亡父の日記1
ある老人の日記から
その1
2003.11.05掲載開始 昭和四十八年(1973年) 一月一日(月曜日)曇りのち雨 元旦というのに階下は九時過ぎにやっと起き出した。どうも年々遅くなるようだ。私なぞ戦前は五時ごろにはもう起きていた。新年の挨拶もろくすかしない。たとえ親子でも畳に手を突き年賀を述べたものだ。ところが昨今は、盃を持ち上げて、「おめでとう。かんぱい!」などとやる。まあいいだろう。年寄りの意見など通るわけがない。 朝の雑煮は小餅を三つ戴きました。朝方から酒を飲み交すのも正月の特権である。といっても息子は下戸だから、お猪口二三杯でもう真っ赤になっている。 三時過ぎ、弟の幸次郎夫婦とその娘夫婦、合計五人が新年の挨拶に来てくれる。一家で太秦の撮影所近くに喫茶店を開いていて、そこが繁盛で、そのお陰か元気そうで明るい顔をしている。結構なことだ。わしへのお年玉にと酒の肴のスズコをいただいた。 弓子の里、香川県観音寺にはお母さんが健在だ。その森末様からごていねいな年賀状が届いていた。この人は字も絵も上手だから気後れするが、今から葉書を出すことにする。手元の漫画帳を手本に「三味線を弾く女」を描いて送る。三味線の先生だからちょうどいいと思った。 一月二日(火曜日)雨 年末から、孫の茂が私の居間に寝起きしている。前夜、先に寝ていた茂が十一時半頃突然目を覚まして、「寝られへん。」と言い出した。その果てに足をどたんばたんさせるので私も寝ていられない。元来臆病者ゆえ電灯の暗いことが心細いらしい。一時間ほどドタバタしてから私の寝間に入れてやると、やがて寝付いてしまった。お陰で今朝は私も寝不足ぎみだった。 仕方がないから今夜は電気を点けたままにしておいてやる。 子供たちが寝付いて、午後九時ごろから久しぶりに和夫、弓子と三人で花札をやる。これは長年、我が家において正月の恒例行事となっている。堅物のくせに和夫は運が強く、私は勝負事には弱かった。いつの年でも大抵負け込む私が、なぜか今年は一人勝ちした。丑の年男だから巡り会わせがよかったのかもしれない。一点一円賭けで、どうせお遊び程度だったが勝った方が気分がいいに決まっている。お陰で寝床に入ったのは夜中の一時過ぎとなってしまった。 一月三日(水曜日)晴れ 昨日に打って変わって今日は晴天だった。一家揃って伏見の稲荷さんに初詣に出かける。 京阪の稲荷駅を降りてみると大変な人出で、歩くのが困難な状態だった。 どうやらこうやら参詣を済ませて、古いお札を持って来ていたので、私は社殿の後ろのお札納めのある方へ向かった。ところが皆は社殿の下の方に行って待っていたらしい。心細くはなかったが、しばらくすると和夫が心配して探しに来てくれた。いつも青白い顔で胡散臭い息子がキョトキチョト探しているのを見ると、やはり嬉しかった。夕方頃やっと家路につく。今日は寒くて、風も吹き出し、御池通りを歩いていて、寒さがひしひしと身にしみた。 夕食はすき焼きで一杯呑む。寒い晩のお酒はひとしお旨かった。暮れに私が自分で錦市場へ行って買ってきた百グラム百七十円の牛肉なれば美味この上ない。おせち料理もいいが、すき焼きもまたよろしい。 夜は教育テレビで、「日本の三味線音楽」を、古来からの伝わり方、幾種類もの三味線の違い、弾き方などを説明してくれ、面白く見られた。 一月四日(木曜日)晴れ 昨日よりは寒さが和らいだ感じだが、これからが本番という季節だから、七十歳を越えている私は一層気を付けたいと思う。 三時半頃、ウニとスジコで一人で一杯呑む。よい心持ちだ。私もやっぱりこの年になっても、呑助の部類に属するのだろう。年寄りの楽しみだから呑みたい時に呑むがいいと思う。今年は心機一転してやりたいことをやり、呑みたい時に呑もうと思う。 昨日初詣に出ている間に、近くに住まう私の姉アキのご亭主、松本新さんが挨拶に見えたらしい。ご丁寧に今日も来られたのだろう名刺が二枚ポストに入れてあった。階下が折り悪しく誰もおらず、誠に申し訳なく悪しからずご容赦下さい。 株式相場の大発会の日である。年末には異常な上がり方をしてダウ平均が五千円を越えていたが、今日はまた五千二百円にまで上がっている。ほんとに、むちゃくちゃな世の中だ。 一月五日(金曜日)晴れ 弟のところの嫁方のおじいさんは、十二月下旬ごろ一度非常に危険な状態だったそうで、今は少し持ち直しておられるらしい。何分八十八才の高齢で、芳子さんも心配なことと思う。 昼から、弓子と子供三人とで大丸へ出かけ原田のおじいさんへお見舞にカステラを送り届ける。また、太秦に住む一番年長の姉上に栄太郎飴を差し上げるべく買って帰った。 この頃、腰が凝って困る。前々から背中の右寄りと決まっているので癖になっているようだから、一度医者に診てもらいたいと思っている。座ってばかりいるのが身体によくないと解っているが、どうも近頃不精になり、ちょっと寒いとコタツから出られない。一週一度の部屋の掃き掃除すら面倒だ。 テレビで伏見稲荷の三が日の人出が二百万人に達し、お賽銭九千万円を数えるのに一週間掛かると報じていた。 一月六日(土曜日)晴れ 昨夜は、寝しなには割合暖かかったので軽い目の布団で寝たが、夜明け方寒くなってきて、お陰で少し寝冷えをした。無理は禁物だと自分に言い聞かせ、散髪に行く予定を中止する。十二月末に行きそびれ、だいぶ髪は伸びていたが、年寄りの頭なぞ気にする人もいない。ちょっと体が冷えただけだから大丈夫だろうと、夕方になって銭湯へ暖まりに行くと、そこでばったり散髪屋のじいさんに会った。年頭の挨拶と髪の伸びた言い訳をしておく。 今夜も花合わせを誘われていたが、体の調子を用心して早めに寝ることにし、寝ながら浪花屋辰造の浪曲を聞く。 一月七日(日曜日)雨 夜中から降り出した雨が朝になっても降り続いていて何ともうっとうしい。雨が強いと、二階から見える小屋根の樋に穴が開いて二箇所で水が漏り、道路にしずくが垂れ落ちる。先日和夫に、家に不用の樋があるので、それを適当に切って接着剤で貼るように言っておいたのに、今だにしてくれない。全く呑気なもので、通路から見上げる位置だから不細工なばかりか、通行人にも迷惑である。和夫弓子ともに無関心で気にならないとは不思議千万だ。 夜は四チャンネルでアメリカ映画の「若獅子たち」を見る。元々戦争映画は面白くないのが多いが、これは違った。十一時十五分までたっぷり見てしまう。 一月八日(月曜日)曇りのち晴れ 今日から三学期の始まりで、朝から茂は小学校に、キミ子は幼稚園に張り切って出かけて行ったが、式だけなので程なく茂が帰ってきた。キミ子も母親と一緒に帰ってきた。 手帳に書き込んであるが、今日は嫁の誕生日だった。祝の刺身とシュークリームを買いに出掛ける。道を歩いていても春のように暖かく、穏やかな日差しで気持ちがよかった。正月八日ともなれば、皆遊び疲れてデパートも錦通りもひっそりしていた。 夕食の支度の最中に、母親にまとわりついていた末娘のミドリが、私の好んでいた湯のみを割ってしまった。ミドリは一年一ヵ月のやんちゃ盛りで無理はないが、はたの者がもう少し気を付けてほしいものだ。と言いたいところだが、やめておいた。 今夜のために買ってきた刺身の味はどうだろうと案じていたが、おいしかったので買った甲斐があった。そのかわり、大丸のフジ屋で買ったケーキが一つ六十円もしたのに案外まずくがっかりした。 一月九日(火曜日)晴れたり曇ったり 昨夜、町内の緑川様から三七日の法要に参詣してほしいと申し出られ、承諾したものの、私は元来町内の会合事は出るのが嫌でしかたがない。生まれつきの話し下手に持ってきて、どうも近ごろ人前で陽気になれない。仏事だから別段よいのだが、人の話に乗っていけない。懐の余裕がないと気持まで余裕がなくなる。この年で今更どうしようもない、諦めて、快活に振る舞うようにしたいと思いながら、人の性分はなかなか直せない。 久しぶりに散髪に行く。まだ年初めのこととて客人も少なく、比較的ていねいに仕上げてくれた。 夕方六時過ぎに竹川さん、木下さんが誘ってくださって一緒に緑川様にお参りに行く。ご詠歌を一時間以上も唱えてから、別席で幕の内で一杯頂戴していたら帰るのが九時頃になった。 一月十日(水曜日)晴れのち曇り 昨日から、幼稚園にキミ子を迎えに行く役を引き受けている。弓子の手助けになるのと、散歩がてらで私の健康にもよい。片道五丁として往復十丁は歩くので結構運動が出来る。少々面倒でも続けたいと思っているが、それもこの春にはキミ子も小学校に上るので、どっち道たいした日数にはならない。 大晦日に二階の掃除をしたきりで、今年にはいってからはまだ一度も箒を持っていない。もともと私は掃除は苦手でどうしてものびのびになってしまう。それでも掃除をしたあとの部屋は、すべて真新しくなったようで、スカッとして気持ちがいい。 四時前に風呂に行った。昨夜緑川さんとこでご一緒した田端さんがはいっておられた。二こと三こと言葉を交わす。 残念ながら十日恵比寿のお参りにもとうとう行かなかった。下の和夫たちは出かけたようだ。恐らく、えらい人出だったことだろう。 一月十一日(木曜日)晴れ時々曇り 四年ほど前に住岡病院で痔の手術をしてもらって充分直したつもりが、その後もしっくりしないで困っている。ひどく悪いわけではないが、たまに出血したりする。大便をしたあと長く歩いたりすると具合が悪く、便通のあった直後は外出しない方がいい。もう一度医者に診てもらおうと思っているが、通院して直るのならともかく、手術だけはもう嫌だ。最近は出血もなくなり、良いほうに向かっているようだ。今年から医療費が無料化になったので、悪いところはどんどん診てもらうつもりではいる。 三時ごろから牡丹雪が降り出した。明日の朝は積もるかもしれない。 夕飯は豚肉の水炊きだった。野菜がたっぷりで、橙の醤油に漬けて食べる。このやり方はすき焼きと違って、あっさりしていてちょっと乙なものである。これは弓子の里の四国独特の食べ方らしい。 一月十二日(金曜日)雪 今朝起きて見ると屋根に白い雪が積もっている。そして、なおもベタベタと雪が降り続いていた。気温もだいぶ寒い。 キミ子を幼稚園に送っていくのに、弓子はいつも小さいミドリを連れて行く。雪がちらついていたので、私がミドリの守りを引き受けることにした。ミドリは私になついているから可愛い。けれども、番をするとなると目を離すことができないので厄介至極である。 十時ごろから近くの歯医者さんの家でお話会があり、ミドリを連れて、向かいの奥井さんと一緒に出かけることになった。幼稚園へキミ子を迎えに行くのは私の日課だったが、今日は弓子に代ってもらった。 昼から、雪もおさまったので、厚生会まで出かけて行って、近ごろちょっと絵の真似事をやっているので、画筆を二本買う。細筆で果たして細い線が描けるのか心配だったが、使ってみなければ分からない。ついでに甘納豆も買って帰る。菓子はこれが私には一番の好物なのだ。 一月十三日(土曜日)晴れ 幼稚園の迎えの時刻、寒さが厳しくて厚地のオーバーを着込んだのに、寒さの方が勝っていて少しも重いと感じなかった。 四時前に風呂に行く。風呂の混雑が嫌で、いつも立て込まないうちに行くことにしているのだが、今日は土曜日で少し客が多いようだった。 土曜の午後八時になるといつも茂が二階に上がって来る。「人造人間キカイダー」を見るためだ。さらに八時三十分になると、テルブマンという漫画が始まり、茂は見ている間は傍から何を言ってもウワの空で大変なものだ。あまり教育にはなりそうにないから時間を制限して見せなければいけない。しかし言わなくても、九時になると下へ降りて行った。 夜食にぜんざいを頂いたが、相変わらず私は甘いものは苦手だ。 一月十四日(日曜日)晴れ 昨夜、寝た時には暖かく思ったのに、朝方に急に冷え込んだらしく目を覚ますと寒さが身に染みた。起き出してからでもまだ寒い。風邪さえ引かなければ私は、どちらかといえば夏より冬が好きだが、用心していても風邪を引きやすい体質なのだ。最近はうがいを始終するように心掛けていて、今のところ効果があると思う。今年の冬、風邪を引かなければうがいのお陰ということになる。 一月十五日(月曜日)雨 成人の日で祭日なのに朝から冷たい雨が降っていて陰気なことである。 昨日便通調整薬を飲んでおいたら今朝は便通があった。お陰で幾分体の調子がよい。便を溜めると胃の具合まで悪くなる。 下のテレビで「青年の主張」を半分まで見て二階に上る。 お年玉付年賀葉書の抽選会のニュースを二階で見て、メモに書き留めたが、全部は書き切れなかった。明日の新聞に載るだろうから調べるのは明日にする。 このごろ絵を少し勉強している。しかしなかなか巧くなれない。彩色が難しい。そのうち呼吸が飲み込めてきたら少しずつ上達してくるんだろう。 2003.12.01追加更新 一月十六日(火曜日)晴れ 医療費無料化第一回に腰の痛みを診てもらいに星崎医院に行く。レントゲンを撮ってもらったところ、意外にも背骨に歪みが出ているので、コルセットを作るからそれで腰を締めて治すより手だてがないと言われる。ちょっと驚いたが、放っておくとまだまだ悪くなって、しまいにはイザリにならんとも限らんと先生におどかされる。「二十二日にコルセットが出来上がるから」 そこまで言われては医師の言葉に従うほかはない。コルセットは風呂に入る時と寝る時は外せばよい。それから、しばらく通院しなさいとのことだった。年に一二度ギックリ腰になったり、常々腰が痛いのはそれが原因かと納得する。ちょっとうるさいことになったと思ったが、医者の言うことをきいて養生するしかない。万事無料だから、とことん治そうと覚悟を決める。私の病名は「変形性脊椎症」だと言われたが、家にある家庭医学の本に書いてあるのだろうか。 私のとこに来た年賀葉書は全然当たらなかった。せめて絵の描いてある葉書は参考までに画帳に貼り付けておいた。 一月十七日(水曜日)雨 昨日、星崎病院のレントゲン室に入る時暖房がなかったので、その際風邪を引いたのか、今朝は寒くて仕方がなかった。 家庭医学の本にも「変形性脊椎症」が載っていた。重症ならギブスで固めて安静しなければならず、軽症でもコルセットをはめなければならないと書いてあった。雨天で気が滅入りがちで、出掛けるのが億劫なので、今日は行くのをやめようかと思ったが、気を取り直し、昼前に星崎さんに行く。案外空いていたので、洋服屋のように胴回りを測ってもらい短時間に終わった。 長らく費やして描いていた「スケートをする女」の絵がひとまず完成したので画帳に貼り付ける。我ながらなかなかの出来映えだと思う。アメリカのオリンピック選手のカラー写真が手本となっている。 今年のみかんは甘味が充分あり、おまけに大豊作で値段が大変安い。したがって、つい沢山食べるのでビタミンが身に付く。と結構ずくめである。 一月十八日(木曜日)雨 うっとうしい天気が続くが、そのお陰で暖かく、一人者の年寄りにとって甚だ楽である。 今日は茂の参観日で十一時前に弓子は出かけた。ミドリの守り役を仰せつかる。なかなか寝ないので骨が折れたが、十一時過ぎにようやく寝入ってしまった。この子の寝顔はほんとに天使のようだ。 弓子は一時前に帰ってきた。そのため星崎病院には夕方からの診察時間に出掛けることになる。五時五十分ごろに行ったら既に患者が三人待っていた。でも案外早く済んで、六時半ごろうちに帰ると、和夫が久しぶりにもう会社から帰宅していた。聞いてみると、会社の残業もだんだん時間制限が厳しくなって、一ヵ月当たり三十時間までに止めるように言われるらしい。仕事は楽になったわけだが、金銭的には収入減だから痛しかゆしである。 一月十九日(金曜日)晴れ 裏の山中さんの若嫁さんが男子を出産し、養生のため里帰りしている。その祝の品を買いに、弓子は村越の奥さんと大丸に出かけた。 私は町内の会計をやってるので、竹川さんが婦人新年会の補助費を取りにこられる。今年は観劇会とのことだから経費が嵩むだろうと思ったが、例年通り一万円を出しておく。 昼前、星崎医院に行く。相変わらず混んでいたが、手当が早いのかすぐに番が回ってきた。院長も気楽な人で、私の場合も大した診断もせずに、ちょっと背中を押さえただけでおしまいだった。 夜遅く近所の姉がやって来て、伊勢神宮に日帰り参拝したのでと土産を戴く。私より三つも年上にもかかわらず元気なものだ。 一月二十日(土曜日)晴れたり曇ったり 天気予報が冬型の弱い寒気と報じていたが、大したことはない。 十二時前に星崎医院へ出向く。木下さんの若奥さんが子供を連れて来ていた。男の子が電気ごたつで火傷をしたとのことだが、電気ごたつでも火傷をするのかと、ちょっと怪訝だった。 十二時半ごろに済んだので、今日は土曜だから孫二人と一緒に昼ご飯が食べられると思っていたら、二人とも友達と約束があって先に食べて早くも外出したあとだった。 夕食は沖すきで、魚はあら骨だけのものだが、白菜菊菜の野菜がたっぷりで、おいしく戴きました。 一月二十一日(日曜日)晴れ 九時頃に起床。寒暖計を見ると十度を切っていた。しかし空は青空で穏やかな日である。 日曜の朝食は大概一家揃って戴くきまりになっている。その最中、弓子が、 「おじいちゃん顔が腫れてるけど、どっか具合悪くない?」 と聞く。別段自分では何も気が付かないが、強いて言えば胃の具合が多少悪い。星崎病院の薬を飲んでる精だと思う。 午後は劇場中継「月夜からす」を見た。水谷八重子は芸達者、全く巧いものだ。 相撲は千秋楽で、琴桜と北の富士の結びの一番はすごかった。最後一気に押し出して十四勝一敗、多分横綱に昇進するだろう。 東寺の初弘法に行きたかったがとうとう行けなかった。 夜「死刑台のエレベーター」という映画を見たが、良いと言われるほど良いとは思わなかった。 一月二十二日(月曜日)晴れたり曇ったり もう一年も前から庭のもちの木に貝殻虫がついて葉が枯れやすくなり、なんとも可愛そうだ。この木は太秦からここに転宅する時に植えた木で、昭和十四年頃だからもう三十四年になる。日が当たりにくく、上へ上へと伸びて行ったものだから、貝殻虫を手で取ってやることも出来ず、思案に暮れる始末である。撒布する薬があれば使ってくるのだが、そういう薬を売っている店の見つからないまま放ってある。 十二時前に星崎医院へ行った。町内の木下さんのおばあさんが孫を連れて来ておられた。おばあさんの話では、やはり私と同じ病名で去年七月コルセットをはめるように言われて着けていたが、窮屈で、今は取り外してうちに置いてあるとのこと。しかしまあここまで来た以上、私は出来るだけ長くコルセットを着けて、腰の良くなるのを期待するつもりだ。 二階表側の屋根の樋が二箇所穴があいているところがあるが、私では手が届かないので、和夫なら背も高いし若いから出来ると思うので、前々に頼んでいたのだが、ようやくのこと今日、会社から帰ってからやってくれた。古い樋を手頃に切って接着剤で引っ付けたのだから、うまくいったかどうか雨が降ってみなければ分からない。外の道路の上なので、実際不細工なのだ。 一月二十三日(火曜日)晴れ 八時四十五分に起床。案外暖かいし無風に近い。晴れ晴れしたお天気で気持ちがいい。私のいる二階の奥の間で、十時ごろ気温十六度だった。 いよいよ今夜星崎医院で約束のコルセットをはめる日である。午後八時に出かけたところ大勢患者が来ていて大分待たされた。やっと別室に通され、コルセット製造所の技術者が来ていて先生と二人掛かりで、体に対する合い具合を調べてくれる。完成するのは三十日火曜日で、もう一度ここへ来てようやく装着の運びとなるのである。コルセットを当てがってもらっている最中は何とも嫌な感じで、亡き妻愛子のギブスを思い出し、涙がこぼれそうになった。 星崎医院から帰ったら、弓子に風呂に早く行って来るように言われ、風呂に行った。十時前は満員で体を洗うところもないくらいだった。 一月二十四日(水曜日)曇りのち雨 朝から曇り空で風も少し強く気温も幾分低いようだが大したことはない。 十二時前に星崎医院へ行く。注射をしてもらい薬を貰って帰ってくる。 昼のニュースでは、ベトナム和平協定に仮調印したと、ワシントンのニクソン大統領が演説していた。本調印は二十八日であるが、長年の戦乱が終結してめでたいことである。 雨が降りだし一日中しとしと続いた。外へ出る気にもならなかった。先日和夫に折角直してもらった二階の樋も、付け方がまずいのか雨が漏って、下の方へ細い水が垂れている。何かいい方法はないものか。 一月二十五日(木曜日)晴れのち曇り 株式相場が昨日のベトナム和平で、一気にダウが九千円と天井知らずの上がりようである。政府はただ見過ごしているのか、実にけしからん。 午後、区役所に療養費支給申請書を貰いに行った帰り道、厚生会でエビオスを買う。八百二十五円と一頃の倍近く上がっている。ついでに甘納豆も買った。二時半から幼稚園でキミ子の身体検査があり、弓子が留守になると聞いていたから早目に帰ってきた。 四時半に銭湯に行ったが、この時間なら混んでいないので気分が安らぎ、体の調子がよくなるから不思議だ。 一月二十六日(金曜日)晴れ一時雨 老齢福祉年金一万二千二百円を郵便局に取りに行った。十二時少し過ぎた昼休み中だったが、年寄りということで気を利かせてくれたらしく、直ぐに出してくれた。私は食費住居費は息子まかせなので、年金はすべて小遣いのようなものだ。申し訳ないので、できるだけ税金の無駄遣いにならないように心掛けている。趣味に画材を買ったり、甘納豆ぐらいは許されるだろう。散髪代風呂代は自分で払っているし、あとは孫のお年玉ぐらいだった。 今日の空模様は晴れたりしぐれたり不規則だ。体の調子も風邪気味で、夕食後鼻水が出だしたので早く寝ることにする。 一月二十七日(土曜日)晴れ 昼過ぎ、田中首相の施政方針演説があったが私には関係がない。福祉問題は関心があるが老齢年金は少ししか上がらないので、むしろ腹立たしい。でも、貰えるのだから有難く思わなければならない。 夕食は豚肉の水炊きだった。大好きなので、何度あってもいい、あっさりして旨かった。 今夜も寒気がするので早く寝ることにする。孫の茂も近頃は隣の部屋で自分一人で寝てくれている。 一月二十八日(日曜日)晴れ 朝から、二階の物入れにしている居間を、勉強部屋にするべく、道具類を奥の間に入れたり、縁先の廊下に積み重ねて置いたりして、ようやく茂とキミ子の部屋が出来た。今年からキミ子が小学校に上がるが、階下の表の間に勉強机を並べた程度では狭いので、和夫夫婦が知恵を絞ったのだ。私も協力して、いらない昔の道具類は思いきって捨ててしまうことにする。来月十日に大型ごみを取りに来てくれるので、その時に出してしまうことにしている。大きな支那焼きの火鉢があったがもう使うこともないだろう。時勢が変わったのだからしようがない。みんな一生懸命で昼飯は一時を過ぎてしまった。 三時過ぎから、下は夫婦子供連れでキミ子の勉強机を買いに出かけた。その間ミドリは昼寝をしているので私が面倒を見ることとなる。四時ごろに目を覚ましたがミドリは別に泣くこともなく、私の側で一人で遊んでくれた。皆が帰ってきた六時ごろまでミドリの守りを続ける。 一月二十九日(月曜日)晴れ 八時半起床。少し冷え込んでいて、奥の間で十度を割っていたが、空はよく晴れていた。 いつも通り昼前に星崎医院に行く。いよいよ明晩はコルセットをはめる日だと先生にも念を押された。薬が切れているので、帰りに貰って帰る。 テレビでは社会党の石橋委員長が代表演説に立ち、年金問題を取り上げて、六十五歳以上月一万円、七十歳以上月二万円を支給せよと迫ったが、田中首相の答弁は曖昧で遺憾至極である。 一月三十日(火曜日)曇りのち晴れ 弓子はミドリを連れて市民病院に、茂の小児喘息のお薬を貰いに出かけた。弓子の市民病院通いはもう数年に及ぶ。小児喘息の発作は茂の生れた年から始まっている。 十時ごろ、四国から送ってきた蒲鉾を持って姉のうちに出掛ける。亭主は風邪で寝ておられたが、大したことはないそうだ。姉上に会って、新年の兄弟会を今週土曜日に太秦相川のところでやることについて色々相談した。 帰宅後、幼稚園への迎えには私が久しぶりに行った。キミ子の友達二人が付いてきて、わが家で遊ぶというので、一緒に帰ってきた。私は放っておいたが、弓子がようやく一時過ぎに帰ってきて、すぐにキミ子の友達のうちへ断りの電話を入れていた。さすが母親だ、よく気が付く。 夜八時、星崎さんにコルセットを付けてもらいに行く。思っていたより案外柔軟なコルセットで、これなら何とか辛抱できると思うが、しばらく様子を見なければ何とも分からない。先生の言うには、これさえ付けていれば注射や薬も飲む必要がなく、通院しなくてもよろしいとのことであった。 一月三十一日(水曜日)晴れ 今日からコルセットを毎日続けて嵌めることになったが、やはり窮屈でしかたがない。しかし、辛抱して使用するつもりだ。 昨日茂に買いにやらせた絵の具用の水入れの蓋が開かないので、自分でサカエまで行って取り替えてもらった。そのあと東洞院の中京区役所に立ち寄って、老人用医療費請求書の用紙を貰って帰ったが、提出するのは四条大宮の福祉事務所の方だと言われた。無料とはいえ、もっと簡単に出来るようにしてもらいたいものだ。 午後七時。二階の寒暖計が十六度を指している。お陰で暖房を消しても少しも寒くなかった。 夜、テレビ文化特集の挿絵画家「竹久夢二」は興味深かった。 2004.01.01追加更新 二月一日(木曜日)晴れたり曇ったり 毎月ついたちは、家のあちこちに祭ってある神棚の水を綺麗に汲み替えてお光をあげ、仏壇にもお光をあげて線香を立てる。一と月間の家内安全をお祈りする習わしになっている。ところが和夫はこういうことは一切やらない。無信心にも程がある。むしろ嫁の弓子の方がよく手伝ってくれた。 十二時過ぎ、星崎医院に老人医療費請求書を持って行く。来週の七日に取りに来るようにとのこと。帰りに郵便局に寄って少々お金を引き出す。 ニチイデパートから組み立て式の二段ベッドと段通などが届いて、子供たちは大喜びである。今夜から茂とキミ子は二階でベッドに寝ることになった。さぞ喧しいことだろう。 二月二日(金曜日)雪時々晴れ 雪がちらつき節分の前日にふさわしい空模様である。 コルセツトを十二時半ごろに着用した。朝起きてすぐ着けるのがよいのは分かっているけど、夜具を押入れに仕舞ったり、体を動かすことを考えたら少しくらいあとになっても仕方がないだろう。まあ気長に考えないと、続かなければ何にもならない。それよりなるべく長く着けるつもりである。 ニュースによれば、株式相場が四日間連続の暴落で、ダウが五千円を割り込んだ。大暴騰のあとの当然の結果といえる。 子供達があんなに喜んでいた二段ベッドだが、どこか不良というので昨夜はまだ使用していない。 二月三日(土曜日) 晴れ 今日は節分である。毎年のことながら、夜に家中で豆まきをやる。今年は大豆が暴騰していて、さぞかし撒く量も少な目だったのだろうが、私は兄弟会があるので豆まきには参加しなかった。 新年の兄弟会が遅まきながら太秦の相川の宅であった。ここの姉上に、東京空襲で京都へ避難して来て今は桂に住む弟夫婦、うちの近くにもう何十年と住まっている下の姉とその旦那、大阪の戦災で焼け出され姉を頼って引っ越してきた妹、と私の七人で夕食をともにして積もる話を交し合う。この家の姉上はそろそろ八十に手が届く。長い付き合いである。 午後九時半ごろ帰宅した。和夫はまだ会社から戻っていなかった。 二月四日(日曜日)晴れ 日曜で下が起きないので、私も床離れできないまま、九時過ぎにやっと起きた。 子供の二段ベッドの取り替えを頼んでいたのが今日届いたので、いよいよ今夜から茂とキミ子は二階の「子供部屋」で寝ることになった。その分私の領域が狭まったが、子供達が成長したのだからそれも仕方がない。キミ子の勉強机と本棚が、高島屋から配達されてきたので、和夫が早速に組み立てた。キミ子は大喜びだった。小さなミドリまでがキャッキャッとはしゃいでいた。 二月五日(月曜日)雨のち曇り 先の兄弟会の時に貰ったお菓子は非常においしい。甘さが抑えてある感じのあずき粒の入った羊羹だった。しおりを見ると、室町上立売の俵屋吉富だから値段も割合高いらしい。 子供たちが学校と幼稚園に行ってる間に、二段ベッドの下段に寝転んでみる。あまり寝心地のいいものではなかった。上の段はなおさらだろう。若い時ちょくちょく北海道へ商売にでかけたが、その時の寝台車を思い出して、枕の下からカタンカタンと音がしてきそうな気がした。 夜中から降り出した雨が朝のうち続いていたが、午後からはうっとうしい曇り空で、気温が高く、午後三時に二階奥の間で二十六度というのは異常だ。暖房は無論消して、裏のガラス戸を少し開けておいても寒くない。地震でも起こらんでほしいものだ。 二月六日(火曜日)雨のち曇り 朝から小雨が降っているので、キミ子の幼稚園の送りに、ミドリを置いて行くからと守を頼まれた。このため朝食が少しずれてしまった。生活のリズムとかに私はうるさい方だが、むろん文句の言える立場ではない。 昼から雨のあがった隙を見付けて郵便局に行き、そのあと厚生会に回ろうとしたら、途中からまた雨がポツついてきたので中止して家に帰る。 四時前に風呂に行く。雨のせいか誰一人まだはいってなかった。湯もまっさらで足の指まで透き通って見えた。 二月七日(水曜日)晴れ 朝からよい天気でその分大分寒くなってきた。私は前からうがいを日に四五回している。これが相当効果があるように思う。風邪を引きかけても翌日になれば直っているのはうがいのお陰だと思う。 午後、老人医療費請求書を出しに四条大宮の福祉事務所に行く。行きしなも帰りしなも阪急に乗ったが、片道三十円で市バスより割安である。四条烏丸からは市電で御池まで乗るつもりが、途中の烏丸三条で降りてしまった。ちょっと損をしたことになる。 夕刊に市長の談話が載っていたが、老人福祉の一環として七十歳以上の年寄りは市電市バスを無料にするよう働きかけていると書いてあった。大変結構だが果たして実現するかどうか。 二月八日(木曜日)晴れ 今朝は今年最高の寒さとなり日中も余り気温は上がらないそうだ。 茂が風邪ぎみで、朝方六時ごろ大分咳が激しかった。それで私の桜の模様の掛け布団を茂に回してやった。今夜から暖かく寝ることと思う。 午後から散髪に行った。帰りに足を延ばして、厚生会で甘納豆を買って、三時半ごろ帰宅した。 夕飯のちょっと前、ミドリが奥の方の階段から落ちた。少々泣いたが大した怪我もなく心配はないらしい。どういう訳かすでに会社から戻っていた和夫が守をしていて、ちょっと目をはなしたスキのことである。私でなくてよかったと思う。 二月九日(金曜日)晴れ 深夜二時ごろだった。ふすまの外で、「おじいちゃん」と、かすかな声が聞こえ、それで目を覚ました。キミ子だととっさに思う。起き上がってふすまを開けてやった。暗いので寝られないと言う。とりあえず仕方ないので布団の中へ入れてやると、じきにキミ子は寝付いてしまった。小さくても寝付くとかなりあばれるので、窮屈であまり有難くはなかった。 七時半ごろパパが起こしに来てキミ子は下へ降りて行った。 弓子がリンゴを買って帰った。サカエのちらし広告に載っていた高級リンゴで、一つ二十円で特売しているらしく、そのうちの二つを私に持って上がってくれた。早速に戴いてみると実に旨い。リンゴでもこんな旨いリンゴは食べたことがない。宣伝の世の中ながら安くて旨いので驚いた。 昨夜半二段ベッドで寝るのがこわいと言ったことで和夫に強く諭されて、キミ子も一応今夜はベッドに寝ることになった。 二月十日(土曜日)晴れ時々曇り 夜中にキミ子がまた起き出すのではないかと心配したが、つつがなく朝までベッドで眠ってくれた。やはり和夫が強くキミ子に言い聞かせたのが効いたのだろう。 ニュースで外国為替市場の閉鎖が大蔵省から発表されていた。また世界中にインフルエンザが拡がっているらしい。 午後散歩に出た。サカエに入る。一通り見て歩いたが、格別安いものもなかった。ボールペン一本四十円で買う。それからニチイへ回ったが、これまた大したことはなかった。帰りに宝くじを買おうと思ったが売り切れだった。 二月十一日(日曜日)曇り 九時に起床した。少し遅いが、日曜は下の起き方に合わせて行動することにしている。 しばらくして竹川さんの健ちゃんが二階へ来て遊んでいたが、何かの拍子に健ちゃんの手がキミ子の目に当たり、キミ子は泣きながら下へ降りていった。それを和夫が、「少しくらいのことで大げさに泣くな。」とたしなめても一向に泣きやまず、痛い痛いと駄々をこね続ける。弓子が心配して横から口を挟んだ。そのことが和夫の気に障ったのか、「人の言うことにいちいち反対するな。」と顔色を変えて怒るので一悶着した。和夫は自分本位なところがあり、常はおとなしいのに、一つ間違うと我を張る悪いくせがあるので困る。とにかく一応は治まったが、傍で聞いている私も嫌な感じがする。 午後から皆は散歩に出かけた模様であるが、私は絵を描いて時間を過ごした。「鹿」の絵がなかなかうまく描けない。完成するのは何時のことになるやら。 今夜は寒さが和らぎ、石油ストーブを消しても別段寒さを感じない。 二月十二日(月曜日)晴れ 朝から三時過ぎまで、孫のカラー写真を見て絵を描いていた。絵の具の付け具合がなかなか難しい。あまり根を詰めるといけないのでそのあたりで中止した。 午後三時半現在十三度で、石油ストーブは点けていない。 夕刊によれば、外国為替市場は引き続き閉鎖されている。 四時過ぎ銭湯に行く。あとから、甥の正が入ってきたが、相変わらず挨拶もせずに知らん顔をしている。職にも付かず全く精神状態が普通ではない。私の妹ユキも十年前に亭主に先立たれ苦労なことである。しかも長男は障害者で生活能力がない。主人の遺産で日々を食いつないでいるのだ。なんとか助けてやりたくても私にはなんの力もない。 夜は芸能百選、常盤津「うつぼ猿」を見る。 二月十三日(火曜日)晴れ 敷布団がほころびていて、朝晩上げ下げするごとに手のあたりに綿がはみ出してくる。思い切って今朝、糸で応急のつづくりをした。これで当分はいけそうだ。 朝は少し寒くてストーブを点けたが、昼からになって暖かくなったのでストーブを消す。 二時半ごろから散歩がてら錦市場を見て歩く。気の付いたことに、柳馬場の木村精肉店のテキ肉がひところ一切れ二百円だったのが、今見たら二百五十円と五十円も値上がりしている。大丸の一階を一渡り見てから、次に東洞院通りの児童公園でベンチに腰掛けて一服する。 御池通りに出て横断歩道を渡ったが、私一人だけ渡るのに大勢の車が停車しているので、何だか気の毒のようで困った。ところがその御池通りを渡りきったところで、老人が車にはねられたらしく歩道に寝かせてあった。驚いて居合わせた木下さんの奥さんに聞いたところ、車の方が猛スピードで走って来てそれにはねられたらしい。私が通りかかった二三分ほど前の出来事で、まもなく救急車がやって来て、怪我人をつい目の前にある日赤分室に運んだ。私は時々御池通りを渡るのに、車の隙を見て横断歩道のないところを平然と渡るのだが、これからは成るべく信号のある横断歩道を渡るようにしなければいけないと思った。 二月十四日(水曜日)晴れ 米国がドルを10%切り下げた。日本も今日から変動相場制にして外国為替市場を再開する。 二時半ごろから散歩に出かけて、河原町通りの古本屋でスクリーンという映画雑誌を買った。新本なら三百円以上するのが八十円で売られていた。内容に色刷りの写真がたくさん載っていて、これを絵の題材にする積もりだ。別に商売にするわけではなく、趣味で下手な絵を描くのに法律違反ということもなかろう。ただ、古本屋のおやじが、眼鏡越しに私の顔をじろじろ見た。 二月十五日(木曜日)晴れ 今朝は八時四十分に起床。室内の温度計は十一度と案外に寒いことが分かる。 昼のニュースで為替相場は変動相場制になって、二百六十五円の円高である。これは16%以上円を切り上げしたことになり、いよいよ深刻である。 十時頃に大便に行った。排便の時少し気張ったためトイレットペーパーに血が付いた。これは過去にもあったし、やはり、長く気張ると具合が悪い。手術のことを思い出すと気が滅入るが、そうは言っても一度住岡病院かどこかで見てもらわなければなるまい。今日明日と言うわけにもいかないから、ちょっと様子をみようと思う。 2004.01.15追加更新 二月十六日(金曜日)晴れ 昨日の株式市場は百二十八円のストップ高で終わっている。政府は何をしてるんだろう。しかし株はもうやってないし、私には関係ないことだ。あまり気にしてもしようがない。そんな話題は息子の前では禁物だ。 今日も暖かく、三月中旬の気候である。このまま春になれば結構過ぎるが、また寒い日がやって来るのだろう。 昨日三快錠を飲んだので便通があった。しかし今日も引き続き紙に血が付くので不愉快である。やはり医者に診てもらう必要があるようだが、こちらの体の都合もあるのでタイミングを考え中である。 珍しくキミ子が九時に寝床に入った。茂はいつも九時前に就寝してすぐ眠ってしまうのに、キミ子はどっちかというと寝付きが悪い方である。 二月十七日(土曜日)曇り 暖かいけど曇っていて何だかうっとうしい。朝食のあと二階の掃除をする。軽い運動になるので毎日すればよいとは思うが、そういうことが苦手で、あまりする気がしない。何だか大層に思うのだ。簡単に考えてやれば、体の運動といっしょに部屋もきれいになるのだから一石二鳥ということだ。 午後からポツリポツリと雨が降り出した。外出しようと思っていた矢先だったが中止せざるを得なかった。予報では明日午前中まで降るらしい。 二月十八日(日曜日)雨のち曇り 朝から雨がしとしとと降っている。小屋根の樋の漏れが雨の降るたびに気になって仕方ない。息子は一向に直してくれない。夫婦とも気にならんらしい。まことに結構な性分である。似たもの夫婦とはこのことだ。 昼からになって雨は止み曇り模様になった。下の夫婦と子供たちは一緒に大丸へ行った。 留守中卵焼を自分で作り、一杯呑んだが余りうまくはなかった。 四時ごろ太秦の杉本姉上が見えて、お菓子など戴く。お話しによれば、月々出して貰っている長男よりの補助金三千円を今後は都合悪く出せないと、昨日達郎の嫁さんが来て申し出たらしく、長男夫婦の薄情極まることであるが、二十五日に等持院に住まう次男靖男の宅に行って話し合いをするらしい。同情に堪えず心労のほどお察しする。 階下も帰って来たので、姉上に夕飯はうちで共に、くつくつ煮立つおでんで食べてもらい、八時ごろ帰られた。烏丸の市電停留所までキミ子と連れ立ってお送りする。 二月十九日(月曜日)雨 大分汚れていたので、掛け布団のネルの掛け襟を新しいのと取り替えた。普通なら針仕事は男には出来ないことだが、永年一人暮しをやってきたお陰で針仕事にもなじんでいる。鬢の油で針を撫でると布の通りがよいことも、母親のを見よう見真似で知っている。針に糸を通すのも息子の和夫には負けない自信がある。糸目も揃っていると弓子が感心していた。 午後便所に行ってまた少々出血した。いよいよ思い切って明日でも住岡病院へ診てもらいにいくことに決心する。 二月二十日(火曜日)曇り 昨夜村越様のお婆さんが病気静養中のところついにお亡くなりになった由、今朝竹川さんよりお知らせがあった。永いこと寝たきりで随分辛かっただろう。過日お聞きしたところによると、もう食事もはいらず、水ばかりを飲んでおられたらしく、やはり寿命が尽きたのだろう。今夜はお通夜に行くつもりだ。 午後七時前、町内会長の木下さんが誘いに来て下さる。亡骸は棺に納められ祭壇に祭られていた。間もなく法主の読経が始まり、三十分ばかり続いた。私は幼時より商家で育ったゆえ正座は慣れていた。若い会長はやはり苦痛らしく、中ほどであぐらを組んでしまった。滞りなく済んだあとでお供養を戴き、八時半頃帰った。 二月二十一日(水曜日)晴れ 久しぶりの晴天で少し寒気が加わってきた。 今日は故村越よね様のお葬式で、私は帳場に回り会葬者のご芳名を書き留めた。思ったより会葬者は少なかったが、なかなか行き届いた葬儀で喪主のお気持ちがこちらにも伝わった。 やはり気も使うので少々疲れ気味で、終わったあといつもより長く昼寝する。 天気はよかったが、今日はどこへも散歩に行く気がせず、うちに引きこもって過ごした。 二月二十二日(木曜日)雨 朝からじとじとと雨が降っている。村越様の葬儀が昨日でよかった。いくら悔やみ事でも雨天は主催者にも参列者にもよくない。 弓子がキミ子を幼稚園に送りに行くのに、雨の日は私がミドリの守をすることになっていたが、今日は連れて行くというので、止めたけど聞かずに連れて行った。まああまり気を使わずに放っておいた方がよかろうと思った。 十一時の「今日の健康」で耳鳴りについての話を聞いた。私も耳鳴りがするので注意して聞いていたが、私のは老人性耳鳴りで、難聴が伴っていてなかなか少々のことでは直らないらしい。 葬儀手伝いなどで痔の医者へもまだ行けず、思案中である。 二月二十三日(金曜日)曇り 雨はやんでいた。曇りで暖かい。十時に二階は十五度で、暖房の必要はない。 昼から外出して、まず郵便局で町内の自治会預金から一万円を引き出す。それから二条商店街の洗濯家に寄ってワイシャツのクリーニングを頼む。一枚八十円とは高くなったものだ。帰りに大福餅を買って帰って、一つずつを皆で食べ、残りは夜のおやつに食べるつもりだ。 二月二十四日(土曜日)晴れ時々小雪 今朝は意外に寒く十一度だった。前夜寝る時は暖かかったのが、今朝九時半ごろには小雪がちらつき出して、石油ストーブを点けた。 午後四時頃から外出して、大丸の五階の画廊を見る。一箇所は複製名画の展覧会で、売約済みの札が三つも貼ってある人物画は二万八千円だった。もう一つは日本画展で、さすが本職だけあると思った。私も本職の先生に手ほどきを受けなければとても駄目だと思う。 帰りに厚生会に寄って甘納豆を買った。甘納豆はミドリが好きで、与えるとうまそうに食べ、食べ終わるとまた紅葉のような手を差し出す。 二月二十五日(日曜日)晴れ 今朝は八時半に目覚めたが、目が覚めた時から布団の中が何となしに寒むざむとしていた。起きてみるともっと寒く、寒暖計が八度と、今年最低の寒さであった。しかし天気は至ってよく、陽が当たり、屋根に少し積もった雪はたちまち消えてしまった。 午後に相川夫婦がやって来た。原田のお爺さんの病気がここ数日ちょっと持ち直した様子だが、高齢なだけに油断はならないとのことだった。トックリ型のセーターを、一度着用したが毛糸がゴツゴツするのでと、私にどうかと持って来てくれた。ちょっとゴワつくが、とても暖かそうでよさそうだった。 相川夫婦はこのあと上ん町の姉のうちに行くとのことだった。 二月二十六日(月曜日)晴れ 今日はまた昨日と打って変わって暖かである。今年は寒い日があっても長続きせず、すぐまた暖たかくなる。寒さがいつまでも続くよりはいい。 午前中、茂の喘息の薬を貰いに弓子は京都病院へミドリを連れて行った。十二時四十分頃に帰って来たので、疲れているだろうと思い、キミ子の迎えは私が行った。久しぶりの迎えなので、暖かくもあるし運動にもなるので少しも苦にならなかった。キミ子も人が変わって嬉しいのか、家まで私の手を握ったままだった。 夕方久し振りに錦市場を一回りしたが、別段食べたい物もなく、なにも買わずに帰って来た。 二月二十七日(火曜日)晴れのち曇り 思い切って痔の診察に十時半ごろ出かける。その結果やはり肛門の中程が腫れていて、ごく小さいイボとなり、それが時折切れて出血するらしい。注射と肛門の手当を受ける。当分通院してくれとのことだった。住岡病院は相変わらず盛況で、入院患者が多数あり、ほとんど満員状態である。入院代も、この前が室代は七百円だったものが今は千二百円に上がっており、しかも一室に二人ずつ入れているのには驚いた。 午後からは暖かくなり、明日は雨模様とのことだ。 前夜は妙な夢を見た。熊が私の寝床にはいって来て一緒に寝るのだった。夢としては変わった夢だが、逃げようとすれば熊の大きな手が殴りかかってきそうで、どうすることも出来ない。その時目を覚ました。今夜はそんな怖い夢を見ないように念じながら、十一時前に就寝した。 二月二十八日(水曜日)曇り 朝から曇り空で、ちょっと晴れ間があるかと思うと、すぐまた曇ってしまう。うっとうしい日であるが、今日は私の誕生日だ。はや七十二才を迎えたわけである。 昼前に住岡病院へ行く。帰りに、うちに帰らず、バスで中新道へ家賃を取りに行く。壬生に小さな持ち家がある。帰路、大丸前でバスを降り、錦市場へ回って沖すきの魚のみを買って帰る。 昼食は外で済ますつもりだったのをすっかり忘れてしまって、うちで食事をした。その上固定資産税を払うことも忘れていて、今日が納付期限なので、食後郵便局へ納めに行く。 私の希望で、夕食は誕生祝ということで沖すきにしてもらい、一杯戴くことになる。お祝いのケーキも用意していてくれた。 かねてから描いていた、「孫たちが山道をハイキングする絵」が今日で一応出来上がったので、画帳に貼り付ける。すなわち誕生日に出来上がったわけである。。 2004.02.01追加更新 三月一日(木曜日)晴れ 十一時過ぎ住岡病院へ行く。患者が多く時間が掛かったが昼前に済んだ。帰りに深田眼科へ寄ったが受付が十一時半までで今日は行けなかった。 昼は前夜の沖すきの残りがあったので、炊きながらご飯抜きで出来るだけ食べた。 滞っていた部屋の掃除をする。 四時過ぎから銭湯に出かける。風呂から上がったところで甥の正がやって来た。相変わらず知らん顔をしている。全く困った人間である。まだ働きもせずに家にのらくら遊んでいるのだろう。いい気なもんだ。ユキも甘やかすのもほどほどにしないといけない。男親がいないとこうなるんだろうか。出口でいつも行く散髪屋のお爺さんにばったり出会った。彼は私より年上だがなかなか元気だ。 このあいだ弟が来た時トックリのセーターをくれたのを、夕方から少し寒くなったので着て見た。少し大きいけれど暖かいセーターだ。寒い時に愛用することにする。 三月二日(金曜日)晴れ 朝起きがけに温度計を見ると十度を割っていた。今日もトックリのセーターを着た。格好は悪いが暖かいことは間違いない。 大便の時ちょっとまた出血した。医者に通って薬を飲んでいるのにどうしたことだろう。十一時過ぎに病院へ行く。出血したことを話したら注射をしてくれた。 昼から深田眼科へ行くつもりだったが、今日は痔の出血があったので一切外出を中止した。来週にでも行くことにする。このごろ昼寝することが多くなった。 夜八時から「赤ひげ」を見る。なかなか面白いドラマで感動を覚えた。 三月三日(土曜日)晴れたり曇ったり 今日は子供たちの喜ぶ雛祭である。昨日慌しく弓子がお雛さんを飾っていた。昔の京都人は、この日の夕食には特別に雛段の前で家族打ち揃って、剥きしじみの炊いたのや鰈の焼いたのとか、いかの鉄砲あいなどのご馳走をしてお祝いしたものだ。今は息子夫婦の時代になって、それらしいことはしない。 十一時四十五分頃から住岡病院へ行く。時間が少し遅かったので診察終了の掲示が出ていて少し驚いたが、どうにか治療してもらった。治癒するのが長引くらしく、相当長く通院しなければならないと言われた。 今夜の夕食は弓子の考案で子供ランチにしてあった。チキンライスの上に日の丸の旗を立てて雛祭を祝ったのだろう。 三月四日(日曜日)晴れ キミ子の、「おじいちゃん」と言う声がするので目を覚ました。キミ子が枕元に立っている。とにかく布団の中へ入れてやったが、訳を聞いてみると、なんだか知らないがガタンという音がして、それで怖かったので出てきたらしい。入れて寝かすのはよいけれど、がさがさするたびに風がは入ってくるので、寒くて寝心地が悪い。 今朝になってよく聞いてみると、二段ベッドの上の段に茂が寝ていて、電気こたつを足で蹴ったのでコタツが上から落ちて音がしたのが真実だった。 十時ごろ、和夫は子供三人を連れて散歩に出かけた。その間に弓子は美容院へセットに行ったようで、昼食もうどんを和夫が作ってくれた。 三月五日(月曜日)晴れ 八時半ごろ起床。やや寒さを感じた。 キミ子の幼稚園で今日お遊戯の会があるので、弓子はミドリを伴って十二時ごろまで幼稚園に行き切りである。私は十一時前に住岡病院へ行く。今日は弓子より早く帰らないと弓子が鍵を持って出てないので、いつもより少し早い目に出かけた。幸い早く済んで十一時半には家に戻っていた。十二時過ぎに弓子とキミ子が帰ってきた。昼からまた今度は小学校へキミ子が入学するについての説明会にキミ子と出かけてしまった。三人も子供がいると母親は忙しい。ミドリはうまいこと昼寝をしてくれている。留守の間に絵具の塗りかけだった絵の最後の仕上げをして完結した。スクラップブックに作品が溜まってくると嬉しいものだ。 2004.02.06追加更新 三月六日(火曜日)晴れ時々小雪 朝のうちは寒さが厳しく小雪がちらついた。十時五十分頃、住岡病院へ行く。お医者さんの話では長引くらしく、じっくり通院してくれと言われた。今日の看護婦は前の入院当時にいた人で、口には出さなかったが、顔付きですでに思い出してくれていたようだった。それでも全体としては看護婦がほとんど新しく入れ替わっている。 帰りに深田眼科を尋ね診察してもらう。ここは診察室へいっぺんに五、六人ずつ入れて捌いているので、大勢の患者がいる割には順番が早かった。診察の結果は疲れ目らしく、八日にもう一度来てくれとのことだった。視力は右の目が〇.七左は〇.五と看護婦から聞く。しばらく様子を見るらしく目薬を貰って帰った。昼食の時、弓子にその話をしたら、それくらいなら年の割りには良い方で心配はないと言ってくれた。 三月七日(水曜日)晴れ いつもの時間に住岡病院へ行く。診察の時お尻から白いものが出ているらしく、看護婦が、「うちで何か塗ってますか?」と聞くので、何も塗っていない、恐らく、前夜差し込み薬を入れたが、朝大便があまり出なかったから薬も残ったものと思うと答えた。残ったものを出し切れずにいると患部がただれる場合があると看護婦は言う。それなら事前に医者の方から注意しておいてくれるのが当り前ではないか。 先月末に弓子から聞いていたが、和夫が勤続二十年の表彰で今朝新幹線で東京へ出かけた。今夜はニューオオタニホテルで一泊して明日帰って来る。早いもので、もう入社して二十一年になるらしく、おめでたいことではある。サラリーマンを二十年も続けるなどとは、私の性分ではとても考えられない。 三月八日(木曜日)晴れのち曇り 昨日は大便が出にくかったので午後に通じ薬を飲んでおいた。お陰で今朝は気持ちよく出た。 子供心になにを決心したのかキミ子が二三日前から夜八時半に寝床に付くようになった。その分朝の目覚めも早く、七時ごろには起きてくる。茂も朝が早いからつられて起き出してくるのだ。 十時四十分頃から住岡病院へ行き、帰りに深田眼科へも行った。両方とも特によくなるということもない。 四時前に風呂屋へ行く。来る人は様々で、はだかで入るのだから、体の黒いのやら、中には背中から腹一面に白なまずが出来て、見るからに不潔な男や、あざのある人、風呂の中で辺り構わず放吟する人。衣類入れのこおりを、中が汚いと思い込んで、裏返しに二へんでも三べんで床にたたきつける神経質な男。なんせ大衆風呂だから変なのがいる。どれにもあまり付き合いたくない気持である。だからなるべく人が少なく、お湯のきれいなうちにはいるようにしている。 三月九日(金曜日)曇りのち晴れ 風呂にはいった翌日は必ずと言っていいほど風邪気味になる。どうやら体の表面の脂肪が取れて風邪の引きやすい状態になるようだ。元々私は痩せ型だからなおさらである。 キミ子が水ぼうそうに罹っていることが昨日分かり、幼稚園は当分休むことになった。子供同志で感染するので、幼稚園児がこの頃だいぶ罹っているらしく、それが染ったのだろう。十時過ぎにキミ子を連て弓子はお医者さんへ行った。 十一時半、弓子たちはまだ帰って来ず、間に合いかねたので、住岡病院へ出かける。治療してもらってる最中に、傍の中年の看護婦が思い出したように、「あなたは前に入院手術をされましたね。」と尋ねてくる。前回、四十四年五月の入院の折り、中で一番別嬪だった看護婦さんである。そのことは四五日前に気が付いていたが、彼女の方は今日やっと思い出してくれたようだ。 家に帰ったら弓子はすでに佐々木医院から戻っていた。 東京から和夫が土産に持って帰った菓子を、昼から姉と妹のところに持って行く。姉夫婦は二人とも留守なので、長男の嫁さんに渡しておいた。妹の方は奥で仕立てものに精出しているらしく、菓子折りを渡して庭ぎりで帰ってくる。 三月十日(土曜日)晴れ 土曜日なので時間の都合上十時十五分に住岡病院へ行き、帰りに深田眼科に寄る。 午後二時頃弟より電話があり、原田のお爺さんが危篤で恐らく今日一杯ということだった。心配なことである。太秦の喫茶店も今日の土曜日は営業を休んでいて、肉の買い置きが余るので、聡君が車で届けてくれた。聡の話によるとお爺さんは案外心臓が強く危篤の重体になっても相当に持ちこたえているらしい。 松本姉上のところへ行く。キミ子も行きたいと言い出したので一緒に連れて行った。少し早手回しだが相川家の葬儀の場合の打ち合わせをする。 2004.02.11追加更新 三月十一日(日曜日)晴れ 八時半に起床。弓子の話によると相川から深夜に電話が掛かり、原田のお爺さんが午前三時二十五分永眠された由、誠に哀惜の至りである。思わず、なむわみだぶつを三回唱える。 昨日打ち合わせておいたので、午後六時頃に姉と妹を誘って京都バスで太秦の弟宅へ行く。実の娘の芳子さん(弟の嫁)はずっと涙を流していた。七時からお通夜の読経が始まった。そのあと短く坊さんの講話があっておしまいだった。明日また葬式があるのでそこそこにしてタクシーを拾って帰った。 家に着いたら十時前だった。 三月十二日(月曜日)曇り 朝七時に起床。喪服に着替えて八時過ぎにあたふたと姉のうちへ出掛ける。もう妹のユキも来ていた。松本姉夫婦、宮川ユキ、私の四人に、姉の長男登君が運転して相川に向かう。八時半に到着。九時から十時までが告別式で、私は相川方の親戚代表で火葬場までお供する。このあたりは蓮華谷火葬場の区域で、私の実父の時一度行ったことがあるので知っているが、何べん行っても不気味なところだ。十一時頃戻ってきたら、松本姉と、妹が待っていてくれたので、皆と一緒にお供養の会席弁当を戴く。和夫を見かけなかったので気にかかって聞いてみると、会社から抜けてお参りしてくれたということで、ホッとした。あと車で聡君に送ってもらって帰った。十二時過ぎだった。案外早く終わったようだ。 四時過ぎに銭湯へ行く。原田のお爺さんも、もう一度風呂に浸かりたかったろうなと思う。 今日は少し疲れ気味なので、芸能百選舞三題を見てから、少し早めに寝る。 三月十三日(火曜日)晴れ キミ子が水ぼうそうで幼稚園を四五日前から休んでいるが、水ぼうそう自体は軽いものなので、早く幼稚園に行きたいとキミ子がせがむ。今朝は、まずお医者さんに聞いて、行ってもよろしいと言われたら、その足で幼稚園に行かせるつもりで、弓子はミドリを連れて出かけた。やがて弓子が一人で帰ってきて、「良かった。」と報告した。 私は十一時半に住岡病院へ行き、帰りに深田眼科にも寄ったが、大入り満員で番が回ってこなくて遅くなり、帰ったら十二時半だった。 星崎医院で製作してもらったコルセットの代金は、自分で一時前払いし、それを健康保険で半分、あとの半分は中京福祉事務所で支払ってくれることになる。ようやく半分の五千二百五十円を和夫が会社から持ち帰ってくれた。あとは福祉事務所へ書類の手続きをしなければならず、相当面倒である。もっと簡単にならないものか。 午後からテレビの画面が乱れて見にくい。アンテナの具合が悪いのだと思うが、共同アンテナなのでどうにもしようがない。早く寝ることにする。 三月十四日(水曜日)晴れ お水取りも済んだのに今朝はまだまだ寒かった。 キミ子の幼稚園のお別れ会に弓子はミドリを連れて行った。 ひまだったが、私は今日は病院行きはお休みにする。 一時二十分頃弓子が帰ってきたので、入れ違いに散髪屋に出掛ける。かなり混んでいたので一旦家に帰り、改めて、かねてから見に行きたいと思っていた文化芸術会館へ行くことにした。河原町通りから市バスに乗って府立病院前で降りるとすぐそこだった。かなりの人が見に来ていた。京都在住画家の「京都の百景」だから地元の人が見に来るのは当り前のことだ。なかなかの作品揃いで、目の保養が出来た。館内で絵葉書を一枚三十円で売っていたので、しかるべきのを四枚買って帰った。 その帰り道、床屋にもついでに寄ったが、散髪代が今月から百円値上がりしていた。 三月十五日(木曜日)晴れたり曇ったり 今朝の便通時には紙に血が付かなかったが、便がごく少量だったので、安心はできない。 十一時過ぎから住岡病院へ行く。看護婦さんともだんだん顔なじみになって、向こうから挨拶してくれる。時間が遅くなったので今日は深田眼科には寄らなかった。 小さい鼠がこのところ台所をうろちょろするので、鼠獲り器を仕掛けておいたところ子鼠が二匹網に掛かった。それを始末するのを弓子は怖がって、いつも私が頼まれて死刑執行官になるのである。まずバケツに乳剤を入れ、薄めながら水をバケツの口ぎりぎりまで張る。鼠獲り器をその中に浸ければそれでよいので至極簡単である。しばらく水中でもがいていても五分程したら死んで浮いてくる。早速ごみ入れに捨てておしまいだ。あむあみだぶつ・・・ 四時前に銭湯へ行く。風呂は入っている間はまことに気持ちよいわけだが、どうも翌朝いつも風邪気味になる質なので毎日は行きたくない。三四日目ごとに行くくらいである。 2004.02.16追加更新 三月十六日(金曜日)晴れ 今朝、大便が出たあとやはり紙に少し血が付く。これは肛門の縁が便で押し出され患部が膨れるため少し切れるのだと思う。また病院で、小さいガーゼに薬を塗ったのを肛門に差し込んでくれるが、それが歩行する時に擦れて、腫れている患部を刺激して切ることも考えられる。いちいち事細かにこんなことを先生に報告した方がいいのか、それが解らないが、言ってみたところで先生は、「ふん、ふん」生返事をしてくれるのがオチだ。 杉本姉上は今年喜寿を迎えられるので、兄弟姉妹で何か差し上げようと考えている。兄弟衆にはすでに了解済みだ。 三月十七日(土曜日)晴れ キミ子は今日が通園の最終日で、十九日には卒園式があり、それで終りである。あとは四月上旬の小学校入学まで休みとなる。 十一時過ぎから住岡病院へ出掛ける。土曜のせいかたくさんの患者が来ていた。待合室で順番を待っていたら、お隣の山中さんのご主人が来られたので、ちょっと驚いた。聞いてみると、一週間程前に深か酒をして夜更かしした明くる日、朝から痔が起こったらしく、それ以来毎日通院しているとのことであった。 三月十八日(日曜日)晴れ 茂は割合寝起きがよい。夜八時半ごろには寝床に入るがすぐ寝付いてしまうのには感心する。また朝七時半には起き出してくる。これと反対にキミ子は夜寝るのが遅く、朝寝坊することが多い。そのくせキミ子の方が生まれつき頑健である。 午後は相川家の初七日に招ばれていたので、姉妹と同伴してバスで太秦へ行く。法要のあとお供養のお寿司などを戴きながら、兄弟姉妹の積もる話を聞かせてもらった。それぞれに苦労話があるものだ。ルイ姉上は長男からの仕送りを打ち切られていた。アキ姉上は息子の嫁とうまく行ってない。妹のユキにはアル中の次男がお荷物となっている。羽振りのいいのは弟幸次郎の店が繁盛なことだけ。私のとこは「ええお嫁さん」と褒めてくれたが、和夫のことはいいとも悪いとも言われなかった。帰りは聡君が車で一同を自宅まで送ってくれた。 三月十九日(月曜日)晴れ キミ子の卒園式があるので弓子も同伴するが、ミドリは連れては行けないので、私が先にミドリを乳母車に乗せて柳馬場の児童公園へ連れて行った。行きがけにちょっとぐずったが、すぐに泣きやんで公園で機嫌よく遊び回り、なかなか帰ろうとしない。十時半頃まで遊んでから家に帰った。十一時過ぎには弓子とキミ子が帰って来て、首尾を聞こうとしたが、キミ子は服を着替える早々に外へ飛び出してしまった。 今日は住岡病院へ行くのは中止したが、深田眼科には四時頃に診てもらいに行った。 三月二十日(火曜日)晴れ この頃茂が朝早くしきりに咳をするので気に掛かるが、気候の変わり目によく出る喘息だと弓子は言う。はたしてどうだろうか。幼稚園を終えたキミ子は今日は九時頃まで寝ていた。春休みなので気分がゆっくりするのだろう。 十一時過ぎ住岡病院へ行く。先生の言葉も治療もまったくいつも通り。 昼食のあと、彼岸の中日を明日にひかえていたので、西大谷のお墓参りにキミ子を連れて出かけた。彼岸参りの人々で西大谷は賑わいをみせていた。ことに今年は親鷲聖人ご生誕八百年の法要があり、各地方から団体で大勢の人が来ている。 帰りは歩いて高島屋まで行き、かねてから入学祝に「赤い靴」のレコードを買ってくれと言っていたので、それを買ってやった。そして地下の食品売り場でケーキの箱入りを買い、うちに帰ったのは五時頃になった。 茂には五百円をポチ袋に入れて進学祝にやった。 2004.02.21追加更新 三月二十一日(水曜日)雨のち晴れ 昨夜寝しなに室内温度を見たら十八度あった。掛け布団を一枚少なくして寝たのに別段夜中に寒いとは思わなかった。朝方も七時半ごろ目が覚めたが、顔も手も暖かく、いよいよ春が訪れた感じだ。 午後からは天気も回復して青空が広がってきた。子供たちは和夫に連れられて大丸へ行ったが一時過ぎに帰ってきた。入学進学祝いにそれぞれ何か買ってもらったのだろう。 三時頃にぜんざいを作って弓子が持って上がってくれた。 三月二十二日(木曜日)晴れ 住岡病院は今日は行くのを止めた。もうひとつ治療が頼りないこともあり、毎日続けて行くことが無駄のように思えてならない。今少し通ってみて様子を見た上で、ラチがあかなければ他の医者に診てもらうつもりだ。 午後から大丸へ行く。杉本姉上が今年七十七歳を迎えられる。喜寿のお祝いを兄弟寄って何か差し上げたく思い、大丸で純毛毛布を買い求め、杉本宅にお送りした。日中は随分暖かく、大丸の中にいると汗をかく始末だった。 帰りに厚生会で画筆を一本買った。またいつもの甘納豆も買って帰った。 今夜は早速杉本姉上に喜寿のお慶びと祝の品を送った旨の案内を葉書にしたためようと思う。さだめし喜んでもらえることだろう。 三月二十三日(金曜日)晴れ 十一時頃住岡病院へ行く。医者の話では、傷口がまだ赤く、それが白くならないといけないらしい。 弟の店は太秦撮影所の近くで、役者が来たり、撮影所の連中も来てくれる。そのツテで貰った漫画映画の券があるので、昼食後、四条大宮の映画劇場まで、茂と、茂の友達二人を連れて行った。平日ながらそこそこの入りで、子供達には相変わらず人気があるようだ。私には一向に面白くなく、中で一つだけよく出来た作品もあったが、それも題名は忘れた。五時過ぎに一同を引き連れて帰ってきた。 行きがけに杉本姉上に宛てた葉書をポケットに入れて持って出たのを、投函するのを忘れたまま帰ってきたので、またポストに放り込みに行った。 夜は、茂が七時半頃から寝床に入ったが、暖気のためコタツが熱いから止めてほしいと言うので取ってやった。それでもまだ暑いらしく、掛け布団を一枚剥がしてやる。室内温度は十七度ぐらいで、私も掛け布団を一枚脱いで寝る始末だった。 三月二十四日(土曜日)晴れ 今朝は昨日と比べ部屋の空気も冷たく、寒暖の差が激しいようだ。 午後二時頃から、「京の百景」を河原町の文化芸術会館へ見に行った。今度のは第二部の絵であるが、また参考に絵葉書を四枚買って帰る。 夕刻に町会長の木下さんが見え、今期の決算書を出しておいてほしいとのことだったので、今月中に出しましょうと返事をする。次期会長は奥井さんで、私も会計を今期限りで辞任したいと申し出た。 三月二十五日(日曜日)晴れたり曇ったり 九時に起きたが、温度計は十一度だった。 昼は喉自慢チャンピオン大会を見る。さすが全国各地から選出されただけあってみんな上手で感心した。私は長唄とか端唄とか以外は、近頃の歌を唄うのはさっぱり駄目だった。でも聞くのは歌謡曲でも演歌で楽しんで聞く。 夕食はかしわのすき焼きだったが、茂は風邪を引いて熱が三十七度六分ある。食事も進まないらしく、ママが六神丸を飲ませて早く寝かせた。ちょっと心配したが、春休みに入っているので十分に休養できるはずである。 三月二十六日(月曜日)晴れ 今朝は大層寒く冬の寒気が戻って来たようだ。茂が今朝になって水ぼうそうが出ていると分かり、夕べからの熱はその熱だと解った。早速弓子が医者に連れて行った。その間ミドリのお守り役を頼まれたが、小一時間で二人が帰ってきたので、様子を聞いてから私は住岡病院へ出かけた。 町内の総会が来月早々にあり、その前に決算書を作らなければならず、ぼちぼち帳面の整理をしておく。あまり精を出すと疲れるので、二三日掛けてまとめるつもりだ。 四時過ぎから深田眼科に行く。診察はやめて薬だけ貰って帰った。治療費が無料だというので、最近少し医者に掛かり過ぎのキライがある。 三月二十七日(火曜日)晴れ 朝から町内の決算書を作り始めて昼過ぎまで掛かったため肩がこってきた。それでもなんとか明日にはすっかり出来上がるだろう。午後に郵便局で町内預金を全部引き出し、商工中央金庫へ行き、保護預かりしている債権十五万円分を引き出して帰った。 三時半に銭湯へ行く。私もこんなに早く行くことは滅多にない。一番湯かと思ったらすでに一人先客があった。それも初めて見る顔で、向こうから会釈するものだからこちらも会釈を返す。ほかに誰も入って来ないままに、やがてその人が上がり湯をして出口に向かった。その時、湯船の私を振り返り、しっかり覚えてないが地方訛りで私に挨拶をした。とっさのことに驚いて私は、小さく会釈をした。その人はにこやかな表情となり、ガラス戸の向こうに消えた。私は自分で自分の無愛想さに腹が立った。 三月二十八日(水曜日)曇り 朝からどんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうなお天気だった。その代わり大分に暖かい。 十一時の「今日の健康」は痔の手術と題したもので特に関心深く見た。昔と違って今の新式手術は、切ったあと縫わずに手当だけをするのが一番よい方法らしく、糸で縫うと場合によっては化膿して一層痛んだり、何年か先に後遺症を起こすらしい。私もそれではないかと思う。住岡病院の手術のやり方は旧式と言わざるを得ない。 町内会の決算書が出来上がったので夕方木下さんへ持って行く。 三月二十九日(木曜日)曇り 四国観音寺から弓子の幼友達の山崎文子さんが久しぶりにみえる。文子さんがミドリを抱こうとすると人見知りして突然泣き出したので、私が二階に連れて行ってお守りした。私が抱いているうちに寝てしまったので夜具に寝かしつけた。弓子が上がってきたので、「大丈夫や。」と言うと、「ちょっと悪いけど一時間程出てくる。」と文子さんと二人で出て行った。 杉本姉上から、先日お届けしたお祝い品を受け取ったことと、そのお礼の葉書が来た。やはり配達が遅れたのだろう。 三月三十日(金曜日)晴れ 昨夜茂が寝てから咳が続き、蒸し暑いのと両方で大分苦しかったようだ。泣きべそをかいているので、とにかく薬を飲ませて、和夫が夜具を下へ持って降りて下で寝かせた。十一時頃には私も寝入ってしまったので、朝食の時茂の様子を弓子に聞いてみた。下へ下りてからは咳も出なくて朝を迎えたらしく、私も安心した。 今日はいよいよ暖かく春がやって来た感じである。十一時過ぎから住岡病院へ行く。 今夜は茂は最初から階下で寝た。一人ぼっちのキミ子はどうするかと思ったら、案外平気でベッドで寝ていた。 三月三十一日(土曜日)曇り 昨夜組長さんが町費の集金カードを持ってきてくださったので、会長さんへ決算書の一部追加として持参する。 午後から久しぶりに描いた人物と花柄の色塗りを、丹念にやった。色を塗ると一段と生き生きしてきて面白い。 四時前銭湯に行く。あれ以来あの地方訛りの人にはもう逢わない。痔があるのでなるべく局部を温めるように、つとめて風呂に行くようにしている。 茂も今夜は二階で寝ている。咳も熱も収まったようだ。私も十一時ごろ寝に就いた。 |