入院日記
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入院日記
兆候はあったがわが身を気遣う余裕はない
46歳、中間管理職。
過労によるストレスが徐々に溜まる年頃だ。
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2005年1月1日再編集して掲載開始 1979年(昭和五十四年) 元旦から寝ているわけにもいかないので、八時過ぎ、ふとんを上げて服を着る。私の起きる気配とともに子供たちも二階から降りてきた。親父も呼んで久し振りに家族六人勢ぞろいだ。父が心配そうに私を見るので、「だいじょうぶ」と作り笑いをしてみせる。礼子は一人でなにもかも整えてしまった。神飾りから五段重ねのおせち料理、床の間の鏡餅、屠蘇の用意まで。せっかくの祝いごとなので私も皆といっしょにお屠蘇少々いただく。雑煮も特別に柔らかく煮てもらって二つ餅を食べた。礼子が気にするので煮しめにも少し箸をつける。子供たちよりも、七十八才の父がお餅を三つも食べたのには驚いた。 一時ごろ叔父夫婦が見える。いつもながら叔母は声高で賑やかだ。不景気面もできないので、適当に話を合す。一時間ほどして従妹の一家も来て、その娘だけがしばらく残って遊んで帰るという。 夕飯後体がだるくてたまらない。階下は子供達のゲーム場と化しているので、しばらく二階の保雄のベッドに横になる。 正月というのに下痢が一向に止まらない。中学二年の保雄は友達と初詣に出かけた。小学校六年生の佐和子と去年小学校に上ったばかりのすみ子は向かいの友達を呼んで二階でトランプに興じている。父は上ん町の伯母(父の姉)のところへ年始の挨拶に出かけたらしい。 昼頃礼子に頼んで近所の薬局で硫酸アンモニューム二十グラムとカーボニン三グラムを買ってきてもらい、思いきって飲んでみる。悪い物をいっぺん全部出してしまうつもりだ。ところが、カーボニンをオブラートでくるまなかったので口中が真っ黒になった。そんな口で咳き込んだら礼子が笑い出した。自分でも洋服ダンスの鏡に顔を写してみて情けなかった。 薬の効果てきめん、今朝にかけて、滝のように便が出きった。 朝ご飯も昼ごはんも抜いて、腸内をすっからかんにした。荒療法である。お陰で夕刻の流動食はなんとか食べられた。ただ空腹感はない。しかも、すっきりしたという感じがない。よかったのか悪かったのかわからない。出口のない海底でもがいているようで、それ以上自分でも手の施しようがなかった。 食べる物をほとんど食べなかったので便の量は減った。それでも、下腹が張るような鈍い痛みが収まらず、そうかといってもう一度硫酸アンモニュームやカーボニンを飲む気にはならなかった。 階下は皆の邪魔になるし、来客があると困るので、二階の表の間にふとんを敷いて一日寝ていた。 夕方森中部長が見舞に来てくれた。寝巻きに丹前を羽織って階下で挨拶する。蜂蜜を頂く。 「病院を変えたほうがええよ。」と勧められた。今はどんな忠告にも従う気持になっていた。 会社の京都駅営業所の所長が以前から勧めてくれていた京都府立病院へ行ってみる。それほど遠くではないので自転車で行こうかと思ったが、家内に止められたので御池通りでタクシーを拾った。 紹介を受けた吉村先生にうまく会える。すぐに便、尿、血液と立て続けに検査を受ける。吉村先生は第二内科で、直接の主治医は第一内科部長の遠藤先生だと聞かされた。火曜日に山科の愛生会病院に行くように指示される。会社の東野所長と経理課(私の担当部署)の倉中係長に報告しておく。なんだか、見慣れない広場に敷設された軌道に乗った壊れかかったトロッコのように、ガラゴロと動き出した。 薬が変わったせいか下痢の回数が半減する。それでも一日四回。眠くて一日寝てばかりいる。日記なぞつけてられる気分ではない。食欲もない。 正月以来ずっと晴れている。それに引きかえ私はどんどん気力をなくしていった。子供たちも昨日から三学期が始まり、朝の家の中はひっそりしていた。親父は何言うでなし、起きるのも寝るのもマイペースである。 礼子に付き添われて愛生会病院に出かける。タクシーを降りて病院の受付までの道のりが遠く感じた。問診があり、あとベッドで点滴を受ける。検査のつもりで来たのに検査はなく、なんとなく拍子抜け。十一日に注腸検査をするからと告げられた。もうこんなことより手術でもなんでもさっさとしてくれという心境だった。 なんとまあ晴天の続くことか。東向きの窓から薄いカーテン越しに朝日が差し込む。明るいことで気がいらいらした。 昼からは子供たちが学校から帰ってくる。上の二人はまだしも大人しいが、末っ子のすみ子は、わけも分からず、私の布団の上に馬乗りになったりする。 注腸検査の前日なので夕食は流動食。七時半にマグコロール250ミリリットルを飲む。普通の時には到底飲めない味だ。午後十時にソルベン四錠。あとは水ばかりふんだんに飲まなければいけない。 今日もぶっ続きでまだ晴れている。 朝十時に愛生会病院へ出かけた。一人で行けなくはなかったが、家内が付き添うというのは阻まなかった。十一時過ぎまで待合のソファで待たされてやっとレントゲン室へ通される。ベッドに縛り付けられ、右に左に縦横にぐるぐると引き廻され、こんなことをして健康に、特に内臓にいいはずがない。腸の撮影後うっとうしい待合室で十二時半まで待った。ようやく診察室に招かれたが、まるで執行官のように体格のいい先生が事務用の肘掛け椅子に窮屈そうに座っていた。壁に張り出された私の腸のレントゲン写真を、指揮棒のようなもので指し示しながら、柄に似合わない優しい声で説明し出した。腸のほぼ全域に細かい潰瘍があるとのこと。腸本来の蠕動運動が停止しているのが、壁に張られた写真を見れば、しろうとの私の目にも明らかだった。 「すぐ入院しないといけない。連絡しておくから明日府立に来なさい。」 と宣告された。 十一時ごろまたまた礼子に付き添われて府立病院に行く。正月以来どこへ出かけるにも生徒の保護者のように妻が従ってきた。なさけないかぎりだ。遠藤先生の診断は「潰瘍性大腸炎」。約三ヶ月の入院加療を要するとのこと。断りたかったが、仕方がない、感情を抑え、「わかりました。」と覚悟を決める。 昼から三時ごろ背広に着替えて会社へ出かける。さすがに家内は付いては来なかった。森中部長は外出中だった。神野課長、倉中係長に報告、診断書を渡し、部長によろしくと頼んで帰る。 礼子は手際よく身の回り品を揃えてくれた。長男の保雄が自分の小型ラジオを貸してくれると言った。文庫本も適当に借りる。 今晩でしばらく家とお別れか。六年前、腸閉塞で二週間ばかり大沢病院に入院した時のような不安はない。下痢が収まったからだろう。あれこれ考えても始まらない。 久し振りに夕刻から小雨が降り出した。 × × × × × 一月十三日(土曜日)小雨のちくもり 十時過ぎにタクシーを呼んで府立病院へ行く。受付で入院手続きを済ますと、間もなく四階第一病棟第二室へ案内された。六人部屋だった。相客はみな元気そうな人ばかりでちょっと安心する。第一室の方が重患者の病室らしい。パジャマに着替える前に二人で第三内科に挨拶に行く。笑顔で迎えてくれた吉村先生が、家内を手招きして、「奥さん、心配ないから・・・」と勇気付けているらしいのが、二人の様子から読み取れた。私に寄ってきた礼子が、ほっとした顔で、 「悪性でないて、はっきり言うてくれはった。」と囁いた。 婦長さんが同室の五人について紹介をしてくれる。一人は十五日に退院の予定だそうで、さらに二人が二十日に退院が決まっているとのこと。道理で明るい雰囲気だと思った。 礼子と地下の売店を見に行く。スーパーなみになんでも売っている。生協に加入すると割引してもらえるというので、家内が手続きしてカードを作ってもらった。散髪屋もある。 まもなく配られてきた昼食は普通食だったが、それでも、私の安静度は「室内安静」だと婦長に宣告された。室外へ出歩くことが出来ない制限患者とのことだった。さっき売店まで降りて行ったのが娑婆の見納めということか。 ベッドに付けられた名札の主治医欄は中林先生と福沢先生の二人の名前が書いてある。つい疑心暗鬼になる。これは重病ということなのだろうか。あるいは、紹介患者だから手厚くとのことなのだろうか? 「遠藤先生は私のナニなんですか?」 びっくりしたように婦長が、 「遠藤先生は内科部長さんですよ!」 なにを勘違いしているんだと彼女は呆れたような顔をした。 夕食からさっそく全粥の治療食である。豆腐、隠元、味付けのり、卵焼き、ほうれん草。 九時消灯。寝つかれそうにない。 一月十四日(日曜日)晴れ 昨夜は五時間ほどしか寝られなかった。朝六時にはもう検温に看護婦が回ってきた。 朝食は豆腐の味噌汁と卵焼き。それに柚味噌が小皿についていた。 十一時頃礼子と末娘のすみ子が来る。本社の経理部長が家に見舞に見えた由。私のベッドは廊下側だったが、すみ子は珍しそうに病室の窓べりに出向いて外を眺めたり、戻ってきて私のベッドの端に座ったりした。 昼飯は牛肉と麩とにんじんの煮付、塩気のとぼしい鮭の切り身とこれまたにんじんの胡麻和えだった。 夕刻、同室の人懐っこそうな山本さんが、私のベッドに将棋盤を持ってきて、 「やらはるんでしょう。」 と、駒をもう並べ出す。あまり気乗りはしなかったが、初対面でこれからの付き合いもあるし、むげに断れなかった。一方的に負けるのは嫌いな方だが、なんとか一敗に終り、これなら気晴らしになる相手ではあった。 ツベルクリンの注射を打たれ、五時前にはもう夕食が配られた。鰆の煮物とほうれん草のおしたし、卵焼き。 まだ三十代の大沢君はなんでも、地中海性貧血症とかで何度も入退院を繰り返し、見た目は元気そうだが、血が固まりにくく、日本全国でもわずか二十六人とかの難病患者らしかった。仕事にも就けず、退院時にはアパートで生活保護を受けつつ一人で暮らしているとのことだった。 一月十五日(月曜日)晴れ 成人の日 昨夜も寝つかれなかった。一晩うとうとし続けた。 朝、まだカーテンが閉まっていて薄暗いうちに看護婦が計っていく検温では七度三分だった。 どうしたことだろう。朝食後、まったくの普通便が出る。 昨日将棋の相手をした山本さんが午後一時過ぎに退院する。約五ヶ月もの間腎臓で加療中だったのがようやく回復したのだと・・・。昨日入室時にそう紹介されていたのに、夕方には名前さえもけろっと忘れてしまっていた。彼本来の性格が人懐っこいのではなく、退院を前に晴々とした気持ちで、入院直後の私に将棋で元気をつけようとしてくれたのだ。嬉しさをかみ殺したような顔で、付き添いの奥さんがベッドごとにお菓子を配って回る。背広に着替えた山本さんを同室の仲間が揃ってエレベーターまで送って行った。「室内安静」の私はベッドから頭を下げておいた。 看護婦が来て、「トイレを済ましておいてください」と言う。そのあと明日の準備とかで点滴を受ける。二時間半もかかった。トイレを先に済ます意味がわかった。その最中に今日も家内がすみ子を連れてきた。桃色のシクラメンの鉢を持ってきてくれる。昨日、姉の佐和子が入っている京都市少年合唱団の発表会で、一年生のすみ子が花束贈呈の役をやったとか。帰り際になって思い出し、地下売店で明日の検査食を買ってきてもらう。 成人の日というので皆の夕食は赤飯らしかったが、私一人は白粥だった。 一月十六日(火曜日)晴れ 昨夜はとうとう看護婦に言って睡眠薬をもらう。おかげで丸六時間ぐっすり寝られた。 朝、立て続けに検便、検尿、採血。その挙句に今朝から検査食。これがまずい。なまぬるい宇宙食のような、べとべとの食べ物だ。 山本さんの退院に伴い空家になった真ん中のベッドに替えてもらう。今までより少し明るく居心地がいい。 十一時ごろ礼子が来てくれる。看護婦さんたちにみかんを持っていったが断られたらしい。十一時半、遠藤教授の回診があった。助手、インターン生から婦長まで、総勢十五人ばかりがぞろぞろ続き、いい加減物々しい。私の隣、窓際のベッドの川アさんは胃潰瘍がもう少し残っていると言われて、退院の期待が外れ、少しがっかりの様子だった。小柄で赤ら顔、人懐っこいので、見かけたところ私より五つ六つ年上にしか見えない。聞いてみると、もう定年退職していて、洛北と洛南に二軒家を持ち、気楽に暮らしているとか。元京都市水道局の管財課長で、私の従兄とも面識があると言った。従兄弟は私の勤めるみやびホテルで施設課長をしていて、疎水利用権の問題で何度か交渉をして相手だと言う。世間は狭い。 今日は入浴日で、昼からみんな順番に浴びに行ったが、私は入浴できない。元来風呂は好きな方ではなかったが、入れないとなると入りたくなるものだ。頭を洗うのもいけないらしい。 夜八時にまたマグコロールを飲む。砂糖を足しても身震いするほど酸っぱい。 一月十七日(水曜日)晴れ 昨夜はまずまずよく眠れた。 朝は絶食。十時に控え室に呼ばれて高圧浣腸をしてもらう。下半身裸で若い看護婦にセットされるのだから、ちょっと苦痛だ。それを顔に出すわけにはいかない。その足で便所に走り込んで用を足して戻ってくると、看護婦が後を覗きに行く。まだ充分でないと、ちょっと休憩後もう一度浣腸。透き通った水分だけが出るようになってやっとOKが出る。続いて、別の部屋に移動して十一時四十分から大腸ファイバー。これはベッドに横になって、先端にカメラの付いた長い管を肛門から入れるのだ。入り口を突破さえすれば後は思ったより痛くはなかった。三十個ばかり細胞片を摘み取られた。吉村先生、主治医の中林先生立会いで、カメラは第三内科の工藤先生。腸については日本有数の方だと吉村先生が耳の傍で囁いた。 昼食は欠食なっているので、地下の食堂まで出向いて肉うどんを食べる。食欲はあるようだ。偶然そこで本社セールスのH係長に出会う。 「沢村さん、どうされたんです。」 「あんたこそどうしたんや?」 子供が風邪を引いたとか。 午後竹原さんが入室してきた。ベッドは昨日まで私のいた窓際だ。つまり私の真隣だったから色々話を聞く。昨年七月来、入退院を繰り返しているのだそうだ。心不全でペースメーカーを付けていて、腎臓も悪いので完治は難しいと自分で言った。 四時過ぎ礼子が、府立の前にかかっていた毛利病院から腸レントゲン写真を借りて来てくれた。それを持って二人で医務室へ出かけると、腸ファイバーの工藤先生が結果の説明をしてくれた。直腸はほぼ正常だが、直腸より十センチほど上から大腸全般に潰瘍が点在しているとのこと。点は深いが広がりがないので、単なる潰瘍性大腸炎でなく、細菌性の疑いがあるらしい。 久しぶりのまともな夕食を摂る。おかゆも全部平らげた。みかんも2つ食べた。 一月十八日(木曜日)雨 昨夜は久し振りによく眠れた。八時間はたっぷり寝た。 窓外は雨だった。一日降りそうな感じだ。今朝もまだ絶食のはずなのに間違って配ってきたので、捨てずにおかずを取っておく。ほどなく看護婦がシーツ交換に来たが、隠匿したおかずは見つからずに済んだ。 十一時に注腸検査(腸にバリュームを注入してレントゲンを撮る)。福沢先生と中林先生で二百五十cc入れただけで簡単に済んだ。 昼食はハンバーグと朝に取っておいた目玉焼きを一緒に食べた。 福沢先生が来てちょっと話して行かれた。昨日のファイバースコープの結果、アメーバの疑いが出てきたらしい。確率は七十%くらいで、例えばアメーバー赤痢とか・・ 四時ごろ礼子がスリッパと玄米茶と整髪用チックと森村誠一の「悪しき星座」も持ってきてくれた。叔父と叔母たちから、たまご一箱となにがしかの見舞金を頂いたそうだ。 夕食はシューマイ、豆腐の澄まし汁、ほうれん草、鶏のささみ、それから野菜のごった煮。なかなかの献立だ。 頭がふらつくとかで入院していた香坂さんは、内臓検査を受けたが結局内臓は異常なし、目に原因があるらしく、二十一日ごろ退院するんだと、全部しゃべってくれた。 一月十九日(金曜日)朝方雪、のち晴れたり曇ったり 昨夜もよく眠れた。熱もどうやら平熱に下がる。ただ、食後しばらく少し下腹が張る感じがするが、運動不足のせいだと思う。 実は昨日から注腸治療(潰瘍性大腸炎のための治療薬を腸内に注入する)が始まるはずだったのが中止になった。その代わり、検便でアメーバの培養検査が頻繁にある。 十時半ごろ洗髪にきてくれる。そんなに気を使ってくれるほど重症でもなかろうと気の毒になるが、やはり何日かぶりでさっぱりした。 昼前礼子がメロンの切り身と塩こぶを持ってきてくれた。 今日も三時から点滴。ようやく点滴も日課のうちと思えてきて、これが済むと夕食となる。 窓際の川アさんの奥さんが、今日は朝と昼と二回みえていた。香坂さんの奥さんはだいたい毎日みえる。 第一病舎の一号室には、一、二、三内科混合の女子重症患者が入っている。中で一人かなり重いひどい人がいるようで、特別許可を得て父親が付き添って寝泊りしているらしい。 大山さんはいよいよ明日退院と聞かされたが、夜こっそり酒を買いに出て、ベッドで二本も飲んでいた。根っからの酒好きらしいが、その上喘息持ちのくせに咳き込みながらたばこを吸う。これで身体を壊さない方がおかしい。よくも退院できるものだ。 一月二十日(土曜日)晴れ よく眠れるし、六時起床が習慣づいてきた。 川アさんは今朝は胃カメラを飲むので絶食とのこと。 私は九時頃大きな容器に便を採る。普通便に近い、と、すぐに知らせたのに、 「行く前に言っておいてください」と看護婦さんに叱られる。 それでもまもなく福沢先生が駆けつけてくださったが、培養に使うので出きるだけ新鮮な便が要るのだそうだ。十時頃心電図を撮る。 香坂さんは今日は外泊で家に帰るので、よほどうれしかったのだろう、会う人ごとに同じことを言いまわっていた。 十一時頃礼子が、手慰みに折り紙一式と着替えを持って来てくれた。 この間退院した山本さんが通院のついでに立ち寄り、お見舞に甘柑を皆の枕元に置いていってくれた。 大沢君、十時から十三時過ぎまで外出。人のことがどうしても気になる。 十三時半ごろ看護婦さんが来て身体を拭いてくれる。少し重病人扱いが過ぎるように思える。蒸しタオルで背中を拭き、足をバケツに浸け、あと拭いてくれる。シモを小さなガーゼでぬぐってあと捨てる。ありがたいことだが、気恥ずかしく、わずらわしくもある。 折り紙で赤とんぼを作る。 大山さんは、朝からもうトックリのセーターに着替えて待っていたが、奥さんと息子さんが来たのは夕方十七時過ぎだった。それでも嬉しそうに七ヶ月ぶりに病室を後に家族に伴われて帰っていった。 窓際の川崎さんが小型のテレビを持ち込んでいたので大相撲を見せてもらう。若乃花が負けて明日の千秋楽を待たず北の海の優勝が決まった。 二十時ごろ、室内のみんなが取ると言うので、付き合って狐うどんを出前してもらう。 一月二十一日(日曜日)曇りのち晴れ 竹原さんは夜中に大分息遣いが荒いように思えた。 体重測定日である。まだ53キロで変わらない。昨日の狐うどん、どうやら収まった。今朝の便は量が少なかつたが硬く普通便だった。 九時四十五分から点滴。途中で尿意をもよおし、尿瓶を借りる。生まれて初めて尿瓶を使うが、最初なかなか出にくく弱った。 昼から皆に詰め将棋を教えたのはよかったのだが、持ち駒を一つ記憶違いしていて、いくらやっても詰まらず、面目を失ってしまった。 桂の叔父と叔母が見舞いに来てくれた。二人とも近頃創価学会に入信していて、根っから無信心の私に池田大作の「人間革命」を貸してくれた。協会の教授補佐のような資格を取ったらしい。ひょっとしたら、二人は私が癌だと思っているのかもしれない。 礼子がすみ子を連れてくる。頼んでおいたミニゲームを持ってきてくれた。折紙協会大阪支部の田口さんから電話があって、黒田さんが本部事務局長に就任されるとか。 病室中退屈していて、すみ子のミニゲームにみなが熱中する。 尿をずっとガラスの瓶に採っているが、いつも1200cc〜1500ccのところ、今日は1800ccにもなったので、最後の方は採らずにおいた。尿瓶で受けずにじかに小便をするのは、やはり心地よいものだ。 一月二十二日(月曜日)晴れ 今朝は五時半ごろ目が覚める。夜中に一度もトイレに行かなかった。 点滴の最中、十一時半ごろ、久松さんが新しく入室してくる。さっそく話を聞いてみると、両眼の神経が合流するあたりにしこりができて、圧迫するので目が見えにくいのだという。もともと糖尿症があって、それだと手術の途中出血が止まらない。そちらの治療に専念していて、ようやく糖尿は克服したらしく、近くしこりの摘出手術をする予定とか。 礼子がみかんとカステラとあられと爪切りを持ってきてくれた。 大沢君を例題とした「地中海貧血」の論文を見せてもらう。治療法としては、輸血、脾臓摘出、除鉄剤投与、ステロイドホルモン投与(増血)などがあるとのこと。脾臓には溶血作用があるので、鉄分の過剰を排尿により除く。といつても私自身が理解できているのかよくわからない。不治の病ということで、患者は時としてうつ病的精神発作を起こすことがある。大変な病気だが、まだ国の「難病指定」を受けていない。 五号室はに原爆症で四年前から入院している患者もいる。 十九時ごろ、中林先生が見え、アミーバの可能性はほぼなくなったと言った。 一月二十三日(火曜日)晴れ 今朝の便は少し硬い目だった。色も茶色がかってきた。今まではどちらかというとカーキ色をしていた。 みやびホテル勤務のMさんに同じ病棟の廊下で声を掛けられる。 香坂さんは二十八日に退院することが決まった。片目の摘出は三月に改めてするとのこと。 遠藤部長の回診と礼子の来るのがかちあった。礼子はミロとコーヒーカップと、西沢爽の「雑学猥学」を持ってきてくれる。 十四時ごろ田口さんが、折紙協会大阪支部からと言って、見舞に来てくれた。やはり黒田さんは家族ともども東京の本部に行くらしい。四十八歳、万年社の部長職を辞してである。 親父が見舞いに来てくれた。二十八日に兄弟会をうちでやるそうだ。つまり私の叔父とか叔母とか五人、みんな長生きで元気そのものだ。私の入院が話題に上るだろう。「癌」ということに決め付けられそうだ。 入浴の許可が出たので、久し振りに身体を洗いさっぱりする。 十五時半にミロで菓子パンを食べる。すんなり食べられた。 夕食から今までのおかゆに替わって普通のご飯となる。ゆっくり味わって食べる。 抗菌錠剤を今夕から飲む。 Mさんにまた廊下で会って話を聞くと、大腿からカメラを肝臓に通して検査した結果、肝臓が相当悪いらしい。二ヶ月ほど前に入院したとのこと。 二十時から一階ロビーでテレビを見る。うちでは見たことのない杉良太郎の「新吾捕物帖」。チャンネル権は前列の二、三人が握っている。 一月二十四日(水曜日)晴れのち曇り 昨夜はあまりよく眠れなかった。朝食は食パンとボイルドエッグとみそ汁。食事中ひどく腹が張った。 朝刊に太安万侶(おおのやすまろ)の遺骨と墓詩銘が出土したことが大きく報ぜられている。 川アさんの衣笠のうちの隣が、京都折紙会のTさんの親戚のうちだそうだ。望んだわけではないが、話題のつながりを探って話し掛けてくる。 大便は硬くて、むしろ力まないと出ない。 昼前礼子がミニゲームの替わりを持ってきてくれる。従姉妹が寄って見舞金を置いて行ったらしい。昨日経理課の課長がうちに来て、部長の長男ご婚礼のお祝い返しと、冬の一時金の追加支給分を届けてくれた。 十五時半、パンを一切れ食べてから、地下売店まで散歩に行き、角砂糖を買う。 夜は一階ロビーで「銭形平次」を見る。 一月二十五日(木曜日)晴れのち曇り夜しぐれ 昨夜もぐっすりとはいかなかった。六時に採血。 朝食前、一階まで階段で降りてみる。一階ロビーは少し冷え冷えとしていたが、もう二十人ばかりが長いすに座って診察が始まるのを待っている。帰りはエレベーターでと思ったが、なかなか来ないので、がんばって階段を登る。身体にいいのか悪いのかわからない。部屋に戻ったらシーツを交換してくれてあった。 手術待ちの久松さんはいかにも温厚そうで、どこかの会社の重役さんのようにと思えた。聞いてみたら、大阪の米屋の旦那さんということだ。 一昨日折紙の田口さんに頂いたメロンを半分切って、地中海貧血の大沢君にお裾分けする。 昼前にも階段の上がり降りをしてみた。シクラメンを窓際の日差しに出してやる。 礼子が色紙掛けを持ってきてくれたので、さっそく大阪支部の田口さんに戴いた折紙の色紙を壁に掛ける。Fさんから見舞にもらったメロンを、礼子は叔父に上げるというが、ちょっと惜しい気もした。 かって竹原さんは二トントラックの運転手だったらしい。娘さん二人を嫁にやり、息子二人はまだ独身。長男は出町柳で薬屋をやっている。今日は竹原さんの戦友がやってきて、散髪をしてもらっていた。月に一度必ず散髪に来てくれるそうだ。 香坂さんは朝から出かけて夕食前に帰ってきた。初天神に孫の高校入試祈願ををしてきたとかで、土産に飴玉をいただく。 夜はまた一階ロビーに出かけ、「風鈴捕物帖」を付き合う。部屋へ帰ってからカステラの残りを食べる。シクラメンの葉がほとんど全部黄ばんでしまっていた。急に陽を当てたから弱ったのだろうか。 一月二十六日(金曜日)早朝曇りのち晴れ 寝しなに食べたカステラが余分だったのか少し腹が張る。 昨日階段を登り降りしたせいでふくらはぎに少し身が入っている。体力維持に続けるべきか否かちょっと迷うが、くじけてはいけないと、今日も一階まで階段で降りまた上がる。 十時半に予約しておいた散髪屋へ出かけた。洗髪ともで千六百円は思ったより安い。 昼過ぎ礼子が、うにと鮎の飴だきを持ってきてくれた。 十三時半から福沢先生の担当で、大沢君の肝臓検査が始まる。福沢先生は資格は講師だが、第一内科では遠藤教授に次ぐ地位らしい。局部麻酔をしてから、肝臓へ直接注射器を挿し入れ、鉄の含有量を調べるのだそうだ。地中海貧血では鉄が過剰になり肝臓に溜まる。検査の後は二十四時間ベッドに寝たまま動けない。私は今日は間食を止めておく。せめてもの大沢君に対する協力だ。 さて今日は入浴日。病院の風呂にも慣れてきた。 香坂さんは以前はよく川柳をやっていたらしく、「峰泉」という俳号もあるとのことである。 大阪で銀行強盗があったみたいだ。 一月二十七日(土曜日)晴れ 昨夜はまずまずぐっすり寝られた。 大阪の銀行強盗はまだ三十五名の人質を猟銃で脅して立てこもったままだ。 昼前に礼子が来たので、シクラメンを持って帰ってもらう。 昼食後売店へ行ってリンゴを買う。 十四時半ごろ、森中部長、神野課長、倉中係長が見舞いに来てくれた。給料も持ってきてくれた。 竹原さんは猟友会の会員で猟銃を持っている。獲物は今まで雉が最高、四足獣は撃ったことがないそうだ。銀行強盗が猟銃所持の許可を持っているのが竹原さんには合点がいかないらしい。前科、特に強盗殺人の前科があるのに許可が下りるはずがないというのである。一生懸命自説を繰り返す。 香坂さんの奥さんが退院の挨拶がわりにリンゴを二つずつ皆のベッドに配って歩いた。 竹原さんは地下売店で折り紙を一冊買ってきて、孫になにか折りたいというから、枕もとの折り紙の本を貸してあげる。 夜は一階でプロレスを見る。家では決して見ない番組だ。十五、六名が身を乗り出して見ていた。 福沢先生が来て、今後の予定を告げていった。次の水曜日とその次の水曜日に大腸ファイバーを行うとのことだ。ちょっと気が重い。 一月二十八日(日曜日)曇ったり晴れたり 昨夜は十二時頃まで眠れなかった。 六時に目を覚ましてラジオをかけるが、銀行強盗事件は四人の死体を運び出したほかは、依然進展せず。 体重測定日で五十四キロだった。前回より一キロ増えていた。 朝食後八時四十三分、突然機動隊が突入して犯人が逮捕され、人質全員は無事とのこと。廻りも歓声を上げる。 礼子がシクラメンの新しいのと桜草みたいなのを持ってくる。すみ子がついてくるかと思っていたら来なかった。午前中にオルガンの検定があって疲れたのだそうだ。こたつと給料を持って帰ってもらう。 香坂さんが退院していった。 十七時四十五分銀行強盗犯人梅川が死亡したとの報が流れる。 竹原さんは私の貸してあげた折り紙の本を見ながら、お孫さんにタヌキやコウモリを折っていた。 十九時半から一階ロビーでテレビを見る。「砕氷船ふじ」。続いて「草燃ゆる」。 心臓の裏側のあたりに筋肉痛があるので湿布してもらう。 一月二十九日(月曜日)小雨 五時に目が覚めた。 久松さんを見舞に行ったら、面会室で彼の身の上話を聞くはめになる。父親が関東物の呉服問屋だったのを早くに継いで、二十歳の時、繊維に見きりをつけて米屋を始めた。戦災も遭うが戦後はいち早く立ち直り、あくどく闇米をかき集めたりもしてがむしゃらに働いた。やがて三ヶ所にチェン店も設け、米屋組合の理事長も務めたが、十年前突然脳出血で倒れ、それからは奥さんと全国の温泉を巡り、視力が衰えてきたのはごく最近のこととか。店は息子さんに任せているのだそうだ。すべてを聞いてしまった。 香坂さんの跡に井川さんという老人が入院してきた。四ヶ月前に腰骨を折って歩くのが少し不自由。内臓検査に来られたとか。長男のお嫁さんがかいがいしい。 雨が降っているので礼子は歩いて来た。明日の検査食(ボンコロン)を地下売店で買ってきてもらう。保雄が風邪をひいて七度七分ほど熱があるらしい。それでも理科のテストがあると言って登校したそうだ。 中林先生が来て、点滴は今週中でおしまいだと告げた。 夕食は牛肉が付いたが、冷えているのでまずい。手鍋に入れて火を入れなおしたらなんとか食べられた。 十九時半から一階で世界フライ級ボクシングの大熊対ゴンチャレスを見る。引き分けだったがチャンピオンのゴンチャレスがタイトルを守った。 今日は一日雨が降っていた。 一月三十日(火曜日)曇り一時晴れ 今朝も五時ごろ目覚める。 朝食からボンコロン。よくまあこんなまずい食べ物を作ったものだ。 夜中に井川さんが電灯を点けてみかんを食べていたと言って、大沢君がぷんぷんしている。尿瓶を部屋に置いておくのも気に入らないらしい。その上主治医の吉本先生というのがちょっと不まじめで、すぐ冗談口をたたくし、静脈圧の検査を昨日三度も失敗し、今日また失敗したので、ひどく不機嫌だ。 部長回診時、遠藤先生に「そろそろ体をもてあましているだろう。」と言われる。 礼子が字引を持ってきてくれる。日記を書いていても思い出せない漢字がある。 十三時ごろ風呂に入る。今日は一番風呂だった。 夕食はポタージュスープだけ。井川さんの三男のお嫁さんが子供を連れてくる。我々にジュースを一本ずつ配ってくれた。 二十時から、川アさんの小型テレビで「南極だより」を見る。テレビを通しての家族対面で子供の呼びかけに隊員がぼろぼろ涙を流すのに、竹原さんがもらい泣きする。九州にいるお孫さんを思い出したのだそうだ。 下剤を飲む。顔がしかむほどすっぱい。 一月三十一日(水曜日)曇り 六時と七時過ぎに大便に行く。ほぼ出た感じで急に腹が減る。それでも朝は絶食だった。今朝は絶食者が多い。竹原さん、久松さん、大沢君と私と。 九時に浣腸、十時四十五分からいよいよ大腸ファイバーである。工藤先生のカメラ。急激に潰瘍が薄らいできているらしい。頼んで自分の直腸内を管を通して覗かせてもらう。全体にきれいなピンク色だが、ところどころ赤味をさしている所が潰瘍の痕だと教えてもらう。細胞摘出(バイエックス)も十個から十二個程度。しかし先日より深く、九十センチほど奥まで入れたので、時間も一時間以上掛かる。 それでも昼食には間に合った。 十三時ごろ九州営業部の杉山部長が見舞いに来てくれる。十四時半から営業会議だと言ってそそくさと帰られた。 十四時半、礼子が持ってきてくれたショートケーキを食べる。 五号室には原爆症で入院してもう四年になる人がいる。奥さんがいつも付き添っていて、本人は車椅子とベッドの生活だ。原爆投下の日、たまたま広島で軍役に服し、死体処理を手伝ったらしい。その十数年後に発病したとか。 二月一日(木曜日)曇り 昨日はあまりよく寝られなかった。夜中二時ごろ便所に行くと、軟便だった。 五号室の市役所の部長さん、直腸癌で手術台に上がったとか。 阪神江川と巨人小林のトレード成立の臨時ニュースが流れた。 先月退院した大山さんが外来でくる。毎日パチンコと居酒屋通いだと、楽しんでいるような退屈しているような話だった。大山さんが帰ったら、入れ違いに香坂さんがやってくる。元気そうだ。 十四時四十五分から点滴が始まった。安静度数表が「室内安静」から「病院内安静」に変更された。といってもすでに私は勝手に病院内をうろうろしていた。 その最中に住島社長と島田本部長がそろって見舞にきてくださった。 「会社の成績は順調だよ。心配ない。」と社長が言ったので、 「私の方も順調です。」と訳の分からぬ返答をしてしまった。 婦長さんが市長選挙の不在投票の請求用紙を持ってきた。 かねてより川アさんが退院したあと、窓際ベッドに替えてくれるよう頼んでおいたのを、婦長さんにさらに念を押しておく。 十九時ごろ川アさんの奥さんが来られ、荷物のあらかたを片付けて持って帰った。 一階ロビーで「欽ちゃん」を見る。二十一時ごろみんなといっしょにてんぷらそばをとって食べる。 二月二日(金曜日)晴れ 七時、一階ロビーまで階段で降り、また登ってくる。一服してから六階の屋上まで階段で登り、また降りてくる。「病院内安静」となったのでおおっぴらに体力を着けることを心掛ける。 井川さんは昨日の胃カメラの結果がよかったので早々に退院らしい。 昼前に礼子がカステラと刺身を持って来てくれる。 便はまだ軟便で、時間も不規則だ。大沢君に講議所まで案内してもらう。時々ベッドごとここへ運ばれて学生に彼の病状の講議が開かれるのだ。 十四時の点滴の時に主治医の中林先生がみえたので、日曜日の外出を頼んでおく。 十六時ごろ、いよいよ川アさん退院。今日は奥さんは用事で来れず、一人で帰られる。バスの停留場まで大沢君と見送りに出る。部屋に戻って早速自分から窓際のベッドに移転し、窓辺にシクラメンを置いていると、看護婦さんが来て、「沢村さん、手回しええね。」と言われてしまう。やはり明るく、自由で気分がいい。 夕食は久し振りの刺身。大沢君に三切れを小皿に入れて分けてやる。 夜は一階ロビーで「七人の刑事」を見る。竹原さんも車椅子でやってきた。 二月三日(土曜日)曇り 昨夜は真夜中の井川さんが枕もとの電灯を点けたまま寝こんでしまったので消しに起きた。なにかにつけて勝手な人だ。稼業は古くから美術印刷をやっていて、その業界の顔だという。 窓辺のシクラメンが満開になる。 十時半ごろ、新たに山本さんが入室してくる。肝臓らしい。昨年八月に他の病院へ入院していたが、十一月に一旦退院し、その間の十月に一時帰宅して、結婚式を挙げたとか。その若奥さんが付き添って来ていた。 昼前に礼子が来る。厚巻きとつっかけを持ってきてくれる。 十三時ごろ、先日来たばかりの井川さんが退院する。 ひまなので窓ガラスを一枚磨く。それだけで気分が変わる。 十六時半ごろ、河原町通りのバス停に出かけて、明朝のバスの時刻表を調べておく。夕食は珍しくちらし寿司だった。 夜は一階へプロレスを見に下りる。 二月四日(日曜日)晴れ 昨夜はまずまずぐっすり寝られた。新入りの山本君は夜中の二時ごろまで寝つけなかったらしい。 朝から二枚目の窓ガラスを磨く。窓辺のベッドに来ると窓も自分の所有物のような気がしてくる。 バスの時刻表を昨日のうちに見ておいたので、九時三十九分のところを九時十分ごろ部屋を出た。一階ロビーでしばらく時間待ちする。 二十二日振りに我が家に帰ってみたが、なんとなく狭っくるしい感じだった。すみ子が寝そべってテレビを見ていた。やがて佐和子が二階から降りてきて、「お帰り。」と言ったが、あとはぶすっとしている。友達とスケートに行くとかで、すぐ出て行った。なんだか疲れがじわっと出てきて、居間にごろっと横たわるとそのまま小一時間うとうとする。 昼ごろ保雄がやっと起きてくる。「ああ、おはよう。」と、それっきり。 かしわのすき焼きを食べる。久し振りに熱いご飯とおかずでうまかった。 保雄も高島屋へ浮世絵展を見に早々に出掛けて行ってしまった。 すみ子のオルガンを少し聞いてから、礼子とすみ子と三人で高島屋へコートを見に行く。そこから大丸へ行く途中志津屋でフルーツジュースとサンドイッチを食べる。大丸ではもうかなり疲れた。 市バスで病院へ帰ったらちょうど五時だった。節分の豆を少しずつみんなに配る。病室の方が我が家より身の収まりがいいような感じだった。 今日から点滴もなくなったし、小便を溜めることも必要でなくなった。普通に小便ができるだけで気が晴れ晴れとする。 山本君は婦人服のデザイナーということだ。奥さんは五つ年上で三十二歳の姉さん女房である。 二月五日(月曜日)晴れのち曇り 七時過ぎに階下に降りて少しテレビを見てから、河原町通りの正面入口まで出てみる。少し冷たいが爽やかだ。昨日四条通りを歩いた疲れは残っていない。 十時過ぎ、大沢君が鴨川に出る通路を知っているというから、案内してもらって二人でちょっと散歩に出る。堰の溜まりで釣りをしているのをしばらく眺めていたが、一向に釣れる様子もなかった。 昼ごろ礼子が来る。二人とも話もないのであくびばかりの応酬だった。佐和子はこの二三日不機嫌らしい。生理の加減もあるのではと礼子が言った。明日は校友会の会長選挙で来られないと言って帰った。 田端さんが入室してきた。去年退院して糖尿病の再発らしい。 大沢君が、うどんを煮るのに手鍋をを借りたいというので貸してやる。どんぶりも貸してくれと言うのでお椀を貸してやる。使ったあと、冗談めかしてそのまま鍋をさしだすので、 「そんな態度なら二度と貸してやらん。お湯でちゃんと洗ろてこい。」とどなった。 「小姑、こわい、こわい」 と言いながら、それでもすぐに洗いに行った。 夕食に刺身を食べていると覗きにきたので少し分けてやる。それから将棋を二番指したが私の勝ち。 竹原さんは外出を止められていて、一階まで車椅子でテレビを見に降りるのも婦長にとがめられ、すっかりしょげている。もう二三年生きたらそれでいい、ぽっくり往きたい、と、枕もとの紙箱にいつも経文を入れている。 二月六日(火曜日)晴れたり曇ったり 早朝鴨川へ行く。川の瀬で男が投げ網をしていた。引き上げると10センチくらいのハイジャコが獲れ、網の目にきらきらしていた。 今日は三食ともボンコリン。味の素を振ってみたが、やはりまずい。中林先生にどうにかなりませんか、とぐちをこぼす。「明日が済んだらしばらくないからもう少しがんばってください。」といなされた。 遠藤教授の回診の最中に礼子がくる。 昼から大沢君と将棋を指す。角落ちでも二番勝つ。 何度も上官になぐられたらしい竹原さんの軍隊時代の苦労話を聞く。田端さんも話に乗ってきて、同じような経験談を語る。吉村先生が風邪を引いて愛生会病院に入院されているとか。 二月七日(水曜日)晴れたり曇ったり 今朝は絶食なので、七時半から八時四十分まで一階でテレビを見る。 十時過ぎ香坂さんが見えてみんなに果物の差し入れをいただく。 前回便が残ったためだろう。今日の浣腸は九時と十時の二回だった。十時五十分頃から大腸ファイバースコープ。先週よりさらに良くなっているとのこと。前々回を百とすると八十%くらいの回復だそうだ。肝臓の近くまで届くのにひまが掛かって、十二時ちょうどに終わる。バイエックス(細胞採取)は三ヶ所のみ。大沢君が廊下で待っててくれた。 礼子も来て待っていた。鮒の子造りとイカの刺身を持ってきた。 十六時頃、社長が「平安殿」を持って見舞ってくださる。今度は「白い巨塔」を持ってきてあげようとのこと。 大沢君と山本君とで鴨川へ出かける。 中林先生の話では、直り方があまりにも急なので、診断が難しいそうである。しかし今の所は潰瘍性大腸炎の変形というのが有力だと言った。三ヶ月は掛からないが、ただ薬の投与の効果を見る期間は入院をしてもらう。その後の療養は家でもできる。アメーバー性ではないと思うし、工藤先生の話ではアレルギー性とも考えにくいとか。ただ完治は難しく再発の不安は残るとのこと。 竹原さんの兄さんの娘さんの婿さんがみやびホテルにいるという。どうやらフロントキャッシャーのOさんのことのようだ。だれもがちょっとした絆を求めている。 二月八日(木曜日)曇りのち晴れ 七時過ぎに鴨川から荒神橋、河原町通りを経て病院までを一周する。一階ロビーでスタジオ102を見てから病室に戻る。 入院生活スケジュール表を作ったので、明日から正式に実行する予定だ。 十時、シーツ交換。十二時過ぎに礼子が来る。椅子ぶとんと鰆の刺身を持ってきてくれる。 明日からと思っていたが、午後からスケジュール表に合わせて散歩などすることにする。 夕食前に、会社の五人が見舞いに来てくれた。輸送係のOさんが先日肺がんで亡くなったと聞かされた。大勢なので面接室へ移動する。Sさんは社長の本を持ってまた来ますと言った。 夕食後、スケジュール表にはないが、丸太町まで往復三十分かけて散歩する。 夜はロビーで「風鈴捕物帖」を見る。 二月九日(金曜日)晴れ 六時に起き出す。採血があった。しかし近頃検温が遅い。と思ったら、採便に行っている間に脈を取りにきたらしく、もう一度廻ってきたのは七時過ぎだった。 さっそく鴨川べりに出かけ、そこから今出川の賀茂大橋まで歩く。ユリカモメが三十羽ばかり飛び交っている。トレーニングパンツの若者が時おり追い抜いて行ったり、迫ってきたりする。河原町に出ようかと考えたが、排気ガスがむんむんしていそうだったので、鴨川ぞいに戻ることにする。そのままロビーでスタジオ102を見て、新聞配達にスポーツニッポンを一部もらい部屋に帰る。江川問題がまだくすぶっていた。 十二時前に礼子が来る。昨日変な電話が掛かってきたらしい。どこかの喫茶店から「沢村くん、いませんか?」と中学生らしい声で「学校さぼって映画見に行く約束したんやけど、一向に来ないから・・」保雄が学校から帰るなり礼子が詰問したが保雄もまったく憶えがないらしく、すぐに学校の先生に連絡する。先生も心配していろいろ調べた上でうちまで見えた。あまり要領を得ないが保雄の交友関係ではないらしい。妙な話だ。 十五時半ごろ久松さんが外科病棟に移っていった。大沢君と二人で付き添いがてら付いて行ったが、脳外科だけの男女混用部屋だった。我々の部屋より少し狭い感じだった。手術はまだ先なので久松さんとしては、まだ移りたくないと言う。 田端さんは北陸石川の人だ。なまりをむき出しにして、京都弁は嫌い、使わないと言った。雪国の方言はどことなく哀愁を帯びている。初年兵時代の辛かった思い出を語る竹原さんとその辺が違う。 十六時ごろ風呂を浴びる。今日も裸になってから手拭いがないのを思い出す。 十八時十五分ごろ、我々の病室に久松さんがひょろっと入って来る。 「男女混合はかなわん。」しかも若い人ばかりらしい。 「よろしいがな。」 「いや、やっぱり困る。」 男は久松さんともう一人二十歳くらいのと二人きりとか。あと四人が女だそうだ。 「下着を着替える時お互いに困るねえ。」 今日も河原町丸太町まで歩く。オーバーを引っ掛けているが、どうもパジャマの裾が通行人の目に付くらしく、時々じろりと見られる。 二十一時ごろ、一号病室の娘さんが、「お父ちゃん、お父ちゃん」といつまでも泣き止まない。かなり重症らしい。女性専用部屋だが、いつも父親が付き添っている。二十歳ぐらいらしい。寝たきりなのでまだ顔も見たことがない。泣き声だけ聞くと小学生のような声だ。 二月十日(土曜日)曇りのち雨 夜中から明け方にかけて、例の隣の娘が思い出したように泣く。「お父う、お父う」と言っているようでもあり、「痛い、痛い」と言っているようでもある。しばらく立て続けに泣いて、やがて寝入ってしまう。 今朝は今出川を越えて葵橋まで歩く。角が昔ながらの「種源」という花屋さん。 九時過ぎから雨が降り出した。天気予報通りだ。 詰所で手ごろな薬の空箱をもらってきて、折り紙のとんぼと蝶々を入れておいて、毎朝床掃除に来てくれる小母さんにあげる。二度も三度も「ありがとう」を連発してくれた。 久松さんの跡へ三十そこそこの頑強そうな鎌田さんが入室してきた。胆のう炎と胆石の疑いで検査中とのこと。 十一時からの館内散歩はどうしょうかと思ったが、傘を持って出かけることにした。屋上への出口まで来て、やはり履物がいることに気付き、部屋に取って返して、突っかけに履き替え、もう一度出かける。我ながら少し意地になっているようだ。 礼子は歩いて来たと言って椅子にぐったり座りこむ。保雄は外出を控えているらしい。大体用心深い方だから心配ないだろう。 中林先生が来て、来週一杯は間を開けて、来々週に腸レントゲンを撮る予定で、その結果で決めると言い残してさっさと行ってしまった。退院を決めるのか治療法を決めるのか分からない。 今朝から舌苔が出来ているので先生に言ったが、心配ないとのこと。 鎌田さんは三十八歳で、子供がなくて、近々妹の子を養女にするそうだ。 食事毎に竹原さんはため息ばかりついている。塩気のないおかずが食べにくいと不服を言った。 十八時を過ぎても雨足が衰えないので、院外散歩は中止する。スケジュール通りにはなかなかいかない。 十九時ごろ、また会社の四、五人が見舞いに来てくれた。運転手のSさんの奥さんが亡くなったという。会社から帰ってみたら布団の中で冷たくなっていたらしい。社長から「白い巨塔」をことずかって来てくれる。小さな活字の分厚い本だ。苦手だったが、それでも今日はテレビを見に降りずに、あちこち拾い読みしてみる。しばらくしたら、何時の間にか熱心に読み始めていた。 二月十一日(日曜日)曇り 建国記念日 検温が割合早く済んで、七時半にトンネル(病院の鴨川べりの裏木戸)に着いたら、扉がまだ開いてなかった。しかたなく正面から出て、河原町通りから荒神橋へ廻り、鴨川べりを丸太町橋まで歩く。昨日の雨は止んでいたが、どんより曇って霧がかかっている。視界は三百メートルくらいか。二十五、六の知らない娘さんがランニングで通りかかり、「おはようございます!」と挨拶する。驚いてこちらも「おはよう・・」と言いかけたら、もう遠くに走り去っていた。荒神橋に戻ってきたら、橋の袂で三メートル角の凧を組み立ててる親父さん。 「一人で飛ばすんですか?」と聞いてみたら、 「建国記念日だから。」と、もう一つ分からない答が返ってきた。 鎌田さん、カロリー制限されて朝からぶーぶー。田端さんは多過ぎるというし、人様々だ。 外出届を出しておいたので、九時二十分に部屋を出る。詰所の前で久松さんにばったり出会った。脳外科には個室はない、せめて男女専用に移りたいと申し出たそうだ。六十二歳といえどもそれはもっともだと思う。 うちに帰ったら、すみ子が「お帰り」と大きな声で出迎えてくれた。三人で朝食の間中に保雄と佐和子はまだ寝ている。陰気だった正月を取り戻そうとするように、すみ子が坊主めくりや百人一首をねだった。 昼過ぎになって佐和子が、続いて保雄が二階から降りてきた。保雄とは将棋をする。少しも上達していない。礼子は昨日の雨で洗濯物が溜まったと言っていつまでも手があかず、昼食も |