亡父の日記3

 

 

 

 

 

 

ある老人の日記から 

その3

2004.6.01追加更新  

昭和四十八年(1973年)

七月一日(日曜日) 

今日から七月の夏の盛りに入ったが、まだ梅雨の最中で梅雨明けはまだまだである。

テレビで祇園祭の囃子の練習風景を映していた。一年の繰り返しが早い。

暑そうなので外出は控えた。

 

七月二日(月曜日)晴のち曇り

昨日と打って変わり気温が低く、楽な一日である。ところが午後はまた雨が降り出して今日も外出は出来ず、一日中家に閉じ込められた感じである。

午後八時から連続ドラマ「けったいな人々」を見る。これは面白い。

 

七月三日(火曜日)

午後からようやく外出した。まず大丸を覗いて五階の画廊で日本画を見る。今回は一流画家たちの名品が散見され、上村松園の美人画、横山大観の富士山など感銘を受けた。帰りに錦市場に立ち寄り、くらげうにを買って帰った。

 

七月四日(水曜日)

朝から日差しが二階表の間に差し込んで、いよいよ夏本番を迎えた感じである。

右の方の腰が痛い。朝の体操もよいが、あまり無理しては腰への影響もあるので、考えながら運動をせねばならない。やはり自分の身に応じた鍛錬をすることが大切だ。先の短い身で、一日一日と気を取り直して暮らして行くことだ。

午後四時ごろ風呂へ行く。脱衣場はクーラーの冷たい強い風が来るので、しばらく居ると風邪をひきそうである。

 

七月五日(木曜日)

昨日第二期分の固定資産税の納税通知が来た。過日区役所朱雀支所へ他のことで行ったついでに尋ねたら、本年度の固定資産税は据え置きと聞いていた。それでも金額を見るまでは少し不安だったが、封を開くと去年と同様らしくやっと安心した。家賃は上げてくれる様子はなく、これで税金が上がれば泣きっ面に蜂だから。しかし、僅かな家賃のことで一喜一憂している自分も情けない。

午後外出して御所へ出かける。いつ行っても御所は広くて素晴らしいところである。途中八百屋でビワを買って、御所の芝生で食べた。なかなかの味だった。

 

2004.6.06追加更新 

 

七月六日(金曜日)

今朝、便の後で、トイレットペーパーで尻を拭くと紙に血が少し付いた。一体どこから出血するのか前から疑問を持って考えているが、未だに分からずである。紙に付く程度だから大したことはないと思うのだ。住岡病院の頼りない処置もこの原因だと思う。

午後外出して御所へ行く。途中寺町竹屋町の松美で鰻丼を弁当箱にいれてもらって、御所の芝生でゆっくり食べた。なかなか値打ちのある丼で九十点ぐらいつけてもいい。四時ごろに家に帰り、ちょっと休んでから行水を使う。

 

七月七日(土曜日)

朝のうち晴れていたが、昼前からあたりから曇ってきた。と、暑さも少し和らぐようで、やはり日が強く照りつけると家の中にいても暑くてしようがない。

昼食の後、私はミドリを連れて御所に行くことにした。乳母車に乗せて、途中二条の長谷へ寄って、なにか果物をと思ったが、私の気に入る物がなかったのでやめた。

アイスクリームをミドリに買ってやろうと思ったが、西の方の売店は本日は定休なのか休んでいるので、ちょっとがっかりした。いつもの芝生に行き、東の売店でみぞれ菓子を買って、ミドリに食べさせた。喜んで食べてくれた。しばらく遊んで、五時前に帰宅した。

夜十時から新探偵劇「刑事コロンボ」第一回を見る。とても面白いと思う。

 

七月八日(日曜日)

いよいよ梅雨本番、これから九月中頃までの暑い時期を耐えなければならない。私もなにより身体に注意し、鍛錬にも励まなければならないと思う。

和夫一家は今日はびわ湖へ行くらしく、私も誘われていたが行く気はさらさらなかった。子供達が出かけた後、外出して錦市場でなにか気に入った物はと物色したが、さいわい鯉の刺身を売っていたので買って帰った。少し酒を燗して、鯉の刺身を酢味噌に浸けて一杯やった。

そのあと、洗濯物が洗濯機に溜まっていたので、弓子の助けになるかと思ってやっておく。機械がやるので少しも苦にはならない。

 

七月九日(月曜日)

昨日行われた東京都議選の開票日であるが、昼のニュースによれば、自民党が順調に票を伸ばしている反面、社会党共産党が伸び悩みとある。ちょっとがっかりした。二時の開票速報に注目したい。

午後二時半のニュースでも、自民党が順調に第一党に、次いで公明党、共産党となり、社会党はとうとう第四党に転落してしまった。なんとも不甲斐ない結果ではある。

 

七月十日(火曜日)

久し振りに住岡病院へ行く。相変わらず同じ処置である。しかも、へたくそな注射をされたものだから家に帰ってからもまだ少し痛い。不愉快この上ない。

午後外出しようと思っていたが、なんだか行きそびれてしまって行かなかった。ここのところ相撲があるので、四時半から六時ごろまでは退屈しないで済む。今日は五時前から家で行水をする。夏場になれば銭湯に行くのも面倒だから、行水するのが一番よい。

 

2004.6.11追加更新

 

七月十一日(水曜日)

昨日は気温湿度とも最高で、三十六度五分を記録したそうだ。年を取ると暑さが堪えるので困る。今日は少し曇りぎみだから昨日よりはましのようだ。午後は曇ってきて一雨あるかと思われたが、雨は降らなかった。今日も外出はしなかった。

 

七月十二日(木曜日)

よくもこれだけ晴れが続くかと呆れるほど、またまた暑い日だ。

午後から弓子はプールの監視役に小学校に出かけて行った。ミドリは昼寝をしているので置いていくからと、守りを頼まれる。一時半ごろから弓子は出かけて行ったが、ミドリは昼寝の真っ最中でなかなか起きる気配がない。ようやく三時ごろ目を覚ましたので御所へ連れて行く。御所はさすがに樹木から風が沸いて涼しく、東側の野球場近くの木陰に陣取って涼を入れた。ミドリには雪印の冷凍菓子を食べさせた。しばらく遊んで、四時五十分ごろ家に帰った。五時過ぎから行水を浴びて汗を流す。

 

七月十三日(金曜日)晴のち曇り

今日は曇り勝ちの天気で、昨日よりは凌ぎやすい。昼過ぎ、茂が学校から帰ってきた。学校のプールへ行く用意をしていたが、すぐにまた出かけて行った。茂は身体がひ弱いから精出して水泳に行くことはよいことである。私も水泳はしたいけど、老人向きのプールなぞ見当たらないから仕方がない。キミ子も学校から帰って来るとただちに学校のプールへ行ってしまった。

二人の子供が出かけてから私は弓子とミドリとで大丸に行く。そして中元の品を見立て、届け先に送った。五時半ごろ帰って来た。

 

七月十四日(土曜日)

今年は空梅雨のようだ。六月下旬からこのかたろくに雨が降っておらず、ぼちぼち渇水や電力不足が起こりつつあるようだ。晴天続きのため七月早々から酷暑に悩まされた。

裏の洗濯機が置いてある「すのこ板」が腐ってきて、我々が歩くのに危険を感じていた。今日大工が来て新しい板材で作り直してもらっている。裏の木戸もついでに直してもらうようで、一日掛かりである。

午後は姉の家に暑中見舞を持ってお伺いした。姉上は足首をぐぜったとかで痛いらしく、医者に罹っている。いろいろと世間話をして四時半ごろに帰って来た。

和夫夫婦と子供たちは九時過ぎから宵々山を見に出かけて行った。

 

七月十五日(日曜日)

今朝五時半に目を覚ました。とても暑くて目が覚めたのである。これは身体に悪いと思い、縁先のガラス戸を開け放したところ、少し冷たい風が入って来て、大分人心地がついた。それからうとうとして、八時半ごろに起きた。今夜寝る時には思い切って戸を開けることにしょうと思った。こう暑いと頭の調子がおかしくなる。

和夫が8ミリ映写機と普通写真機の小型物を買ったが、この月末から四国観音寺へ出掛けて撮影するつもりのようだ。テストに、私が物干しで手を振っているところを映してくれた。

今日は名古屋場所千秋楽だったが、結局優勝決定戦で琴桜が優勝した。

 

2004.6.16追加更新

 

七月十六日(月曜日)

今日は祇園祭の宵山、明日が祇園祭本番である。御池通りは明日の山鉾巡行の見物席を作るため、学生アルバイトを動員して、たくさんのパイプ椅子を汗だくで並べている。祭風景は例年と変わりなく、当町も南北入口に大提灯を立てるのに町内の男性を動員しててんやわんやだ。私は年だから免除してくれているようだ。以前は各家の前にも提灯立ての柱を立てていた。最近は交通の邪魔だといって立てなくなった。ただ軒先に提灯を吊り下げている。だんだん伝統が失われ情緒がなくなってきた。そのうちに祭物はなにもかもなくなるだろう。

夕飯のあと、茂とキミ子はそれぞれ友達と宵山と夜店を見に出かけた。和夫は今日も残業で遅いようだ。

 

七月十七日(火曜日)

祇園祭の山鉾巡行の日で、御池通りには十一時過ぎに長刀鉾を先頭に通って行った。私はミドリを連れて御池通りに出て見た。人の渦だった。割合今日は風があるので木陰にいるとそれほど暑くはない。それでもそんなに長くはいられない。ミドリも祭などあまり興味なさそうだったのでそこそこにして家に帰った。

夕飯には「ハモのおとし」が出た。久し振りにビールを飲む。嫁の弓子にも一杯ついでやった。和夫は今日も残業だ。なにしろホテルというところは昨日今日は掻き入れ時なのだからいたし方がない。

 

七月十八日(水曜日)

祇園祭も昨日で済んでしまって、今日は十八日である。昔、この辺りは二十三日二十四日の「後の祭」が本番で、鉾も北観音山から南観音山まで十数基が三条通りにも通った。各町内の、特に商売人の家は麻の定紋付きの幕を張り、家内には赤毛氈を敷いて、それぞれに飾り物をしたものだ。子供達も特別に着飾って道端の床几に腰をかけて涼んだ。今ごろは実に簡単というか、昨日御池通りをすべての鉾が通り過ぎればもう祭は済んだも同然だった。

今日も一日暑い夏日で、午後三時の気温は三十七度にうなぎ登りだった。どうにも身体の持って行きどころがない。外出したくても足が外に向かない有様だ。

 

七月十九日(木曜日)

今日は午後から曇ってきて、ところどころ雷雨が発生するとの予報だ。果たしてその通りになってくれるかどうか。

子供達は夏休み前とあって早くも十一時過ぎには学校から帰って来た。昼からは友達のうちに遊びに行き、もうすっかり休み気分だ。

テレビのニュースによると台風六号は日本列島に近付いて来る模様で、午後からは風が強くなり割合に暑さが和らぎ、昨日より三度ほど涼しくなった。土曜日あたりから一雨も二た雨も来てくれそうな気配だった。

 

七月二十日(金曜日)曇り

台風の関係で朝から曇っていて、温度も上がらず、過ごしよい日である。

午後は相川から貰った東映まんが祭の招待券があるので、茂とキミ子、そして向いの涼子ちゃんを連れて、四条大宮東映へ出掛ける。午後二時に着くがほぼ満席である。子供達は並んで席が取れたが、私はちょっと離れた。でも漫画映画に私はあまり関心がないので、途中で退屈して、館外の休憩室でぼんやりと時間の来るのを待っていた。ようやく六時前に終わって、無事みんなを引き連れて家に帰った。

 

2004.6.21追加更新

 

七月二十一日(土曜日)

台風も昨夜十一時過ぎのテレビ報道によると大分衰えたらしく、察するに上陸しても大したことはなさそうだ。夜中がものすごい蒸し暑さで寝苦しかった。途中目が覚めて、あまり暑いので縁先のガラス戸を大きく開けた。カーテンを通して風が入ってきて、少しは楽だった。

六時ごろ目覚めた。予想に反し曇ることなく晴天で、相変わらず朝っぱらから暑かった。九時前に起きたが、少し頭が痛い。

今日から茂とキミ子は夏休みだが、二人はこの暑いのに元気である。

午後五時ごろから急に曇ってきたので一雨来るかと待ったが、六時半になっても降ってこないので、まったく呆れてしまう。

 

七月二十二日(日曜日)曇り

曇っていて、少しは涼しい朝だった。午前十一時五十分ごろからようやく日が照り出した。それでも昨日までより楽な午前中だった。

午後になってさすが日が照りつけたが、しばらくしてまた曇ってきた。気温が三度ほど低いだけのことで昨日よりかなり過ごしやすい。

午後からキミ子は向いの岡田さんに琵琶湖へ連れてもらった。キミ子を除く階下の者はいずこかへ外出して、七時頃にやっと帰って来た。

 

七月二十三日(月曜日)曇り

ミドリが寝冷えをしたらしい。熱を出して咳をしているので弓子が医者へ連れて行く。帰って来たところで聞いてみると、大したことではないらしい。

今日も涼しくて、午前十時で二十九度だった。それが午後になるとさすがに二時時点で三十三度と上がってきた。それでも先日の三十七度からすればマシな方だった。

お陰で身体も動きやすく、二階の掃除をする。さっぱりときれいになった。

 

七月二十四日(火曜日)曇り

今日、大便に行った時から腹の調子が少しおかしいので胃腸の薬を飲んでおいた。夜中も少し涼しかったから、縁先のガラス戸も閉めて寝たので、冷えることもなかったと思う。なにが原因かよくわからない。しばらく自重してうちにいることにする。

子供達は午前中ちょっとの間宿題をしていたようだが、午後はもうどこへ行ったか・・・

昨日熱を出してミドリはもう大丈夫のようだ。

 

七月二十五日(水曜日)曇り

今日も午前中はそれほど暑くはなく、凌ぎやすかった。腹の調子も昨日よりよくなった。和夫は今日会社を休んでいる。弓子が二十九日から四国へ行くので準備で忙しいらしいが、そのために夫が欠勤するとはちょっと解せない。

午後は国鉄の切符を買いに夫婦で出かけて行った。ミドリは昼寝をしているので私がお守りをすることとなる。今日は案外早く目を覚ましたので、二時間ほどは手が掛かった。四時頃弓子が戻ってきたので解放されたが、お陰で散髪などに行くつもりがおじゃんになった。

 

2004.6.26追加更新

 

七月二十六日(木曜日)

天候が安定してきたため今日は朝から暑くなる。午前十一時で三十三度となった。これ以上に上がらないでほしい。これで一ヶ月近くも雨が降らず乾燥しきっている。火事を起こさぬよう気を付けねばならない。ここ数日初音消防団の人たちが夜分に各町内を回ってくれている。ご苦労様です。

午後二時半ごろ外出して理髪店へ行く。頭は洗ってもらわずに、四時過ぎに銭湯に行って自分で洗った。こうすれば風呂代がタダになる。三人先客があったが見知らぬ人ばかりだった。

 

七月二十七日(金曜日)

午前中は割合涼しくて初秋の感じさえした。なんでもよいから気温の低い方が凌ぎやすい。

この間から腹の具合が悪く、食事の後大便に行きたくなる。それで用心していたのだが、午後になって急に便意をもよおし、軽く下痢した。あまり冷たい物は食せぬように注意したい。また便がいきたくなると困るので腹巻をして、さらにその中に懐炉を入れた。

夜は「赤ひげ」を見る。

 

七月二十八日(土曜日)

いよいよ弓子と子供たちは三十日に四国に出立するので、なにかと支度に忙しい。

弓子が昨日ニチイで買ったシャツが合わないので取替えてもらいに行く。一人では心細いので私に付いて来てほしいというので、午後から、弓子とミドリを連れてニチイへ出かけた。相手は心配するほどのこともなく、愛想よく取替えに応じてくれた。帰りに錦市場に回って、今日が土用の丑の日なのでうなぎの蒲焼を買って帰った。

夜は十時から「刑事コロンボ」を見る。探偵ものではこれまでになく佳作だと思う。

 

七月二十九日(日曜日)曇り

朝九時半ごろから久し振りに小雨がぱらつき出した。しかしそれもおしめり程度でいつの間にか止んでしまった。それでも少し気分的に涼しくなり、実際午後も温度は三十度以上にはならず、凌ぎよい日となった。

腹の調子はまだ悪く、懐炉を入れてお腹を温める。今日は涼しくもあり、行水は中止にした。

 

七月三十日(月曜日)

今日は弓子と子供達が観音寺に出発の日である。和夫は会社へ行くので私が駅まで送ることになった。京都駅のホームで、町内の竹川さんとばったり会った。竹川さんは能登出身でいつも夏休みに子供達ともども一家で出かけられる。我々とは行く方角が真反対だった。弓子たちは十一時五十三分発のひかり7号に乗り込んだ。午後四時ごろに観音寺に着くはずである。

みんなを送ってから帰り道大丸に立ち寄った。さすが冷房もよくきいていて快適だ。さらに錦市場に足を伸ばし買物して十二時半ごろに家に戻った。

晩は和夫と私の二人きりで食事をしたが、子供達がいないので随分淋しく感じた。和夫は、私が拵えた夕食をうまいともまずいとも言わず、黙って平らげ、後片付けだけはしてくれた。

 

七月三十一日(火曜日)曇り小雨

留守番二日目である。朝のうち曇っていたが、追々小雨が降りだしたので洗濯は中止した。雨も大したことなく、あとは一日曇りがちだった。

錦市場へは自転車で出かけ、夕飯のおかずに「うまき」を買って帰った。四時過ぎに風呂へ行く。

和夫はここ当分月末の仕事で残業が続くらしく、夜遅く帰ってきた。夕食は摂ってきたようだ。

 

2004.7.1追加更新

 

八月一日(水曜日)曇り

弓子達が留守で、朝起きて寝るまで、三食を自分で拵え、洗濯物も自分でしなくてはならない。永らく一人でやってきたことだから別に苦にならないが、次から次へと用事に追い回される。

午後は自転車で錦へ買物に行く。木村牛肉店で思い切って四百円のテキ肉を買って帰った。食パンを買い忘れて、町内のパン屋さんで買ってきた。夕食にさっそくビフテキを焼いて食べてみたら、柔らかくてとてもおいしかった。旨さが身体中に染み渡る。でも、やはり後で腹にずしんと来る。タカジアスターゼを飲んでおいた。

夜八時から「銀座我が町」を見る。今日のはちょっとおもしろかった。十時ごろから風が出て来て、ずいぶん涼しくなった。

息子は残業で十一時ごろ戻ってきたので、ビフテキがあるから食べるなら自分で焼くように言って、私は寝た。

 

八月二日(木曜日)晴れ

夜中に雨の降る音がして目を覚ました。樋に流れる音が強いので、昨日より雨の量が多いと思った。

朝起きてみると、庭先の地面は濡れていたが、屋根瓦は乾いていて、夜中に降ったのは一時的だったようだ。冷蔵庫を覗いてみるとビフテキは残ってなかった。旨かったかどうか聞こうと思ったが、和夫が物を言いたそうになかったので黙っていた。

午前中は洗濯物をしたりした。昨日ちょっと浪費したので、午後は買物に行くのはやめておく。夕食のおかずは、なすとニシンがあるので、それで間に合う。なすとニシンは相性が良いのである。昔、母がよく付け合せで炊いていた。

 

八月三日(金曜日)晴れ

久し振りに今日は温度が上がり出した。午後になって三十五度くらいまで上がった。二時ごろから自転車で錦へ買物に行く。この前桃を買ったが、うまかったので今日も買って帰った。夜に一つ食べてみると、やはりとてもうまかったので、買ってよかったと思う。

今日は不思議な日で、なんだか仏に関することが思い出され、どうしてか私が特に仏に縁があるように思われる。苦労かけた母のことを思い出す。

 

八月四日(土曜日)晴れ

午後から曇りになり、三時ごろから小雨が降り出した。久し振りの恵みの雨になった。雨量としては大したことはないが、雨音を聞くだけでなんとなく気が休まる。雨のため五時ごろから錦へ行く。うなぎを買い求め、帰ったのは六時前だった。お酒を燗してうなぎを肴に一杯やる。私は酒呑みだが、胃腸が弱いので夏場でもビールは滅多に呑まない。

 

八月五日(日曜日)曇り

今日も午後から雷が鳴り、しばらくしてから小雨が降り出した。昨日と同じ時刻に同じ現象だ。夕立は三日間続くと昔から言われている。

和夫は朝食もろくろく食べずに十時ごろから魚釣りに行って留守になった。昼も帰ってこなかった。私は昔から魚釣りは性に会わない。小さな針の先に餌をつけて一匹ずつ釣り上げるのだが、それも釣れるという保証はない。魚を取るなら網打ちだろう。これはなかな難しくて修行がいるが、一度に十匹以上獲れることもしばしばある。

三時頃から小雨の中を錦へ歩いて行き、小鮎を買って四時ごろに帰った。

いくらなんでも和夫も晩ご飯はうちで食べるだろう。鮎を天ぷらにする。

五時ごろ和夫が戻ってきたが、案の定獲物は一匹も持ち帰らなかった。食卓の鮎の天ぷらを見て、ちょっとむっとしたみたいだ。

 

2004.7.6追加更新

 

八月六日(月曜日)

夕立三日で、今日も三時ごろからほんの小雨だったが降ってきた。午後は自転車で錦へ行く。

うまそうな刺身が並べてあったが、夏場のこととて自重しておく。一切れだけテキ肉を買う。あまりぜいたくすると、和夫がどうも気に入らないらしいので、これは自分の小遣いから出しておくことにする。

帰って風呂屋へ行く。夜は八時から「けったいな人々」を見る。

 

八月七日(火曜日)

今日から気温が一段と暑くなりだした。暦の上では立秋というのに、まだまだ辛抱しなければならない。まだ八月上旬では涼しくなれという方が無理な話だ。

午後は錦へ自転車で買い物に行く。これという物はないので、茄子を買って帰るだけだ。茄子とニシンを炊いておくと和夫は文句を言わない。亡母(和夫の祖母)がいつもじょうずに炊いていた。

 

八月八日(水曜日)

いよいよ今日も暑さが厳しく、気象庁もここしばらく雨の降る気配はないと言っている。

午後は自転車で錦に買物に行く。暑くとも行かないと第一運動不足になる。

夕食にお酒を少し呑んで、それから行水をした。

八時から「銀座わが町」を見る。和夫は九時ごろに帰ってきた。いつもどおりむっつりしている。

 

八月九日(木曜日)晴れ

今日も実に暑い。午後三時ごろの気温が三十六度を越える始末で、湿度が高く、七月の暑さを上回ると思われる。相変わらず午後三時ごろから錦へ自転車で行く。

午後九時ごろに和夫が会社から帰ってくる。そして「みぞれ」をこさえて二階に持って上がってくれた。

 

八月十日(金曜日)

大阪が今年最高の三十六度以上に上がった。我が家の二階は熱気でとても二階にじっとしていられないほどの暑さで、畳が熱くなってくるのだからたまらない。

さいわい階下は誰もいないので、下に居座っているからよいようなもので、まったく困ったことだ。

相変わらず午後は自転車で錦へ行く。

午後八時より「赤ひげ」を見る。

 

2004.7.11追加更新

 

八月十一日(土曜日)

今日はものすごい暑さで、気温は京都で三十八度六分という今までにない高温である。我が家の二階の寒暖計でも三十七度五分を指している。

じっとしている方が暑さで弱る。暑いは暑いが外は多少風もあるので、三時ごろから例によって錦へ行く。一通りの買物をして帰ったのは四時半ごろだった。

しばらくしてから、宮川の妹が訪ねてきたのでいろいろと話を聞いた。相変わらず次男が家に引きこもっていて、就職もせず、のらくらしているらしい。困ったことである。母親も甘いのだが、私が出て行って意見しても聞くことはないだろう。ただ妹のグチを聞いてやるぐらいが関の山だ。五時半ごろ帰って行った。

和夫は八時半に帰宅した。夕食は会社で済ましてくるらしい。

 

八月十二日(日曜日)

昨日は暑さのため身体が少し弱って、腹の調子が悪くなった。今朝も大便が少ししか出なくて、まだ少し残っているようで気持悪い。

日曜日なので和夫は会社が休みだから朝から宅にいる。朝食をお膳に並べておいたら、黙ってごそごそと食べて、すぐどこかへ出かけた。来る十五日から観音寺へ弓子たちを迎えに出かける予定だから、汽車の切符を買いに行ったのかもしれない。

今日は朝から曇りがちの天気で、気温は昨日みたいに上がらず、午前中で三十四度だった。

 

八月十三日(月曜日)

今日もカンカン照りで、気象庁の発表によると、午後三時時点で三十八度六分を記録したようだ。十一日の気温と同じ高さである。その割りにはおとといほどに耐えられなくはなかったが、それは私の身体の調子がよかったためと思われる。

例によって錦に自転車で行き、帰ってからまた二条の長谷へ行き、スイカを五百九十円のを一つ買って帰った。また錦で仏さんの盆のお花を買ったが、それがまた高い。一束五百円である。年に一回のことだからと買って帰ったが、ずいぶんの高値である。

 

八月十四日(火曜日)曇り

昨日と打って変わり、午前中は曇りがちの空模様だったが、午後なって小雨が降りだし、涼しい一日である。台風十号が北上し出し、雲が日本列島に押し寄せるため雨が降りやすくなったようである。

今日も錦へ行き、買物をして帰った。

夕方は涼しいので行水は見合わせた。いよいよ明日、和夫が四国へ行くことになっており、今夜観音寺の弓子から電話が掛かり、京都のみやげ物を買ってくるように注文してきたようだ。またキミ子も電話に出て、私も替わってちょっと話をした。

 

八月十五日(水曜日)曇りのち雨

和夫が観音寺へ迎えに行くため、朝八時半ごろに家を出た。九時三十八分の列車に乗り込む予定だそうである。

私は八時半に起き、朝食を摂ったのち、皆が帰ってくるから一階の掃除をした。ちょっと寝冷えをしたのか身体が重く、働くのがしんどかった。今日も一日小雨が降り続き、お陰で涼しい一日である。雨の間合いを利用して、自転車で錦へ行く。店の半分は盆休みで休業している。

久し振りに風呂屋へ行く。

みんなは十七日に帰ってくる予定なので、一人住まいはあと十六日一日だけになってしまった。今夜は誰もいないのでテレビは下で見る。

 

2004.7.16追加更新

 

八月十六日(木曜日)曇りのち雨

朝八時半ごろ起きてみると、日が射して天気がよかったが、しだいに曇ってきて、午後から小雨がぱらつき出した。下のテレビが絵が故障で出なくなったので、大丸へ電話してすぐに直しに来てくれるように頼んだが、今日は盆でとても行けないらしく、明日午後になるようだ。

午後二時半ごろ錦へ行く。どじょうの皿盛りが二百五十円で売っていたので、夕飯に柳川なべを作ろうと買って帰った。一匹ずつ腹を裂いて背骨を取り、甘辛く炊いて卵でとじる。こんなことをいつの間に覚えたか知らないけど、我ながら素人離れのいい味付けになった。それを肴に一杯呑む。

夜になって雨がしとしと梅雨のように降ってくる。

 

八月十七日(金曜日)

いよいよ今日は弓子和夫と子供三人が四国観音寺から帰ってくる日である。家の中をできるだけ整頓しておいてやろうと、昨日一応掃除をしておいた。またみんなが帰ってから夕食の都合もしなけくてはならんので、一時ごろから錦市場へ出かけ、買物もして帰った。

午後四時半ごろにみんな無事に帰ってきた。夕食は弓子がカレーライスを作ってくれた。

みやげ話もそこそこにして、疲れているので十時過ぎに寝に就いたが、キミ子は二階で寝ると言い出したので、二階で寝かした。

 

八月十八日(土曜日)

みんなが帰ってきたので家の中は前の通り賑やかになった。その上、竹川さんの子供三人も遊びに来るので、むしろ以前よりやかましいくらいである。

四時半ごろに小荷物が配達されたが、その整理やらで弓子は大忙しだ。その間にテレビの修理人が大丸から来て、直すのに時間が掛かり、夕食はとうとう夜の九時を過ぎてしまった。

 

八月十九日(日曜日)晴のち雨

午前中に四国観音寺のみやげを届けに姉と妹の家に行く。そして午後にはバスで太秦の弟の家に出かける。蚕ノ社に住まう一番上の姉上はどうやら留守らしいので、みやげを相川へ預けて届けてくれるように頼んでおく。帰りは弟の長男聡君が車で送ってくれた。しばらく聡君とみんなで話をしているうちに、夕立が降り出しやがて大雨になった。久しぶりの豪雨に気温も下がり庭先が気持よく眺められた。雨が小降りになったので聡君が帰って行った。四時半ごろだった。

 

八月二十日(月曜日)

今日は九時前に目を覚ました。昨日一日みやげ配りに三軒を回ったので疲れたのだろう、前夜はちょっと興奮して、十一時ごろ床に就いてからしばらく寝つかれず、今朝は少し遅く目を覚ました。

夕立三日という通り、午後になって雷の音がすさまじく小雨が降ってきた。

 

2004.7.21追加更新

 

八月二十一日(火曜日)

竹川さんの子供三人ともトビヒに罹っているらしく、伝染する病気なので、弓子が非常に心配している。うちの子にうつったら困るので、なるべくいっしょに遊ばせぬようにしたした方がいい。だが、子供同士のこととて、なかなかそれを言い聞かすのが難しく、午後は向かいの岡田さんのうちへ遊びに行かせていた。

午後四時過ぎから、雷雨があり、相当強い雨が降った。

 

八月二十二日(水曜日)

今日と明日の二日間は毎年恒例の地蔵盆である。お隣のガレージ内に場所をお借りしてござを敷き、地蔵さんやら福引の景品やらが飾られている。午後一時より金魚すくいに子供達は嬉々として興じた。三時のおやつに冷やしそうめんが各家に配達されたが、仕出し屋の竹川さん特製だけに格別うまかった。今夜も子供達はスイカ割りなどの競技に夢中である。

夜八時「銀座わが町」を見る。

 

八月二十三日(木曜日)晴のち曇り

地蔵盆第二日は近江八幡国民休暇村水泳場行きである。予約の貸し切りバスで午前八時半に出発した。私は行かず弓子と三人の子供達で出かけて行った。留守中洗濯物をしたり家事をした。

四時過ぎに子供達が真っ赤に身体を日焼けさせて戻ってきた。

夜は八時ごろから福引があり、いろんなオモチャがたくさん当たるので、子供達にとって一番楽しいひと時のようだ。 

 

八月二十四日(金曜日)

朝から小雨が降りだし気温も三十度を割って、二十九度である。ながらくの炎暑で特に今年は七月早々から暑い夏日で、今ごろになると、夏の疲れで今日のような涼しい日は眠くてうつろうつろとしてばかりいる。年のせいもあるが・・・

午後八時から「赤ひげ」を見る。今回の赤ひげは割合によくできあがっていた。

 

八月二十五日(土曜日)晴のち曇り

朝からなんだか蒸し暑い。昼前から二階の掃除をして、部屋がきれいになった。

身体を動かしたせいか、午後一時過ぎの昼食が、うまかった。

そのあと一時間ほど昼寝をした。

夜十時半「コロンボ刑事」を見る。外国物の探偵劇ではこれが一番よいと思う。

 

2004.7.26追加更新

 

八月二十六日(日曜日)小雨

朝九時ごろ起き出した。今日は日曜で階下の一同も遅く起きてくるはずだ。朝から小雨が降っており、お陰でいくぶん涼しいことで、寒暖計を見ると、二十九度と三十度を割っていた。

起きたとたん大便をもよおし、少しお腹も痛かった。がまんして先に朝食を摂ってから便所に行ったが、下痢気味で便がだいぶ柔らかかった。

昼食の後またもよおし、便所へ行く。やはり少し下痢していた。これは寝冷えのせいだろうと思い、すぐ懐炉を入れてお腹を温めた。

 

八月二十七日(月曜日)

今日はまた残暑で、朝のうちは曇っていたが、午後になると晴れて暑い日になった。

昼食のあと、ミドリが外へ出たがっているので、久しぶりに御所へ連れていってやった。しかし御所もカンカン照りの暑さで、木の影でないととてもじっとして居れない。道すがら買ってきた桃をむいてミドリと食べたが、ミドリも今日は「かえろ、かえろ」と片言で言うので、早い目に帰ってきた。

夜の八時に「けったいな人々」を見る。

 

八月二十八日(火曜日)

朝から蒸し暑くて、午後になると一層に厳しく、三十四度を記録した。

それでも老人年金手帳を貰いに区役所へ行く。帰りにちょっと足を伸ばして大丸に寄る。店内に入るとさすが冷房が効いていて涼しかった。しばらく四階の休憩室で一服して、三時ごろに家に帰った。夕方から空模様が怪しくなり、雨が降り始め、やがて雷を伴う大雨になった。夜の七時ごろまで降り続き、お陰で降り止んだあとは涼風が立ち、気持がよかった。

観音寺から戻ってからキミ子はずっと二階で寝ていたが、今夜からまた下で寝ると言い出した。子供だからすぐに気が変わる。

 

八月二十九日(水曜日)

朝からか炎暑で、しかも蒸しむしする。

午後から茂を伴って散髪屋に行く。二人ほど先客があったので、少し待たされ、その上茂を先にやってもらったので、私自身は大分遅れた。茂は先に帰ってしまった。私は散髪のあと、少し散歩したいと思って歩いたが、帽子も被らず出かけたので、暑くて歩いていられず、そこそこにして家に帰った。入れ違いに弓子はキミ子を連れて自転車でデパートへ出かけた。ミドリが昼寝しているので、その番をすることになる。一時間ほどして、ミドリが目を覚まして、外へ連れて行けとせがむので、御池通りを散歩に出かける。小半時して帰ってみると、弓子達が帰っていた。

夜八時から「銀座わが町」を見る。

 

八月三十日(木曜日)曇り

朝からどんより曇っていて、どうやら一雨降りそうである。弓子は今日は茂の最後の健康診断のため、子供達を連れて市民病院へ出かけた。ところが、早々に雷雨に見舞われ、ずぶ濡れになったらしく、帰りはタクシーを拾って帰ってきた。

午後外出するつもりだったが、日差しが強く暑かったので見合わせた。

四時ごろに風呂に行く。さっぱりして脱衣場の椅子にもたれていたらうとうとしていた。

 

八月三十一日(金曜日)

茂とキミ子の夏休みも今日一日で終わりで、明日からまたまた学校へ行くことになる。今年は四国へ二十日ほども長く行っていたので、一ヵ月くらいはじきに経ってしまったことだろう。

午後から矢崎さんとこに家賃を貰いにバスに乗って出かける。帰りにまたバスに乗り、河原町四条で降りて、ニチイへ寄った。別段買う物は見当たらず、帰ったのは三時半だった。

夜八時「赤ひげ」を見る。今日の筋書きはあまりピンとこなかった。出来映えは「並」だ。

 

2004.08.01追加更新

 

九月一日(土曜日)晴れ

八時半ごろ目が覚めた。子供達は今日から学校へ行くので、持って行くものを整理しているらしい。元気な声が二階まで流れてくる。寝具を片付けたり居間を整頓したりして下へ降りると、はや二人とも学校へ出かけていなかった。

しかし、今日は始業式だけで十時半には二人とも帰ってきた。すぐさま、キミ子は堺町のリカちゃんとこへ遊びに飛び出して行ったが、昼頃に電話が掛かり、昼ご飯はリカちゃんとこで戴くからと帰ってこなかった。午後二時ごろになって今度は、リカちゃんとそのお姉さんをキミ子が連れて帰って来た。

一方茂は向かいの岡田さんとこの長男と二階で本を読んだりして遊んでいる。

 

九月二日(日曜日)晴れ

今朝五時頃、ちょっときつい雨が短時間に降り、一時間ほどで終わった。

今日は日曜日で、みんな朝起きるのが遅く九時前になってやっと起き出した。みんなは夏の疲れか散歩にも出かけず家に引きこもったままである。それで私も二階でごろごろして過ごした。

午後は三時半頃から風呂へ行く。誰もはいって来なかった。

八時から「国取り物語」を見る。

 

九月三日(月曜日)晴れ

今日から茂、キミ子は本格的に学校へ通うことになったが、まだ給食とまではいかないらしく、十一時過ぎに帰って来た。キミ子はリカちゃんといっしょに家に帰って、十二時頃にリカちゃんは帰っていった。

今日の夕刊によると、ソ連人で今年百六十八歳の世界最高齢者が、最近病気で亡くなったということだ。まことに惜しむべき次第である。それにしてもまったく信じられないことで、よくもこれだけ長生きしたものと感心する。

今夜八時から「けったいな人々」を見る。

 

九月四日(火曜日)晴れ

十一時半頃にキミ子は学校から帰って来たが、茂は十二時半になってやっと戻って来た。聞いて見ると、明日からは学校給食があるそうで、給食係がその準備を手伝ったらしい。いよいよ本格的に授業が始まるようである。私の子供の頃には学校で給食などなかったから、よき時代なのだろう。

 

九月五日(水曜日)

朝起きるとすでに雨がしとしとと降っていた。やがて相当に強く降り出して、九時半には樋から水が噴き出してくるほど強い大雨になった。しばらく降り続いてから、昼前には雨も止んだ。

テレビの画面が最近、突然に白く雪降り状態になるので、共同アンテナのせいに違いないと思い、今建築中の東邦生命ビルの係に電話する。やって来た電気屋に見てもらったが、原因が今一つ判然としない。

二三日下痢気味である。夜中寝ている間に身体が冷えるのか、今日も昼から二度も大便に行く。 あとの一度はあきらかに下痢症状で、都合で明日にでも幸山医院で診てもらおうと考えている。

 

2004.08.06追加更新

 

九月六日(木曜日)曇り

下痢が収まらないので幸山病院へ十二時前に行った。ところが患者さんが大勢待っていて、ようやく一時半ごろに診察してもらった。下痢の方は大したことはないようだが、心臓に雑音があると言われ、血圧を計ってもらったら百八十くらいあった。お腹が治ったら血圧の治療をするように言われた。

夕方からお風呂に行った。昼と夕とに胃腸薬を飲んだので、夜分になって大分にお腹の調子がよくなった。

 

九月七日(金曜日)晴れ

久し振りで晴れている。この調子なら日中はずっとお天気だろう。午前中に二階の掃除をする。窓を開けるだけで気分がいい。

午後はキミ子が学校帰りに四人も友達を連れて帰ってくる。しばらく二階の勉強部屋で賑やかにはしゃいでいたが、やがて静けさが戻って来たと思ったら、子供達が外へ遊びに行ったからである。

私のお腹は薬のお陰で今日は一段とよくなり、幸山病院へ行ってよかったと思う。四時半ごろから散歩に出かけ御池通りから寺町通りへと回り、竹屋町の飴屋で黒飴を買って帰った。

 

九月八日(土曜日)晴れ

今日は土曜日で、茂の誕生日のプレゼントを買いに行くのに茂とキミ子と共に昼から行くつもりだったのが、二人ともあまり進んで行きたがらないので、今日は中止をする。十三日までに行けばよいことだ。だいたい、茂はお金でくれと言っているが、それではいかんと思う。今ごろの子供は言うことをあまりきかない。すなおに喜ばない。

四時半ごろから散歩に出かける。二条通りまで行き、寺町通りを経て御池通りから家までで帰る。歩くのが一番身体にいいようだ。

 

九月九日(日曜日)晴れ

朝から晴れてはいるが、蒸していて暑い一日である。二時頃に二階で三十一度を記録する。昼からは茂だけは家にいたが、他は買い物に出かけて留守になった。和夫夫婦は今年で結婚十年になったので、記念として丹後の橋立ヘ来る十五日に旅行することになった。私も誘われたのでたまにはいっしょに行くことに同意した。

四時に皆は帰ってきた。

 

九月十日(月曜日)晴れ

昼食のあと、一時半ごろより幸山病院へ行く。相変わらず大勢の人が待合室に詰めかけていて、ちょっとうんざりする。仕方なく雑誌を手にとって読んでいるが、なかなか番が回って来ない。ようやく三時過ぎになって診察してもらった。シンデンズとかいう電気機械で心臓を診てもらったが、割合に平静らしく、思ったほど悪くないようだと医者が言ってくれた。血圧が下がる薬をもらって、また一週間後に来てくれと言われた。

 

2004.08.11追加更新

 

九月十一日(火曜日)晴れ

この夏は例年になく暑かったが、それも七月初旬からもう暑かったので、涼しくなるのも早く、近頃は朝夕めっきりと涼しい。今日も朝から涼しく、しかも曇ってきているせいで、大変楽である。

午後から外出して、大丸に行く。一巡見て回ったが、これとして変化は見られず、厚生会へ回って、白糸とベンジンを買う。錦市場へ寄り道して冨小路まで行ったが何も買わずに三時半頃家に帰る。

 

九月十二日(水曜日)晴れ

八時頃に目を覚ました。起きてみるとずいぶん涼しく、ちょっと寝冷えをしたかもわからない。

午後から、ミドリが二階で昼寝をしている間に弓子が美容院へ行くので、私が見ることになる。ミドリは今日はよく寝ており、三時過ぎにようやく目を覚ましたので、階下へ連れて行き、昼ご飯を食べさせた。お腹を空かせていてよく食べた。元気である。ミドリのお守りで私は外出など出来なかった。五時過ぎにようやくママが帰ってきたのでバトンタッチをして、ちょっと外へ出かける。

 

九月十三日(木曜日)

朝から曇っており、早朝に雨が降ったらしく屋根瓦が濡れていた。九時過ぎからまた小雨が降り出した。

茂の誕生日がいよいよ今日になった。近頃茂も大分丈夫になったようで、喘息もあまり出ないようである。不平を言わないように、キミ子にもなにかプレゼントするつもりだ。キミ子が学校から帰って来たら、大丸ヘいっしょに行くつもりでいたら、お金でくれと言う。自分の好きなものを自分で買いたいらしく、しかたなく五百円を現金でやった。三時過ぎから雨は大分強くなってくるが、ちょっと小止みになったところをみて、傘を持たずに風呂に行く。風呂屋から帰りに降り込まれた。

 

九月十四日(金曜日)晴れ

昨日夕食前に腹痛に見舞われ、便所に行ったところ下痢をした。食事にも差し支え、折悪しく茂の誕生日で、せっかくの食事もそこそこにして、正露丸を飲んで早く休んだ。夜中にも便所に行く始末で実に困った。

今日いつもと同じ時刻に起きはしたが、身体がしゃんとしない。明日の旅行も行きたくなくなってしまった。よほど悪ければ止めておくことになるが、今のところまだ分からない。

九時半頃から、学校の参観日で弓子はミドリを連れて出かけて行く。昼前に弓子は帰って来る。

午後、キミ子とみかちゃんを連れて御所まで散歩に行く。しかし小一時間で帰宅した。二人は帰るやいなや御池の八幡さんに走って行った。今日明日の両日がお祭りで、相変わらず賑わいを見せている。

 

九月十五日(土曜日)晴れ

夜中に大便に行った。まだすっかりよくなったわけではない。でも、せっかくの旅行だし、行くことにする。午前八時ごろ皆で家を出て、車を拾い京都駅まで走る。今日は敬老の日、明日は日曜と重なっているので人の出は大変なものだった。広い構内は人でぎっしり詰まっている。八時五十分の特急自由席はすでに長蛇の列で、結局乗れないので、次の急行の十時十五分に遅らすこととなった。どうして指定席をとらないのか、和夫の貧乏性はいつまでたってもなおらない。

ようやくのことで発車、天橋立へ着いたのは午後一時前になった。それから汽船とケーブルで笠松公園へ行く。私は若い時に何度か来たことがあるが、そこからの景色は昔も今も変わらず実に素晴らしい。高台から「股のぞき」をして景色を逆さに見るのも懐かしい。子供たちは大喜びだった。ベンチで持参した鯖寿司などを食べる。ちょっとした山登りなどして楽しんだ。

日帰り旅行だからたちまち時間が過ぎる。午後五時四十分発特急にて帰った。これは指定席であるため楽に乗って帰った。帰りだけ指定を取ったのも和夫のサラリーマンくさい計算だろう。私も相当に疲れた。

夜のテレビは敬老の日に因んだ催しもあったが、そこそこにして寝に就いた。

 

2004.08.16追加更新

 

九月十六日(日曜日)晴れ

さすが疲れたか皆は遅くまで寝ていた。

十時半ごろようやく朝食を済ませた。それからそれからすぐ昼になったが、誰も腹が空かず、午後二時前になってようやくラーメンを食べる。

昨日はずいぶん運動したから、今日は休養のため外出せずに家にいる。日記帳に昨日以来の出来事をぼちぼちに書いて時を過ごし、四時前に銭湯に行く。

夜は「国取り物語」を見る。

 

九月十七日(月曜日)晴れ

午後二時半に幸山医院へ出かけた。相変わらず大入り満員で長いこと待たされる。ようやく番が回ってきて診察してもらうが、前回レントゲン写真を撮っておいたので、その説明を聞く。以前に肋膜が少し悪るかった時の痕跡があるが、今は自然に治っているとのことだった。肝心の血圧が下がっておらず、薬を変えてみるとのことで、次は二十五日に来るように言われた。

 

九月十八日(火曜日)

朝から小雨が降っているので外出も見合わせ、所在なき一日である。

この頃は東京国技館で大相撲をやっていて、四時ごろになればテレビ中継がある。それだけを楽しみに最初から最後まで観ていた。

 

九月十九日(水曜日)晴れ

九月というのに昼からは残暑で蒸し暑く、じっと部屋にいられないので外出する。郵便局に寄って、九月分の年金を受取り、そのまま通帳に入金する。帰りに二条夷川の飴屋で黒飴を買って帰る。

 

九月二十日(木曜日)曇りのち雨

はじめのうち曇っていたが、十一時ごろから降り出して、陰気な一日になりそうだ。

四時前に風呂屋に行く。

夜は八時から鶴田浩二の「新撰組」を見る。十時半ごろ寝に就いた。

このごろ、毎日日記をつけるのが少し煩わしくなってきている。でもせっかく始めたのだから続けようと思う。

 

2004.08.21追加更新

 

九月二十一日(金曜日)

朝から小雨が降っていて、陰気である。

午後に上布団カバーの取替えをする。針を持つのは不得手だが、まあまあ慣れていてそこそこ縫える。習うより慣れろとはこのことだ。

夜八時、「赤ひげ」を見る。これも来週で終わるらしい。少し名残惜しい気がする。

 

九月二十二日(土曜日)曇り

朝から身体の調子が悪い。二三日前からなんとなく風邪気味なのが尾を引いているようだ。

午後も毛布を敷いて横になる。

四時過ぎにはだいぶ気分がよく無てきた。食事もうまかったし、少し元気が出てきたようだ。

 

九月二十三日(日曜日)晴れ

昼からは久し振りによい天気となったが、その分ずいぶん蒸し暑かった。

今日は秋分の日で祭日である。下の連中は墓参りに皆で出かけたが、茂だけは向かいの隆夫君と遊ぶので行かぬらしい。道路で自転車に乗って遊んでいた。私は身体の調子が今ひとつなので、気力なく、家で千秋楽を見て過ごした。

夜八時から「国取り物語」を見る。

 

九月二十四日(月曜日)晴れ

昨日の蒸し暑さと打って変わって、爽やかな秋日和である。身体の調子もよいので嬉しい。

下のみんなは今日も休みで、和夫が八ミリを持ってどこかへ出かけてしまった。相変わらず茂だけは家に残って隆夫くんと遊んでいる。親離れしてきたというのだろうか。

私は四時ごろから風呂へ行く。

 

九月二十五日(火曜日)晴れ

今日は幸山病院へ診察に行く日である。十一時半ごろに出かけたが相変わらず大勢の患者が来ている。一時前にやっと番が回ってきた。院長に診察してもらったが、血圧測定の結果は、大分下がっていたので一安心とのことだった。168/80 これくらいで安定すれば結構だと先生も言ってくれた。それでも薬は引き続き飲むようにと言われた。とにかく下がって気持はほっとして家に帰った。

 

 

次回は2004.08.26追加更新の予定