入院日記

 

 

 

 

 

 

入院日記

兆候はあったがわが身を気遣う余裕はない

46歳、中間管理職。

過労によるストレスが徐々に溜まる年頃だ。

 

2005年1月1日再編集して掲載開始

 

1979年(昭和五十四年)

 

元旦から寝ているわけにもいかないので、八時過ぎ、ふとんを上げて服を着る。私の起きる気配とともに子供たちも二階から降りてきた。親父も呼んで久し振りに家族六人勢ぞろいだ。父が心配そうに私を見るので、「だいじょうぶ」と作り笑いをしてみせる。礼子は一人でなにもかも整えてしまった。神飾りから五段重ねのおせち料理、床の間の鏡餅、屠蘇の用意まで。せっかくの祝いごとなので私も皆といっしょにお屠蘇少々いただく。雑煮も特別に柔らかく煮てもらって二つ餅を食べた。礼子が気にするので煮しめにも少し箸をつける。子供たちよりも、七十八才の父がお餅を三つも食べたのには驚いた。

一時ごろ叔父夫婦が見える。いつもながら叔母は声高で賑やかだ。不景気面もできないので、適当に話を合す。一時間ほどして従妹の一家も来て、その娘だけがしばらく残って遊んで帰るという。

夕飯後体がだるくてたまらない。階下は子供達のゲーム場と化しているので、しばらく二階の保雄のベッドに横になる。

 

正月というのに下痢が一向に止まらない。中学二年の保雄は友達と初詣に出かけた。小学校六年生の佐和子と去年小学校に上ったばかりのすみ子は向かいの友達を呼んで二階でトランプに興じている。父は上ん町の伯母(父の姉)のところへ年始の挨拶に出かけたらしい。

昼頃礼子に頼んで近所の薬局で硫酸アンモニューム二十グラムとカーボニン三グラムを買ってきてもらい、思いきって飲んでみる。悪い物をいっぺん全部出してしまうつもりだ。ところが、カーボニンをオブラートでくるまなかったので口中が真っ黒になった。そんな口で咳き込んだら礼子が笑い出した。自分でも洋服ダンスの鏡に顔を写してみて情けなかった。

 

薬の効果てきめん、今朝にかけて、滝のように便が出きった。

朝ご飯も昼ごはんも抜いて、腸内をすっからかんにした。荒療法である。お陰で夕刻の流動食はなんとか食べられた。ただ空腹感はない。しかも、すっきりしたという感じがない。よかったのか悪かったのかわからない。出口のない海底でもがいているようで、それ以上自分でも手の施しようがなかった。

 

食べる物をほとんど食べなかったので便の量は減った。それでも、下腹が張るような鈍い痛みが収まらず、そうかといってもう一度硫酸アンモニュームやカーボニンを飲む気にはならなかった。

階下は皆の邪魔になるし、来客があると困るので、二階の表の間にふとんを敷いて一日寝ていた。

夕方森中部長が見舞に来てくれた。寝巻きに丹前を羽織って階下で挨拶する。蜂蜜を頂く。

「病院を変えたほうがええよ。」と勧められた。今はどんな忠告にも従う気持になっていた。

 

会社の京都駅営業所の所長が以前から勧めてくれていた京都府立病院へ行ってみる。それほど遠くではないので自転車で行こうかと思ったが、家内に止められたので御池通りでタクシーを拾った。

紹介を受けた吉村先生にうまく会える。すぐに便、尿、血液と立て続けに検査を受ける。吉村先生は第二内科で、直接の主治医は第一内科部長の遠藤先生だと聞かされた。火曜日に山科の愛生会病院に行くように指示される。会社の東野所長と経理課(私の担当部署)の倉中係長に報告しておく。なんだか、見慣れない広場に敷設された軌道に乗った壊れかかったトロッコのように、ガラゴロと動き出した。

 

薬が変わったせいか下痢の回数が半減する。それでも一日四回。眠くて一日寝てばかりいる。日記なぞつけてられる気分ではない。食欲もない。

 

正月以来ずっと晴れている。それに引きかえ私はどんどん気力をなくしていった。子供たちも昨日から三学期が始まり、朝の家の中はひっそりしていた。親父は何言うでなし、起きるのも寝るのもマイペースである。

礼子に付き添われて愛生会病院に出かける。タクシーを降りて病院の受付までの道のりが遠く感じた。問診があり、あとベッドで点滴を受ける。検査のつもりで来たのに検査はなく、なんとなく拍子抜け。十一日に注腸検査をするからと告げられた。もうこんなことより手術でもなんでもさっさとしてくれという心境だった。

 

なんとまあ晴天の続くことか。東向きの窓から薄いカーテン越しに朝日が差し込む。明るいことで気がいらいらした。

昼からは子供たちが学校から帰ってくる。上の二人はまだしも大人しいが、末っ子のすみ子は、わけも分からず、私の布団の上に馬乗りになったりする。 

注腸検査の前日なので夕食は流動食。七時半にマグコロール250ミリリットルを飲む。普通の時には到底飲めない味だ。午後十時にソルベン四錠。あとは水ばかりふんだんに飲まなければいけない。

 

今日もぶっ続きでまだ晴れている。

朝十時に愛生会病院へ出かけた。一人で行けなくはなかったが、家内が付き添うというのは阻まなかった。十一時過ぎまで待合のソファで待たされてやっとレントゲン室へ通される。ベッドに縛り付けられ、右に左に縦横にぐるぐると引き廻され、こんなことをして健康に、特に内臓にいいはずがない。腸の撮影後うっとうしい待合室で十二時半まで待った。ようやく診察室に招かれたが、まるで執行官のように体格のいい先生が事務用の肘掛け椅子に窮屈そうに座っていた。壁に張り出された私の腸のレントゲン写真を、指揮棒のようなもので指し示しながら、柄に似合わない優しい声で説明し出した。腸のほぼ全域に細かい潰瘍があるとのこと。腸本来の蠕動運動が停止しているのが、壁に張られた写真を見れば、しろうとの私の目にも明らかだった。

「すぐ入院しないといけない。連絡しておくから明日府立に来なさい。」

と宣告された。

 

十一時ごろまたまた礼子に付き添われて府立病院に行く。正月以来どこへ出かけるにも生徒の保護者のように妻が従ってきた。なさけないかぎりだ。遠藤先生の診断は「潰瘍性大腸炎」。約三ヶ月の入院加療を要するとのこと。断りたかったが、仕方がない、感情を抑え、「わかりました。」と覚悟を決める。

昼から三時ごろ背広に着替えて会社へ出かける。さすがに家内は付いては来なかった。森中部長は外出中だった。神野課長、倉中係長に報告、診断書を渡し、部長によろしくと頼んで帰る。

礼子は手際よく身の回り品を揃えてくれた。長男の保雄が自分の小型ラジオを貸してくれると言った。文庫本も適当に借りる。

今晩でしばらく家とお別れか。六年前、腸閉塞で二週間ばかり大沢病院に入院した時のような不安はない。下痢が収まったからだろう。あれこれ考えても始まらない。

久し振りに夕刻から小雨が降り出した。

 

×  ×  ×  ×  ×

 

 

一月十三日(土曜日)小雨のちくもり

十時過ぎにタクシーを呼んで府立病院へ行く。受付で入院手続きを済ますと、間もなく四階第一病棟第二室へ案内された。六人部屋だった。相客はみな元気そうな人ばかりでちょっと安心する。第一室の方が重患者の病室らしい。パジャマに着替える前に二人で第三内科に挨拶に行く。笑顔で迎えてくれた吉村先生が、家内を手招きして、「奥さん、心配ないから・・・」と勇気付けているらしいのが、二人の様子から読み取れた。私に寄ってきた礼子が、ほっとした顔で、

「悪性でないて、はっきり言うてくれはった。」と囁いた。

婦長さんが同室の五人について紹介をしてくれる。一人は十五日に退院の予定だそうで、さらに二人が二十日に退院が決まっているとのこと。道理で明るい雰囲気だと思った。

礼子と地下の売店を見に行く。スーパーなみになんでも売っている。生協に加入すると割引してもらえるというので、家内が手続きしてカードを作ってもらった。散髪屋もある。

まもなく配られてきた昼食は普通食だったが、それでも、私の安静度は「室内安静」だと婦長に宣告された。室外へ出歩くことが出来ない制限患者とのことだった。さっき売店まで降りて行ったのが娑婆の見納めということか。

ベッドに付けられた名札の主治医欄は中林先生と福沢先生の二人の名前が書いてある。つい疑心暗鬼になる。これは重病ということなのだろうか。あるいは、紹介患者だから手厚くとのことなのだろうか?

「遠藤先生は私のナニなんですか?」

びっくりしたように婦長が、

「遠藤先生は内科部長さんですよ!」

なにを勘違いしているんだと彼女は呆れたような顔をした。

夕食からさっそく全粥の治療食である。豆腐、隠元、味付けのり、卵焼き、ほうれん草。

九時消灯。寝つかれそうにない。

 

 

一月十四日(日曜日)晴れ

昨夜は五時間ほどしか寝られなかった。朝六時にはもう検温に看護婦が回ってきた。

朝食は豆腐の味噌汁と卵焼き。それに柚味噌が小皿についていた。

十一時頃礼子と末娘のすみ子が来る。本社の経理部長が家に見舞に見えた由。私のベッドは廊下側だったが、すみ子は珍しそうに病室の窓べりに出向いて外を眺めたり、戻ってきて私のベッドの端に座ったりした。

昼飯は牛肉と麩とにんじんの煮付、塩気のとぼしい鮭の切り身とこれまたにんじんの胡麻和えだった。

夕刻、同室の人懐っこそうな山本さんが、私のベッドに将棋盤を持ってきて、

「やらはるんでしょう。」

と、駒をもう並べ出す。あまり気乗りはしなかったが、初対面でこれからの付き合いもあるし、むげに断れなかった。一方的に負けるのは嫌いな方だが、なんとか一敗に終り、これなら気晴らしになる相手ではあった。

ツベルクリンの注射を打たれ、五時前にはもう夕食が配られた。鰆の煮物とほうれん草のおしたし、卵焼き。

まだ三十代の大沢君はなんでも、地中海性貧血症とかで何度も入退院を繰り返し、見た目は元気そうだが、血が固まりにくく、日本全国でもわずか二十六人とかの難病患者らしかった。仕事にも就けず、退院時にはアパートで生活保護を受けつつ一人で暮らしているとのことだった。

 

 

一月十五日(月曜日)晴れ 成人の日

昨夜も寝つかれなかった。一晩うとうとし続けた。

朝、まだカーテンが閉まっていて薄暗いうちに看護婦が計っていく検温では七度三分だった。

どうしたことだろう。朝食後、まったくの普通便が出る。

昨日将棋の相手をした山本さんが午後一時過ぎに退院する。約五ヶ月もの間腎臓で加療中だったのがようやく回復したのだと・・・。昨日入室時にそう紹介されていたのに、夕方には名前さえもけろっと忘れてしまっていた。彼本来の性格が人懐っこいのではなく、退院を前に晴々とした気持ちで、入院直後の私に将棋で元気をつけようとしてくれたのだ。嬉しさをかみ殺したような顔で、付き添いの奥さんがベッドごとにお菓子を配って回る。背広に着替えた山本さんを同室の仲間が揃ってエレベーターまで送って行った。「室内安静」の私はベッドから頭を下げておいた。

看護婦が来て、「トイレを済ましておいてください」と言う。そのあと明日の準備とかで点滴を受ける。二時間半もかかった。トイレを先に済ます意味がわかった。その最中に今日も家内がすみ子を連れてきた。桃色のシクラメンの鉢を持ってきてくれる。昨日、姉の佐和子が入っている京都市少年合唱団の発表会で、一年生のすみ子が花束贈呈の役をやったとか。帰り際になって思い出し、地下売店で明日の検査食を買ってきてもらう。

成人の日というので皆の夕食は赤飯らしかったが、私一人は白粥だった。

 

 

一月十六日(火曜日)晴れ 

昨夜はとうとう看護婦に言って睡眠薬をもらう。おかげで丸六時間ぐっすり寝られた。

朝、立て続けに検便、検尿、採血。その挙句に今朝から検査食。これがまずい。なまぬるい宇宙食のような、べとべとの食べ物だ。

山本さんの退院に伴い空家になった真ん中のベッドに替えてもらう。今までより少し明るく居心地がいい。

十一時ごろ礼子が来てくれる。看護婦さんたちにみかんを持っていったが断られたらしい。十一時半、遠藤教授の回診があった。助手、インターン生から婦長まで、総勢十五人ばかりがぞろぞろ続き、いい加減物々しい。私の隣、窓際のベッドの川アさんは胃潰瘍がもう少し残っていると言われて、退院の期待が外れ、少しがっかりの様子だった。小柄で赤ら顔、人懐っこいので、見かけたところ私より五つ六つ年上にしか見えない。聞いてみると、もう定年退職していて、洛北と洛南に二軒家を持ち、気楽に暮らしているとか。元京都市水道局の管財課長で、私の従兄とも面識があると言った。従兄弟は私の勤めるみやびホテルで施設課長をしていて、疎水利用権の問題で何度か交渉をして相手だと言う。世間は狭い。

今日は入浴日で、昼からみんな順番に浴びに行ったが、私は入浴できない。元来風呂は好きな方ではなかったが、入れないとなると入りたくなるものだ。頭を洗うのもいけないらしい。

夜八時にまたマグコロールを飲む。砂糖を足しても身震いするほど酸っぱい。

 

 

一月十七日(水曜日)晴れ

昨夜はまずまずよく眠れた。

朝は絶食。十時に控え室に呼ばれて高圧浣腸をしてもらう。下半身裸で若い看護婦にセットされるのだから、ちょっと苦痛だ。それを顔に出すわけにはいかない。その足で便所に走り込んで用を足して戻ってくると、看護婦が後を覗きに行く。まだ充分でないと、ちょっと休憩後もう一度浣腸。透き通った水分だけが出るようになってやっとOKが出る。続いて、別の部屋に移動して十一時四十分から大腸ファイバー。これはベッドに横になって、先端にカメラの付いた長い管を肛門から入れるのだ。入り口を突破さえすれば後は思ったより痛くはなかった。三十個ばかり細胞片を摘み取られた。吉村先生、主治医の中林先生立会いで、カメラは第三内科の工藤先生。腸については日本有数の方だと吉村先生が耳の傍で囁いた。

昼食は欠食なっているので、地下の食堂まで出向いて肉うどんを食べる。食欲はあるようだ。偶然そこで本社セールスのH係長に出会う。

「沢村さん、どうされたんです。」

「あんたこそどうしたんや?」

子供が風邪を引いたとか。

午後竹原さんが入室してきた。ベッドは昨日まで私のいた窓際だ。つまり私の真隣だったから色々話を聞く。昨年七月来、入退院を繰り返しているのだそうだ。心不全でペースメーカーを付けていて、腎臓も悪いので完治は難しいと自分で言った。

四時過ぎ礼子が、府立の前にかかっていた毛利病院から腸レントゲン写真を借りて来てくれた。それを持って二人で医務室へ出かけると、腸ファイバーの工藤先生が結果の説明をしてくれた。直腸はほぼ正常だが、直腸より十センチほど上から大腸全般に潰瘍が点在しているとのこと。点は深いが広がりがないので、単なる潰瘍性大腸炎でなく、細菌性の疑いがあるらしい。

久しぶりのまともな夕食を摂る。おかゆも全部平らげた。みかんも2つ食べた。

 

 

一月十八日(木曜日)

昨夜は久し振りによく眠れた。八時間はたっぷり寝た。

窓外は雨だった。一日降りそうな感じだ。今朝もまだ絶食のはずなのに間違って配ってきたので、捨てずにおかずを取っておく。ほどなく看護婦がシーツ交換に来たが、隠匿したおかずは見つからずに済んだ。

十一時に注腸検査(腸にバリュームを注入してレントゲンを撮る)。福沢先生と中林先生で二百五十cc入れただけで簡単に済んだ。

昼食はハンバーグと朝に取っておいた目玉焼きを一緒に食べた。

福沢先生が来てちょっと話して行かれた。昨日のファイバースコープの結果、アメーバの疑いが出てきたらしい。確率は七十%くらいで、例えばアメーバー赤痢とか・・

四時ごろ礼子がスリッパと玄米茶と整髪用チックと森村誠一の「悪しき星座」も持ってきてくれた。叔父と叔母たちから、たまご一箱となにがしかの見舞金を頂いたそうだ。

夕食はシューマイ、豆腐の澄まし汁、ほうれん草、鶏のささみ、それから野菜のごった煮。なかなかの献立だ。

頭がふらつくとかで入院していた香坂さんは、内臓検査を受けたが結局内臓は異常なし、目に原因があるらしく、二十一日ごろ退院するんだと、全部しゃべってくれた。

 

 

一月十九日(金曜日)朝方雪、のち晴れたり曇ったり

昨夜もよく眠れた。熱もどうやら平熱に下がる。ただ、食後しばらく少し下腹が張る感じがするが、運動不足のせいだと思う。

実は昨日から注腸治療(潰瘍性大腸炎のための治療薬を腸内に注入する)が始まるはずだったのが中止になった。その代わり、検便でアメーバの培養検査が頻繁にある。

十時半ごろ洗髪にきてくれる。そんなに気を使ってくれるほど重症でもなかろうと気の毒になるが、やはり何日かぶりでさっぱりした。

昼前礼子がメロンの切り身と塩こぶを持ってきてくれた。

今日も三時から点滴。ようやく点滴も日課のうちと思えてきて、これが済むと夕食となる。

窓際の川アさんの奥さんが、今日は朝と昼と二回みえていた。香坂さんの奥さんはだいたい毎日みえる。

第一病舎の一号室には、一、二、三内科混合の女子重症患者が入っている。中で一人かなり重いひどい人がいるようで、特別許可を得て父親が付き添って寝泊りしているらしい。

大山さんはいよいよ明日退院と聞かされたが、夜こっそり酒を買いに出て、ベッドで二本も飲んでいた。根っからの酒好きらしいが、その上喘息持ちのくせに咳き込みながらたばこを吸う。これで身体を壊さない方がおかしい。よくも退院できるものだ。

 

 

一月二十日(土曜日)晴れ

よく眠れるし、六時起床が習慣づいてきた。

川アさんは今朝は胃カメラを飲むので絶食とのこと。

私は九時頃大きな容器に便を採る。普通便に近い、と、すぐに知らせたのに、

「行く前に言っておいてください」と看護婦さんに叱られる。

それでもまもなく福沢先生が駆けつけてくださったが、培養に使うので出きるだけ新鮮な便が要るのだそうだ。十時頃心電図を撮る。

香坂さんは今日は外泊で家に帰るので、よほどうれしかったのだろう、会う人ごとに同じことを言いまわっていた。

十一時頃礼子が、手慰みに折り紙一式と着替えを持って来てくれた。

この間退院した山本さんが通院のついでに立ち寄り、お見舞に甘柑を皆の枕元に置いていってくれた。

大沢君、十時から十三時過ぎまで外出。人のことがどうしても気になる。

十三時半ごろ看護婦さんが来て身体を拭いてくれる。少し重病人扱いが過ぎるように思える。蒸しタオルで背中を拭き、足をバケツに浸け、あと拭いてくれる。シモを小さなガーゼでぬぐってあと捨てる。ありがたいことだが、気恥ずかしく、わずらわしくもある。

折り紙で赤とんぼを作る。

大山さんは、朝からもうトックリのセーターに着替えて待っていたが、奥さんと息子さんが来たのは夕方十七時過ぎだった。それでも嬉しそうに七ヶ月ぶりに病室を後に家族に伴われて帰っていった。

窓際の川崎さんが小型のテレビを持ち込んでいたので大相撲を見せてもらう。若乃花が負けて明日の千秋楽を待たず北の海の優勝が決まった。

二十時ごろ、室内のみんなが取ると言うので、付き合って狐うどんを出前してもらう。

 

 

一月二十一日(日曜日)曇りのち晴れ

竹原さんは夜中に大分息遣いが荒いように思えた。

体重測定日である。まだ53キロで変わらない。昨日の狐うどん、どうやら収まった。今朝の便は量が少なかつたが硬く普通便だった。

九時四十五分から点滴。途中で尿意をもよおし、尿瓶を借りる。生まれて初めて尿瓶を使うが、最初なかなか出にくく弱った。

昼から皆に詰め将棋を教えたのはよかったのだが、持ち駒を一つ記憶違いしていて、いくらやっても詰まらず、面目を失ってしまった。

桂の叔父と叔母が見舞いに来てくれた。二人とも近頃創価学会に入信していて、根っから無信心の私に池田大作の「人間革命」を貸してくれた。協会の教授補佐のような資格を取ったらしい。ひょっとしたら、二人は私が癌だと思っているのかもしれない。

礼子がすみ子を連れてくる。頼んでおいたミニゲームを持ってきてくれた。折紙協会大阪支部の田口さんから電話があって、黒田さんが本部事務局長に就任されるとか。

病室中退屈していて、すみ子のミニゲームにみなが熱中する。

尿をずっとガラスの瓶に採っているが、いつも1200cc〜1500ccのところ、今日は1800ccにもなったので、最後の方は採らずにおいた。尿瓶で受けずにじかに小便をするのは、やはり心地よいものだ。

 

 

一月二十二日(月曜日)晴れ

今朝は五時半ごろ目が覚める。夜中に一度もトイレに行かなかった。

点滴の最中、十一時半ごろ、久松さんが新しく入室してくる。さっそく話を聞いてみると、両眼の神経が合流するあたりにしこりができて、圧迫するので目が見えにくいのだという。もともと糖尿症があって、それだと手術の途中出血が止まらない。そちらの治療に専念していて、ようやく糖尿は克服したらしく、近くしこりの摘出手術をする予定とか。

礼子がみかんとカステラとあられと爪切りを持ってきてくれた。

大沢君を例題とした「地中海貧血」の論文を見せてもらう。治療法としては、輸血、脾臓摘出、除鉄剤投与、ステロイドホルモン投与(増血)などがあるとのこと。脾臓には溶血作用があるので、鉄分の過剰を排尿により除く。といつても私自身が理解できているのかよくわからない。不治の病ということで、患者は時としてうつ病的精神発作を起こすことがある。大変な病気だが、まだ国の「難病指定」を受けていない。

五号室はに原爆症で四年前から入院している患者もいる。

十九時ごろ、中林先生が見え、アミーバの可能性はほぼなくなったと言った。

 

 

一月二十三日(火曜日)晴れ

今朝の便は少し硬い目だった。色も茶色がかってきた。今まではどちらかというとカーキ色をしていた。

みやびホテル勤務のMさんに同じ病棟の廊下で声を掛けられる。

香坂さんは二十八日に退院することが決まった。片目の摘出は三月に改めてするとのこと。

遠藤部長の回診と礼子の来るのがかちあった。礼子はミロとコーヒーカップと、西沢爽の「雑学猥学」を持ってきてくれる。

十四時ごろ田口さんが、折紙協会大阪支部からと言って、見舞に来てくれた。やはり黒田さんは家族ともども東京の本部に行くらしい。四十八歳、万年社の部長職を辞してである。

親父が見舞いに来てくれた。二十八日に兄弟会をうちでやるそうだ。つまり私の叔父とか叔母とか五人、みんな長生きで元気そのものだ。私の入院が話題に上るだろう。「癌」ということに決め付けられそうだ。

入浴の許可が出たので、久し振りに身体を洗いさっぱりする。

十五時半にミロで菓子パンを食べる。すんなり食べられた。

夕食から今までのおかゆに替わって普通のご飯となる。ゆっくり味わって食べる。

抗菌錠剤を今夕から飲む。

Mさんにまた廊下で会って話を聞くと、大腿からカメラを肝臓に通して検査した結果、肝臓が相当悪いらしい。二ヶ月ほど前に入院したとのこと。

二十時から一階ロビーでテレビを見る。うちでは見たことのない杉良太郎の「新吾捕物帖」。チャンネル権は前列の二、三人が握っている。

 

 

一月二十四日(水曜日)晴れのち曇り

昨夜はあまりよく眠れなかった。朝食は食パンとボイルドエッグとみそ汁。食事中ひどく腹が張った。

朝刊に太安万侶(おおのやすまろ)の遺骨と墓詩銘が出土したことが大きく報ぜられている。

川アさんの衣笠のうちの隣が、京都折紙会のTさんの親戚のうちだそうだ。望んだわけではないが、話題のつながりを探って話し掛けてくる。

大便は硬くて、むしろ力まないと出ない。

昼前礼子がミニゲームの替わりを持ってきてくれる。従姉妹が寄って見舞金を置いて行ったらしい。昨日経理課の課長がうちに来て、部長の長男ご婚礼のお祝い返しと、冬の一時金の追加支給分を届けてくれた。

十五時半、パンを一切れ食べてから、地下売店まで散歩に行き、角砂糖を買う。

夜は一階ロビーで「銭形平次」を見る。

 

 

一月二十五日(木曜日)晴れのち曇り夜しぐれ

昨夜もぐっすりとはいかなかった。六時に採血。

朝食前、一階まで階段で降りてみる。一階ロビーは少し冷え冷えとしていたが、もう二十人ばかりが長いすに座って診察が始まるのを待っている。帰りはエレベーターでと思ったが、なかなか来ないので、がんばって階段を登る。身体にいいのか悪いのかわからない。部屋に戻ったらシーツを交換してくれてあった。

手術待ちの久松さんはいかにも温厚そうで、どこかの会社の重役さんのようにと思えた。聞いてみたら、大阪の米屋の旦那さんということだ。

一昨日折紙の田口さんに頂いたメロンを半分切って、地中海貧血の大沢君にお裾分けする。

昼前にも階段の上がり降りをしてみた。シクラメンを窓際の日差しに出してやる。

礼子が色紙掛けを持ってきてくれたので、さっそく大阪支部の田口さんに戴いた折紙の色紙を壁に掛ける。Fさんから見舞にもらったメロンを、礼子は叔父に上げるというが、ちょっと惜しい気もした。

かって竹原さんは二トントラックの運転手だったらしい。娘さん二人を嫁にやり、息子二人はまだ独身。長男は出町柳で薬屋をやっている。今日は竹原さんの戦友がやってきて、散髪をしてもらっていた。月に一度必ず散髪に来てくれるそうだ。

香坂さんは朝から出かけて夕食前に帰ってきた。初天神に孫の高校入試祈願ををしてきたとかで、土産に飴玉をいただく。

夜はまた一階ロビーに出かけ、「風鈴捕物帖」を付き合う。部屋へ帰ってからカステラの残りを食べる。シクラメンの葉がほとんど全部黄ばんでしまっていた。急に陽を当てたから弱ったのだろうか。

 

 

一月二十六日(金曜日)早朝曇りのち晴れ

寝しなに食べたカステラが余分だったのか少し腹が張る。

昨日階段を登り降りしたせいでふくらはぎに少し身が入っている。体力維持に続けるべきか否かちょっと迷うが、くじけてはいけないと、今日も一階まで階段で降りまた上がる。

十時半に予約しておいた散髪屋へ出かけた。洗髪ともで千六百円は思ったより安い。

昼過ぎ礼子が、うにと鮎の飴だきを持ってきてくれた。

十三時半から福沢先生の担当で、大沢君の肝臓検査が始まる。福沢先生は資格は講師だが、第一内科では遠藤教授に次ぐ地位らしい。局部麻酔をしてから、肝臓へ直接注射器を挿し入れ、鉄の含有量を調べるのだそうだ。地中海貧血では鉄が過剰になり肝臓に溜まる。検査の後は二十四時間ベッドに寝たまま動けない。私は今日は間食を止めておく。せめてもの大沢君に対する協力だ。

さて今日は入浴日。病院の風呂にも慣れてきた。

香坂さんは以前はよく川柳をやっていたらしく、「峰泉」という俳号もあるとのことである。

大阪で銀行強盗があったみたいだ。

 

 

一月二十七日(土曜日)晴れ

昨夜はまずまずぐっすり寝られた。

大阪の銀行強盗はまだ三十五名の人質を猟銃で脅して立てこもったままだ。

昼前に礼子が来たので、シクラメンを持って帰ってもらう。

昼食後売店へ行ってリンゴを買う。

十四時半ごろ、森中部長、神野課長、倉中係長が見舞いに来てくれた。給料も持ってきてくれた。

竹原さんは猟友会の会員で猟銃を持っている。獲物は今まで雉が最高、四足獣は撃ったことがないそうだ。銀行強盗が猟銃所持の許可を持っているのが竹原さんには合点がいかないらしい。前科、特に強盗殺人の前科があるのに許可が下りるはずがないというのである。一生懸命自説を繰り返す。

香坂さんの奥さんが退院の挨拶がわりにリンゴを二つずつ皆のベッドに配って歩いた。

竹原さんは地下売店で折り紙を一冊買ってきて、孫になにか折りたいというから、枕もとの折り紙の本を貸してあげる。

夜は一階でプロレスを見る。家では決して見ない番組だ。十五、六名が身を乗り出して見ていた。

福沢先生が来て、今後の予定を告げていった。次の水曜日とその次の水曜日に大腸ファイバーを行うとのことだ。ちょっと気が重い。

 

 

一月二十八日(日曜日)曇ったり晴れたり

昨夜は十二時頃まで眠れなかった。

六時に目を覚ましてラジオをかけるが、銀行強盗事件は四人の死体を運び出したほかは、依然進展せず。

体重測定日で五十四キロだった。前回より一キロ増えていた。

朝食後八時四十三分、突然機動隊が突入して犯人が逮捕され、人質全員は無事とのこと。廻りも歓声を上げる。

礼子がシクラメンの新しいのと桜草みたいなのを持ってくる。すみ子がついてくるかと思っていたら来なかった。午前中にオルガンの検定があって疲れたのだそうだ。こたつと給料を持って帰ってもらう。

香坂さんが退院していった。

十七時四十五分銀行強盗犯人梅川が死亡したとの報が流れる。

竹原さんは私の貸してあげた折り紙の本を見ながら、お孫さんにタヌキやコウモリを折っていた。

十九時半から一階ロビーでテレビを見る。「砕氷船ふじ」。続いて「草燃ゆる」。

心臓の裏側のあたりに筋肉痛があるので湿布してもらう。

 

 

一月二十九日(月曜日)小雨

五時に目が覚めた。

久松さんを見舞に行ったら、面会室で彼の身の上話を聞くはめになる。父親が関東物の呉服問屋だったのを早くに継いで、二十歳の時、繊維に見きりをつけて米屋を始めた。戦災も遭うが戦後はいち早く立ち直り、あくどく闇米をかき集めたりもしてがむしゃらに働いた。やがて三ヶ所にチェン店も設け、米屋組合の理事長も務めたが、十年前突然脳出血で倒れ、それからは奥さんと全国の温泉を巡り、視力が衰えてきたのはごく最近のこととか。店は息子さんに任せているのだそうだ。すべてを聞いてしまった。

香坂さんの跡に井川さんという老人が入院してきた。四ヶ月前に腰骨を折って歩くのが少し不自由。内臓検査に来られたとか。長男のお嫁さんがかいがいしい。

雨が降っているので礼子は歩いて来た。明日の検査食(ボンコロン)を地下売店で買ってきてもらう。保雄が風邪をひいて七度七分ほど熱があるらしい。それでも理科のテストがあると言って登校したそうだ。

中林先生が来て、点滴は今週中でおしまいだと告げた。

夕食は牛肉が付いたが、冷えているのでまずい。手鍋に入れて火を入れなおしたらなんとか食べられた。

十九時半から一階で世界フライ級ボクシングの大熊対ゴンチャレスを見る。引き分けだったがチャンピオンのゴンチャレスがタイトルを守った。

今日は一日雨が降っていた。

 

 

一月三十日(火曜日)曇り一時晴れ

今朝も五時ごろ目覚める。

朝食からボンコロン。よくまあこんなまずい食べ物を作ったものだ。

夜中に井川さんが電灯を点けてみかんを食べていたと言って、大沢君がぷんぷんしている。尿瓶を部屋に置いておくのも気に入らないらしい。その上主治医の吉本先生というのがちょっと不まじめで、すぐ冗談口をたたくし、静脈圧の検査を昨日三度も失敗し、今日また失敗したので、ひどく不機嫌だ。

部長回診時、遠藤先生に「そろそろ体をもてあましているだろう。」と言われる。

礼子が字引を持ってきてくれる。日記を書いていても思い出せない漢字がある。

十三時ごろ風呂に入る。今日は一番風呂だった。

夕食はポタージュスープだけ。井川さんの三男のお嫁さんが子供を連れてくる。我々にジュースを一本ずつ配ってくれた。

二十時から、川アさんの小型テレビで「南極だより」を見る。テレビを通しての家族対面で子供の呼びかけに隊員がぼろぼろ涙を流すのに、竹原さんがもらい泣きする。九州にいるお孫さんを思い出したのだそうだ。

下剤を飲む。顔がしかむほどすっぱい。

 

 

一月三十一日(水曜日)曇り

六時と七時過ぎに大便に行く。ほぼ出た感じで急に腹が減る。それでも朝は絶食だった。今朝は絶食者が多い。竹原さん、久松さん、大沢君と私と。

九時に浣腸、十時四十五分からいよいよ大腸ファイバーである。工藤先生のカメラ。急激に潰瘍が薄らいできているらしい。頼んで自分の直腸内を管を通して覗かせてもらう。全体にきれいなピンク色だが、ところどころ赤味をさしている所が潰瘍の痕だと教えてもらう。細胞摘出(バイエックス)も十個から十二個程度。しかし先日より深く、九十センチほど奥まで入れたので、時間も一時間以上掛かる。

それでも昼食には間に合った。

十三時ごろ九州営業部の杉山部長が見舞いに来てくれる。十四時半から営業会議だと言ってそそくさと帰られた。

十四時半、礼子が持ってきてくれたショートケーキを食べる。

五号室には原爆症で入院してもう四年になる人がいる。奥さんがいつも付き添っていて、本人は車椅子とベッドの生活だ。原爆投下の日、たまたま広島で軍役に服し、死体処理を手伝ったらしい。その十数年後に発病したとか。

 

 

二月一日(木曜日)曇り

昨日はあまりよく寝られなかった。夜中二時ごろ便所に行くと、軟便だった。

五号室の市役所の部長さん、直腸癌で手術台に上がったとか。

阪神江川と巨人小林のトレード成立の臨時ニュースが流れた。

先月退院した大山さんが外来でくる。毎日パチンコと居酒屋通いだと、楽しんでいるような退屈しているような話だった。大山さんが帰ったら、入れ違いに香坂さんがやってくる。元気そうだ。

十四時四十五分から点滴が始まった。安静度数表が「室内安静」から「病院内安静」に変更された。といってもすでに私は勝手に病院内をうろうろしていた。

その最中に住島社長と島田本部長がそろって見舞にきてくださった。

「会社の成績は順調だよ。心配ない。」と社長が言ったので、

「私の方も順調です。」と訳の分からぬ返答をしてしまった。

婦長さんが市長選挙の不在投票の請求用紙を持ってきた。 かねてより川アさんが退院したあと、窓際ベッドに替えてくれるよう頼んでおいたのを、婦長さんにさらに念を押しておく。

十九時ごろ川アさんの奥さんが来られ、荷物のあらかたを片付けて持って帰った。

一階ロビーで「欽ちゃん」を見る。二十一時ごろみんなといっしょにてんぷらそばをとって食べる。

 

 

二月二日(金曜日)晴れ

七時、一階ロビーまで階段で降り、また登ってくる。一服してから六階の屋上まで階段で登り、また降りてくる。「病院内安静」となったのでおおっぴらに体力を着けることを心掛ける。

井川さんは昨日の胃カメラの結果がよかったので早々に退院らしい。

昼前に礼子がカステラと刺身を持って来てくれる。

便はまだ軟便で、時間も不規則だ。大沢君に講議所まで案内してもらう。時々ベッドごとここへ運ばれて学生に彼の病状の講議が開かれるのだ。

十四時の点滴の時に主治医の中林先生がみえたので、日曜日の外出を頼んでおく。

十六時ごろ、いよいよ川アさん退院。今日は奥さんは用事で来れず、一人で帰られる。バスの停留場まで大沢君と見送りに出る。部屋に戻って早速自分から窓際のベッドに移転し、窓辺にシクラメンを置いていると、看護婦さんが来て、「沢村さん、手回しええね。」と言われてしまう。やはり明るく、自由で気分がいい。

夕食は久し振りの刺身。大沢君に三切れを小皿に入れて分けてやる。

夜は一階ロビーで「七人の刑事」を見る。竹原さんも車椅子でやってきた。

 

 

二月三日(土曜日)曇り

昨夜は真夜中の井川さんが枕もとの電灯を点けたまま寝こんでしまったので消しに起きた。なにかにつけて勝手な人だ。稼業は古くから美術印刷をやっていて、その業界の顔だという。

窓辺のシクラメンが満開になる。

十時半ごろ、新たに山本さんが入室してくる。肝臓らしい。昨年八月に他の病院へ入院していたが、十一月に一旦退院し、その間の十月に一時帰宅して、結婚式を挙げたとか。その若奥さんが付き添って来ていた。

昼前に礼子が来る。厚巻きとつっかけを持ってきてくれる。

十三時ごろ、先日来たばかりの井川さんが退院する。

ひまなので窓ガラスを一枚磨く。それだけで気分が変わる。

十六時半ごろ、河原町通りのバス停に出かけて、明朝のバスの時刻表を調べておく。夕食は珍しくちらし寿司だった。

夜は一階へプロレスを見に下りる。

 

 

二月四日(日曜日)晴れ

昨夜はまずまずぐっすり寝られた。新入りの山本君は夜中の二時ごろまで寝つけなかったらしい。

朝から二枚目の窓ガラスを磨く。窓辺のベッドに来ると窓も自分の所有物のような気がしてくる。

バスの時刻表を昨日のうちに見ておいたので、九時三十九分のところを九時十分ごろ部屋を出た。一階ロビーでしばらく時間待ちする。

二十二日振りに我が家に帰ってみたが、なんとなく狭っくるしい感じだった。すみ子が寝そべってテレビを見ていた。やがて佐和子が二階から降りてきて、「お帰り。」と言ったが、あとはぶすっとしている。友達とスケートに行くとかで、すぐ出て行った。なんだか疲れがじわっと出てきて、居間にごろっと横たわるとそのまま小一時間うとうとする。

昼ごろ保雄がやっと起きてくる。「ああ、おはよう。」と、それっきり。

かしわのすき焼きを食べる。久し振りに熱いご飯とおかずでうまかった。

保雄も高島屋へ浮世絵展を見に早々に出掛けて行ってしまった。

すみ子のオルガンを少し聞いてから、礼子とすみ子と三人で高島屋へコートを見に行く。そこから大丸へ行く途中志津屋でフルーツジュースとサンドイッチを食べる。大丸ではもうかなり疲れた。

市バスで病院へ帰ったらちょうど五時だった。節分の豆を少しずつみんなに配る。病室の方が我が家より身の収まりがいいような感じだった。

今日から点滴もなくなったし、小便を溜めることも必要でなくなった。普通に小便ができるだけで気が晴れ晴れとする。

山本君は婦人服のデザイナーということだ。奥さんは五つ年上で三十二歳の姉さん女房である。

 

 

二月五日(月曜日)晴れのち曇り

七時過ぎに階下に降りて少しテレビを見てから、河原町通りの正面入口まで出てみる。少し冷たいが爽やかだ。昨日四条通りを歩いた疲れは残っていない。

十時過ぎ、大沢君が鴨川に出る通路を知っているというから、案内してもらって二人でちょっと散歩に出る。堰の溜まりで釣りをしているのをしばらく眺めていたが、一向に釣れる様子もなかった。

昼ごろ礼子が来る。二人とも話もないのであくびばかりの応酬だった。佐和子はこの二三日不機嫌らしい。生理の加減もあるのではと礼子が言った。明日は校友会の会長選挙で来られないと言って帰った。

田端さんが入室してきた。去年退院して糖尿病の再発らしい。

大沢君が、うどんを煮るのに手鍋をを借りたいというので貸してやる。どんぶりも貸してくれと言うのでお椀を貸してやる。使ったあと、冗談めかしてそのまま鍋をさしだすので、

「そんな態度なら二度と貸してやらん。お湯でちゃんと洗ろてこい。」とどなった。

「小姑、こわい、こわい」

と言いながら、それでもすぐに洗いに行った。

夕食に刺身を食べていると覗きにきたので少し分けてやる。それから将棋を二番指したが私の勝ち。

竹原さんは外出を止められていて、一階まで車椅子でテレビを見に降りるのも婦長にとがめられ、すっかりしょげている。もう二三年生きたらそれでいい、ぽっくり往きたい、と、枕もとの紙箱にいつも経文を入れている。

 

 

 

二月六日(火曜日)晴れたり曇ったり

早朝鴨川へ行く。川の瀬で男が投げ網をしていた。引き上げると10センチくらいのハイジャコが獲れ、網の目にきらきらしていた。

今日は三食ともボンコリン。味の素を振ってみたが、やはりまずい。中林先生にどうにかなりませんか、とぐちをこぼす。「明日が済んだらしばらくないからもう少しがんばってください。」といなされた。

遠藤教授の回診の最中に礼子がくる。

昼から大沢君と将棋を指す。角落ちでも二番勝つ。

何度も上官になぐられたらしい竹原さんの軍隊時代の苦労話を聞く。田端さんも話に乗ってきて、同じような経験談を語る。吉村先生が風邪を引いて愛生会病院に入院されているとか。

 

 

二月七日(水曜日)晴れたり曇ったり

今朝は絶食なので、七時半から八時四十分まで一階でテレビを見る。

十時過ぎ香坂さんが見えてみんなに果物の差し入れをいただく。

前回便が残ったためだろう。今日の浣腸は九時と十時の二回だった。十時五十分頃から大腸ファイバースコープ。先週よりさらに良くなっているとのこと。前々回を百とすると八十%くらいの回復だそうだ。肝臓の近くまで届くのにひまが掛かって、十二時ちょうどに終わる。バイエックス(細胞採取)は三ヶ所のみ。大沢君が廊下で待っててくれた。

礼子も来て待っていた。鮒の子造りとイカの刺身を持ってきた。

十六時頃、社長が「平安殿」を持って見舞ってくださる。今度は「白い巨塔」を持ってきてあげようとのこと。

大沢君と山本君とで鴨川へ出かける。

中林先生の話では、直り方があまりにも急なので、診断が難しいそうである。しかし今の所は潰瘍性大腸炎の変形というのが有力だと言った。三ヶ月は掛からないが、ただ薬の投与の効果を見る期間は入院をしてもらう。その後の療養は家でもできる。アメーバー性ではないと思うし、工藤先生の話ではアレルギー性とも考えにくいとか。ただ完治は難しく再発の不安は残るとのこと。

竹原さんの兄さんの娘さんの婿さんがみやびホテルにいるという。どうやらフロントキャッシャーのOさんのことのようだ。だれもがちょっとした絆を求めている。

 

 

二月八日(木曜日)曇りのち晴れ

七時過ぎに鴨川から荒神橋、河原町通りを経て病院までを一周する。一階ロビーでスタジオ102を見てから病室に戻る。

入院生活スケジュール表を作ったので、明日から正式に実行する予定だ。

十時、シーツ交換。十二時過ぎに礼子が来る。椅子ぶとんと鰆の刺身を持ってきてくれる。

明日からと思っていたが、午後からスケジュール表に合わせて散歩などすることにする。

夕食前に、会社の五人が見舞いに来てくれた。輸送係のOさんが先日肺がんで亡くなったと聞かされた。大勢なので面接室へ移動する。Sさんは社長の本を持ってまた来ますと言った。

夕食後、スケジュール表にはないが、丸太町まで往復三十分かけて散歩する。

夜はロビーで「風鈴捕物帖」を見る。

 

 

二月九日(金曜日)晴れ

六時に起き出す。採血があった。しかし近頃検温が遅い。と思ったら、採便に行っている間に脈を取りにきたらしく、もう一度廻ってきたのは七時過ぎだった。

さっそく鴨川べりに出かけ、そこから今出川の賀茂大橋まで歩く。ユリカモメが三十羽ばかり飛び交っている。トレーニングパンツの若者が時おり追い抜いて行ったり、迫ってきたりする。河原町に出ようかと考えたが、排気ガスがむんむんしていそうだったので、鴨川ぞいに戻ることにする。そのままロビーでスタジオ102を見て、新聞配達にスポーツニッポンを一部もらい部屋に帰る。江川問題がまだくすぶっていた。

十二時前に礼子が来る。昨日変な電話が掛かってきたらしい。どこかの喫茶店から「沢村くん、いませんか?」と中学生らしい声で「学校さぼって映画見に行く約束したんやけど、一向に来ないから・・」保雄が学校から帰るなり礼子が詰問したが保雄もまったく憶えがないらしく、すぐに学校の先生に連絡する。先生も心配していろいろ調べた上でうちまで見えた。あまり要領を得ないが保雄の交友関係ではないらしい。妙な話だ。

十五時半ごろ久松さんが外科病棟に移っていった。大沢君と二人で付き添いがてら付いて行ったが、脳外科だけの男女混用部屋だった。我々の部屋より少し狭い感じだった。手術はまだ先なので久松さんとしては、まだ移りたくないと言う。

田端さんは北陸石川の人だ。なまりをむき出しにして、京都弁は嫌い、使わないと言った。雪国の方言はどことなく哀愁を帯びている。初年兵時代の辛かった思い出を語る竹原さんとその辺が違う。

十六時ごろ風呂を浴びる。今日も裸になってから手拭いがないのを思い出す。

十八時十五分ごろ、我々の病室に久松さんがひょろっと入って来る。

「男女混合はかなわん。」しかも若い人ばかりらしい。

「よろしいがな。」

「いや、やっぱり困る。」

男は久松さんともう一人二十歳くらいのと二人きりとか。あと四人が女だそうだ。

「下着を着替える時お互いに困るねえ。」

今日も河原町丸太町まで歩く。オーバーを引っ掛けているが、どうもパジャマの裾が通行人の目に付くらしく、時々じろりと見られる。

二十一時ごろ、一号病室の娘さんが、「お父ちゃん、お父ちゃん」といつまでも泣き止まない。かなり重症らしい。女性専用部屋だが、いつも父親が付き添っている。二十歳ぐらいらしい。寝たきりなのでまだ顔も見たことがない。泣き声だけ聞くと小学生のような声だ。

 

 

二月十日(土曜日)曇りのち雨

夜中から明け方にかけて、例の隣の娘が思い出したように泣く。「お父う、お父う」と言っているようでもあり、「痛い、痛い」と言っているようでもある。しばらく立て続けに泣いて、やがて寝入ってしまう。

今朝は今出川を越えて葵橋まで歩く。角が昔ながらの「種源」という花屋さん。

九時過ぎから雨が降り出した。天気予報通りだ。

詰所で手ごろな薬の空箱をもらってきて、折り紙のとんぼと蝶々を入れておいて、毎朝床掃除に来てくれる小母さんにあげる。二度も三度も「ありがとう」を連発してくれた。

久松さんの跡へ三十そこそこの頑強そうな鎌田さんが入室してきた。胆のう炎と胆石の疑いで検査中とのこと。

十一時からの館内散歩はどうしょうかと思ったが、傘を持って出かけることにした。屋上への出口まで来て、やはり履物がいることに気付き、部屋に取って返して、突っかけに履き替え、もう一度出かける。我ながら少し意地になっているようだ。

礼子は歩いて来たと言って椅子にぐったり座りこむ。保雄は外出を控えているらしい。大体用心深い方だから心配ないだろう。

中林先生が来て、来週一杯は間を開けて、来々週に腸レントゲンを撮る予定で、その結果で決めると言い残してさっさと行ってしまった。退院を決めるのか治療法を決めるのか分からない。

今朝から舌苔が出来ているので先生に言ったが、心配ないとのこと。

鎌田さんは三十八歳で、子供がなくて、近々妹の子を養女にするそうだ。

食事毎に竹原さんはため息ばかりついている。塩気のないおかずが食べにくいと不服を言った。

十八時を過ぎても雨足が衰えないので、院外散歩は中止する。スケジュール通りにはなかなかいかない。

十九時ごろ、また会社の四、五人が見舞いに来てくれた。運転手のSさんの奥さんが亡くなったという。会社から帰ってみたら布団の中で冷たくなっていたらしい。社長から「白い巨塔」をことずかって来てくれる。小さな活字の分厚い本だ。苦手だったが、それでも今日はテレビを見に降りずに、あちこち拾い読みしてみる。しばらくしたら、何時の間にか熱心に読み始めていた。

 

 

二月十一日(日曜日)曇り 建国記念日

検温が割合早く済んで、七時半にトンネル(病院の鴨川べりの裏木戸)に着いたら、扉がまだ開いてなかった。しかたなく正面から出て、河原町通りから荒神橋へ廻り、鴨川べりを丸太町橋まで歩く。昨日の雨は止んでいたが、どんより曇って霧がかかっている。視界は三百メートルくらいか。二十五、六の知らない娘さんがランニングで通りかかり、「おはようございます!」と挨拶する。驚いてこちらも「おはよう・・」と言いかけたら、もう遠くに走り去っていた。荒神橋に戻ってきたら、橋の袂で三メートル角の凧を組み立ててる親父さん。

「一人で飛ばすんですか?」と聞いてみたら、

「建国記念日だから。」と、もう一つ分からない答が返ってきた。

鎌田さん、カロリー制限されて朝からぶーぶー。田端さんは多過ぎるというし、人様々だ。

外出届を出しておいたので、九時二十分に部屋を出る。詰所の前で久松さんにばったり出会った。脳外科には個室はない、せめて男女専用に移りたいと申し出たそうだ。六十二歳といえどもそれはもっともだと思う。

うちに帰ったら、すみ子が「お帰り」と大きな声で出迎えてくれた。三人で朝食の間中に保雄と佐和子はまだ寝ている。陰気だった正月を取り戻そうとするように、すみ子が坊主めくりや百人一首をねだった。

昼過ぎになって佐和子が、続いて保雄が二階から降りてきた。保雄とは将棋をする。少しも上達していない。礼子は昨日の雨で洗濯物が溜まったと言っていつまでも手があかず、昼食も十三時半ごろにずれ込んだ。腹の減った分「しっぽくうどん」がうまかった。なんでもよく噛む習慣がついていて、うどんも噛まないと喉を通らない。

十四時ごろ広部部長が見舞いに来てくれる。先に病院へ寄って、日帰りと聞いて家まで足を伸ばしてくれたのだそうだ。子供の話や、登山の話やで二時間以上も喋っていったので、いい加減疲れた。

「まあ、直っても仕事はほどほどに・・」

と忠告してくれたが、自分は毎日二十一時ごろまで残業しているのである。

慌てて病院へ帰ったら、ほかにも一人見舞いに寄ってくれたらしい。

私の創作折紙が載っている月間雑誌「おりがみ」を一冊竹原さんにあげる。近頃なんとなくげっそりして、粉薬を飲む水を汲みに行くのも大儀そうだった。

家からズボンを持ってきたので、夕方それを穿いて散歩に出た。丸太町橋まで往復したが、今までのパジャマ姿のようにじろじろ見る人はなかった。

一階ロビーで「草燃ゆる」を見るが、ここでプロレスの人とチャンネル争いが起こったので私は引き上げる。

 

 

二月十二日(日曜日)晴れ

今朝は御苑へ出かけてみる。梨木神社の西側、清和院門から入り紫辰殿を一周する。散歩する人、ランニングする人、芝生で体操する人さまざまだ。皇宮警察のパトロールカーがゆっくり走りながら、犬の糞を始末するように呼びかけている。芝生もベンチも霜が降りていて腰掛けるわけにはいかない。父も毎日御所まで散歩に来ているはずだが、遭遇するほどのハプニングは起こらない。四十五分かかった。

保雄が午前中に来るとか言っていたのに待てどもやって来ない。とうとう十一時からの院内散歩は出来ず仕舞いだった。

保雄とすみ子と礼子が来たのは昼食時だった。お見舞いとか言って保雄が文庫本をくれたが、どうせ後で自分が読むつもりの「ユーモア大辞典」だった。礼子は、買ってきてくれた手袋を枕元に置くや置かずに「さあ帰ろう」とみんなをせきたてた。

十三時頃から大沢君と鴨川へ出る。午前中の館内散歩の代わりに葵橋まで往復する。大沢君は寒いからと付いて来なかった。種源にも人だかりしているし、日曜のこととて河畔には子供連れが多かった。早春というより春真っ盛りの陽気だった。

自分も入院患者のくせに鎌田さんは、昼から九条山のサナトリュームに友達の病気見舞に行くと外出してしまった。

糖尿で食事制限中の田端さんは、軟らかい皮にあんこの詰まった大福が今食べたい、それからブリの大根炊きも食べたいと言った。「いか味噌で炊いたイカ煮がまた旨いがね。」「五島列島のつぶウニをもう一度食べてみたい。」と食べる話ばかりする。

竹原さんは竹原さんで、往年の飲み歩いた話。ホルモン焼き屋、おでん屋、居酒屋、いろんなところをよく知っている。「せめて五勺の酒か、コップ一杯のビールが飲みたい。」そう言って本当に涙を流した。

夕方はとうとう河原町二条まで足を伸ばす。この分なら充分うちまで帰れるが、まさかそんなことは出来ない。帰り道「赤いきつね」を四個買う。部屋でお湯を沸かして一個食べてみるが思った以上に旨かった。

消灯時間になって、また隣の娘が泣き出した。

 

 

二月十三日(火曜日)晴れのち曇り

一晩中隣の娘が泣いていた。今朝になってもなお続いている。付き添う父親も大変だろうが、同室の患者たちもさぞかし寝られなかったに違いない。おかげで私までちょっと寝不足気味だ。

今日も御苑に出かける。大宮御所から九条池に廻り、堺町御門の前で軽く体操をする。今朝は霜は降りてない。グランドですでに二組ほどが野球の練習を始めている。

病室に戻ってもみんなまだ寝ていた。病人だなあ、と思う前に、みんな怠け者だなあと思ってしまう。とにかくこの部屋では私が一番健康だ。

今日は回診日なので、先に院内散歩に出かける。屋上から鴨川を見下ろすのもなかなかいいものだ。平日の十時半というのに歩く人、走る人、ベンチに腰掛けている人、みんな仕事はしないのだろうか、と考えながら私自身、ぼけっといつまでも下界を見下ろしている。

遠藤部長の回診も私の場合、もう三週間同じやり取りの繰り返しだ。「だいぶ調子がいいようだね。」「はい、お陰さんで・・」

昼飯時、無意識にがさっと掻き込みかけて、慌ててまた噛みなおす。腹の調子が本格的に元に戻ってきたのだろう。

十四時ごろ売店に下りてバナナと雪印バターを買う。油物に少し飢えている。それでも食事毎に体重を量るが、期待するほどは増えていない。

鎌田さんの奥さんをじっくり見たが、三十八歳の旦那の嫁にしては更けた感じだ。初日私はお母さんとばかり思っていて、鎌田さんが「家内です。」と紹介されて慌てたものだ。

十五時ごろ、大沢君が臨床講義のモデルとして呼ばれて行った。

田端さんは、まだ孫が出来ないのは嫁のせいだと断じて、喧嘩でもして息子が離婚してくれるのを願っていると怖いことを言う。それを鎌田さんと奥さんのいる前で何度も繰り返すので、まだ子宝のない鎌田さんは閉口していた。

山本君がローテーションゲームを持ってきたので、ちょっとやってみる。案に相違して私が勝ってしまった。引き続いて鎌田さんと将棋を指す。一勝一敗。お陰でスケジュール表の読書の時間がなくなった。

夕方の散歩は河原町御池まで行った。それ以上行くとなるともう新京極だ。

 

 

二月十四日(水曜日)曇り

夜半に雨が降ったらしく地面が濡れている。

昨夜も隣の娘はよく泣いた。

「お父ちゃん、お父ちゃん、氷、氷。早よ取ってきてな。早よう、早よう!」

そう言っているように聞こえた。

鴨川の堤は方々に水溜りが出来て歩きにくい。それでも葵橋を越えてさらに百メートルばかり足を伸ばした。出雲路橋が見とおせたが今日のところはここらあたりできびすを返すことにする。明日でも晴れていたら、出雲路橋までの往復は可能だと思う。体長一メートルばかりの白鷺や、なんという名か、雀より一回り大きく尾の長い黒白のきれいな鳥などいろいろいるものだ。

昼前礼子が来て、昨日来れなかった言い訳を一くさり。

十四時、二重封筒に入れて市長選挙の不在者投票をする。

夕食前にうとうとしてしまって、寝起きの夕食となったせいか、あまり食欲がない。

十九時前、院外散歩にでかけようとズボンを穿いていたら、中林先生が見え、慌ててズボンを脱いでベッドに横になる。もう少し先生の来るのが遅かったらセーターを着て出かけていたところだ。潰瘍性大腸炎の原因を聞いてみたが、まだ確たる定説はないそうだ。身体から出る抗体が腸を異物視することによって潰瘍を作るというのが今のところ有力な説らしい。来週の腸レントゲン検査の後数日を経て、結果が良好なら退院もありえる。あとは外来できてもらうことになるだろうとのこと。目の先に光がさしてきた。食事の質を高めてほしいと希望したところ、叶えてもらえそうだった。

今日は御池の木屋町まで行って帰ってくる。小一時間かかった。もう少し足を伸ばせば三条京阪だが、あまり欲張ると知人に出会う恐れがある。

病院のロビーは水曜スペシャルで、「パラオ島で五百柱の遺骨発掘」を息を呑んで入院患者たちが見入っていた。日本軍の立てこもった地下壕の入口から、米兵が火炎放射機を浴びせ皆殺しにしたのだ。頭蓋骨、鎖骨、大腿骨、鉄兜、飯ごう、ぼろぼろの軍靴の山だった。

 

 

二月十五日(木曜日)晴れのち曇り

昨夜は久し振りに隣の娘もおとなしかったので、ぐっすり寝られた。

今朝珍しく採血があった。近頃検便以外に何の検査もないので、

「なんのために僕はここにいるの?」と看護婦に聞いたら、

「そろそろ、うちが恋しい?」と笑われた。

今日はとうとう鴨川べりを三条大橋まで歩いてしまった。出勤途上の人群れが早足で三条京阪の駅に吸い込まれている。みんな働いているのだ。

帰り道、土手でいつも行き会う品のよさそうな眼鏡の老人に会釈をすると、向こうも待っていたように会釈を返した。停年退職して悠悠自適なのだろう。

十一時ごろ、大沢君は肝臓のレントゲンに出かけて、十二時ごろ戻ってきたが、胃カメラと一緒に造影剤を注入されるのがかなり苦痛だったらしく、しゅんとしていて気の毒に見えた。その上引き続いて点滴が始まる。彼の場合こんなことが一生付きまとうのだろう。

礼子が来て、メロンとから揚げと串焼き、それから佐和子のテストを持ってきた。佐和子はまあまあよくやっているようだ。今日は我慢して少し長く居てあげるとか言いながら、それでも十五分ほどで帰ってしまった。

そのあと「婦人論抄」を読む。宗教についての項はなかなか面白かった。キリスト教が全知全能の神を求め、イエスがその神に昇華したのに対し、仏教は一哲人の悟りが、生死を含む永遠の「生命」思想を生み出したのだと。

大沢君は昼も夜も食べずに寝たっきりだ。テーブルには朝のパンから始まり三食分が並んでいる。食べられない人の横に食べ物を並べたままにしておく病院側の配慮のなさに腹が立つ。

「下げるように言おうか?」と彼に囁くと、

「あかん、あかん。」と大沢君が言った。「わしが置いといてくれて頼んだんや。」

夕食には珍しくプリンが付いた。

O課長が見舞いにきてくれた。予算編成の目途がついたそうだ。ほっとした一面、自分がいなくても仕事がはかどって行くのが寂しくもあった。

夕方の散歩は河原町丸太町から寺町、寺町御池から河原町へ出て戻ってくる。毎日少しずつ距離が伸びるのが楽しい。

ロビーのテレビは、ドキュメンタリーで、「イタリアの失業問題」。どうやら最近観客の層が変わったみたいだ。うんざりしている人もいたが、いざチャンネルを替えに立つ人もいない。

「あしたはええ天気や。」と鎌田さんが請合う。四、五年前の交通事故で頭を縫って以来耳鳴りが治まらず、それがひどいと翌日天気が悪いそうだ。

 

 

二月十六日(金曜日)晴れ

昨夜は隣室の娘さんが二三度泣いた。「お父ちゃん、お父ちゃん」とか、「看護婦さん!」とか、「お父ちゃん助けて!」とかが壁を隔てて聞こえてきた。

鎌田さんの予報通りによく晴れたので、今朝は紫辰殿の回りと大宮御所の周りを8の字に廻った。大きくて真っ白な秋田犬?を連れたお爺さんには必ず遭う。一巡して最後に、「歩調取れ」で三十メートルほど歩いて締めくくるのを日課にしているらしい。

胃液と胆汁を採取するのに鎌田さんはゾンデ(胃に挿しこむ管)を飲む。「うどんを飲みこむように・・・」と先生が促すが、そう簡単にはいかない。かなり時間が掛かり、管をぶら下げたままベッドに横たわっている。

竹原さんはタオル三枚を洗濯し、「もうしんどなった。世も末やなあ。」とベッドに倒れこむ。

ここの屋上から大文字山が真正面に見える。八月ごろ入院すれば送り火が眺められさぞかしよかろうと思ったが、八月十六日の当日は屋上の扉は全部締め切ってしまうそうだ。

病院ではよくある事故らしいが、実験用の鼠に噛まれて吉村先生が入院されていると聞く。

礼子が肉を煮て持ってきてくれた。久し振りの油の乗った肉切れが旨かった。

少し便秘気味だ。朝、白っぽい便が出た。先生に聞いてみたが別段心配ない、ただ吸収力がまだ少し回復してなくて、蛋白が下りてるのでしょうとのこと。

鎌田さんと将棋をする。三勝一敗。一昨日以来通算五勝二敗だから私にはいい相手だ。

カロリーアップを頼んでおいたのに、夕食もまだそれらしくはない。

夕方の散歩は烏丸丸太町まで往復する。それでも歩速が速まって、ほぼ一時間しかかからなかった。

今日は隣の娘も少し落ちついている。こちらもよく眠れるだろう。

 

 

二月十七日(土曜日)晴れのち曇り一時雨

昨夜はぐっすり寝られた。

今朝は出雲路橋まで足を伸ばす。片道三十分。橋の袂からはほぼ真東に比叡山が望めた。薄い巻き雲がたなびき西の空にはまだ残月が浮いている。遠くに北大路橋が見えるが、そこまで行く気にはなれない。

病院に戻るとスタジオ102で木村名人の対談を放映していた。対局が徹夜にわたり疲れてくると雑念が浮かんでくる。花畑とかそんな奇麗事でない。もっと人にも話せぬ妄想の類いだと名人は語った。

朝食もいつもと変わらないので看護婦に文句を言うと、一日のトータルでカロリーアップになっているはずだから、昼と夕に乞うご期待と茶化された。

鎌田さんがあまり退屈退屈と繰り返すので二番付き合った。二連勝。将棋で少し遅くなったが、院内散歩に行く。屋上に出たとたんに雨が降り出したので、廊下伝いに臨床講義室を覗いてくる。真中にベッドが一台。かなり急カーブの講聴席が段々畑のように扇型に連なっている。

部屋に戻ってみると、礼子が立ち寄って帰ったところらしい。十四時ごろ電話が掛かってきて、雨の中を自転車を飛ばしたのでびしょ濡れになったとぼやいた。「明日どうする?」と聞くので、「帰って昼飯と晩飯を食べるつもり。」と予約しておく。

先生に止められているのに竹原さんはまた牡丹餅を食べている。

鎌田さんはやはり手術の可能性が高い。小学校四年生の姪を養女にするつもりで、学校の春休みにはと段取りしていたのが、ちょっと無理な状勢となった。姪の実父は先年肺がんで亡くなり、実母(鎌田さんの奥さんの妹)が娘を残したまま男と駆け落ちしてしまった。娘は現在知人の里子に出されている。

つっかけのカバーが右足の甲に当たって痛いので、靴下の中へハンカチをあてがってから散歩に出かける。今日のメニューは河原町二条から寺町二条、夷川富小路、丸太町富小路、河原町丸太町、病院までの約1時間コース。

帰ってから即席うどん「赤ぎつね」を食べる。

テレビは「大岡越前」。プロレス組が大分不満で、車椅子の一人がチャンネル変更を提案したがだれも声に出さないので、怒って帰ってしまった。

 

 

二月十八日(日曜日)晴れたり曇ったり

今朝は日曜日でもあり、採血は一人もなかった。

散歩は御苑をほぼ一周する。老人夫婦が連れ立って歩いているのに何度もすれ違う。いずれこんな穏やかな老後が私にもやってくるのだろうか。例の元気のいいお爺さんに連れられた秋田犬が私めがけて走ってきて、「ううっ」とほえた。どきっとしたが知らん振りで歩いていると諦めて行ってしまった。その光景を見ていたのかパトロールのマイクが、「犬を手元からはなさないでください。」と放送する。お爺さんはそ知らぬ振りに歩いている。

 

九時ごろ鎌田さんが黒の皮ジャンを着て真っ先にうちに帰った。続いて田端さん、朝から奥さんが帰宅用の背広を届けに来ていた。最後に私。取り残された竹原さんがしょんぼりしているのでちょっと気が引ける。

帰る早々すみ子がトランプを並べて待っていた。

昼から礼子とすみ子と三人で大丸へ行く。六千円で特価の靴を買い、向かいのカワバタでオーバーを値切って買う。志津屋でサンドイッチとジュースの昼食を摂った後、もう一度カワバタへ寄って三つ揃えをまけさせる。子連れの買いタタキ屋というところだ。

家に帰ったら早速すみ子がバックギヤモンを広げたので、やむを得ず二回相手をしてやる。小学一年生にしてはこの複雑なルールをよく理解している。長女の佐和子はテストが組で二番だったらしく、いつになく機嫌がいい。

夕食はすき焼きだった。三島亭の上肉とスーパーの特価の肉を半分ずつまぜてあると礼子が言うが、どっちがどったなのか私にはよくわからない。久し振りなのでともかく旨かった。病院に残っている竹原さんの寂しそうな顔がちょっと浮かんだ。

二十時三十分に病院に戻る。鎌田さんは帰っていたが、田端さんはまだだった。大沢君が、今日は誰も話し相手になってくれなかったと不満を洩らした。田端さんはとうとう消灯後にごそごそと帰ってきた。

 

 

二月十九日(月曜日)晴れ

今朝は検温が遅くて散歩に出たのが七時三十分だった。鴨川を二条大橋まで下って、橋を渡って向こう岸を賀茂大橋まで歩いた。途中精華学院の女生徒が登校してくるのにぶつかった。向こうは多勢、病人の私の方がおずおずと道を避ける。

昼食がボンコリンになるので、なおのこと朝食を味わった。

九時ごろ先に退院した山崎さんが外来でくる。スーツを着るとなお背が低く貧相に感じる。体重は退院時から増えず今だに四十五キロだと言った。

今ふと思い出したが、昨日佐和子が夕飯時、「この前の日曜日もすき焼き食べたん?」と聞いた。十一日はしっぽくうどんを昼に食べたのだから、先々週初めて家に帰った四日が「かしわ」のすき焼きだった。きっと佐和子は私の枕元の日記を盗み読みしたに違いない。

すみ子に借りてきたバックギヤモンを鎌田さんに伝授する。

山本君はどうも気分が優れないようだ。あまり人と喋らない。昨日我々が外室中になにか気に入らないことがあったのだろうか。

昼のボンコリンはあまりのまずさに半分食べ残して捨てた。代わりにカステラ一切れとリンゴを半分食べておく。叱られたら叱られた時のことだ。

鎌田さんと大沢君がバックギヤモンに熱中している。

今週からインシュリン注射を開始する予定だった田端さんは、先生に頼んで一週間先に延ばしてもらった。

礼子から電話が掛かってきた。

「お腹の具合が悪い。吐いた。朝は絶食して横になっている。だから病院へはいけない。」とのこと。子供達はなんともないらしく、私も変調はないので食中毒ではない。

十五時頃こちらから礼子に電話する。すみ子が出て、

「お母さん、お腹痛い言うて寝てる。」と言う。

そのうち礼子が起きてきて、

「もう大分おさまった。ぐるぐる言うてるけど、痛みはとれた。」とのこと。ちょっと安心する。

今日は夕方の散歩も中止。テレビを見に下りるのも止めて、出来るだけ腹の空くのを押さえる。二十時ごろマグコロールを飲む。

隣の娘さんの父親に廊下で出会い、

「このごろ落ちついてはるようですね。」と声を掛けると、

「いや、この二三日弱って声も出ないのです。今日あたりから少し物を食べるようになりました。」

鎌田さんと将棋の最中に福沢先生がやって来て、盤を横目で見ながら、

「こっちの方が優勢やなあ。沢村さんはこっちでしょう。」

 

 

二月二十日(火曜日)晴れ

今日も六時半に一応起きて顔を洗う。ひげを剃ってからまた一寝入り、うとうとして目が覚めると八時半だった。どうせ絶食だから、お膳は運んでくれるがパンだけ取っておいて、みそ汁とゆで卵を大沢君にやろうと言うと、ゆで卵だけを受け取った。

十時ごろ礼子に電話する。もう心配ないそうだ。佐和子が少し熱があり、お腹の具合も悪いとのこと。夜にアイスクリームを食べたのが原因かもしれないと言う。「今日も来ないでいい。」と礼子にちょっと格好をつけた。

十時と十一時に高圧浣腸。

十一時半ごろ遠藤部長の回診。

「絶好調のようだね。大分退屈でしょう。」

将棋やゲームで遊んでいることも耳に入っているふうだった。

十三時半ごろ、注腸レントゲン。モニターがすぐ頭の側にあったので、横目で見たところ腸にでこぼこがあり、潰瘍時の棒状の腸とは違う。撮影枚数も十枚もなかった。帰り際福沢先生が

「随分きれいやった。よかった、よかった。」と頷いてくださる。

十四時、やっと食事にありついた。ぶりの照り焼きが付いていて、どうやら質を上げてくれたようだ。続いて風呂にも出かける。

頭にドライヤーをかけているところへ、岩佐の叔父叔母が孫娘二人を連れて来てくれた。漫画の本や雑誌をどっさり枕元に置くので、ありがたいのだが、退院時荷物が増えるなあとちょっと心配する。私は、まるで自分のマンションのように、皆を鴨川の見下ろせる屋上に案内した。

「こんなとこいいな、いいな。」と、娘達がはしゃぎ回って喜んだ。

十八時過ぎ、暑いのでシャツ一枚になって、脇に体温計を挟み、大沢君とバックギヤモンに興じているところへ、会社の女の子が見舞いに来た。

「課長、それでも病気ですか。」と呆れられた。

夕方の散歩を復活するが、今日のところは丸太町までに留めておく。

テレビは「新吾捕物帖」。寝る前になって無性に腹が減ってきたので「赤ぎつね」を食べる。

 

 

二月二十一日(水曜日)曇り一時晴れ

昨夜はどうも寝つきが悪く、夜中には喉がからからに乾き、お茶を飲んだり、とにかく蒸し暑くて寝苦しかった。竹原さんは痰を絡ませていた。

それでも六時過ぎに起きる。面会室でひげを剃っていると、室の入口で、向かいの部屋のお婆さんが、「看護婦さん、看護婦さん・・」とかすれ声で、どうやら私に訴えかけているようで、指でつまむ仕草をする。

傍へ寄って、「脈を取りに来たの?」と聞いても「違う」と首を振る。顔を寄せてやっと、

「看護婦さんを呼んで・・」と聞こえる。指の仕草はどうやらベルを押す真似だった。とりあえず長椅子に寝かせ、看護婦さんを呼んでくる。すぐ車椅子で部屋へ連れて帰った。お婆さんは心臓が悪くて、口をきくのがちょっと不自由なのだそうだ。そのくせ常はよく喋っているのを見かける。近々退院の許可が出たのがショックだったようだ。これ以上治らないまま家に帰され、一人ぼっちの療養を続けるのがつらいらしい。ここに居ると、みんなが「お婆ちゃん、お婆ちゃん」と声を掛けてくれる。

竹原さんの戦友が入院していて、昨日は、先生に止められていたのに見舞いに出かけた。

「友達より、自分のことをまず考えなさい。」と先生に諭されても、

「自分のことなんかより、友達のためなら這うてでも行く。」と勇ましいことを言う竹原さんだ。その戦友が、今朝は竹原さんを見舞いに来ていた。

三日振りに礼子が来る。腹の調子はもうすっかりいいらしい。佐和子も治った。ところが、親父が下痢をしていると言うのだ。

進学テストの通信講座を受けたいと佐和子がやる気を出しているから入会金二万円を納めたとのこと。その佐和子が「風と木の歌」を貸してくれた。「ハンケチの上の花畑」の安房直人の創作童話だ。

久松さんを見舞いに行ってくる。外科は外科でいろいろ検査があって、なかには内科ですでに受けた検査とダブっているのもあるそうだ。手術はまだまだ先らしい。

十八時ごろ中林先生が見え、昨日のレントゲン検査の結果、大部分回復しているが、結腸の上部辺りにまだ潰瘍が残っている。金曜日から再発防止剤を飲んで、十日から二週間様子を見た上で、もう一度検査の予定とのこと。検査のための検査の繰り返しのように私には思える。

礼子に電話する。「仕方ないなあ。」との返事。

夕方、河原町御池まで往復する。

 

 

二月二十二日(木曜日)曇り

夜中竹原さんがよくせきをする。痰を吐く音に何度も目を覚まして、ぐっすりは寝られなかった。

今朝は七時前にトンネルに着いたが、まだ木戸にかんぬきが掛かっていた。しばらくその場で待っていたら、門衛さんが鍵を開けに来た。出雲路橋まで往復する。

昨日看護婦のFさんに、「ハイカラさん」を貸してやったが、その際、山本君が、「マンガ読むひまに仕事しろ。」と書いて本に挟んでおいたらしい。今日返してきた本の中に、「いらぬ世話や。次を貸せ。」と挟んであった。

鎌田さんや大沢君が、窓辺で鳩に餌付けをしているので、私もあられをやる。十羽くらいが寄ってくるが、手にはなかなか乗らない。しかし、あまり鳩に餌を与えると、婦長さんに叱られるらしい。

今日はシーツ交換日である。

田端さん、先日インシュリンにそろそろ変えると言われ、そのショックか、この二三日気分が勝れない。腎臓のレントゲンを撮ってから小便が出にくいらしい。それが腹に溜まっていたのか、点滴をしている最中に三度も尿瓶を借りてたっぷり出していた。

十四時過ぎ中林先生がやって来て、

「先日のレントゲン写真を見ますか?」と訊くので、「はい。」と答えると、

「それでは三階へ来てください。」と、連れて行ってくれた。上行結腸、横行結腸ともにすっかりよくなって凸凹が見える。下行結腸がまだ硬く、バリュームの噴出しが見られた。S状結腸、直腸はほぼ正常。全体で90%の回復度だとのこと。愛生会、毛利病院のそれぞれの写真との比較で説明してもらうとよく分かった。

今日は朝から便が出ていない。十五時ごろ便所へ行って、十分以上座って気張ったら、ほんの申し訳ほどの便が出た。

保雄が来るかと思って待っていたが結局来ずじまい。

十七時過ぎ、夕飯の最中に礼子が来る。シクラメンとアザレアを取り替え、鯖寿司を置いて、雨が降りそうだからと急いで帰った。

事実間もなく雨が降ってきたので、夕方の散歩は中止する。

山本君も竹原さんに習って折り紙を始めた。私が少々助言したが、なんとかカエルを折り上げた。

テレビは「遠山の金さん」を見る。寝しなに鯖寿司をみんなで一切れずつ食べる。

 

 

二月二十三日(金曜日)

昨夜はまあまあぐっすり寝られた。

田端さんも今朝は私といつしょに顔を洗った。小便が出るようになったので少し気分がよくなったみたいだ。

雨が降っているが、出かけることにする。ズボンを穿き、ズボンのポケットに折りたたみ傘を忍ばせ、その上からガウンを羽織って出かける。大宮御所を一周する。こんな日は砂利の上が一番歩きやすい。ヌカらないし、ハネもあがりにくい。でもさすがに人気は少なかった。門衛の巡査と通行人とで計三人。半時間ばかりで病院に戻り、ロビーで傘を乾かしながらスタジオ102を見る。

採血室で採血。売店で牛乳とバナナを買う。

鎌田さんと将棋を二番する。二勝0敗。

昼食は鯛の切り身の煮つけ、フルーツサラダチーズ入り、ご飯の蓋を取ると、ミンチ肉とスクランブルエッグとピーマンの千切りが乗っている。かなり高カロリーだ。

礼子から電話。今日は雨がひどいし、中学校へ行く用事もあるので、病院へは行かれない、悪しからず、とのこと。

鳩が窓辺へ餌の催促に来るようになった。

食事制限されている鎌田さんの枕元にカッパえびせんが置いてある。主任看護婦のKさんが咎めると、鎌田さんがうっかり、

「これは鳩の餌さや。」と弁解する。

「鳩に餌さやったらいかんのよ。知ってるでしょう。止めてください!」と叱られていた。

それでも鳩が窓に来るので、看護婦さんのいない隙に私が餌をやる。根気よく掌に乗せてじっとしていると、ずいぶん用心した挙句、それでも一番勇気あるやつ(あるいは一番卑しいやつ)が掌のカッパえびせんを突っついた。一度試みると何度でも試みる。

新婚早々の山本君が、明日外泊許可をもらったとたん、みんなから口々に冷やかされた。

夕食後も雨足はいっこう衰えなかったので、散歩は中止する。

看護婦のKさんは三人の子持ちで、それぞれ六年生と五年生と三年生だという。さぞかし大変だろう。若いFさんは「ハイカラさん」をまだ返してこない。

夜は階下でプロレスを見る。

 

 

二月二十四日(土曜日)曇り

今朝は五時過ぎに目が覚めたのだが、検温が遅れて、散歩に出たのは七時二十分ごろだった。鴨川は昨日の雨で増水しており、水が濁って釣りをしている人はいなかった。ユリカモメが編隊飛行している。岸辺に佇んでいるのはいても、水面を泳いでいるのはいない。白サギも岸辺から様子を窺がっている。御池大橋まで行くが、西側の高瀬川にサギが十数羽下りて混み合っていた。

今朝は絶食だから、八時半のニュースを見てから部屋に上がった。

十時十五分ごろレントゲン室へ出かける。しかし前に二人いて、順番が回ってきたのは十一時十五分ごろだった。それでも思ったより早く済んで、十一時半には朝食にありついた。

今日は土曜日で診察が半日だから、昼から一階ロビーで「草燃ゆる」を見る。

山本君の奥さんが新郎を迎えに来る。彼は真っ赤なシャツにキャップを被って、いそいそと外泊に帰って行った。

礼子から、十六時ごろに子供たちが行くから待っててほしいと電話が掛かってきた。

福沢先生の話では、胃に異常はないとのこと。山本君が帰ったので里心がつき、初めての外泊願いを出す。私に釣られて鎌田さんも外泊すると言い出した。

保雄と佐和子がやって来た。佐和子が「ハイカラさん」を見つけて持って帰りたいと言う。二人に二百円ずつやると、すっかり気をよくして、義務のような顔付きを止めて急に明るくなった。二人を屋上に案内してやる。少し風が冷たくて、佐和子が寒いと中へ入りたがるので、廊下伝いに臨床講義室へ連れて行った。

私は十八時前に病院を出て、家まで歩いて帰った。すみ子はホームごたつにもぐりこんで寝こんでいた。

久し振りにうちの風呂に入る。昨日が入浴日だったし、ドライヤーを病院に置いてきたので、ざぶっと浸かるだけですぐ上がる。

別になにをしたわけでもないのに、すぐ十時になる。テレビが「野生の証明」をやりだすと、保雄がとんとんと二階から降りてくる。見てるつもりだったが、九時消灯が身に染みついていて、瞼が自然に重くなる。礼子が隣の部屋に布団を敷いてくれたので、寝てしまった。

 

 

二月二十五日(日曜日)晴れ

昨夜はあれっきり寝てしまって、四時ごろ一度目を覚ました。次に目が覚めたらもう七時半だった。顔を洗って散歩に出かけようとしたら、すみ子が、

「待ってくれたら私も行く。」付いてきた。

二人で自転車に乗って御苑へ出かける。堺町御門に自転車を置いて、御苑の中を二人で一回りする。

朝ご飯を食べ終わったころ、佐和子が起きてきた。お雛さんを出すので手伝ってと頼まれ、十時ごろから壇を組んで赤毛氈を懸けた。あとの飾りつけは礼子とすみ子がやった。十時四十五分ごろ保雄が起きてくる。父親がいようがいまいが同じ仏頂面だ。

昼食は久し振りに一家六人が揃って食べる。だいたい八十歳の親父がゆっくり噛んで食べるので、いつも一番遅く終わるのだが、今日は私の方もゆっくり食べる習慣がついていて最後になった。

十四時五十分ごろ、自転車で大丸に行くと言うとまたすみ子も付いてきた。礼子は一足先に大丸の東玄関で待っていた。そして大丸には行かず、四条通りのカワバタへ連れて行って、私の三つ揃いを値切って買った。すみ子に本を買ってやろうかと機嫌をとると、「小鳥がいい」と注文をつけた。新京極六角まで礼子を荷台に乗せて自転車で行く。それほどふらつかなかったが、入院患者のくせに乗せる方も乗せる方だが、乗る方も乗る方だ。文鳥の雛を三羽買って帰る。帰る早々すみ子は、雛鳥を巣に移して、新聞紙をちぎって振りまいてやる。紙くずにうずくまった雛はあまり動かない。うまく育つか大いに疑問だ。

夕飯は水炊きだった。久し振りの熱々の白菜が軟らかくて旨い。ご飯も温かいし、なにより家族に囲まれて食べるのが嬉しかった。私がとうとう誰よりも最後まで鍋を突っついていた。

ご飯の後片付けが済むころ、もう帰り支度をしなければいけなかった。時間の経つのが早い。明日は給料を貰いに会社へ行くから病院へは来れないと礼子が言う。そこで下着の替えやら、カステラやら、帰りはかなりの荷物となった。歩いて帰るのは無理なのでバスで帰る。

一階ロビーで大沢君と鎌田さんが「草燃ゆる」を見ていた。ついでに私も見てから部屋に上がる。留守の間に見舞客があったみたいだ。

 

 

二月二十六日(月曜日)曇り

何時ごろだったろうか、隣の娘さんが久し振りに泣いていた。でも概ねぐっすり寝られた。

体重測定すると五十五・四キロ。昨日の水炊きで少し増えたようだ。

鴨川を出雲路橋まで歩く。今日は嵩も減り、水も澄んでいるので、ユリカモメは水面に下りて餌をあさっている。釣りをしている人もいた。いつぞや出雲路橋から見ると比叡山が真東に望めると書いたが、本当は鴨川が出町橋から北西に曲がっているので、対岸の方向に見えるだけなのだ。

鳩が窓から覗いているが、看護婦さんに叱られるので誰も餌をやらない。

十一時過ぎ、久松さんを誘って屋上へ散歩に行く。

昼食後マンガを読んでいるうちに、うとうと寝てしまう。目が覚めたら十四時半だった。

向かいの第一内科女子の部屋に二週間ほど前から三十五六の声の大きい、よく喋る女が入院してきている。聞くと、小学校の栄養士だという。胃潰瘍がかなりひどいらしい。医者の不養生というか、でもその割には見た目は元気だ。部屋の中でしゃべるだけで足りず、面会室で相手かまわず話しかける。

一方私自身は先日の胃の透しではほぼ良好だが、ほんの一部潰瘍の痕のようなのが残っているそうだ。以前にそんなことを聞いたことは一度もない。

夕方は河原町御池まで往復する。帰りに「赤ぎつね」を二つ買って帰り、面接室で一つ食べる。というのは、大沢君が少し太りすぎで今日から食事制限を強いられていて、彼のために目の毒だと思ったからだ。それでも大沢君、菓子パンを食べたりしている。

一方鎌田さんは土曜日までの食事制限が解除されて、たちまち二キロ増えたとか。

 

 

二月二十七日(火曜日)曇りのち晴れ

田端さんは昨日今日少し体調が戻ったらしく、早朝から洗濯に精出している。

私は、体重を計ってみると五十六キロあった。退院までにもう二キロほしい。

梨木神社の近くの門は消えかかった字が「清和院門」と読める。夜半の雨で御苑内のベンチは濡れていた。一周してから梨木神社に参拝する。信心のためというより、一種の朝の体操だ。いつも朝は茶粥の提供があるらしく、一人前三百五十円の張り紙が出ている。そのうち一度食べてみよう。今日はちょっと右足がだるいので、早めに切り上げて病院に戻る。

九時半ごろ大腿骨のレントゲン撮影があった。先日の注腸の時に、偶然大腿骨の一部に黒い斑点が見られたのをチェックするためだ。

十一時過ぎ部長回診。今日は少しせりふが違った。

「自分では良いつもりだったんでしょう?」

「もうすっかり良いと思ったのですが。」

「まあ、薬で完全に治してしまいましょう。」

十一時半ごろから屋上へ散歩に行き、帰ってきたら礼子が来ていた。昨日会社へ行って、島田本部長に挨拶してきたとのこと。うなぎの蒲焼といちごを持ってきてくれた。みぞれのようなのが降りだし、帰ろうか待とうか思案している様子。おじいちゃんは小学校の時の同窓生が亡くなってその葬式に出かけたそうだ。そのうちようやく小降りになったので、礼子は急いで帰っていった。

今日の昼食はチキンの分厚い切り身が二た切れと魚の煮付けなどたっぷり。

久し振りの一番湯を使う。あとベッドに横になるとたん眠くなって、目を覚ましたら十五時半だった。

鎌田さんと将棋を二番する。いつも鎌田さんは負けるものだから、私がつまらん手をいっても、無理な手を指してきて、やたら用心する結果、思う壺にはまってしまう。

夕食に礼子が持って来てくれたうなぎを蒸そうと手鍋に入れかけたら、中身は鮒の子造りだった。そう言えばそんなことを言っていたような気もする。

夕方、検温が早く終わったので、今日は河原町今出川から烏丸へ出て、烏丸丸太町、河原町丸太町、病院と一廻りする。一時間二十分ほど掛かった。身体に良いのか悪いのかちょっと分からない。

 

 

二月二十八日(水曜日)晴れ一時雪

久し振りにいい天気みたいだ。看護婦のEさんはいつも女部屋から検温するので、終わったのが七時十五分だった。それから鴨川を御池橋まで歩く。御池橋の浚渫工事はほぼ終わっていて、堤の復旧工事に取り掛かっていた。今日は右足が疲れぎみ。部屋に帰ってもなんとなく身体がだるく、朝食後少し横になる。あまりがんばって歩き過ぎるのもよくないのかもしれない。

窓の外側にルームクーラーが突き出しているので、植木鉢を出して陽を当ててやる。風が少しあるので落ちれば真下の自動車のボンネットに直撃だ。

屋上まで散歩に行く。鴨川の対岸で小学生の一団がジョギングをしている。例のおしゃべり女が向かいの屋上から手を振っているのに気付く。しかたないからこちらからも手を振り返してやる。どこへでも現れる女性だ。

昼食後も、ちょっと腹具合がごろごろするので、少し横になる。

十四時過ぎに鎌田さんが退屈そうなので、詰め将棋を教える。

十五時。俄か雪が降り出した。朝、天気予報で予告していたが、その時はまさかと半信半疑だった。

カステラを鎌田さんと山本君に一切れずつお裾分けする。大沢君は食事制限中なので、「食べられんやろ。」と声を掛けたら、返事もしなかった。

雪はほどなく止んだ。十六時過ぎ礼子が来る。「今日はおじいちゃんの誕生日や。」と言いながらまぐろの造りを取り出す。佐和子とすみ子のテストを持ってきた。佐和子は近頃ほとんどベストテンに入っている。ひところと大違いだ。すみ子はどれも百点だが、一年生ではあまり当てにならない。

見習看護婦のIさんに折り紙の「腕時計」をやると大喜びで持って帰った。

大沢君は三月一日から主治医が替わるのでうきうきしている。それでも昨日はY先生に、「永らくお世話になりました。」と挨拶していた。

今日も十九時前まで待ったが、中林先生は見えなかった。

散歩は河原町二条から寺町を廻って帰る。その途中で、病院にいつも廻ってくる新聞配達の小母さんに、「パチンコに行くのん?」と声を掛けられる。笑って私は首を横に振った。

部屋に帰ってから、大して腹も減ってなかったが、「赤ぎつね」が残っているのを思い出して面接室で食べる。口が卑しくなっているようだ。例のおしゃべり女がサイフォンでコーヒーを沸かして第三内科の若い二人とおしゃべりをしていた。

 

 

三月一日(木曜日)雪一時曇り

起きてみると雪が降っていた。例の女がもう起きていて、面会室に陣取って私にも「こぶ茶」を勧める。

二月のカレンダーを破ると桜の写真が出てきた。

雪がひどいので中止にしようと思った矢先に、ぱったり止んで空が透けてきたので出かけることにする。清和院門まで来ると再びちらちらと降り出した。行こうか行くまいか、やはり引返して傘を取ってくる。大宮御所を廻ったあたりからぼたん雪が全面的に降り出し、空は灰色、視界はおよそ百メートル。それでもグランドには二組が野球の練習を続けていたが、さすがに間もなく止めてしまった。寺町御門でガウンの上の雪をひと叩き、立命館でひと叩き、病院の玄関でひと叩き、そこで軽い体操をしておさめる。

朝食後メロンを切って皆に一切れずつ振舞う。ちょうど見習い看護婦のKさんがやってきたので、彼女にも一切れお裾分けすると、「おいしい!」と言って食べ、その間病室の入口を戸締りしておいてやる。

シーツ交換の日だ。窓の外は雪が相変らず降りつづけている。

十一時半、青空が出てきたので屋上に上がってみる。比叡山は吹雪いて見えない。大文字が白字に浮いている。鴨川の堤はごま塩。

鎌田さんに詰め将棋を教えている最中に中林先生が見える。治療薬の効果の判定にはやはり二週間かかるそうだ。注腸はできればやった方がいいという程度だ。一昨日の大腿骨の写真を見せてもらう。特に問題ないとのこと。

鎌田さんが退屈しているので、将棋を二番する。二勝0敗。その間に今度は福沢先生が見える。特に用もないのか、将棋を見物して帰られた。

十七時ごろになって、それまで降りしきっていた雪がぱったり途絶え、たちまち青空が広がった。

今日の夕飯はきゅうり揉み、ほうれん草、マッシュポテト、玉子豆腐、鶏のささみの味噌炊きだった。バラエティーに富んだ精進料理といったところ。

礼子は来なかった。

散歩に出ようか出まいか思案したが、十九時十五分ごろ雪も止んだので出かける。ところが荒神口あたりでまたチラチラしだしたので、きびすを返し、「天狗」に入って狐うどんを注文する。出前より三十円安い。

病院のロビーは「リングリングサーカス」をやっていたが、冷えてきたので早々に部屋に戻る。

 

 

三月二日(金曜日)雪のち晴れ

屋根にも木の枝にも雪が積もっていて、なおも降りしきっている。

七時を過ぎてもやまないので、館内でも廻ろうかなと思った矢先小降りになったので、折り畳み傘をポケットに突っ込み鴨川に出ると、あたりは一面真っ白だった。芝生にもベンチにも五センチばかり積もっている。木の枝は造花のようだし、東山連峰も白衣でうねっていた。引き締まるような銀世界に、せめて荒神橋まで歩こうと傘をさして進む。橋のたもとまで来るとばったり雪も止んで、西方に青空さえのぞく。丸太町まで行ってみようと傘をすぼめる。両岸は白い帯のようで、思わぬところから鷺が飛び立つ。とうとう二条橋まで歩いてしまった。

部屋に戻ると皆はまだ寝ていた。雪の鴨川を知らないやつらだと気の毒に思える。

山本君は明日検査のためのちょっとした手術があり、奥さんの同意が必要なのだが、今日は来れないというので、私が代筆することになった。昼から下腹の毛を剃って、明日の朝は浣腸が待っているのだが、若いので恥ずかしがって、ひどく気に病んでいる。

十一時に屋上に登る。比叡山は吹雪いて見えないが、東山が陽に映えて綺麗だつた。

十二時前に礼子が来て、はまちの刺身を持ってきてくれた。また雪がちらつきだしたので慌てて帰ったが、やがて猛烈に降ってきて、途中で吹雪に逢ってさぞ困っただろうとちょっと心配する。時間的に礼子が家に着いたころから雪はパッタリと止んで、嘘のようなカンカン照りになる。

昼食後一時間ほど昼寝し、あとは漫画を読んで過ごす。

夕食前鎌田さんと二番将棋を指す。

十七時半ごろ中林先生が来られ、治療薬を三週間続け、カメラとレントゲンで調べて潰瘍がなくなったのを確認した上で退院時期を決める、今月中は覚悟しといてほしいとのこと。退院は先へ先へと延びる一方だ。

河原町御池まで往復する。なんとなく口が卑しく、途中で赤ぎつねを買って帰る。

赤ぎつねを食べたあと竹原さんと将棋をする。私の負けだった。どうしてこの力の萎えた老人に負けるのだろう。

今日はテレビを見ずに寝る。少し腹がぐるぐる鳴るようだし、頭も薄く痛む。中林先生の話がちょっと応えたのかもしれない。

 

 

三月三日(土曜日)晴れ

昨夜はたびたび目が覚めた。起き際もそれほど気分がよくなかった。天気だけはいい天気なので、やはり散歩に行くことにする。外気は冷えびえとしていて手袋の中にまで寒さがしみた。御苑のベンチも芝生も霜で真っ白、それに朝日がきらきらと光った。少し残った水溜りには薄氷が張っている。身を引き締めて歩かないと風邪を引きそうだった。

部屋に戻ったら、山本君はもう浣腸を済ませたと言った。彼の肝臓生体検査の日だ。九時前、山本君の奥さんが寝巻きを持ってきた。

九時過ぎから鎌田さんはゾンデを飲むが、なかなか喉には入らない。

山本君は十一時半ごろ寝台に乗せられて帰ってきた。かなり痛かったらしい。腹部に三ヶ所切り口を入れて、空気でふくらましながら肝臓の液を採る。術後二十四時間安静である。

看護婦のFさんの義理の叔母さんというのが、みやびホテルでウエートレスをしていたMさんだと聞いて、世の中は狭いものだと思う。なんでもFさんの叔父さんのお嫁さんがその人で、私もホテルのウエーター時代にいっしょに働いたことがある。もう子供もあり、いいお母さんなのだろう。

外泊許可を得ていたので十五時半ごろ病院を出る。家に着くと、長男はこたつで本を読んでいたが、やがてそのまま寝てしまう。

十七時ごろ長女が合唱団の練習から帰ってきて、そのうち母親の夕食作りの手伝いをしだした。

この前の日曜日に末っ子のすみ子に買ってやった文鳥の羽根が、もうきれいに生え揃っていて、ぴよぴよと可愛く鳴いている。

今日はひな祭りだからと、夕食にばら寿司を礼子が作り、私が一番たくさんお代わりをしたようだ。子供達に今月の小遣いをやる。

佐和子は空き瓶にビーズを貼り付けている。すみ子はオルガンの練習を始める。

二十一時を過ぎると習慣で眠くなり、ホームごたつにもぐりこんでうたた寝する。目を覚ますとテレビでルーブル博物館をやっていた。

 

 

三月四日(日曜日)曇り

途中で二三度目を覚まし、ぐっすりとは眠れなかった。七時半ごろにもまだ夢うつつ、八時半にやっと起き出す。病室の広さに比して我が家の狭さを思い知らされる。散歩は止めておく。

朝食時には相変らず保雄も佐和子も起き出してこない。そのあとホームごたつでうとうとする。

十一時ごろからすみ子と共に自転車に乗り丸太町まで一周し、駄菓子屋でチューインガムとチョコレートを買ってやる。帰ってきたら佐和子が起きていた。続いて保雄が起き出してきたのは十二時過ぎだった。

町田と岸辺の叔母がおじいちゃんを誘いにきて、先日亡くなった幸村の伯母の法事に揃って出かけた。

昼食はギョウザを十個ほど食べる。

またホームごたつでうとうとしている間に、それぞれに出かけたらしく、午後四時ごろ皆が帰ってきた。コーヒーを入れてくれ、シュークリームをみんなで食べる。

夕食は水炊き。炊きたてというだけでおいしい。

保雄の学期末試験が六日からという。もうすぐ中学三年だ。本人も公立の堀川高校に行きたいらしく、学資が安く済むので親としてもそれを望む。佐和子もこの頃少しやる気を出しているようだ。

「草燃ゆる」が始まるが、病院へ行く準備でゆっくり見ていられない。つい先まで降っていた雨も止んだようだ。八時半に家を出て河原町二条まで歩き、そこからバスに乗る。

午後九時ちょうどに部屋に帰りつく。鎌田さんもつい今しがた帰ったところだった。山本君はまだ寝巻きを着て寝ていた。昨日は奥さんが私のベッドを借りて泊まって行ったらしい。

隣室の娘さん、また一段と弱っているということだ。

 

 

三月五日(月曜日)晴れ

鎌田さんはかなり大きないびきをかく。隣のベッドの田端さんはその音に悩まされているみたいだ。

山本君はまだ便器にかがめなくて、一階の洋式便所を使うというので、散歩の道すがら車椅子を押してやる。

鴨川べりは昨日の雨で少しぬかっていた。下賀茂神社まで足を伸ばすが、かなりの距離があった。出雲路橋までとほぼいっしょくらいだろう。昨日散歩を休んだせいか、病院まで戻ったら少し疲れを覚えた。手と足の脈波検査に心電図室まで行く。

十時過ぎに以前入院してた川アさんが寄ってくれる。すこぶる好調のようで体重も一キロ増えたとか。帰ったあとで大沢君はずけずけと言う。「相変らず背が低いなあ。」確かに背広姿だと余計にそう思える。

看護婦のFさんが、「ルールがさっぱり分からなかった。」と、この間貸してやったバックギヤモンを返してきた。

昼食は名ばかりの八宝菜、冷たくていかにも味気ない。

屋上へ散歩に行く。今日は比叡山がよく見えた。

鎌田さんと将棋の最中に福沢先生が見えるが、検査の話はなかった。勝負は二勝一敗。

夕食はハンバーグが出たが、ナイフで切らないと箸が通らない。豆腐のみそ汁は冷え切っている。我が家の食事のありがたさをしみじみと感じる。

看護婦のFさんがまたバックギヤモンを教えてほしいとやってくる。患者と遊ぶ時間があるのかなあと気を使うが、三十分ほどならいいと言う。大沢君と対戦しながらルールの説明をし、途中からFに代わってやった。三十分経ってももう少し大丈夫と言うから、私と一戦交えるが、私の勝ち。

「負けると腹が立つ。」

まだまだ名残惜しそうなので、こちらも疲れて、下宿でやりなさいと貸してやる。

散歩は河原町二条まで往復する。

一階ロビーで「江戸を切る」を見て、部屋に戻ると、隣室があわただしい。身内を呼んだらしく廊下をばたばたと行き来する。娘さんの兄弟たちらしい。彼女の病気はリュウマチが内臓に回り、どうしようもないほど機能が低下しているのだ。

 

 

三月六日(火曜日)曇りのち晴れ

昨夜は二時ごろまで慌しかった。医者が付きっきりらしい。その後ばったり静かになって、こちらも寝てしまったが、明け方には娘さんの声がかすかながら聞こえたようだ。朝顔を洗いに行くと、面接室で長いすを並べて家族の人達が仮眠していた。幼い子供も三人服のまま寝入っている。それでも最悪の事態は脱したらしい。

私は御苑に散歩に出かける。梨木神社の東側、魯山寺には紫式部の邸跡があり拝観料を取っている。そのうち覗いてみよう。

昨夜の騒ぎで私も少し寝不足気味となり、朝食後一寝入りする。

遠藤教授の回診日だ。

「もうそろそろ外来に回したら・・」教授が傍らの福沢先生を振り向いた。「そうでないと精神衛生上返ってよくないよ。」

「・ ・ ・」

「次の予定は?」

「十四日に大腸ファイバー、それから注腸が・ ・ ・」

福沢先生と中林先生、それに山本先生が術後を交えてぼそぼそ相談。最後に中林先生が私に、

「明日、結論を出しますから。」

と言って帰られた。

十二時前、礼子が来て、愛生会へ吉村先生を見舞っておいたと言う。おじいちゃんに相談して、お見舞いと別にお礼も包んだとか、その手回しのよさにびっくりする。かつおのお造りとウニとサイネリヤを持ってきてくれた。

竹原さんは八日に退院というので、ぼつぼつ整理に掛かっている。背広を出してきて試着するが、よほど以前太っていたのだろう、だぶだぶである。彼との思い出に一番将棋を指す。私の逆転勝ち、これで一勝一敗だ。

鎌田さんが胃カメラから帰ってきたが、どうしても喉元につかえて入らなかったといかにも辛そう。「喉の皮が破れそうになった。」とうなだれた。

入浴日だ。田端さんは熱い湯が好きで、それも小一時間浸かっている。湯から上がると気持ちがほぐれるのか、しきりと私に喋りかける。北陸人なのでそれでもなんとなくしんみり陰気に聞こえる。

午後四時ごろ鎌田さんと将棋を指している最中に、大沢君が、

「隣の娘さんご臨終や。」と飛んできた。

廊下で家族の人達が泣いていた。それから小半時して、遺体が運び出される気配。霊安室は地下にあるのだが、その先にどうやら解剖に付せられるらしい。山本君がエレベーターで父親に会ったら、

「お世話になりました。」と涙を流していたそうだ。部屋の表札は即座に外されて、いかにもはかない。

 

 

三月七日(水曜日)曇りのち晴れ

昨夜はあまりぐっすり寝られなかった。一階ロビーで七時のニュースを見ていると少し眠気を感じた。今日は遠くには行くまいと考え、鴨川へ出て、丸太町橋を越えたところで軽い体操をして、すぐにきびすを返す。荒神橋あたりで、頬のあたりにかすかに小雨を感じたので、引き返して正解だったと考えた。でも部屋に帰ったころにはすっかり晴れ渡っていた。

九時ごろ会社のN所長が、自分も肝臓検査に来たのでと寄ってくれた。彼の主治医である吉村先生が実験中にねずみに噛まれて愛生会病院に入院されていることを伝える。

十一時からいつもの屋上散歩に、鎌田さんもいっしょに行くと言うので連れていった。三十分ほどで帰ってきたら、香坂さんが来ていた。相変らず競輪競馬通いらしい。私が入院している間は病室を見舞いに寄ると言うので、次の時もきっとまだいるからと請合った。帰り際、香坂さんがみんなに「さいなら」と声を掛けているのに大沢君は返事をしない。機嫌が悪いのか気分が悪いのか分からないが、少々勝手な人間だ。

十四時ごろから鎌田さんと三番やる。一度ぐらい負けてもいいと思うが、あまり見え透いたことも出来ず、三番とも勝ってしまった。

十六時ごろ礼子が来る。お礼の話になって、今朝香坂さんに聞いた話をする。香坂さんは元病院長と親戚関係に当たることもあって、入院直後と退院時にお礼をしたらしい。礼子がこの間吉村先生を見舞ったおり、お礼を渡したが、いとも簡単に受け取られたとか。先生方の住所は総務部秘書課で聞けば分かるそうだ。

醤油が切れたので礼子と地下の売店へ買いに行き、ついでに食堂でアイスクリームを食べる。生理だというので明日は来なくていいと言っておく。

十九時を過ぎても中林先生が見えないので、予定の散歩に出かける。出町商店街をくるっと一周りして、病院のロビーでテレビを見て部屋に帰ったら、中林先生が二度も見えたらしい。

大沢君に夕方女性二人が見舞いに来て、なにか揉め事があるような気配だった。二週間ほど前に見舞いに来たもう一人の女性から絶交状が来たとか、それが誰のせいだとか、そんな話のようだった。

 

 

三月八日(木曜日)曇りのち雨のち晴れ

今朝は起きがけあまりすっきりしない。お天気の精だろうか。

鴨川べりを葵橋のちょっと先まで行き、そこで体操をしてベンチにしばらく座っていたが、じめっとしてきたので帰路につく。

相変らず大沢君は元気がない。鎌田さんも山本君も昨夜はよく寝られなかったらしい。

シーツ交換をやってくれた。竹原さんは一人元気で野球ゲームをやりだした。

十時に田端さん、ERCPに出かける。ベッドに乗せられたまま行くというので彼はおっかなびっくり。軍隊時代に、背中の切開手術を麻酔なしで行い、その間、自分の腕を噛んで痛みを耐えた話をしていた時の勇ましさはどこかへ行ってしまったようだ。

十一時から屋上へ散歩に出かけ。鴨川を見下ろしたが、雨後のせいか人影はほとんどなかった。やがて雲が切れ晴れ間が見えてきた。

部屋に戻ると田端さんがERCPから帰っていた。

「どうでした?」

「思ったほど大したことなかった。」とすでに表情がゆるんでいた。

私のテーブルのナザリヤの話から、田端さんは自分の家に三十鉢ばかり挿し木の花を持っていると言った。庭も含めてかなり広い家に住んでいるようだ。日が射してきたのでナザリヤを窓の外に出してやる。

竹原さんが退院の挨拶にケーキの小箱を配った。十四時ごろ、恒例でみんなでエレベーターまで送って行く。竹原さんはだぶだぶの背広姿で、それでも喜びを顔一杯にして帰って行った。

鎌田さんと将棋の最中に中林先生が見える。十四日のファイバースコープはすでに予約済みなのでそれだけ受けて、注腸は外来でしてもらうとのこと。十七日退院の見通しがついた。

大沢君が久松さんを見舞いに行こうと誘うので、少し早いと思ったが、行ってみる。重病棟から今日帰ってきたところで、まだ視力がはっきりしないらしい。奥さんが付き添っていたので、早々に引き上げる。

十七時ごろ福沢先生が見え、さきほど工藤先生に会ったところ、十四日のファイバーが十六日に延びたとのこと。退院日がまたずれる。

早目に検温が済んだので、散歩は河原町御池から寺町通りを廻り小一時間かけて戻る。家へそのままちょっと寄って行きたい誘惑にかられるが止めておいた。

竹原さんがいないだけで、なんとなく部屋が広くて殺風景になった気がする。

 

 

三月九日(金曜日)晴れ

昨夜はぐっすり寝たようでもあり、よく眠れなかったようでもある。

朝の散歩は御苑に出かける。あの犬を連れた元気のいいおじいさんに最近逢わない。日の昇るのが少しずつ早くなる。

竹原さんが新聞をとっていたので回し読みしていたのが、今日からは配達されない。別段読むほどの記事はないのだが、なにか物足りなくて地下まで買いに行く。

大沢君はまだどことなく元気がない。朝は歯医者に行った。

少しうとうとしていたら十時半ごろ香坂さんが見えた。草餅を地下の売店で買ってきたとみんなに配ってくれる。

十一時半ごろ突然全館停電し、エレベーターも止まる。一時水道も出なくなったが、ほどなく水は非常用ポンプに切り替わった。館内散歩に出かけたら、八号病棟のエレベーターに人が閉じ込められていて、右往左往していた。やがて救出されたが、五十がらみの婦人は看護婦さんに抱きかかえられて震えながら泣いていた。

礼子も階段を登ってきたと言う。また刺身とシュークリームを持ってきてくれる。昼食は三十分ほど遅れて、非常用電力のお陰でようやく回復したエレベーターで運ばれてきた。停電はその後も続き、地下の売店もろうそくで営業しているという話だ。

うとうといしているうちに十四時の検温の時間になり、珍しく起こされる。

看護婦学校の生徒のKさんが三週間の研修を終えて挨拶して帰って行った。

土日の外泊願いを出しに行きかけたら、中林先生が見え、ファイバーが十六日に変更になったこと、その結果潰瘍が多少残っていても退院はまちがいないことを告げられる。退院日を十七日の土曜日にするか、十八日の月曜日にするかだ。

鎌田さんと将棋を指す。二勝〇敗。

夕食が終わったころ入浴の知らせがある。半時休憩してから出かけると、たった一人でゆっくり浸かれた。

六時の検温が遅れたので、散歩は十九時半に出かける。

ロビーのテレビはプロレス中継だった。

竹原さんが一人抜けただけで部屋ががらんとし、日記を書くネタもその分だけ減る。

 

 

三月十日(土曜日)曇りのち雨

今朝はいやに早く検温が済んだ。少し予定が狂ったので七時前まで部屋でぼんやり過ごした。山本君も今朝は早く目を覚まし、枕元のランプを点けて、私が貸してやった「白い巨塔」を読み出した。

一階で七時のニュースを見てから出かけようとしたら、小雨がぱらつき出したので傘を取りに上がり、ついでに用を足してから出かける。雨は止んでいた。鴨川に出たが、今日はなんだか足が重い。丸太町橋まで来たら再び降り出したので、橋の下で体操をして引き返す。

十時半ごろ山本さんが新しく入室してきた。糖尿でインシュリンを打っている。補聴器をつけているのでどうしましたと聞くと、以前に結核を患ってストレプトマイシンを打ってもらった後、急に耳が聞こえにくくなったのだと言う。

食器ケースにゴキブリ用の防虫剤を散布に来た。

十一時半ごろ礼子が来る。秘書課で福沢先生の住所を聞いて帰るとのこと。

鎌田さんが第三内科の若手と将棋をして負けて帰ってくる。くやしかったのか、力をつけようと昼食後私に指南を頼むので彼の相手をする。

私が十五時から外泊すると告げると、山本君も鎌田さんも同じように十五時から外泊することに決めた。そうでなくても近頃元気のない大沢君が少しかわいそうな気もした。

それでも予定通り十五時五分のバスに乗ったが、雨は本降りになっていた。

うちに帰るとすみ子が待ち構えていて、トランプをたて続きに何度かやらされた。文鳥が一週間分育っていた。すみ子に馬跳びの馬もさせられる。

夕食はぶりの照り焼きと山芋のすり下ろし。ご飯は暖かいし申し分ない。

家族とテレビを見ているとすぐに時間が経つ。二十一時を過ぎると習慣で眠気がさしてくる。こんな時にベッドは便利だ。いつでもごろ寝ができる。ここでは子供たちがひしめいていて、座布団一枚の広さがそれぞれ自分の領域だ。四畳半を五人で使うのと、広い病室を六人で使うのとの差である。

結局十一時過ぎまでみんなとテレビを見てしまう。寝巻きに着替えるのにズボンを脱いだら、帰り際慌てていたのか、パジャマが出てきた。

 

 

三月十一日(日曜日)曇り

夜半に風が出て朝になっても障子ががたがた鳴っている。春一番だろうか。朝六時過ぎに目が覚めてそのまま寝られなかった。それでも布団の中でぐずぐずしていて起き出したのは八時半ごろ。起きるや、すみ子がまた馬跳びの馬をしてくれと言う。いい加減に気をそらそうと五十円玉をやると、それを貯金箱に入れ、急に貯金箱を一杯にしたくなったらしく、お手伝いをするからお金頂戴とお母さんにねだっている。洗濯したり、テーブルの上を片付けたり、ハンカチにアイロンを当てたりして、全部で六十五円稼いだ。それで金持ちになったつもりか、お母さんのエプロンを引っ張って、

「五十円あげるからお母さん馬跳びして!」

昼はお好み焼きだった。満腹したら急に眠くなってホームごたつにもぐって一時間ほど寝る。

女性軍が揃って買物に出かけて行ったあとへ、保雄が二階から下りてくる。

「小遣い頂戴。なくなった。」

「今度病院に見舞いに来たらやる。」

皆が帰ってきて紅茶でケーキを食べる。

やがてすみ子と礼子がオルガン教室に出かけて行く。

夕飯はすき焼き。その最中、すみ子のオルガンが終了したあと、ピアノかエレクトーンかどちらに進むかで私と礼子が議論する。猫も杓子もピアノ、エレクトーン。親は座布団一枚の広さにうずくまっているというのに。

退院時に看護婦さんに折り紙色紙を配ろうと、とりあえず五枚ほど造る。

八時から「草燃ゆる」を見て、あと「日曜劇場」を見終わるともう十時だった。病院ならもう寝ている時間だ。すみ子がやっと寝る。病院からも会社からも遠い感じだ。と言って、家に落ち着いている感じも今一つしない。どこからも中途半端なのだ。行きたくも帰りたくも居たくもない気持ちだった。

保雄が下りてくる。続いて佐和子も下りてくる。ごろっと横になる場所もままならない。

九時半にようやく部屋が片付き布団を敷き、寝る。

 

 

三月十二日(月曜日)曇り

どうしても六時ごろに目が覚める。もう一寝入りとがんばってみるが、結局ちょっとうとうとする程度で、礼子が起き出した直後にやっと布団から抜け出した。保雄と佐和子はあいかわらず遅く、八時を過ぎても下りてこない。階段の下から私が呼んでようやくごそごそ物音がしだした。

みんな食欲がないらしく、病人の私だけが食パン二枚を食べる。

そして、九時過ぎには用意をして病院へ「単身赴任」に出発する。

病室に帰りつくとなんとなく落ち着くから妙だ。久し振りに山本さんが覗いてくれた。まだあまり無理はできないらしい。

地下の床屋で一月二十六日以来の散髪をする。予約に行ったら閑ですぐしてくれた。

十一時四十分ごろ屋上に出かける。髪を切って首筋が寒い。どうしてか我が家に帰ると散歩はおろか体操もしない。

部屋に戻ると、先日亡くなった娘さんの父親が紋付姿で挨拶に廻ってこられた。

昼食後一時間ほどうとうとする。午後二時に脈を計ったら96と早いので、もう一度計り直してもらったら、さらに上って100だった。今日から新しい薬が増えたのでその精だろうか。

鎌田さんと将棋をする。とうとう負けた。彼の喜びようは異常なほどだった。

鎌田さんは明日注腸クリスマがあるので、ボンコリン食なのだが、うまいうまいと朝食分と昼食分を一ぺんに食べた。私のようにこんなまずいもの世の中にあってなるものかと憤慨する人間もあれば、人それぞれだと思う。

中林先生が見え、明日の部長回診に退院の報告をするとのこと。

折り紙でもしようかと考えている時、十六時半ごろ、保雄がやって来て、本を買うお金がないと言うので三百円やる。お金を貰うとすぐ帰りかけるので、ついでに不用な物を袋に詰めて持って帰らす。

夕食後一階で大相撲を見て、終わったと同時に部屋に戻るとちょうど十八時の検温に間にあった。

今日は夕方の散歩は止めておく。その代わり、「赤いきつね」を作って食べる。二泊もしたので調子が少し狂った。

再びロビーに下りて「江戸を切る」を見る。部屋に戻ったら鎌田さんが、マグコロールを飲んだところがあまり酸っぱかったので、私の枕もとの角砂糖を二つ貰ったと言った。

 

 

三月十三日(火曜日)曇り

昨夜は寝付かれなかった上に早く目が覚め、通算三時間ほどしか寝ていない。寝返りばかり打って一晩過ごしたような気がする。

それでも六時半には起き出して七時には散歩に出かけた。鴨川への通用門がまだ閉まっていたので、御苑へUターン。グランドではもう試合をしている野球チームがいる。

部屋に帰って朝食を摂ったあとも、寝不足のためか我ながら元気がない。

ナザリヤはつぼみを付けたまま開かない。

ぼさっと寝転がっているうちに回診になる。遠藤部長に、

「月曜日は大安なの?」と聞かれる。日曜日にでも退院しますと中林先生に言っておいたのが伝わったのだ。

「いえ仏滅です。」と答えると、枕もとのカレンダーを教授がわざわざ覗いて、

「仏滅とは変わってるなあ。」

「いけませんか。」

「いやそんなことはない。」

部屋のみんながどっと沸いた。

昼前礼子が刺身を持ってきてくれ、ナザリヤを持って帰った。

十三時ごろ風呂に入る。戻ると、鎌田さんが山本さんと将棋を指していた。その途中で鎌田さんが注射に呼ばれたので、私が後を引き受け、二番して二番とも勝つ。

夕食後今日もロビーで相撲を見る。そのあとの十八時の検温が早く済んだので、これなら充分家まで帰れるなあと考えてみたが、結局ぼんやり時間を過ごし、十九時になって鎌田さんに、

「今日は散歩に行かへんの?」と促されて、やっと腰を上げる。丸太町まで行くと小雨がぱらついてきたので引き返して、福助できつねうどんを食べて帰る。

テレビは「新吾捕物帳」をみる。

昨日寝不足の分、今日は寝られるだろう。

 

 

三月十四日(水曜日)晴れのち曇りのち雨

昨夜は二十三時過ぎ、看護婦さんの見回りの時まで寝付かれなかったので、睡眠薬をもらう。前日寝不足しているので今日は寝ないと身体に障る。トイレに行くと面会室にまだ明かりが灯っていて、若い連中が輪になってトランプをやっている。薬を飲んだあとすぐ夢路に誘われ、六時までほぼぐっすり眠った。

お陰で鴨川へ出掛けたのは七時二十分ごろで、葵橋を越えたところまで行って戻ってくる。少しユリカモメの数が減ったようだ。久し振りの天気で気持ちがよかった。

退院の日をいつにしようか、まだ迷っている。

田端さんは今日は愛生会病院で検査があるとて、背広に着替えて出掛けて行った。

十一時半屋上散歩。鴨川で網を打ってる人がいる。

昼食後小一時間うとうとする。

明日は検査食なので売店に買いに行く。ふと財布を覗くと千五百円しかない。ボンコリンは千四百円だから辛うじて足りた。

昼前から曇ってきたが、やがて夕方から雨が降り出した。

夕食後相撲を見て、十八時前慌てて上がってきたが、今日から検温は二回になっていて、十八時の分の体温計はくれなかった。と言って散歩に出かけるにも雨が本降りになってきたので行く気がしない。

田端さんは愛生会から帰って夕食を食べると、布団をかぶって寝てしまった。いつも彼は昼間にぐうぐう寝ておいて、夜中に起き出して、お茶をすすったり歩き回ったりするので、みんながぶうぶう言っている。

久し振りに本でも読むことにする。保雄の本棚から借りてきた「Yの悲劇」。

中林先生に、日曜日の外泊ができるかどうか尋ねようと思って待っていたが、いつまでも見えない。

十九時半から工藤とゴンザレスのボクシング選手権があるので見に下りる。結局工藤が判定勝ちしたが、私の見た感じではゴンザレスの勝ちだと思う。勝った方も負けた方も共に泣いている。

 

 

三月十五日(木曜日)晴れ

昨夜は寝付きは悪くなかったのだが、夜中に目が覚め、あと朝まで浅い眠りしかできなかった。退院間近で少し精神不安定なのだろうか。

今朝から検査食なので散歩をどうしようかと考えたが、天気がいいので出かけることにする。御苑に行くが、寝不足の精か途中で足がだるくなった。

朝はボンコリンと覚悟していたところ検査が明日の午後だと分かり、朝食はいつもどうりに食べられた。日付が一日繰り延べたことをうっかり忘れていた。

シーツの交換日。会社で顔見知りのMさんに廊下で容体を聞くと、はかばかしくないらしく、時々八度以上の熱が出るのと、病院の食事が食べられないのでどんどん痩せてくる。昨日は我慢できなくて食堂で食事をした。家に帰ると食べられるので、そのうち退院させてもらうつもりだと言った。

昼前礼子が来る。生命保険の入院給付金請求書を持ってきた。

やはり退院日は二十日の火曜日と決める。「大安」ということは、誰に対しても、会社にも一つの口実になる。

昼食のボンコリンをなんとかがまんして食べる。

午前中から少し痛かった頭が、昼過ぎからうたた寝して目を覚ましたころからズキンズキンする。

婦長さんが、「お変わりありませんか?」と尋ねてくれたので、「月曜か火曜に退院したいと思っています。」と言っておく。

少し横になっていたが、頭痛が治まらないので、詰所に薬を貰いに行く。

「薬より氷枕の方がいいから、すぐ作って持って行きましょう。」

しばらく氷枕を当てがってみたが、よくなるどころかますますひどくなってきたので、ノーシンを飲んでいいか聞きに行く。間もなく中林先生を呼んでくれて、ピリン系の薬を出してもらう。ついでに先生に退院を火曜日にすることを告げ、同時に土日の外泊の許しを得ておく。薬を飲むとやがて頭痛も治まった。

福沢先生が見えたので、先生にも二十日退院を申し出た。

夕飯はポタージュだけ。食後の散歩も中止。テレビも見に行かない。

二十時ごろ、マグコロールを水で薄め、氷を入れて飲む。砂糖をたっぷり入れたのにまだ酸っぱい。

 

 

三月十六日(金曜日)晴れ

昨夜はまずまずよく寝られた。今日は散歩に行かないつもりだからゆっくり寝ていようと思ったが、やはり六時半には起きてしまう。天気もいい。トイレに行くが、硬い便が出ただけで、昨夜の下剤は効かなかったみたいだ。朝食はボンコリンのみそ汁だけにしておく。残りの白粥は鎌田さんが好物なので進呈した。

九時、高圧浣腸。大量の排便があった。十一時に二度目の浣腸。便が透明にならず、もう一つすっきりしない。

鎌田さんと将棋をしたり、「Yの悲劇」を読んだり、うとうとしたりして時間を過ごす。

十四時ごろやっと検査室に行く。担当は工藤先生と中林先生の二人だった。やはり便が残っていて、腹が張り、便意をもよおす。遠慮なくその場でしなさいと工藤先生にうながされ、もう恥ずかしさより便意が勝った。ベッド上に大分出て、中林先生が手際よく始末してくれた。医者も楽な職業ではない。三十分ほどで検査は終わったが、いつもより一層疲れた感じだった。工藤先生に結果を聞くと、「ほとんど直ったと言っていいでしょう。」と答えてくれた。

昼食を食べたのは十五時過ぎになる。ちょうど風呂が沸いていた。空き腹にご飯を食べ、すぐに風呂に浸かったためか、身体がだるい。ほどなく夕食が配られてきたが、胸のあたりが一杯で食べる気がしなかった。

みんなが食事をしている最中に礼子がすみ子を連れて入ってくる。オルガン教室の帰りらしく教則本を入れたカバンを提げていた。買物に廻るからと洗濯物だけ持って帰る。

十七時過ぎに相撲を見に降りたが、その間に中林先生が見えたらしい。十八時ごろに冷めた夕食に箸をつけたが、半分残す。

ボストンバッグの下着類を整理し、不要の物を少し詰めて、散歩に出る服装でこっそり出かける。階段を下りかけて財布を忘れたのを思い出して、ボストンバッグを階段の踊り場に置いて取りに戻る。バスで河原町二条まで乗って、あとは歩いて帰った。二十時過ぎまですみ子の折り紙に付き合い、二十時二十六分のバスで病院に戻る。

二十二時ごろになってさすがに腹が減ってきたので。残しておいた朝食のパンを食べる。

 

 

三月十七日(土曜日)小雨

昨夜は検査の後で調子をくずしたのと、こっそりうちに帰ったりしたので、さっぱり寝られなかった。蒸し暑く、何度も布団を蹴飛ばした。延べ二、三時間も寝ただろうか。十二時、二時、四時の見回りも全部目覚めていた。

しかし今日明日は外泊だし、退院が確定しているので、薬は貰わずに寝られた振りをしておく。

いつも通りに六時に起きだし、七時過ぎにはズボンを穿いて散歩に出かける。看護婦のSさんに見咎められたが、テレビを見に下りると偽った。鴨川に出たが小雨がぱらつき出したので、荒神橋までにして、橋の下で体操をして戻ってくる。

雨がじわじわ降り出してうっとうしい天気になる。

田端さんは次の火曜日に注腸があるらしく私に、「ポンコリンていくらしますか?」と聞く。「千四百円ですけど、ポンコリンでなく、ボンコリンですよ。」と教える。私もベテラン患者になったものだ。田端さんは久し振りに外泊で帰られる。

鎌田さんと将棋をするが、一勝一敗。彼も大分腕を上げてきた。

屋上散歩は雨が降っているので止めておく。昼食後、持って帰る物を少し整理する。

鎌田さんと山本君は十四時半ごろ帰って行った。私も帰る支度をしている最中に中林先生が見え、「退院は予定通りで結構です。」とおっしゃる。検査結果は数日後でないと出ないが、肉眼で見たところは治ったと言っていいとのこと。

まだ小雨が降っていた。うちに帰り着くと、すみ子だけが留守番していて、折り紙をやろうと言うので、トンボを教えてやる。やがて礼子が帰ってきたが、この夏佐和子が京都市少年合唱団の演奏旅行に金沢へ行く話を学校で聞いてきたと言う。

紅茶でドーナツを食べる。岩佐の叔父から佐和子の中学校入学祝いに五千円くださったそうだ。

夕食は鯖寿司と巻き寿司を礼子が手作りした。病室の仲間に食べさせてやったら喜ぶだろうなあと、思いながら頬張った。

子供たちとポンジャンをする。あとテレビを二十三時ごろまで見て、寝しなに久しぶりにビールをコップ一杯呑む。

 

 

三月十八日(日曜日)曇りのち晴れ

昨夜はぐっすり寝た。六時ごろに一度目が覚めたが、それからまた寝てしまい、次に目を覚ましたのは九時前だった。散歩は止めたが、部屋で体操だけする。

佐和子の進検ゼミの解答が送り返されてきたのを見ると、なかなか親切に添削してあり、成績もまずまずのようだった。佐和子の卒業式のネクタイを買いに女性軍が出かける。

相変らず保雄は十一時半ごろ起き出してきて、テーブルの朝食を食べ終わるとすぐ将棋を挑んできた。少し上達したような気もする。大沢君あたりならいい勝負になりそうだ。

結局いいネクタイがなかったらしく、佐和子はリボン付きのブラウスを買ってもらった。

昼食は礼子の手作り鯖寿司。

文鳥の一匹が栄養失調で、腰が抜けてうずくまったままだ。薬を飲ませて礼子先生が治療中だった。

今日は本物のマージャンをするという夕べの約束を保雄が忘れずにいて、やろうやろうと言い出したので、礼子とすみ子を入れて、とうとう夕方まで続いた。結局礼子が一番で、私はなんとビリだった。

少し疲れて、ホームごたつにもぐって横になるが、寝られない。

夕食は久し振りの鶏の足。あとはテレビを見ていればいくらでも時間が経つ。

病院にいないとついつい薬を飲むのを忘れてしまう。少し便秘ぎみだが、十六日に一度空になっているのだからあまり心配していない。

寝しなに礼子と退院時間の打ち合わせをするが、いずれにしても遠藤部長の回診を受けてからの話である。

 

 

三月十九日(月曜日)晴れ

六時ごろに目が覚めて、そのまま七時半に起き出す。今日は朝食前の体操もしなかった。

うちにいるとあまり日記に書くことがない。礼子が退院したあと何か気晴らしになるようなことはないの、と言うが、パチンコ、競馬、マージャン、ゴルフ、どれを取っても金が掛かる。金の掛からない事と言えばごろっと寝てるぐらいで、それが気晴らしと言えるかどうか。だが、ごろ寝の場所さえあまりないのが現状だ。ほんの一隅でもいいから自分の居場所が欲しい。

昼はうどんを食べる。食べ終わるともう十三時前で、慌てて病院へ戻る準備をする。寺町御池まで歩いたところで、ちょうど大原行きが来たので飛び乗り荒神口で降りる。山本君が草餅が食べたいと言っていたのを思い出して和菓子屋に寄り道する。部屋に戻ったら十三時半だった。

鎌田さんが待ち構えていて一番やろうと盤を運んできたので、二番付き合う。

十四時の検温はなぜか七度あった。念のため婦長に明日退院のことを告げておく。

大沢君が屋上に行こうと誘う。これも最後だろうと出かけた。早春の鴨川が暖かそうに眼下に延びていた。屋上から一階まで降り、一人で鴨川に出てみる。ぽかぽか陽気で土手に春の花が咲き始めていた。

十六時に保雄が荷物を運びに来る。顔を見るなり、「小遣い頂戴。」と言うので千円やる。将棋をやりはじめたが、夕食が配られてきたので、途中で止めて、荷物を持って帰らす。

夕食後相撲を見にロビーに下りる。荷造りしてしまいガウンがないので厚着をしたが、それでも足元が寒かった。福沢先生を見かけたので、入院中のお礼を言っておく。

部屋に帰って十九時ごろまで「Yの悲劇」を読んで過ごす。

中林先生が、生命保険の入院証明書に記入して持ってきてくださる。記入代はいらないとのこと。先生にも入院中のお礼を述べておく。

さて、病院での最後の晩だ。

 

 

三月二十日(火曜日)曇り

昨夜はやはり寝られなかった。何度か薬を貰いに行こうと思ったが、退院の前日興奮して寝られなかったと言われるのも癪だったので押さえておいた。それでも三四時間は寝たようだ。六時半には起きて顔を洗う。ところが鎌田さんも三時間ほどしか寝てないらしい。大沢君も山本君も寝られなかったと言う。それというのが、田端さんが夜中ごそごそして、夜中の三時ごろ洗濯したり、スリッパをぱたんぱたん音を立てて歩き廻るのが原因らしい。

「沢村さんも寝られんかったやろ。」と矢を向けるので、

「僕はまあまあぐっすり寝た。」と答えた。

部屋の五人には折り紙色紙を一枚ずつ箱に入れてあげる。

五号室の村岡さんにも一枚持って行って退院の挨拶をしておく。久松さんとこへは大沢君といっしょに出かけたが、再び観察室に移っていたので会わずに帰ってきた。

香坂さんが見える。ちょうどそのあとに礼子が来る。

部長回診は今日は遅れて十二時前になる。遠藤先生も、

「ほんとによかったね。ほかの患者さんもこんな風だといいのに。」と言ってくださる。

外来は福沢先生担当で、二週間後の四月二日に来るように言われた。

礼子が部屋のみんなに八朔を二つずつ配る。詰所にも折り紙色紙を一枚ずつの割で十四枚持って挨拶に行ったら、婦長さんも喜んで受け取ってくれた。

恒例で部屋のみんながエレベーターまで見送ってくれた。

タクシーでうちまで帰る。もう二度とあの病室へは戻らないのだとは、頭で思っても気持ちがまだ付いて行っていない。しかし、もう今ごろは私のベッドの名札は取り外されて、シーツも掛けかえられていることだろう。

十六時前に会社へ電話する。倉中係長が出たので、二十六日から出社するつもりだと伝えると、「おめでとうございます」の声は返ったが、いつの間にやら電話の向こうとの距離を感じてしまう。

夕飯は退院祝いのご馳走を作ってくれ、白ワインで乾杯した。

 

二十六日までしばらくはぼけっとしていよう。散歩も体操も考えないことにする。ひょっとしたらこの日記もこれ限りかもしれない。少しずつ、じわじわと安堵感が広がっていった。

寝床に入ってからも本を読む。礼子に、「まぶしいからもう電気消して」と文句を言われる。

 

 

 

「入院日記」おわり