範として訓戒されたので、実に忘れられないものがたくさんある。なかでも、松陰先生は非常に勤勉家であったそうで、玉木先生は常に“寅次郎(松陰)の半分勉強すれば大丈夫だ”と言っていた」などと寄稿している。乃木は、松陰に直接学んだわけではないが、中岡慎太郎などと同様、松陰を尊敬し行動の規範としており、実質的な門下生といってもよいだろう。

③ (写真・説明) 吉田松陰の妹・千代

吉田松陰の妹・千代
松陰には6人の兄弟妹(民治、松陰、千代、濤子、美和子、敏三郎、艶子の順)がいた。下級武士であった杉家(松陰の実家)の生活は苦しいものであったが、家族仲はよく、厳しくも愛情豊かに育てられた。千代は松陰より2歳年下の妹であった。

④ (写真・説明) 吉田松陰の兄・杉 民治

吉田松陰の兄・杉 民治(梅太郎)
松陰より2歳年上の兄・民治(梅太郎)。松陰と民治は、とても仲の良い兄弟であった。民治は、明治43年88歳で死去するまで明治の世を生き抜いた。

⑤ 吉田松陰の弟・敏三郎

吉田松陰の弟・杉 敏三郎
容貌が松陰と最も似ていたという弟・敏三郎。敏三郎は生まれながらにして耳が不自由であった。そんな弟を松陰はいつも気遣っており、旅先や獄中から弟を案じる松陰の手紙が幾通も遺されている。

⑥ 吉田松陰の母・杉 瀧子

吉田松陰の母・杉 瀧子
松陰を愛情豊かに育てた母・瀧子。「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」。江戸で罪人として処刑が決まった松陰が郷里の両親に宛てた有名な句であるが、松陰の母に対する愛情とともに、母・瀧子の松陰に注いだ愛情までもが伝わってくる句である。

⑦ 吉田松陰像

京都大学所蔵の吉田松陰像。
この像の顔が生前の松陰の顔に一番似ているといわれている。

⑧ 吉田松陰の誕生地(生家跡地)

吉田松陰の誕生地(生家跡地)

家族から見た吉田松陰

明治41年発行の雑誌「日本及日本人」の臨時増刊として吉田松陰の特集が組まれており、そのなかに「松陰先生の令妹を訪ふ」と題して、松陰の妹・千代(当時77歳)に、生前の松陰についてインタビューした記事が掲載されています。松陰の人となりが伝わってくる、とても興味深い記事です。ここでは、「家族から見た吉田松陰」と題して、同雑誌のインタビュー記事の現代語訳を掲載します(一部割愛あり)。

① 【千代さんは「70余年前の昔が偲ばれ、私も子供の時に帰るようです」と言って、
   さも昔を懐かしむように話し出された】

 『兄・松陰は、幼いころから「遊び」ということを知らないような子供でした。同じ年ごろの子供たちと一緒になって、凧をあげるとか、コマを回すとか、遊びに夢中になったことなどはまったくなく、いつも、机に向かって漢籍を読んでいるか、筆を執っているかで、それ以外の姿は、あまり思い浮かびません。運動とか、散歩とかはしていたのかと言いますと、それも極めて稀で、私の記憶に残っているものはありません。
 また、「寺子屋」とか「手習い場」とかに通ってもおらず、父(杉百合之助)と、叔父(玉木文之進)について、学んでいただけでした。ある時期には、昼も夜も、叔父の所に通って教えを受けていました。叔父の家は、わずか数百歩くらいしか離れていなかったので、三度の食事の時には、家に帰ってくるのが常でした。

 そのころ、長兄の梅太郎(のちの民治)と、松陰は、見る者が羨ましくなるほどに仲のよい兄弟でした。出かけるときも、帰るときも一緒で、寝るときは一つの布団に入りますし、食事の時は、一つのお膳で食べておりました。たまに別のお膳で食事を出すと、一つの膳に並べかえていたほどでした。
 影が形に添うように、松陰は長兄・梅太郎にしたがい、梅太郎の言いつけに逆らうようなことなどありませんでした。梅太郎は、松陰より二歳上で、私は、松陰より、二歳下です。そういうことで、歳があまり離れていないせいでしょうか、兄弟のなかでも、私たち三人は、とくに仲がよかったのです。兄・松陰も亡くなる前は、三人がたがいに語り合い、励まし合った幼少のころの思い出を、しばしば手紙に書いてくれたものでした』

② 【松陰先生は読書の他に、これといった趣味を持たず、ましてや酒や女性に
   手を出すようなことは全くなかったという】

 『兄・松陰は、好んで酒を飲むということはなく、煙草も吸わず、いたって謹直な人でした。松下村塾を主宰していたころのことです。ある日、門人のなかに煙管を吸う方がいたので、それを注意して、煙管をもっている者は、自分の前に出させ、松陰はそれを紙で結んでつなぎ、天井から吊るしていたことがあります。
 もとより酒は口にしなかったので、甘いもの、餅などを好むなどということはなかったのか、ということですが、私には、よくわかりません。特別に〝これが好物だった〟というものをあげてほしい、と言われても、思い浮かびません。兄は、いつも大食することを、自分で戒めていました。ですから、今の人たちのように、特別に「食後の運動」などを心がけなくても、胃を害したり、腸を痛めたりするようなことは、ありませんでした。

 兄の生涯はわずか三十年で、短いと言えば、たしかに短い生涯なのですが、三十歳と言えば、そのころの世間一般からすれば、妻をむかえ、家庭をもつべき年齢でした。けれども、兄は、青年になってから、ずっと全国各地を旅してまわっていましたし、国にいる時は、お咎めを受けた身の上で、家で謹慎するよう申しつけられてもおりましたから、妻をもつという話など、どこからも出てくるはずがありません。「罪人という身の上だから、表向きは、たしかに妻を娶るわけにはいかないが、せめて身の回りの世話をする女性ぐらいは、近づけてはどうか」などと、親戚に言ってくる方もいたようですが、親切心から、そう言ってくださったものと思いますが、それは、兄の心のうちを知らない人の言葉ですから、そのことを兄に、面と向かって言った者はいませんでした。兄は、生涯、女性と関係をもつことはありませんでした』

③ 【松陰先生が幼少の頃】

 『兄が子供のころ、父や叔父のもとで学問をしていましたが、父も伯父も、極めて厳格な人でしたので、小さな子供に何もそこまでしなくても、と思われるようなことが、しばしばありました。母などは、その様子をそばで見ていて、そこは母親ですから、見るにしのびないこともあったようで、「早く立ち上がって、どこかへ行ってしまえば、こんなにつらい思いをしなくてもすむものを、なぜ寅次郎(松陰の通称)は、ぐずぐずしているのか」と、はがゆく思ったこともあったそうです。
 そのように兄は、とても従順で、ただただ言われたことを、言われたとおりにやるような人でした。それどころか、「自分は言われたことを、言われたとおりに、なしとげることができないのではないか」と、そのことだけを、いつも心配しているような、そんな人だったのです。
 けれども、外から見たら、そのように柔らかな兄も、内には、なかなか剛いところがあったものと見えます。子供のころの兄を知っている人たちは、のちに「少年の時から、腕白なところがあったから、あれほど大胆なことを企てたのであろう」などと、語り合っていました』

④ 【松陰先生は客を遇するのを好んだ】

 『兄の顔には、アバタがありました。お世辞なども言わないような人でしたから、一見すると、とても無愛想な人のように思われるのですが、一度、二度と、話をする機会をもった人は、大人も子供も、みな兄を慕うようになり、なついて、兄も、相手に応じて、お話をするようにしておりました。また、好んでお客の相手をしておりました。
来客の際、ご飯時には、必ずご飯を出すようにしておりましたし、お客さまに、お腹がすいたのを我慢させながら、話をつづけるようなことは、決していたしませんでした。「よい料理がないから」などという理由で、食事時になっているのに食事を勧めない、などということはありませんでした。
 兄は、ありあわせのものだけでもお出しして、気持ちよく、お客さまといっしょに、箸を共にするのを楽しんでおりました。ときどき、こちらの方から声をおかけして、お客さまを呼ぶこともありましたが、兄は、珍しい食べ物を少し用意するよりも、粗末な食べ物でも、たくさん出すことが好きでした』

⑤ 【松陰先生に関する逸話】

 『兄は、正直を重んずるその思いが、尋常ではありませんでした。「人のため、人のため」と、いつも、そんなことばかりを心がけていたようでした。
 兄が「人のため」を考え、きわめて人に親切であったのは、たぶんうまれついての天性のものだったのでしょう。林真人先生のお宅に泊まり込んで学問をしていた時、こんな事がありました。
 ある晩、先生のお宅が火事になりました。すると兄は、その家の荷物を運び出すために、懸命に働いたのですが、自分のものは身近なものさえ持ち出さなかったのです。
 なかには大切な記念の品もあったようですが、すべてを灰にしてしまいました。最後は、ただ寝巻きを身に着けているだけ、というありさまだったそうです。
 あとで、ある人が「なぜ、そんなことになったのか?」と兄に聞いたそうですが、その時、兄はこう答えたそうです。
 「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、いろいろと大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません」
 兄が行ったことは、すべてこういう調子なのです』

⑥ 【「夢のお告げ」と「虫の知らせ」】

 『兄が、「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」という歌を詠んで死去した日、その命日が、また今年も近くなってきました。思い返すと五十年も昔のことになりますが、あのころ、わたしの実家は、たとえようもないほど、悲惨な状態でした。
 兄は、遠い江戸に送られて、獄舎のなかにいました。それだけでも、憂鬱なことでしたのに、そのころ長男の梅太郎と、松陰の弟の敏三郎は、枕を並べて、病の床にあったのです。
 母は、片時も敏三郎のそばを離れず、父も、家族の看病で疲れきっておりました。しばらくして二人の病が、少しばかり快方に向かった時のことです。
 父も母も、疲れきっていたので、看病しながら、そのそばで仮眠をとっていたのですが、すぐに目が覚めてしまいました。そして、母は父に、こう申したのです。

 「今、とても妙な夢を見ました。寅次郎が、とてもよい血色で、昔に九州の遊学から帰ってきた時よりも、もっと元気な姿で帰ってきたのです。『あら、うれしいこと、珍しいこと』と声をかけようとしましたら、突然、寅次郎の姿は消えてしまい、目が覚めて、それで夢だとわかったのです」

 その時、父は母に、こう申したそうです。
 「私も今、夢を見ていて夢から醒めたんだよ。なぜそんなことになったのかはわからないのだけれど、夢のなかで、自分の首を斬り落とされてね。それなのに、とても心地がよかったのだよ。『首を斬り落とされるというのは、こんなに愉快なことだったのか』と思っていたよ」と。

 その時、両親は、たがいに奇妙な夢を見たものだと語り合い、「もしかしたら寅次郎の身に何かあったのではないか」と心配したそうですが、「まさか、そんなことはなかろう」とも思ったようです。しかし、それから二十日あまりもたって、江戸から使いがきます。兄が「刑場の露と消えた」という報せでした。
 その報せを受けて、両親は先日の夢を思い出しました。そして、指を折って数えてみれば、日も時も、兄の最期の時刻と、寸分もたがわないことがわかったのです。

 母は、それから、さらに昔のことを思い出して、こう申しました。
 「寅次郎が、野山獄から江戸に送られる時、忘れもしない五月二十四日。一日だけ家に帰る許しをえて、家に帰ってきたことがあるんだよ。その時、私は、寅次郎が湯を使っている風呂場のそばに、そっと行って、そのようすを見ながら、二人だけで心のうちを語り合ってね。
 その時、私が『もう一度、江戸からかえってきて、機嫌のよい顔を見せておくれよ』と言うと、寅次郎は、『お母さん、そんなことは、何でもありませんよ。私は、必ず元気な姿で帰ってきて、お母さんの、そのやさしいお顔をまた見にきますから』と言ったのだけれど、きっと寅次郎は、その時の約束を果たそうとして、私の夢のなかに入ってきて、血色のよい顔を見せてくれたのだろうね。親孝行な寅次郎のことだから、そうに違いないと、私は思っているよ」と。

 父も、先の夢を自分なりに解釈して、こう申しました。
 「夢のなかで私が、首を斬られながら『心地よい』と感じたのは、おそらく寅次郎が刑場の露と消える時、『自分には何も心残りはありません』ということを、私の伝えたかったのだろうな」

 永久に生きて帰ることのない旅路の第一歩として、兄が今の東京に行く時、たぶん兄自身は、生きてふたたび萩の地を踏むことはできまい、と覚悟していたと思います。けれども、私たち家族は、兄には何も罪がないことを知っておりましたから、かならず許されて、帰ってくるものと信じていたのです』

⑦ 【兄の書簡集】

 『この兄の手紙を前にすると、慙愧の念に堪えず、この手紙について、人さまにお話しするとなると、私は、ほんとうに顔を伏せたいような気持になります。
 御覧いただければ、おわかりになりますとおり、文面は情愛に満ちているだけではなく、〝ここまで書いてくださったか〟と思われるほどに、細やかなことまで注意してくれています。それにもかかわらず、私は、兄の厚情に応えることのできないまま生きてきて、何と申してよいかわかりません。
 このように兄の手紙を貼り付けて、本にしているのは、兄が最期をとげた翌年、長兄の梅太郎が、松陰からの手紙がバラバラになってしまうのではないかと心配し、注意してくれたので、こうしているのです。私はそのあとも、ことあるごとに、この手紙を開いて読み、自分を戒めてまいりました。
 読んでいると、兄の深い情愛に心が動かされ、いつも涙を禁じることができません。ここにいる私の娘や、その姉は、子供のころ、この本がどんなものだかわからないので、「母上は、その本を御覧になると、いつもお泣きになりますのね」などと、私にその涙のわけを聞いてきたものです。
 この他に、手紙というわけではないですが、私から送った手紙の端っこに、兄が「お前はそういうが、それはこういうことだよ」などと書き添えて返してくれたものが、たくさんありました。そのなかで、忘れられないものがあります。
 まず私が、こう書いたのです。

 「お兄さまに誠があるのは、はっきりしています。罪もないのに罪人にされることはございません。なにとぞ、そのお心のほどを、上の方々に打ち明けてくださり、早く赦されて、帰られる日をお待ちしております」

 すると兄は、その手紙の余白に、自分の思うことを書いてくれたのです。
 兄が書き込みをしてくれた私の手紙は、兄が江戸に送られる前日、家に帰ってきた時に、すべて持ってきて、私に渡してくれました。それらの手紙は、小さな引出しに入れておいたのですが、長い歳月の間に、どこかへ行ってしまいました。今になると、深く気をつけて保存しておくべきであったと、くやしく思うのですが、もう仕方がありません。
 兄は、いつも妹の私たちを戒めて、「心さえ清ければ、もうそれでいいのだよ。貧しいのに豊かなように見せかけたり、破れたものをムリに破れていないように見せかけようとしたりするような、そういう心はよくない。女性たる者、そういうところを、よくよく心得ておかなければならないよ」と言っておりました。
 私には、そう言ってくれた兄の声が、今も耳の底に響いてくるような気がしてなりません』


06  色紙  国 破 山 河 在
        城 春 草 木 深


   春望
     http://manapedia.jp/text/1803

① 【はじめに】

ここでは、杜甫が詠んだ「春望」という句について、書き下し文、現代語訳、そして文法的解説をしていきます。  この春望は、杜甫が戦の最中、長安で軟禁されたときに詠まれた句です。

   国 破 山 河 在
   城 春 草 木 深
   感 時 花 濺 涙
   恨 別 鳥 驚 心

   烽 火 連 三 月
   家 書 抵 万 金
   白 頭 掻 更 短
   渾 欲 不 勝 簪

② 【書き下し文】

   国破れて山河在り
   城春にして草木深し
   時に感じては花にも涙を濺ぎ
   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

   烽火三月に連なり
   家書万金に抵る
   白頭掻けば更に短く
   渾(すべ)て簪に 勝へざらんと欲す

③ 【現代語訳】
 都(長安・今の西安市)が破壊されても山河は残っており、都に春が巡ってきて草や木が生い茂っている。

 時代を感じては花をみて涙を流し、別れを恨んでは鳥の鳴き声を聞いていても心が痛む。

 戦乱(安禄山の乱)が3ヶ月続いている中で、家族からの手紙は大金と同じぐらい貴重だ。

 頭の白髪は頭を掻くたびに短くなって、冠をとめておくピンさえもつけれなくなろうとしている。
④ 【解説】

 ■五言律詩
1句が5文字からできている詩を五言詩(ごごんし)と言います。春望の最初の句を見てみると、「国 破 山 河 在」と5つの句からできていますね。また、8句からできている詩を律詩(りっし)と言います。春望は5文字でできた句が8個並んでできていますね。以上のことから春望は、五言律詩と言います。また「深」、「心」、「金」、「簪」が韻を踏んでいます。
 ■対句
語感や表現方法が同じ句を2つ並べて、それらの句を強調する表現方法を対句(ついく)といいます。春望でいうと、次の句が対になっています。

「国 破 山 河 在」と「城 春 草 木 深」(1句と2句)
「感 時 花 濺 涙」と「恨 別 鳥 驚 心」(3句と4句)
「烽 火 連 三 月」と「家 書 抵 万 金」(5句と6句)

⑤ 【杜甫と松尾芭蕉】
     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E7%94%AB

日本文学への影響は漢詩以外のジャンルにも大きく、特に松尾芭蕉は杜甫に傾倒していた。 『花屋日記』によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされており、生涯を通して杜甫を尊敬していたことが窺える。 『奥の細道』の冒頭にも杜甫の人生である道中で息を引き取りたいと、述べている。 また、同文の有名な一節である。
さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。 国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。

   夏草や 兵どもが 夢の跡

は、「春望」を引用していることが窺える。 だがこの詩の観点はどことなく相違が見える。 杜甫は幽閉の最中に作った詩であることにより、人の営みが今滅ぼされてゆくを述べているが、芭蕉は滅んでしまった後であることから日本独自の無常観が見受けられる。

07  色紙  艱難汝を玉にす

08  色紙  絶対矛盾的自己同一

   西田幾多郎
「ああ、絶対矛盾的自己同一! この9文字に西田幾多郎の禅的思考の真骨頂が息づく」
 松岡正剛の考え

【BOOKWARE】

 日本人なら一度は西田を読みなさいと言いたいところだが、文章は難解だし、最も有名な『善の研究』にして、読み通してその中身をすらすら言える者に、めったに出会えない。脅かすわけではないけれど、それほど西田を読むのには覚悟がいる。

 それなのに西田こそは、日本思想の劇的な特徴を言い当てた哲人なのである。ここまでずばりと本質をついた哲学者はいなかった。そう、ぼくは確信できる。ただし、その劇的な特徴をあらわした言葉はなんと「絶対矛盾的自己同一」という、とんでもなくわかりにくい9文字なのである。まるでお題目のようなのだ。

 もともと西田幾多郎は金沢で洗心庵を組んでいる雲門玄松という禅師に仕えるつもりの青年だった。ところが自分の資質は修行僧になるよりも哲学をすることに向いていると見きわめて、金沢の四高に入った。そこで西田は生涯の友となる鈴木大拙と出会い、自分の哲学的な思索は禅の方法に沿って貫こうと決心した。

 こうして西田の思索が始まるのだが、その中核に据えたかったのは「疑うに疑えないような純粋なもの」とは何かということだった。禅に学べばそれは「無」に近いものなのだろうが、その一言で片付けたくはない。そこでまず「善」を相手に格闘し、次に「自己」とは何かという大問題と格闘した。

 途中、次女と五女を亡くし、続いて母と長男の死、子供たちの病気、妻の死が襲ってきた。西田はその悲しみの連続の只中で、ついに自己を「主客がいまだに分かれていない存在」というふうに掴まえて、その依(よ)って立ったる場所そのものを見つめようとした。それが「絶対矛盾的自己同一」というものだったのである。

自分の実感としては、心の友としていた佐々木某君が亡くなったとき、同じく佐々木某君が亡くなったとき、実兄が亡くなったとき、事実の死であるのに自分の中では生きているのです。 自他の他であるのに自の中に同居している。 絶えず生きている感覚ではない。 自他の他が亡くなったことには無限の慚愧と報恩の情に浸るけれどもやがては遠く離れた記憶の面影となっている。 眼前の死に対する心の揺らぎは同じであるのに、時間的期間の相違によって死に対する事実認識が違ってくるのです。

真実に添った日常を求めているのに、記憶が遠ざかるとか忘れるとかその事実に直面するとき、絶対矛盾というほかはないし認識そのものから言えば、自分でそうした矛盾を抱きかかえているのです。 これは私一人のことではなく、生きていく過程にはそうした矛盾したことが積もり積もっていることを感じざるを得ない。

「絶対矛盾的自己同一」という立場はそうした切り口によって理解できるのではないだろうか。

 われわれは、一と多、「ある」と「ない」、自己と他者、そこにいる自分とそれを支えている場所、見るものと見られるものといった、一見すると対立しあうようなものと一緒に生きている。そこからは逃げられない。だとしたら、どんな矛盾をも包含する決意のようなものが必要なのだ。西田はそれを「絶対矛盾的自己同一」という9文字に凝縮させたのだった。

 西田哲学はこの9文字に如実にあらわれている。われわれはさまざまな矛盾を抱えるけれど、むしろその矛盾を極みに達せられたとき、そこに矛盾をさえ純粋にする作用というものが生まれるのである。これで、何かがピンときただろうか。ピンときてもこなくとも、われわれは絶対矛盾的自己同一にこそ突っ込むべきではあるまいか。

【KEY BOOK】「善の研究」(西田幾多郎著/岩波文庫.907円)

 ここで「善」と呼ばれているのは、善意のことではない。われわれが体験してきたことのすべてをあてはめても、なお純粋になれるような究極の気持ちのことをさす。「善」はそのような純度の高いものだとみなされたのだ。しかしのちに、西田は「善」を「本来の自己意識」というふうに読み替えて、そこには純粋よりも矛盾が跳梁していてもよかったのだと思うようになった。ちなみに西田は、この代表作を書く直前に次女と五女を亡くしていた。

【KEY BOOK】「西田幾多郎哲学論集」I,II,III(西田幾多郎著/岩波文庫.929円-972円.在庫なし)

 このうち「働くものから見るものへ」「場所」「無の自覚的限定」の3本を、なんとか読んでほしい。西田が「無の禅学」を導きの糸として「主客未分の自己」に向かっていくプロセスが見えてくると思う。とくに自己と無とのあいだに「場所」があらわれるところが肝心だ。IIIに「絶対矛盾的自己同一」が収録されている。ここには「逆対応」という用語も使われていて、自己を「無」や「矛盾」という逆のほうから掴まえてしまうというコツが暗示される。

【KEY BOOK】「西田幾多郎」(上田閑照著/岩波同時代ライブラリー.1080円.在庫なし)

 西田の生涯を随筆・短歌・日記・手紙を辿りながら追いつつ、その思索のあとをじっくり理解させてくれるのに一番の本。人生の悲哀こそ哲学の動機となるもので、他者を受け入れる「席」を用意することこそ哲学の深部に向かうことだということが、しだいに伝わってくる。著者は宗教哲学者で、ついに出会えなかった西田を「いや、ずっと会っていた西田」