定年日記目次

 

 

 

 

 

退職早々多忙な日々

永年勤めた会社の破綻、京都から岐阜へ・・・

それから再び京都に戻り、二年の後・・・

 

 

 

2005.04.06 再編

平成六年

退職前夜・・・

 

パートに出ている妻の礼子は遅番なので玄関はまだ閉まっていた。ポケットから鍵を出し戸を開けて中にはいり、電灯をともすと、食卓にすき焼きがセットされていた。ガスレンジに火を点け、しばらくして、焼き豆腐がくつくつと煮えてきたところで、一人ですき焼きを突ッつく。

八時半ごろ彼女が帰ってきた。

「どうやった?・・・終わった?」

「うん、終わった。」

冷蔵庫からぶどう酒を出してきて二人で乾杯する。

 

 

七  月

 

自由第一日。

六時前に起き出した。昨日までよりむしろ早い。

最近私の役目となっている朝のサンドイッチを作る。ハムと玉子焼きとレタスを挟み、押しを掛けて十分ほど置いておく。それからおもむろに端を切り、さらに中央に包丁を入れて出来上がりである。皿に盛るのも私の得意とするところだった。

九時には歯医者を予約していた。御池通りを烏丸に向かうと、地下鉄からスーツを着込んだサラリーマンが湧き出てきた。私は半袖のポロシャツ姿である。まだちょっと自分自身に違和感をおぼえ、心の中でたじろいだ。

「どうします。ちょっと外してみますか?」

と医者は私の同意も得ないまま、削り始めた。痛みは少し取れたようだ。

家に帰ると礼子が用事をこしらえて待っていた。御所の梨木神社へ水汲みに行こうと言う。ここの古井戸は京都三名水の一つで、いつも数人が並んで水を貰っていた。

昼から区役所に行き、戸籍謄本と妻の非課税証明を取り、国民年金切り替え申請をし、その足で四条通の年金保険センターを訪ねる。私と礼子の年金支給状況を詳しく調べてもらった。まあまあ食うには困らない。

夕食後二人で町に散歩に出かける。鴨川の岸辺でアベックのすき間に我々も並んで座り込む。これが自由というものだ。

九時前に帰宅したが、娘のすみ子は勤め先の京セラからまだ帰ってなかった。

 

翌朝もサンドイッチ作りから始まる。

今日は奥の間を整理することにする。家内に掛け合って部屋の改造費五万円を要求する。それ以上は私が負担するという条件で話し合いが成立した。

早速自転車でスーパー「サカエ」に行き、組立棚を二台五千円で買って来る。

礼子は昼から会社に出かけたので、私ひとりで棚を組み立て、整理に取りかかる。すみ子は会社の組合行事とか言って出かけてしまった。

窓を開けっぱなしにしていても部屋は一日中蒸し暑く、いる物いらぬ物、ひっくり返ったまま整理はなかなか捗らなかった。しょっちゅう喉が乾き、梅干を舐めては麦茶を呑み、チョコレートを食べてまた麦茶を呑んだ。それでどんどん加速して喉の乾きがますます止まらなくなってしまった。

五時を過ぎても片付かず、結局目に付く雑品を押入れに放り込んで、なんとか礼子が帰って来るまでに座敷に座れるようにした。へとへとに疲れた。

 

早く目が覚める癖がついてしまった。

朝から整理の続きをやる。結構時間が掛かって、三十分ほど昼寝もしたが、今日も夕方まで掛かった。

日曜にもかかわらず、すみ子は朝は会社主催の朝茶会、夜は夜で先輩の結婚式の二次会に招かれていて一日いない。

夕食後、整理で出てきた古いお札(ふだ)や去年の福笹を収めに、散歩がてらに家内といっしょに出掛ける。京都ホテルの裏庭のベンチにしばらく腰を掛け、三条京阪で礼子がトイレを借り、縄手通りを恵比寿神社まで歩くが、あいにく「えべっさん」はタイムアウトで閉門していた。仕方なく近くの権現さんが開いていたので夕闇にまぎれて神社の古いお札納めに投げ込んで帰る。

先日同様、鴨川べりでアベックの真ん中に分け入ってしばらく涼んでいく。我々以外は、右も左もアベック同士しっかり抱きあっている。

 

早朝から自転車に乗って鴨川界隈を一回りする。夏の朝はすっかり明けきっていて、東山から昇る朝日がまぶしかった。空気も澄みわたりすがすがしい。

朝食後再び自転車で御所の梨木神社に水汲みに行く。帰って来たらちょうど朝の連続テレビ小説「ぴあの」が始まるとこだった。

九時からは歯医者の予約をしてあるので急いで出かける。

「痛みは取れましたか?・・・なら、今日はこれまで。」

なにか名残惜しかったが、帰るしかない。

夷川通りの家具街へ棚を見に行く。手ごろなのが見つかって持ち帰りなら安くしときますというので自転車に積んで戻ろうとしたがとても無理なようだ。ちょうどそこへ店の主人が帰ってきて近くなら車で運んであげようと言ってくれて助かった。

昼からは礼子は出勤なので、私は昼から東階段のどんつきに棚を取り付けにかかる。四時半ごろにようやく完成して階段横がすっかり片付いた。我ながらいい出来栄えだと、礼子に報告したくて、彼女が帰ってくるのを今か今かと待った。そして、貴の花が舞の海に負けた後の、六時ごろにやっと戻ってきた。

「すっきりしたわ。」と、気に入ってくれたらしく、明日は二階の片付けを手伝うと自ら申し出てくれた。

 

朝食後、昨日厚生年金基金のSさんから電話で依頼してきた住民票を区役所へ取りに行く。受付は昔より少し愛想がよくなっていた。

帰ってから、洗面所の下の小物入れに棚を付ける。夕べは二階を片付けを手伝うと言っていた礼子だが、あまりの暑さに今日はやめて、デパートにお中元を送りに行こうと心変わりした。

昼から地下鉄で近鉄デパートに出掛ける。中元特売場で礼子は毎度のことだがさんざん品物を吟味する。前もって何を贈るか見当をつけて来るべきだと言うのだが、要するにそれが彼女の愉しみなのだ。私はその間に無料サービスのアイスコーヒーを頂く。

引き続きに高島屋へ行き、私はここでもオレンジジュースを頂く。缶入りジュースと紙カップのコーヒーでは差が大きい。さすが高島屋だ。礼子は中元の受付がすべてコンピュータだと、これも高島屋に軍配を上げた。

トロッカに寄ってクリームソーダを、礼子はチョコパフェを注文する。

スーパーサカエで板材を買って帰り、東階段の狭い踊り場に棚を吊る。

「退職後は閑と感じたら負け」と自分で勝手な格言を作って五日目を過ごした。

 

今日も快晴である。暑くなりそうだ。

朝食後、御所の東側にある梨の木神社に水汲みにに行く。ここの水は京都三名水の一つで、遠くからも汲みに来る。今日は六人ばかりの先客があった。犬に水をやっているママさん。

「うちの犬はここの水しか、水道の水飲ましませんねん。」

夷川のタカハシに行って台所の納戸に入れる手ごろな棚を買い、配達してくるまでの間に礼子と納戸の中のものを放り出しに掛かる。まあ、あるはあるは、玄関の間が山のようになった。

みやびホテルの六本木部長から電話があった。

「急なんやけど土曜日はどうやろ。」

別に用もないし異存はなかった。

「ほな時間は六時半やけど場所はまた連絡します。」

経理部で送別会をやってくれるらしい。

サカエ行って壁紙を買ってくる。納戸の壁に壁紙を貼る。

三時ごろに棚が届いた。ガスの元栓が出っ張ってるので奥行きの浅いほうにしておいてよかった。それでもぎりぎりで、みごとなほどピッタリだった。

半分は捨てるように言ったのに、礼子は相変わらずなんやかやと残したがり、結局再び詰め詰めの満杯になってしまった。

夕食後、鴨川へ散歩に出る。近頃異常に喉が乾き口が粘る。京都ホテルの裏庭で水道の飲水器で試飲する。ただの生暖かい水道水だった。

帰ってからのビールがうまかった。

 

朝の散歩は今日はやめておく。

洗濯機と階段の間の物置はもう以前から鼠の巣と化している。徹底的に掃除し、開いている直径五センチばかりの穴をセメントで塗りつぶし壁紙を貼った。棚を付けてその棚にも壁紙を貼ったら見違えるように奇麗になった。

礼子は昼から出勤だったが、私は引き続き風呂の前に棚を新調し、東階段の上にもう一段棚を吊る。

夕方、六本木部長からまた電話が掛かってきて、場所は河原町六角の「すし松」だと告げた。

その頃からひどい夕立になる。雷も鳴った。夕立の後も小雨が残った。

棚吊りはとうとう八時過ぎまで掛かってしまったが、夜は雨のお陰で少し涼しくなった。

 

朝食後妻に同行して自転車で知恩院へお詣りに行く。夏場で、さすがに人影はまばらだった。礼子の母親が一昨年亡くなったのを機に、京都の本山に分骨し、永代供養を奉納した。以来彼女は毎月八日の月命日に知恩院にお詣りしている。義父も義母も四月八日の同じ日に亡くなった。ふしぎなこともあるものだ。

帰ってきたらすぐ、予約してあった歯医者に出かける。針の先に膿を見せてくれた。

「膿のとこに到達したんですね。すぐに全部吸い取ってくださいな。」と私。

「そうは簡単にいきませんよ。」と先生がマスク越しに怒ったように言った。

結局一週間に二回ずつ通うように命ぜられる。

昼飯まで一時間ほどうたた寝する。

今日は片付けはお休みにしようと礼子が提案するので、私も気勢をそがれて一服することにする。

昼から退職の挨拶文をワープロして、夕方からそれを持って駅前のディスカウントショップにコピーに行く。そのあとアバンティーで「貴船弁当」を二人で食べた。行きも帰りも歩いたのでへとへとになる。ノンアルコールのテキサスビールを飲んでみる。いけると思った。

 

五時半に起き出して礼子と鴨川まで散歩に出かける。早朝の河畔はさすがにひんやりと気持ちがいい。退職挨拶の葉書をとりあえず十二枚お尻のポケットに入れて出掛け、途中にポストがあったのを、そのまま忘れしていて、三条京阪の便所に屈んだので二つ折れになってしまった。悪いがそのままポストに放り込む。昼から退職挨拶状の宛名書きを三十枚ばかりして、これはまっすぐポストに入れた。

二時半ごろから梨木神社に水汲みに出かける。

帰ってきたら、次女のすみ子が冷蔵庫から昨日のノンアルコールビールを出してきたので二人で飲む。

退職精算と離職票が届いた。

夜は六時半から送別会ということで新京極蛸薬師の「すし松」へ出かける。全部で二十人ばかりのこじんまりした送別会だったが、料理はなかなかのものが次々と出た。  

「毎日なにしてはります?」と同じ質問があちこちからくる。

「毎朝散歩に出かけ、昼は昼寝の繰り返しや。」

私はもともと飲めないから九時ジャストで二次会を断わって帰ってくる。これで一切から解き放されたと思った。 

 

五時起床。妻と二人で小一時間サイクリングに出掛ける。

朝食後 、娘も引き入れて三人で二階の片付けを始める。夜の七時半まで掛かって何とか一通り形がつく。

東京の長男から中元にそうめんの小さな包みを送ってきた。

「なんやえらいケチったな。ボーナス出えへんかったんやろか。」と礼子は不服そう。

それでも母親は晩にお礼の電話をしていた。二人で稼いでも月々は赤字で、ボーナスで生活費の補填してるんだと保雄は子供どころではないようなことを言う。電話を切ったあと礼子は今度は急にかわいそうに思ったのだろう、おろおろして、

「なに送ってやったらええやろ・・・」

としきりに私に問いかけた。

長女の佐和子は東大阪に嫁いでいて、舅姑と同居している。その小川家の長女は結婚して、芦屋のマンションで暮らしているが、妊娠し臨月を迎えて実家に帰っていた。それが今日陣痛が来て病院に入ったとお父さんが嬉しそうに電話で報告してきた。

 

十時ごろ佐和子から、久子さん(佐和子の夫の妹)が明け方三時ごろ男の子を出産したと報告してきた。

礼子は昼から出勤だった。それで十二時前少し早めに昼食をとる。きつねうどんは私の注文である。麦茶のコップが出てなかったので、

「コップ、コップ」

と食卓の前に座ったまま催促すると、

「コップぐらい自分で取ってきたら!」

と礼子のいらいらした声が台所から返ってきた。

私も暑い最中ちょっとむっとして、

「いろいろ手伝うてるやろ。一つぐらい抜けても目くじら立てるな。」

と言い返す。礼子は黙ってしまった。

一時前ごろ小川さん(佐和子の嫁ぎ先)にお祝いの電話を掛ける。難産だったらしい。

「そのうち寄せてもらいます。」

と話を続けたが、先方はあまり来てほしくなさそうだった。

昼から職安へ炎天下を自転車で出かける。親切に応対してくれて、「キャリヤ」に登録しておけば、と登録用紙をくれた。また退職理由に、「仕事がきつい」と書いておくといいと耳打ちし、そうすれば六十歳以上の場合一ヵ月後に支給開始されるからと教えてくれた。

帰ってから風呂場のタオル棚を吊り、夕方から御所へ水汲みに行く。 

 

朝から昼寝ばかりする。この間スーパーで買った籐の枕が気持よくてよく寝られる。

昼から礼子は裏通りの友達のうちへリズム体操に出かけたので、また昼寝をし、風呂を洗い、溝蓋の掃除をし、米を三合かし、折紙協会から依頼のあった「クラシックカー」を二台折る。

みやびホテル在勤中従業員向けに、クラブ活動のひとつとして小人数の折り紙教室をやっていたが、その数少ない会員だったSさんとMさんから餞別にビール券を送ってきた。

家中ごみ袋だらけになっている。整理しだすと湧き出すようにゴミが出てくる。

「なんでも捨てて、後になって困っても知らんえ。」

と妻は機嫌悪く、従ってあまり手伝ってくれない。

その上、もう毎日水道工事で町内中が堀り返されていて、ちり紙交換も入って来ないし、ゴミは溜まる一方である。古本屋に何軒か電話してみる。やっと一軒が取りに来てくれた。文庫本やなんかで二千円払って帰った。

今日はとうとうみやびホテル友の会(OB会)に出かけなかった。 

 

五時半に起きて鴨川までサイクリングする。河畔に自転車を置いて最近出来た散歩道を歩く。いい天気だった。川の真ん中の  飛び石を伝って向かい岸に渡り、また戻ってくる。

一日一句を目標に始めた俳句は最近全然出来ない。特に今日は寝不足で浮かばない。ところが礼子は感心にも帰ってメモを取ってみると五つ六つ出来ている。

「自動車の折り紙」をもう一台折る。この折り紙はおそらく、世界中で私しか折れないだろう。

経理部とSさん等に礼状を書く。

住友生命まで保険の解約に行く。職場の義理で加入した保険だからさっさと止めた方がいい。暑い日盛り、四条通りに祇園祭の鉾が立ちかけている。

みやびホテルの株を売ったその代金が京都銀行に入金された。

先日来案内状をもらっていたので、夕食後、寺町の平安画廊でN君の版画の展示を見に行った。本人は見当たらなかったので芳名録に名を留めてそこを出る。ついでに鴨川まで足を伸ばすが、むんむんしていて全然涼しくない。その上暑苦しいアベックが岸辺に並んで座っている。腹を立てて帰ってくる。

飲んだビールでまた暑かった。

 

午前中銀行回りをする。

住友でドルのトラベラーズチェックを千ドル組む。十時以後レートが変わりますからと急がされて、「1000」とだけ書いてインプットしてもらう。十時前と後で六十銭も違うのだ。

昼から礼子が出勤なので、一人静かに折紙協会提出用の「クラシックカー」の折り図を書く。

三時にサカエへ自転車で走って、壁紙と布巾掛けなどを買って帰る。錦市場に寄って、ドイツ製のノンアルコールビールも仕入れ、帰りかけたら雨がぱらついてきた。大急ぎでうちに走って帰ったが、結局夕立ちは来ず、しばらくしたらまた陽が射してきた。

折り紙仲間のKさんから葉書やら手紙を戴いた。

折り図はなかなか捗らない。

夜ノンアルコールをがぶ飲みするが、やはりあまり旨いものではない。

次女のすみ子は九時過ぎに勤めから帰ってきて、それからまた用意をして出て行った。会社の友達十人ばかりで車を飛ばして修善寺へ行くらしい。

 

今日も暑くなりそうだ。

パートが休みの礼子は朝から押入の整理を始める。

私は折り図の続きを始める。なかなか捗らない。書き損じばかりする。

昼から京都ホテルの新館を見物に出かける。フロントはみやびホテルと較べると狭くて暗い。一階のコーヒールームでコーヒーを飲む。十七階も見に行くが廊下は窓も何もない。地階のテナントコーナーも見て回る。うどん屋と寿司屋があった。手頃な値段で食べられそうだ。これはみやびホテルよりいいと思った。

餞別に貰った商品券を使って高島屋で夏の帽子を二千円で買う。

 

午前中に二階の押入の整理をする。大分すっきりして襖の開けたてがすいすい出来るようになった。

昼から、礼子は出勤なので早昼を食べ、ままごとのような弁当を作って出掛けた。

三時過ぎに経理の外山君が奥さんを伴ってやってきて、積立金の返金を持ってきてくれた。八ヵ月の赤ちゃんを連れていた。家内は今いないけど上がったらと声を掛けたが、すぐに失礼しますと帰っていった。あとでやはり無理にでも上がってもらうんだったとちょっと後悔する。

杉山さん(私の前任の総務部長)から暑中見舞が届き、近々会いましょうとのこと。

三時半ごろ、東大阪に嫁いでいる佐和子たちが車でやってくる。佐和子の夫利武君が大きな西瓜を担いできた。冷やしておいたつもりの二階の冷房が利いていない。気温は三十度を越えている。

私は礼子から言いつかった手巻き寿司の材料を買いに阪急とサカエに自転車で走る。帰ってきたら利武君が二階のクーラーを掃除してくれていて、なんとか冷房がきくようになっていた。夜は祇園祭の宵山を見に行く。

今年三つになるさやかに夜店で玩具を買ってやろうとしたら、「高いからいらんいらん」と佐和子が言うので、帰りにコンビニでアイスクリームを買って帰る。

 

六時前に起きて、私の担当となったサンドイッチを作る。

祇園祭の巡行が始まり、十時半ごろには先頭が御池通りにやってきた。カンカン照りで、さやかはろくろく見ないうちに「もう帰ろう」とぐずり出す。

利武君のいない間に東京の長男に電話して静子さんの出産祝の相談をする。保雄は起きたとこらしく生返事で、あまり乗り気でないみたい。

さやかは鼻水を出しているし、利武君も風邪ぎみで風邪薬を飲んで二階で寝てしまう。

一時ごろに御池通りをしんがりの船鉾が通り過ぎた。

甲子園みやびホテルの岩本常務から電話をもらう。一度会いたい、来てくれ、相談がある。とのこと。何のことかわからないが、近々折りを見て 寄せてもらいますと返事をした。

東大阪の小川さんにもらった大きな西瓜は切り応えがあった。

夕方御所の梨木神社に水汲みに行く。十一人も並んでいた。中には一升瓶六本を一人で担いで来た人がいる。「一人五リットルまで」と張り紙してあったが、だれも咎める人はいない。私だって厳格には5リットルを越えている。ペットボトル五本持ち込むのだから、一本当たりは1・5リットルで、合計にすれば7・5リットルだ。

夕食は佐和子が冷蔵庫の残り物で七品一汁の豪華な夕食を作ってくれた。

利武君は結局十時半ごろまで二階で寝てから小坂に帰った。

 

昨夜は少し暑さがましだったように思う。

朝の日課のサンド作りだが、サンド用のパンにかびが生えたので急遽ホットドッグに変更する。

朝方はさやかたちは富小路児童公園に遊びに行った。

二時過ぎから庭にプラスチックのたらいを置いて子供たちに水浴びをさせる。二時間たっぷり遊んで、いつも昼寝をしないさやかが真っ裸でこくんと寝てしまった。

夕食後も私は「クラシックカー」の折り図を描き続け、なんとか完成させる。

子供たちは九時過ぎに寝た。

そのあと、十四日から修善寺出かけていたすみ子も帰ってきた。

 

昨夜は涼しかった。何日ぶりかで熱帯夜から解放された。

午前中 折り図の説明文と展開図の修正をし、昼に作品を小包にして折り紙協会あてに郵送する。

広部元専務に餞別のお礼の電話をする。私より一足早く引退した彼も最近は年寄りくさく庭いじりをしているという話だ。

昼からは礼子は近所の五島さんとこへリズム体操に出かけ、佐和子と子供たちは御池幼稚園に遊びに行ったので、私は押入れを少しかたずけ、鉢の植え替えをする。

昼からそれほど暑くならなかったのでクーラーなしで過ごす。

 

今日も朝のうち涼しかった。

科学センターへ連れて行く予定だったが、佐和子の賛成を得られず中止になった。

佐和子は朝から子供たちを庭のプールで遊ばせたがったが、さやかはほとんど浸かる間もなく揚がってしまった。

昼から、私がプールの模様替えをしておもちゃを浮かべてやると、一時間ばかり子供たちはじゃぶじゃぶ遊んだ。

私と礼子で一階の階段下の押入の整理をする。昨日と今日でまた四袋もごみが出た。あとはごろ寝で過ごす。

夕食後、皆で散歩に出る。元の駸々堂書店跡のレトロ風夜店でソフトクリームを食べて帰る。

 

大型ごみを出していると、古道具屋が寄ってきて何かありませんかと聞くので、ためしに銀の茶卓なんかを出すと千円で持って帰った。

竹田フェアーへ行って本立やら風呂場の扇風機やらガラクタを買ってくる。しめて八千円は安いのか高いのか。

昼からはまた子供達は庭のプールで遊んだ。

私はだんだん身体が鈍ってくる。暑くて思考力がにぶり、ひたすら眠くなってくる。

 

去年生まれたばかりのマナが熱を出した。佐和子が高木病院に連れて行ったが、どうやら喉をやられているらしい。

昼から職安へ行く。私は三級に認定されているので、会社都合と同様に次の認定日から即支給が開始されることとなった。

三時半頃家に帰ってみると佐和子が青い顔をしている。今日夕方から夫の会社三田工業で行事があるのに子供連れで参加するはずだった。マナが熱を出したので佐和子が行くのを断わったことで、利武君が機嫌が悪くなり、もめたらしい。

やっさもっさで結局、子供を置いて佐和子だけ出かけることになる。

さやかは一時間ほど泣いて、なだめるのに苦労した。「不思議の国のアリス」でやっと気をそらすことが出来た。

利武君と佐和子は九時半ごろなんとか仲良く帰ってきたのでほっとする。利武君は一晩泊まって帰ることになった。

 

夜中、礼子が寒い寒いと言い出し、風邪薬を飲んで間もなく今度はざくざく汗をかき出した。二、三回パジャマを着替え、私も頭が痛くなって、バファリンを飲む。

 

朝六時に利武君は、「休日出勤です。」とご飯も食べずに車で出かけた。                                                          

礼子は熱も収まったようで、昼から出勤する。一人になって私はまた竹田フェアーへ出掛け、靴用の棚とすみ子のへやの組み立てハンガーを買ってくる。いつの間にやら買い物好きになっていた。

 

すみ子はバイト先の友達と日本海に朝早くから出かける。じっと家に留まっていない娘だった。

十時から「全国祇園祭大会」と銘打って各地の山鉾が勢ぞろいして御池通りを通るので、子供達を連れて市役所のあたりまで見物に出かける。ところがろくろく見ないうちにさやかが帰ると言い出し、結局私一人がビデオカメラ片手に一時半まで過ごす結果となった。炎天を佐和子が心配して自転車で帽子を届けてくれた。小倉祇園太鼓、熊野神社の山、巨大な日立風流物、一番見たかった博多祇園山傘は最終尻だったからなお遅くなる。ビデオを撮り続けていそいそと帰って再生してみたら、焦点があまりよく合ってなくてがっかりだった。

礼子は日曜出勤で、仕事が捗ったからと、さやかたちにシュークリームのお土産を買って帰った。

夜遅く、すみ子は日本海で少し日焼けして帰ってくる。

 

夜中に私の夜具の上から腕にかけて子ねずみが走った。ねずみが大嫌いな私は、しばらく豆電球をつけたままにしておいて目を凝らして起きていた。暑くて蒸し蒸しした夜だった。

朝になっても暑さは去らない。台風はなかなか上陸しなかった。

私が歯医者に行くあいだ、さやか達も風邪で病院に行った。

昼から私はねずみの穴ふさぎに取りかかる。

夕食はなぜか赤飯に鯛の刺身だった。

「遅ればせの退職祝や。」と礼子に言われたが、ちょっとその気にはなれなかった。夜には西瓜も出た。

 

台風は日本海に抜けたが、雨は一向に降らなかった。

 

竹田フェアーに、そうそう買い出しに行くほどの持ち合わせもなくなった。

三時ごろからみんなで高島屋へ出かけ、お中元を一軒送り、玩具売り場でマナがミニーの縫いぐるみを離さないので買ってやる。さやかは冷蔵庫の玩具を買ってもらった。

窓の外は夕立だった。

それから阪急の七階でラーメンをみんなで食べる。

うちに帰ったらさやかが熱を出していた。すぐに佐和子が病院へ連れて行く。デパートに出かけたことを佐和子は先生にこっぴどく叱られたらしい。

それでもさやかは案外元気で、冷蔵庫の玩具で十時ごろまで遊んでいた。

          

昨夜は少し涼しかった。

しかし今日はまた暑くなるそうだ。

二時ごろ梨木神社に水を汲みに行ったが、日中でも次々に水汲みにやってくる。平日にもかかわらずこの人達も勤めには行かなくていいのだろうか。

昼からは礼子は友達のうちにリズム体操に出かけたので、夕方まで孫と娘と三人で買い物ごっこをするはめになる。

夜は夜でさやかはなかなか寝なかった。

十時過ぎにやっと寝かせて佐和子が降りてきたとたん、家庭のぐち話をし出したので寝るのが十一時を過ぎてしまった。

 

台所の抽出の整理をし終わったとこへ子供達が起き出して、二階から降りてくる。さやかは機嫌がよくなったり急に悪くなったりする。

私は十時を過ぎるとうたた寝がしたくなる癖がついていたから、部屋の隅でごろっと横になる。

昼から礼子は出勤で、子供達もなかなか昼寝してくれないから不承不承子供の相手をつとめる。やっと寝たところで、礼子に言い付かっていた冷蔵庫の野菜ケースの修理を始めた。

三時過ぎに子供たちがもう起き出してきた。

夕食のカレーライスを食べてからまた梨木神社に水汲みに行く。わざとゆっくり戻って来たが、まだ子供達は起きていた。

明日は人間ドックなので十時以後は飲食禁止。いらいらしていたら、やっと九時半に皆寝てくれた。

 

朝食抜きで人間ドックに出かける。九時前に入ったが、今日はすでに七八人が順番を待っいた。

礼子も私も特別に異常はないようだった。十二時過ぎに診療所のサービスの「おかゆ定食」を食べて帰り、ちょっと昼寝をする。

二時過ぎ、突然、岸辺の叔母から電話が掛かってきた。従兄の雅弘が大丸の近くで、交通事故に遭い救急車で運ばれ入院したとのこと。声がおろおろしている。横から市の福祉事務所のMと名乗る女性が電話を取って、病院から電話しても通じなかったこと、雅弘が持っていた障害者手帳から福祉に電話が掛かり、そこで自分が頼まれて自転車で叔母のうちを覗きにきたこと、下条外科病院に救急車で運ばれ手術と二ヵ月の入院が必要なこと、などを手早く話してくれる。

すぐ私は上ん町の叔母のうちに駆けつけ着替えや洗面具などを一まとめにしてタクシーで病院に駆けつけた。

患者の従弟と名乗って担当の医者から症状の説明を受ける。レントゲン写真を見せてもらい、左大腿骨の付け根が骨折しており、一週間ぐらい先に手術をして、後二ヵ月の入院を要するとのこと。歩行は回復するが、杖をつくことになるだろう、との所見を聞かされた。

病院から叔母宅に電話するが通じず、礼子に電話して結果を叔母に知らせてもらった。帰りに 雅弘が大丸で買い物した品物と自転車の鍵を受け取って帰る。

叔母のうちの電話は電話器の裏のボタンがオフになってたらしく、佐和子が行って直して来たらしい。どうしてオフになっていたのかは分からない。

桂に住む岩佐の叔母にも状況報告する。

夕方大丸の前まで自転車を取りに行った。緑の自転車で後ろが痛んでると聞いてきたので探すがなかなか判らない。係の人に聞いてみると、昼間の事故のことを知っていて、別のところに保管してくれていた。様子を聞いてみると、やはり自分で倒れたらしい。

夜は夕食後タクシーに叔母を乗せて病院へ出かけた。

入るなり雅弘は母親に、「箸、箸、肝心なんを忘れて!」とどなる。彼は幼時の怪我が元で軽度の知能障害が残っていた。

本人に確認したら、頭がふらっとして倒れたとのこと。

箸は明日の朝届けるからと宥めて、八時前に引き上げた。

 

九時前に叔母のうちから箸と寝間着を貰って病院に届ける。

十時の開店を待って大丸でナガサキ屋のクッキーを買って、昨日通報してくれた駐車場の主任さんを尋ねたが、「まもなく出勤してきます。」と言うので、十時四十分まで狭い事務所で待つ。女性の主任さんだった。

昼から叔母のうちに行き、朝の経過を報告しておく。

「あとは手術の前ごろに行ったらええなあ。」

と叔母の方は案外落ち着いていた。

三時過ぎ岩佐の叔母に電話してこちらにも経過報告しておく。叔父と叔母は朝のうちに病院に見舞いに行き、岸辺にも寄ったとのこと。

子供達は寝ない。とうとう昼寝なしに夕飯時を迎えることとなる。

十時ごろすみ子は神戸のプールから日焼けして帰ってきた。

 

今日も暑くなりそうだった。

すみ子は久田君という男性と最近付き合っているらしく、今日も彼と日本海に出かけた。ちょっと聞くと同い年で、背の高い真面目な子らしい。

今日も子供達は一向にお昼寝をしなかった。

夕方水を汲んで、帰って来たら、利武君が案外早くやって来ていた。日本海越前海岸を二時過ぎに出たらしい。体中真っ黒に日焼けしていた。

夜はごちそうだった。

利武君は食べ終わってシャワーを浴び、すぐ二階に行ってそのまま寝てしまった。

九時過ぎから佐和子と礼子と三人で酒盛りを始める。佐和子は今日限りの水いらずだからとビールをよく飲んだ。

十一時過ぎにやっとお開きにして片付けていたら、すみ子がやはり日本海から帰ってきた。

もう寝ようという頃、佐和子とすみ子が揃ってやって来て、私の退職の祝いと言って金封をくれた。私は片手にさやかの椅子をぶらさげたまま照れながら受け取る。

今日は一日雅弘の怪我のことは頭から消えていた。

 

 

八  月

 

五時半に起きて、サンドイッチを五人前プラス一人前作る。一人前は叔母の分だ。

九時から歯医者だった。

「今日で被せ終わりましたから、もう来なくていいですよ。」

と言われるとちょっと寂しい気持だった。

佐和子と利武君が荷物を車に積み込み帰り支度を始めていた。十時半に車が出て行った。助手席の佐和子は押小路通りを曲がるまでずっと手を振っていた。

礼子は会社の上司にお中元するからと早めにうちを出る。私は昼は即席ラーメンを作って済ませておいた。

あとはいかにもがらっとして静かだった。

住友銀行の前で経理のS君にひょっこり出合う。今朝の人事移動で部長が二人誕生したと打ち明けてくれた。みんなどんどん偉くなる。もう遠い世界だった。

甲子園みやびホテルの岩本常務に電話するが外出中とのこと。

ちょっと片付けものをしてたら長岡の従姉(井村麻子)から電話が掛かった。彼女の弟(これも私の従兄の幸村民雄)がマンションの水道代を着服して管理人を首になったらしい。その三十万円を持って行かないと警察沙汰にするとかで、その一部の七万円を借りに来るがどうしたものかと言う。私は本人にそんな金を渡したらだめだときつくたしなめた。

やがて小半時して再び麻子から、今弟は帰りました、お金は渡してない、「これで姉弟の縁もおしまいや。」と捨てぜりふを残して帰ったとのこと。民雄もどこまで落ちぶれてしまったのか。我々としては管理人就職の時に保証人を頼まれ、よくぞ断わったものだと胸を撫で下ろす。

夜は礼子と京極まで雅ちゃん(雅弘)の見舞のジュースを買いに出る。

 

午前中礼子と自転車で下条病院に従兄の見舞に行く。私の前ではいつもおとなしく母親に接する時と全く別人だ。

「なにか入用はないか?」

寝間着やバスタオルの予備、吸い口、その他を頼まれる。

十時半ごろ岩本常務にもう一度電話する。今度は在席中で、五日の十一時半にホテルで逢う約束を交わした。

昼から礼子は五島さんとこへリズム体操に出かける。

三時ごろ下条病院から電話が掛かってきた。朝のタオルなどの催促と、そのほかに紙おむつやティッシュ五ケースなどの注文である。さらに洗濯はうちへ持って帰って自前でやってほしいとのこと。かなり大変になってきた。

夕方、荷物が嵩んだのでタクシーで病院へ行く。行くなり今までのおむつは同室の人から借りてたのでと、その費用を請求される。

洗濯物を持って、叔母のうちまで車で帰る。おむつと補助おむつを明日持って行くから洗濯物を至急洗っといてくれるように頼んだところ、叔母がおずおずと明日主治医の野村先生の回診日なので岩佐の叔父と話を聞きに行く約束をしてると言い出した。ちょっとカチンときて、それなら二人で行くか、それとも私が付きそうかどちらか決めてと畳み掛けると、またおずおずと、

「いっしょに行って。」と手を合わせた。

夕食後、補助おしめを買いに礼子と出かける。                                                   

 

十一時十五分、御池通りでタクシーを拾ってまず岸辺のうちに寄り、下条病院に出掛ける。岩佐の叔父(叔母の弟)はすでに来て、入り口で待っていた。

病室の雅ちゃんは母親の顔を見るなり涙顔になった。

母親が来ているから野村先生にそう言ってもらうように受付に頼み、すぐ伝えますとのことなので待っていたが一向にお呼びがない。

昼の食事が運ばれてきた。看護婦さんに、

「身内の人が来てるんなら一度食べさせてみてください。なかなか大変なんですよ。」

と半分言いつけられて、母親が雅弘にスプーンを使って食べさせる。雅弘は素直に食べていた。どうやら看護婦さんにはただをこねるらしい。

その間私は叔父を一階の待合へ連れていく。叔父にいろいろ今後の処理方法、心配ごとをそれとなく(私だけを頼られてもかなわないと)繰り返しておく。

一時ごろにやっと先生が、では今から来て下さいと連絡してきた。

手術は十日の水曜日と決まった。

岩佐の長男勝男(私の従弟)が大分憤慨して電話してきた。岸辺の叔母が婦長さんに、「付き添いはいらん、当分このままで・・・」と言ったという。それでは、成ちゃん(私のこと)が気の毒や、自分が病院に聞きに行ってもいいと言ってくれた。しかし、彼にそんなことを頼むと叔母に気まずいし、「まあ、ちょっと待ってくれ。」と宥めた。

 

茶ダンスの天板が反っているのを直そうと外して重しを掛けたら、ずいぶん古い品物なので割れてしまった。仕方なくそのまま釘で止めて、なんとかそれでも外見は直った。捨てるに捨てられない祖母の時代からの年代物なのだ。

昼から礼子はお弁当を持って遅番で出かけた。

私は四時ごろからタクシーで病院へ行き、婦長さんに昨日買っておいた菓子包を手渡し、雅弘の身の回りを世話してくれている人にお礼をしたいと聞いてみたが、その必要はありませんと断わられた。また一昨日同室の人から買ったはずの紙おしめが元の人の棚に戻っているので婦長さんに掛け合ったところ、やはりうっかりミスだったようで、取り戻してもらった。

今日も暑かった。ニュースによると京都で三十八度を越え、新記録らしい。

夜、一玉五百円のメロンを半分に切り、それをさらに礼子とすみ子と三人で分けて食べる。それがなかなかおいしかった。

 

九時過ぎ、出かけようとしていた矢先に岩佐の叔母から電話が掛かり、付き添いの件で岸辺の叔母に交渉すると言う。

「今は少し様子を見ましょう。」と私。「今回は何とか切り抜けられそうやから、ただし今後のことは少し落ち着いた時点で皆で相談しませんか。その時には定子ちゃんや勝男君にも入ってもらい、それぞれどの程度の負担能力があるのか聞かせてほしい。」

時間がないので一方的に全部しゃべった。叔母は今晩にも伺い、相談したそうだったけれど、それならと了解して日を改めるということになった。

九時半になったので、急いで出かける。大丸まで歩いて、阪急に乗り、梅田で阪神に乗り継いで甲子園に着いたらまだ十時四十五分だった。十一時半の約束には早すぎるので駅前のスーパーでりんごジュースを飲んで時間を潰す。十一時十五分ごろに甲子園みやびホテルのドアーをくぐった。それでもまだ早かったので、ロビーをうろうろしていたら、岩本常務が私を見つけて、コーヒーコーナーに誘い、ひとまずアイスコーヒーを頂く。雑談の中で用件は食事の時にと匂わされる。常務は一時中座したが、その間に顔見知りの川本支配人が寄ってきて、

「常務から聞かはりましたか?」

「いいや」

三人で昼食。中華ランチを出してもらった。

食事の後になってようやく常務が切りだしたのはナイトマネージャーの件だった。

「一週一日でも二日でも来てほしい。考えてもらえんか。」その上、「失業保険もろてる最中いうことは心得てるさかい、それは名前変えて支給すれば保険は丸もらいや。」

従兄のことなどが頭を駆け巡り、じっくり考えさせてほしいと即答を避けておく。

ロビーでこれもよく知っている水野さんにばったり会う。館内を彼に案内してもらった。

サマーフェァー中で、S君が宴会食堂部門の部長をやっていた。

常務が私の身の上を気に掛けてくれているのはよく分かった。三時にお暇する。電車の中でも色々考えたが、断わる腹を固めた。四条大丸から地上に上がるとサウナに入ったような暑さだった。あとでニュースで聞いたら京都の気温は三十九・三度だったらしい。

礼子も断わることに賛成してくれた。

 

今日は広島に原爆が投下された記念日である。村山総理が自ら出席して挨拶していた。

病院に洗濯物の上がりを届け、替わりに汚れ物を持ち帰る。帰り際雅弘が、

「母ちゃんどないしとんねん。」と聞いた。

「いろいろ用事があるみたいや・・・」

と言葉を濁した。

昼からは流しの下の鍋入れの床が落ちてしまっているのを直しにかかる。よくもこれほど薄い床があるものだと思えるようなベニヤ板なので、思い切って全部剥がして、発泡スチロールを下に敷き詰めるとそれなりの器になった。

すみ子は夕方から会社の納涼大会とかで浴衣を着て出かけて行った。

六時ごろ礼子が会社から帰ってきたので二人で御所へ水を汲みに行く。日は落ちているのに空気はまだ煮えていた。今日も三十九・四度と記録を更新したらしい。

夜、涼みにでようと言っていたが空気が火照ったままで出るのをやめた。

 

 

今日が日曜日なのを礼子に教えてもらうまで忘れていた。

台風もこちらへは来そうにない。

午前中礼子といっしょに床の間の地袋の整理をする。

すみ子は、今日は珍しく予定がなくて、ひととき自分のロッカーの整理をしていたが、それにも飽きて自転車で一回りしてくると出掛けてしまった。

そのすみ子が戻ってきてふいに、

「ボーリング行かへんか」と我々をと誘う。

午後の暑い最中、皆で河原町三条のドリームボールに出かける。すみ子は大分上達していて結局二ゲーム合計ですみ子が優勝、私が二位だった。礼子はもたもたしていた。

その後、京都ホテルのフランス版画即売会を見てから、地下の和風喫茶でアイスコーヒーを飲む。

一旦家に帰るとちょうど病院から電話が掛かってきて、明日手術の段取りを説明するから詰所に寄ってほしいと要請された。

六時に再び出掛けて、高島屋のたん熊で千五百円の弁当を食べる。

すみ子は高校の同窓会の打ち合わせがあるというので一足先に帰り、私達は京極で明日病院に持って行くジュースを買って帰る。

 

礼子は朝食前に自転車で知恩院に月参りに行くが、私はすみ子のサンドイッチを作ってやらないといけないので残った。

九時に自転車で病院に駆けつけ、看護婦さんから手術が十日二時ごろから始まると教えられる。雅弘にジュース半ダースを渡し、少しずつ飲むように言い、手術応諾書を預かって帰る。

十一時五分前に職安に着いたらもう説明が始まっていて、五十名ばかりの人が座って待っていた。私は即支給組だったので十二日の金曜日に振り込まれるとのこと。

帰り道はすでに日盛りで暑かった。

家の中に入ったとたん礼子が出て来て、

「佐和子が来てる」と小声で言い、手振りで泣く真似をした。マナも一緒だった。一瞬えらいこっちゃと思ったが、出来るだけ何気なく振る舞うことにする。礼子は出勤前で少しいらいらしていた。

「どうした」と聞いても「けんかして出てきたわけやない。」としか言わない。

さやかは小川のお母さんが天王寺に連れて行ってるとのこと。ぼちぼち聞いてみると、暑さの中で冷房を掛けて子供たち三人でいると、閉じ込められたような気になってくる。勤めに出たい。それにはさやかの幼稚園をやめさせて保育園に二人を入れねばならない。幼稚園は三万円かかるが保育園なら八千円でいいそうだ。利武君もそこまではしぶしぶ同意してくれたらしいが、佐和子が働いても自分は家事は一切手伝わない、それが条件とのこと。聞く限り、利武君には佐和子がわがままを通しているとしか映ってないようだ。

階下を冷房してカーテンを閉めて暗くし、三人で昼寝する。

二時過ぎに佐和子は起きてきて、三時には電車に乗りたいと言う。私は何事も利武君とよく相談して了解を得てから実行するように、わがままと思われつつ主張を通したらしっぺ返しが来るからと、慎重によく考えるように言っておく。

「保育園に入れたら、子供はかわいそうやろか、性格はしっかりすると思うけど。」

「そら一面しっかりするかもしれんけど、暖かみのない冷たい人間になるかもしれんよ。」

勤めが面白くなくなることだってある。その時は取り返しがつかない。佐和子だけが悪者になることもある。

三時過ぎに家を出て地下鉄で竹田まで私が送ってやる。

五時半ごろ、無事着いたと佐和子から電話があった。元気そうな声でほっとする。

夜、岩佐の叔母から十日の手術の日に自分も立ち会うと言ってくる。足の悪いのにいいと断ったが、

「マツさん(岸辺の叔母)が来て欲しいと言ってるから。」

そんならどうぞ、私は交代して帰らせてもらうとOKした。

すみ子は茶道部のコンパで夜半に帰ってきた。

 

朝方少し曇っていたが、やがて昨日と同じように暑くなってきた。

昨日は京都は三十九度八分だったようだ。

十時半ごろ岸辺の叔母から電話で今日はどうやろと聞くから、事務的に今日は別段いいのと違う、心配ないと思うと答えておいた。明日岩佐の叔母が手術に立ち会うと言ってきたことを確認してみたら、知らないような口ぶりだった。とぼけているのかもしれないし、よく分からない。

佐和子とこへ礼子が何度も電話するが、出かけていて繋がらない。

昼から礼子は五島さんとこへリズム体操に出かけた。

小学校時代の友達の市村君から暑中見舞の葉書がきた。この前出した退職案内の返事だろうと目を通したら、思い掛けないことが書いてあった。この春四月に肺切除の手術をして五月十六日に退院。経過は順調で六月から仕事に復帰していると書いてあった。また十年前から左眼が見えなくなり、網膜剥離と診断され手術も不能とのこと。またお会いしましょう、とあった。

夕方市村君の会社に電話してみる。本人が出て来て元気そうだった。結核でないというのだから腫瘍かもしれない。眼のことまでは聞けなかった。また寄ると言っていた。

礼子と水汲みに行く。

夜はビデオを借りに出た。

 

病院から、便が出たので汚れ物が溜まっている、バスタオルと手拭を追加で持って来てほしいと言ってきた。

昼から一時過ぎに車を拾い、岸辺の叔母を乗せて病院に着いたら、看護婦が、

「遅かった、もう入ってはるわ。」

二時と聞いていたのが、前の手術が早く終わり、雅ちゃんの手術が早くなったのだ。仕方ないので一階の待合で待つことにする。三時間くらいかかるらしい。

岩佐に電話するが叔母はすでに家を出ていて、叔父が電話口に出たが、耳が遠くてもう一つ要領をえなかった。

テレビは高校野球をやっていた。マツ叔母は今日の試合で東京の「創価」が勝ったことを知っていて、サッカーも見る、プロ野球は近鉄のファンらしく、叔母はなかなかのスポーツ通だ。

二時過ぎ、岩佐の初子叔母が買い物袋をブラ提げてやって来た。シュークリームをご馳走してくれ、カツサンドもくれる。自分が足が悪いので杖をついているが、その杖を岸辺の叔母に約束だからと進呈している。帰りは大丈夫なのだろうか。

しばらく三人でしゃべって、二時半ごろ私は引き上げる。

岸辺の介護のことで礼子と少し口論になる。先の見通しの分からないことをだらだら引き受けないで、というのだ。

牧坂元専務から暑中見舞が届いた。私の退職のことに触れながら、自分の現役生活もそろそろピリオドを打つことになりそうだと書いてあった。

五時ごろ岸辺の叔母から、また岩佐の叔母からも手術が無事終わったことの報告があった。

夜は少し風が出て心持ち涼しかった。

 

昨夜は何日ぶりにか冷房を入れずに庭のガラス戸を開けっぱなしにして寝た。

しかし今日も暑くなるとの予報だった。朝から礼子と梨木神社に水を汲みに行く。

高校野球は京都代表西城陽は緒戦で大敗していた。

昼ごろ従兄の幸村民雄から電話が掛かった。礼子は私が今いないと答えていた。

昼から岸辺の叔母を連れて病院へ行く。雅弘はまだ相変わらず天井を向いたままご飯を食べていた。小半時母子にしておいて、私は一階の待合室で待つ。

家に帰ったら礼子は遅番でもう出かけていなかった。

御池ギャラリーの出展のこともあるので、ミニ色紙の作品の整理を始める。

五時過ぎに町会長の野々村さんがやって来て、向かいの岡田さんのおばあさんが二時頃亡くなったと連絡してきた。

礼子に電話する。早引きしてくるかと思ったら、そうではなかった。

八時ごろ、岡田のみっちゃんが町費を持ってきた。

「奥さんは?」

私がお悔やみを言っても、そっちの方は生返事で、町費のことばかり繰り返す。結局、

「また奥さんが帰ってきはったころに寄せてもらいます。」

と、帰って行った。八時半ごろ野々村さんが、通夜が明日七時から、葬儀は明後日午後一時からに決まりましたと連絡してきた。手伝いを頼まれる。

「暑いから、カッターシャツでどうですか」

と野々村さんが言うのを私は、

「それはやっぱり略礼着ていかんと。暑かったら脱いだらよろしがな。」

 

朝のうちに自転車で病院に行く。別段変りはなかったので事務的に洗濯物をもらって帰る。

礼子がその間に大丸と高島屋を回って夏物の略礼服を見に行ってくれた。              

家内が目星を付けて帰ってきたので、それではと二人で大丸に出掛ける。着てみたら 、ほぼ身に合ったのでそれに決め、ズボンの寸法直しも四時にあげてくれるというので、万事オーケー。

「もう皆出てはりまっせ・・・」と野々村さんが六時半に誘いに来る。煮えたすまし汁を急いで飲んだのでしばらく汗が止まらない。

でも外は 風があって割合涼しかった。私が帳付けをやる。 通夜の客は思ったより少なかった。 すみ子にも焼香に行かせる。

   

晴れていたが台風の余波で風があつた。

一時から岡田さんの会葬が始まり私は今日も帳面をつける。

そこそこ大勢の参列者があった。

昼は町内の仕出屋からお膳が運ばれた。夕方に喪主夫婦が挨拶に回ってきた。夜は夜で菓子折りを持ってまた挨拶にきた。   

八時前に病院へ行く。雅ちゃんは食パンにジャムを付けてもらったのを頬張っていた。ベッドは心持ち持ち上がっていて、その分食べやすそうだった。私は洗濯屋の御用聞きさながら従兄の洗濯物をまとめて持って帰る。

九時過ぎ、今度は礼子と自転車で知恩院まで行く。宝仏殿に納骨してある山本家(家内の里)の盂蘭盆会供養を頼んだが、帳簿に載ってないとぶつぶつ言われ、その上、「その時いくら頂きましたか?」と疑わしげに問い正される。やっと別の帳簿から見つけ出し、「失礼しました。」と謝った。貧乏性の礼子はそれでも、「お世話を掛けて・・・」と恐縮していたが、私は納得いかなかった。しかし横手の壁に目をやると、「怒るべからず」と経文が張り出してある。

本堂の読経のあと、宝仏殿でも経を上げてもらい、休憩室でコカコーラを飲んで帰る。

四時ごろから礼子と高島屋まで散歩がてらに岡田さんとこのお供えのお菓子を買いに出る。デパートだけはどこもガンガンに冷房を入れていて、出るのがモッタイナイない気がした。

 

今日も暑くなりそうなところから急に思いついて、比叡山に弁当持ちで避暑に出かけることになる。すみ子も行くという。案内所に電話で問い合わせたら、十時三十六分三条京阪発とのことで、慌てて卵焼を作り、唐揚げを揚げ、握り飯を詰め込んで、タクシーに乗り込んだ。

十一時ごろに延歴寺に着き、そこの売店でとりあえず弁当を平らげる。やはり下界よりはかなり涼しい。

国宝殿には重文の仏像がずらりと並んでいた。

根本中堂を拝観してから、文珠楼に上がってみたらなぜか汗がたらたらと噴き出してきて、ほうほうの体で外へ出る。近くの延歴寺宿坊に駆けこみ喫茶でコーヒーを飲む。琵琶湖が見下ろせ涼しい風が天然の冷房となっていい気持ちだった。一時間ばかりそこでねばったあと、浄土院から自然歩道沿いに釈迦堂まで歩く。四時過ぎにバスステーションに戻ってきた。臨時バスで三条京阪まで帰って、そこで夕食を各自(家内も娘も)割り勘で食べて帰る。

 

朝は病院に洗濯ものを届けに行く。

「母ちゃんどうしてんね。」

「うん、まあ、洗濯ものしたりご飯こしらえしたりしてるがな。」

「母ちゃん何にもしてへんにゃろ。」

「母ちゃんに来てほしか?」

「うん。」と頷くので、帰って叔母に報告、明後日一緒に行くことにする。

佐和子から電話が掛かって来て、今から日帰りでそちらへ出かけると言ってきた。

礼子が歯医者に行っている最中に一行は到着した。たちまち大賑わいになる。礼子が帰って来ると早々に買い物に行くからと、夫婦は出て行き、孫たちは残った。まず昼飯を食べさせ、庭にビニールのプールを作ってやる。佐和子と利武君は一時過ぎにやっと戻ってくる。

そのあと昼寝させようと部屋を暗くして皆でごろ寝したが、結局寝たのは私と利武君だけだった。やがて子供たちは礼子と佐和子でどこかへ連れられて行き、男が二人残った。話題もなく、二人とも寝た振りをして時間をつぶした。

女連中は福邦銀行の地下でパフェを食べて帰って来る。

六時過ぎ、来た時と同様、皆は風のように帰って行った。

それと入れ違いにすみ子が比良山から戻って来た。徒歩で登り降りしたと聞いて驚いた。本人も、「私、山に向いてるかも・・・」とけろっとしていた。

夜、礼子と大文字を見に出る。結局御池大橋のたもとから柳越しに一番大きいのを見ることが出来た。

すみ子は一人で自転車に乗って、北山まで行き、四箇所も見て帰ってくる。

 

今朝は心持ち涼しかった。

午前中、縁側の整理棚を片付け、昼からは礼子がリズム体操に行ったので、私は洋服ダンスの上に折り紙原紙が放り上げたままになっているのを夕方まで掛かって片付ける。

夕方水を汲みに行く。梨木神社は何時になく、行った時も帰り際も最近にない行列が出来ていた。お盆で里帰りしていた人が今日あたり戻ってきたせてだろうか。前の方で、

「ここに一人五リットルまでと書いたるさかい、そのボトルを汲んだらもう一回後ろに並び直してや。」と言う人。しかし恰幅のいいそのお爺さんは知らん顔をしてもう一杯汲んでいる。

食後、礼子と雅ちゃんのお見舞の野菜ジュースを買いに出る。

風はあったが生暖かい。

 

すみ子は今日は新しい彼氏と出かけるので、昨夜から本を片手にお弁当作りに専念している。籐あみの弁当箱まで新調して、いつも無精な子がよくもここまでと感心する凝りようである。

私は九時半ごろタクシーを捕まえて岸辺の叔母を迎えに行き、その足で病院へ出かける。

雅ちゃんに、「バナナを持ってきたけど食べるやろ?」と聞くと、

「そんなもん、いらんいらん」

「ジュースはどうや、いるか?」

「うん、いる。」

叔母が出掛けに買ってきたキャラメルを渡しかけると、またまた「そんなもん、いらんいらん!」である。

青い顔をしてひどく震えているので、看護婦さんに申し出ると、熱を計ってくれた。九度四分あった。掛け布団を持ってきてくれ、注射も打ってくれる。

母と子を二人にして、私は階下で三十分ほど待って上がって行ったら、もう震えも収まっていた。

今日から礼子の会社も夏休み明けで、しかも遅番である。

その留守に私は、前から気になっていたので、彼女の洋服ダンスの上に置いてあるもろもろを整理する。

高校野球をやっている甲子園では夕立ちが降っていたが、京都の街にはその恩恵はなさそうだ。

五時過ぎ病院に電話して今朝の発熱のその後をナースステーションに聞いてみる。熱は大分治まったらしく、原因は尿道に管を入れているところの詰まりだろうとの説明だった。岸辺の叔母と岩佐の叔母にそのむね報告しておく。

六時前に自転車で五条京阪まで、一つ百円のグレープフルーツを買いに行く。曇っていて案外涼しかった。

 

今朝からすみ子は出勤である。昨日は万博跡へ行って来たらしい。そのあと伊丹空港で飛行機を見てきたという。次々とよく遊び回れるものだ。

葉が一部黒ずんでいたので庭のアオキの古い枝を刈る。

今日もまた表で水道管の工事をやっている。

午前中散髪に行く。髪形を変えようと思ったが、床屋のおかみさんに、

「ご主人の髪はオールバックは難しでっせ。」と無視された。それでもと意地を張ると、

「まあ、それらしい刈っときましょ。」とやってくれたが、帰って鏡を覗くとやはり失敗作だった。

三時ごろ病院から電話で、高熱が下がらない、そのことでちょっと話があるので私に来てほしいと言ってきた。叔母に電話する。どうする、いっしょに行くかと聞くと、行くと答えた。私は急いで、アテントと尿取りパットを買いに走り、タクシーをつかまえ叔母のうちに寄ってから病院に出向く。

先生の話では、胃腸が働かず下痢嘔吐で食べ物を受け付けない。一方腎臓機能が低下して、いわゆる腎不全の状態で、おしっこの排泄がほとんどない。今手当をしているが、その反応が表われてこないそうだ。これが続けばかなり危険な、生死に関わることもありえる・・・とショックなことを聞かされる。

叔母は病室の戸口で泣き出した。私は叔母を宥め、うちに電話を入れる。礼子に岩佐に電話して叔母に待機してもらうように頼む。

五時ごろに私から直接岩佐に電話して、叔父叔母に夕食後に我が家に来てもらうように頼む。

五時半に岸辺を連れていったん家に戻る。

七時半ごろ、勝男君の運転で岩佐夫婦が来る。叔母は岸辺に行き、叔父と勝男君にかいつまんだ経過報告をしている最中にまた病院から電話が掛かる。

「手当の効果がはかばかしくないので、透析の設備のある病院に移したい。その話を聞きに今すぐ来てほしい。」

岸辺に事柄を電話して勝男の車で病院に駆けつける。

事態はかなり急を要するようで、相手の病院は第一日赤だという。ずいぶん足場の悪いところだ。第二日赤では駄目なのかと尋ねると、

「向こうはいつでも断わりに掛かるので、引き取りの可能性の高い第一日赤にまず頼みました。悪しからず・・・」とのこと。

救急車に私が便乗して、勝男君は自分の車に荷物を積んで追走する。

それからが長かった。控え室で二時間以上待たされ、当直医の説明を聞き、集中治療室に行ったのが夜中の十二時を回っていた。さらに面接のために小一時間待たされたので、しびれを切らし、明日また来るからと、一時過ぎに引き上げる。

腹が減っていた。電話で礼子に頼んでおいたので、勝男君に上がってもらって握り飯と即席ラーメンを食べる。

 

朝五時過ぎに目が覚めたので、そのまま起き出す。

十一時過ぎ、岸辺のうちに入院証明書を取りに行っている最中に日赤から電話が掛かり、病状の説明をしたいので、すぐ来てくれとのこと。十二時十分ごろ叔母を連れて病院に駆けつける。

担当医から、危険な状態にあること、骨折の手術後、化膿止めに抗性物質を使ったのが、非常にまれな副作用を引き起こし、腸炎から始まっていろんな臓器の不全を引き起こしたのだと言う。今、人工呼吸、増血圧剤投与、利尿促進、などをやり、一方で腸炎の治療を平行に行っている。心臓、肺が保ってくれるかどうかが別れ目だが、危険度は九十%だと宣告される。

窓の外は久方振りのひどい夕立ちと雷だった。

三時前定子ちゃん(私の従妹で勝男の姉)が来てくれる。勝男君も続いてやって来る。

三時半、マツ叔母を帰すため定子に残ってもらい、私も一緒に一旦引き上げる。

仮眠する間もなく病院の勝男君から、「叔母さん連れてすぐ来てほしい。」との電話。岸辺に電話する。六時。さらに定子ちゃんから、「血圧が下がって危ない、急いで!」と言ってくる。礼子と一緒にタクシーを拾い、叔母を乗せて病院に向かう。赤信号にやたらと引っかかった。それでも六時十分に日赤の正門にたどり着く。廊下が長い。叔母を抱えて走りたい気分だ。集中治療室に着くなり白衣を着けて叔母を引きずるようにして病室へ。助手が手で心臓を押している。主治医が私の耳元で、「六時過ぎにすでに事切れてます。お母さんの手前心電図を動かしているんです、了解して下さい。」と囁いた。

「雅ちゃん!」と叔母の声は悲壮だ。

「雅ちゃん、お母さんやで。がんばりや!」私は無駄と知りながら大声で呼びかける。

数分後主治医が私に同意を求めるように顔を向ける。私が頷くと、腕時計を見ながら、

「六時二十五分です。」と告げる。一瞬ためらうが私は叔母を抱えたまま、

「叔母さんお別れや。」と言う。体の力が抜けたようになり泣きじゃくる叔母。

「雅ちゃんにお題目を唱えてやり。」と私。聞こえなかったかなと思ったら間もなく手を合わせ・・・なんみょうほうれんげきょう・・・と、か細い声で唱え出した。

とりあえず叔母の学会の友人、近藤さんに電話で知らせる。

叔母を勝男君にまかせて、私は三十分後に葬儀社の寝台車に同乗して雅弘の遺体を叔母の自宅に帰した。

岩佐の叔父叔母が来るまでに滋賀県瀬田に住む従兄の町田健一郎に電話する。町田の叔母は岸辺マツの姉に当たる人だった。従兄は留守のようで、奥さんのとみ子さんが出た。

「岸辺雅弘が急死しまして・・・」

「へっ!」

「仔細は後ほど・・・」

夜をマツ叔母一人にするわけにはいかなかったので、誰が残るかで少しもめた。私は半ば強引に岩佐の叔父叔母を指名し、私を含め他は十時過ぎに引き上げる。

 

五時過ぎに目が覚めてしまう。

十一時の約束が十時過ぎに葬儀屋がもうやって来たと叔母のうちから連絡があった。すぐ出掛けて、ほぼ私の独断で一時間程かけて葬儀の祭壇、設備などの打ち合わせを終えたころに、創価学会のこの辺り担当婦人部長がやってくる。学会が仕切るのかと思ったら、「どうぞそちらで進めて下さい。」とのこと。

火葬場の都合もあって、今夜がお通夜、明日十二時から会葬と決まる。

納棺の儀式の最中に読経が伴うのが変わっている。親父の葬式の時にはそんなことはなかった。もともと我が家は門徒(浄土真宗)で「門徒物知らず」とて至極平易なのだ。祭壇の飾り付け、白布の張り込みが始まる。たちまち式場が出来上がっていく。

昼ごろやっと岩佐の叔母夫婦が来るが、しんどそうである。みんな年を寄せてしまったようだ。二人に葬儀の段取りを告げて了解を得る。

昼は礼子や従妹の定子たちが握り飯を作ってくれたのを頬ばって済ます。

定子とこが一旦着替えに帰って、戻ってきた四時過ぎ、交代して我々が今度は家に帰り、一服するが、たちまち夕暮れとなり、慌てて着替えて再び岸辺家へ出かけた。

通夜は学会ペースで進んだ。私は立礼に回り、勝男君は受付をやってもらう。

雨が降り出した。長い読経だった。岩佐の叔母は足が痛いので正座に耐えられず、階段に腰掛けていた。町田とみ子さんが雨の中を来てくれてほとんど最後まで付き合ってくれた。思いがけないことだった。とみ子さんと岸辺家とはあまりうまく行ってなかった。寿司桶の寿司を皆で分けて食べる。

帰りがけ、岸辺の叔母が祭壇の電照を怖がったので、部屋の電気を点けたままで寝るように言い、十時ごろ、その叔母一人を残して皆引き上げる。

 

朝、雨は上がって日が射していた。

七時ごろ、岸辺から電話が掛かってくる。叔母のおろおろ声が電話口に聞こえる。

「雅ちゃんのお棺に入れてやりたいもんが、一杯一杯出てきたんや、見にきて・・・」

「寝られんかったんか?」

「うん」

私はサンドイッチを持って七時半ごろ叔母のうちへ。

「東京へいっちっち」「こんにちは赤ちゃん」などのドーナツ盤と、歌謡曲の歌詞の本二冊を入れてやりたいと言う。

岸辺と私の家を二往復し、十一時前、礼服に着替えて出かける。

行く早々叔母がしんどがってるというので、二階へ上がったら椅子にもたれて、叔母が青い顔をしていた。岩佐の叔母は素知らぬ振りに自分の身支度をしている。岩佐の叔母がマツ叔母に着物を着せてやったら、「こんなん苦しい。」と文句を言ったので少し気を悪くしてるみたいだ。気になったが下も気になるので、私は降りる。

礼子に焼香台の前に座って岸辺の叔母の補佐をするように指示して、私は表の受付に挨拶してくる。十二時前になっても皆なかなか席に着いてくれないのでやきもきする。

なんとか創価学会の読経が始まり、やがて会葬に移る。

四十分過ぎに棺の蓋を開け、しきびや菊の花を参列者が入れる間、叔母は棺の縁にへばりついたままだった。出棺となる。

私は学会の三人と同乗した。雅ちゃんの経過説明をすると、誰からともなく、医療ミスではないの?という言葉が出る。私もチラッとその考えが浮かんだが、今さら、医者に感謝し満足している叔母の耳に入れることはなかろうと頭を振った。

「これも寿命ですよ。」と打ち消し、また、叔母にも、「苦しいても自分の寿命は全とうせないかんよ。」と言い聞かせているのだと、三人に説教めいたことを話した。三人はしきりに頷いてくれた。

火葬には何度も立ち会ったことがあるが、いつも非情なものだった。待っている間にまた叔母が気分が悪くなって、待合のソファーに寝かせておく。

帰宅したのは三時半だった。

仕出屋からのお膳を戴く。しばらくしたら叔母は座布団を枕にぐうぐう寝てしまう。寝不足が溜まっていたらしい。

夕方、叔母を隣の児玉医院へ連れて行ったが、別段異常もなく、それから後は少し元気になった。

八時半に解散する。

 

七時半にサンドイッチを持って行ったらまだ戸が閉まっていた。ベルを鳴らすと、しばらくして、パジャマ姿の叔母が眼鏡も付けずに、うっとうしい顔でのそのそ出て来る。悪いことしたと思って、サンドを冷蔵庫に入れ、「もっぺん寝たらええ、またあとで来るから。」と戻ってくる。

十時半ごろ福祉事務所を尋ね、それから国民健康保険の加入手続き、障害保険未支給請求、老人医療手続きとあちこち窓口を回って、うちに帰り着いたら昼を過ぎていた。

二時ごろ叔母のうちに行き、手続きの説明をして、大阪西区役所に戸籍謄本の請求の手紙を書き、三時ぎりぎりに郵便局で小為替を切って貰い、郵送する。

家に帰って、少し昼寝する。

その最中に勝男君が尋ねて来た。岸辺の叔母の今後の処遇でしばらくいろいろ話をする。

夜は十時前にもう眠くなって桂子と私と二人とも寝床を敷いて寝た。

 

今朝は礼子がサンドイッチを持って行き、ごみの収集日なので、葬式の日のごみを出すように頼んでおく。私が一足遅れに行ったらもう用事は済んでいた。

九時過ぎ、礼子が付き添って叔母に郵便貯金を引き出しに行ってもらい、昼前に、叔母からお金を預かって葬儀費用を振込みに行く。

叔母に報告して帰り際、

「また来てな。」と心細げに叔母が私の背中に向かって呼びかけるのを、一瞬ためらいながら、「うんうん」と生返事する。

昼は礼子とリクルートビルの地下で食べようと出るが、たいしたものがないので、大丸まで足を伸ばす。ところが、まん悪く定休日だったので、とうとう阪急まで歩き続けて、鶴喜でそば定を食べる。帰り道、そこここの旅行会社のパンフレットを採集して回った。

葬式の日の写真をムツミ堂に出し、夕方もらいに行くが、私が不謹慎にも写してしまった雅ちゃんのデスマスクと、御本尊さんのお祭りしてある仏壇の写真は破って捨てた。

叔母が七時ごろ礼子に電話を掛けてきて、下条病院の先生のお礼を三万円の商品券にしたいと増額を申し出てきた。そのあと今度は私に、

「昼からちょっと眠とうてしんどいさかい、オロナミンCを三本買うて来て。」と甘え声で依頼した。

 

朝のサンドイッチを持って叔母のうちへ行く。眼鏡を懸けてない彼女はいかにも老婆という感じだ。

昼前、勝男君がいかの刺身と大きな鰈を六尾持って来てくれる。昼から病院にお礼に行くのに付き合ってくれるように頼む。

午後、しばらく休んでいた会社へ礼子は遅番で出かけた。

三時ごろ病院に電話するとどちらの病院の先生も今日は昼から席におられないとのこと。岸辺にはそう伝えて明日にしてもらい、勝男君に予定変更の電話をしようとするが連絡が取れない。そうこうするうちに三時半になり、彼がやってきた。事情を説明し明日また来てもらうことにするが、今度は鰹のたたきとスライスオニオンときざみ葱と、紅葉おろしをくれた。勝男君は付き添い婦斡旋所に電話して日当などを聞いてくれていた。ちょうどいい機会だったので、彼に一つの提案をした。一週間に一日ずつ、勝男、定子、私で叔母のうちを覗く当番日を決めてはどうか。もち論私とこは週二日を引き受ける。その他、ママさん(表の間を喫茶店に賃貸ししていたのでそこのママ)と、北隣りのMさんとこに緊急の時の連絡先を教えておくつもりだ、この提案に対し勝男君はノーとは言わなかったので了解を得たものと理解した。生活保護打ち切り(雅弘が障害者ということで叔母は生活保護を受けていた。)についての岸辺の叔母の強い意思についても話しておく。

「そんなカッコの悪いこと、もう我慢でけへん。町内の人に馬鹿にされる。わてかて蓄えぐらいあるのえ。家賃もはいるし、仕立てもんもしてんねもん。」

日曜日に岩佐を尋ね、叔父にそれらのことも含め近況報告すると言っておく。

夕方一人で水汲みを二回やる。五時に行って、また六時半に行き、計八本を汲んで来た。

 

今日はそこそこよく寝た。六時起床。

昨日までサンドイッチを叔母に持って行ってやったのを、今朝から中止したのが、気に懸かったが、永久に毎朝配達するわけにはいかないのだからと、深く考えないことにする。

九時半ごろ叔母の家に行き、戸籍謄本と未払い年金請求書を預かって、区役所に行き手続きを完了する。続いて、簡易保険証書を借りて三条郵便局で保険受取の手続きをする。思ったより簡単だった。叔母の話では、高次(雅弘の弟)の時は、まだ町田健一郎がすぐ近くに住んでいて、健一郎にやってもらったが、随分日数が掛かって、叔母本人でないといかんとか言われて、従兄の車に乗って出掛けた覚えがあるとのこと。それに引き替え今日は、十二時過ぎには現金を貰って叔母のうちに届けることが出来た。すぐにそっくり郵便貯金に預け入れに行く。

四七日に学会で法要するのに礼子さんだけに来てほしいとの叔母の 意向に礼子はすごく気を回して、一人ではやれないと言い出す。叔母に確かめたら、そんなことはない、学会が皆でやるので、その一人として居てくれたらそれでいいとのこと。礼子にそう伝えると、しぶしぶ納得した。

昼から礼子はリズム体操に五島さんとこへ行く。

車の手配を頼んでおいた勝男君は四時前にやっと来た。叔母を乗せ、急いでまず第一日赤に行き、まず入院費用を救急窓口出支払い、胃腸科の受付けでS先生に面接を申し出る。立ち話の医者に対し叔母は涙声でお礼を言った。

続いて下条病院へ走る。ここでもまず支払いをしたのち、三階詰所の婦長にまず挨拶して、「皆さんで・・・」と菓子折を渡す。それから別棟まで歩いて野村先生に、叔母がまたおろおろとお礼を言う。先生はくどくどと経過説明とも弁解ともつかぬ話をした。最後に叔母が商品券の入ったケースを渡すと、「これは受け取れない。」と言ったが押し問答の末、「預かっておきます」と言って収めた。

叔母のうちに着いたのは六時だった。

家に帰る早々礼子が五島さんに聞いたと、四七日(よなぬか)の学会の法事には絶対出ない、断わってくれと迫った。それが学会の手だと言うのだ。私は剣幕に押されて、明日断わるからと宥める。                                                        

甲子園みやびホテルの岩本常務から電話で先日の件はどうですと訊いてきたので、叔母のことをダシにして慇懃に断わった。 夕食後礼子と少し散歩に出る。

 

起き抜けに礼子は四七日(よなぬか)のことをまた繰り返した。私は少しいらいらして、

「一度断わると言うたら信用しろ。叔母さんもそんな悪意があって言うたわけやないやろ。」とつい声を荒げる。

私は下条病院へ入院証明の手続きに行く。一方礼子は、ママさんとことお隣さんに緊急連絡先を頼むについての石鹸セットを買いに大丸に走った。

私は手数料三千円を貰いに叔母のうちに行き、四七日(よなぬか)のことを、宗教の人の寄り合いに礼子が出たがらへんからと婉曲に断わった。叔母はあっさり了解した。

昼から礼子は会社に出かける。

夕方、勝男君から電話が掛かる。

「これから会社の用事で姫路に行く。明日何時に戻れるか分からんので、会えへんかもしれん。」それは構わないと私は言った。

「ところで週に四日というのは多過ぎひんか 、そのことでもう一度相談したい。」

と勝男が言う。私は一日おきというのは当座のことで、落ち着いたら一週間に一度でも、それは構わない。都合の悪い時は電話でもいいし、決して義務ではないからと説明し、納得してもらう。                       

 

六時過ぎに起きてサンドイッチを作る。叔母のうちには礼子が持って行く。叔母は仏壇を拝みながら、

「ご本存尊さんが見てはるさかい、あんたとこにはええことあるしな。」と言ったとか。

十一時ごろから今度は岩佐に持っていくサンドイッチの制作に取りかかる。

すみ子に籐の弁当箱を借りてそれに詰め込む。

一時過ぎに桂の岩佐宅に着く。マンションの並びはどれもいっしょで、よその家と区別をするために廊下の窓に簾を懸け、入り口にゴムの木の大鉢が置いてあった。

二人とも元気そうである。持って行ったサンドイッチは満員電車にへしゃげてしまって失敗作だったが、二人でぺろりと平らげてくれた。                  

岸辺の叔母が生活保護を受けるのを極度にいやがっていることを告げた以外は、特に報告らしいこともせず、雑談で四時前までおじゃまする。その中で、岸辺の叔母がまだ嫁入り前、二番番頭と一緒に家出した話を叔父の口から初めて聞いた。

六時過ぎに町田健一郎が来て供花代の分担を払ってくれ、しばらく喋ってから彼の車に便乗して岸辺にお参りに行った。

 

今日もまだまだ残暑が厳しいようだ。午前中は久しぶりにうたた寝したりして過ごす。

昼からは礼子はバイトに出掛ける。

三時ごろ勝男君から電話が掛かって、姫路から今帰ってきた、輪番の担当は水曜と木曜でお願いしたい、当面、定子の分まで自分が行くことにする。十月半ばには守口に変わるので自分は行けなくなると思う。というようなことを言ってきた。

夕方、岸辺に電話してみる。

「叔母さん元気か?」と声を掛けると、

「元気、元気。」と笑いながら言い、町田から大村に嫁入りした「沢子さんが来てくれはった。」こと、福祉のMさんが来たので、生活保護を辞退したい旨申し出た。Mさんは、

「急がんでもいつでも辞められますから。とりあえず緊急電話の書き付けを置いておきます。」と言って帰った。

 

目が覚めたら六時五十分だった。すみ子が出勤するので慌ててサンドイッチを作る。九時過ぎに岸辺に写真を持って行く。叔母はお経を上げていた。時々涙を拭いながら懸命にあげている。私は声を掛けられず、終わるまで框に腰掛けて待った。       

「雅が死んでから今日初めて恋しなって泣いてしもた。」

叔母が表の喫茶店との賃貸契約書を見てくれと言うので、目を通す。三年契約となっていた。

緊急電話の申請書を預かって帰る。

昼前勝男君がまたサンマを持って来てくれた。岩佐の叔父叔母が岸辺に行ったはずだが、うちには結局寄らなかった。

岩佐の叔母からの電話を礼子が聞く。法事の段取りを決めてきたらしい。

この前  四七日の手伝いを断わったのを岸辺が怒ってるらしいと礼子から聞き、私は急に腹が立ってきて、そのことで岩佐の叔母に食って掛かってしまった。

 

昨夜のことがあって、何となく後味の悪い寝覚めだった。

九時ごろ  岸辺に行く。ご機嫌は悪くなかつた。

緊急電話設置についての手続き面の説明をする。鍵の保管、長期不在時の家屋の管理者には結局私がなる。

近隣協力者に民生委員のKさんとお隣のMさんを頼むことにして、二条商店街で菓子折りを買い、二人を尋ねるが両家とも留守だった。

御池駅ギャラリーへの出展表締切が今日までなので慌てて書いて投函する。

二時ごろ久しぶりの夕立ちがあった。

五時きっかりに叔母から電話で今なら民生委員のKさんがいやはるさかいと催促してきた。行ったらKさんがもう部屋に上がって待ってくれていた。すぐサインしてくれる。お隣のMさんも気軽にサインしてくれた。

夜礼子と少し散歩に出て、ビデオを借りて帰る。

岩佐の叔母から電話があったので緊急電話の設置予定の報告をしておく。

 

 

九  月

 

涼しい朝のうちにまず水を汲みに行く。夕方と違ってたった三人待ちだった。それでも帰りぎわにはもう日差しがぎらぎらしてきて、うちに着いたら背中いっぱい汗がにじんでいた。

そのあと緊急電話の申請書のコピーを取り、その足で福祉事務所に提出する。申込が多くて設置は十月になるとの話である。

十一月一日発、ロスアンゼルス、ニューヨーク行きを申し込む。ついでにというか、九月の十五日の和歌山浦島一泊も申し込む。ようやくここへ来て自由を謳歌しようというのだ。

礼子は遅番で二時前に出かけて行った。

 

九時過ぎから自転車で下条病院へ行き、頼んであった入院証明を貰ってくる。

その足で叔母のうちへ行き、

「がんばってるか。」

と声を掛けると、叔母が急におろおろとして、

「よんべな、二時ごろ誰かが、なんみょうほうれんげきょう、唱えるのが聞こえるのや。誰かわからへん。幻聴やろか。雅弘が母ちゃんどうしてんねん、気にしてるのと違うやろか?」

しっかり目が覚めたら消えると言うから幻覚そのものである。でも叔母にそうはっきり断言していいものかと躊躇してしまう。学会の人に相談してみたら、とか曖昧な返答をしておいて、簡易保険の手続きの話に持っていく。

手続きは十二時ごろまで掛かった。解約金は思わぬ額にふくれていた。

叔母が二た七日で仏壇に寿司を供えたので、食べて帰ってくれと言う。食べながらの雑談の中で、叔母が意外なことを口にした。手術後、雅弘が、「お母ちゃんに会いたい。」と求めるので叔母を連れて行った日がある。私が席を外している間だったのだろう。

「だまされた。だまされた。」と雅弘が三辺繰り返してつぶやいたという。

涙声の叔母が、

「それもあの子の寿命やさかい、それはそれでええねん。」

叔母も手術に疑問を持ちながら、医者にお礼を述べていたのだ。

四時半ごろ佐和子たちが来た。また戦争開始である。佐和子に果物を持たせて岸辺にお参りにやらせる。

小雨の中を礼子が寿司桶を買って来たのを皆でつまんだ。

 

涼しい朝だった。

九時過ぎ、佐和子は子供たちを自転車の前と後ろに乗せて、友達のとこへ遊びに行った。

岸辺に電話してみるが、昨夜は錠剤を半分飲んで寝たのでぐっすり寝られて、お経の声も聞こえなかったとのこと。

昼から礼子は出勤する。

庭にプールを作ってやるが一時間ばかりで二人とも上がってしまう。

子供たちはなかなか昼寝しない。泣くマナを尻目にさやかを自転車に乗せて関汽航空に旅券を見せに行く。新京極にあるスーパーサカエの前で自転車を止めて、さやかの手を引いて歩き、河原町に出るところでさやかが眠たがるのでやむを得ず抱いてやると、すぐにうとうとする。手続きをなんとかすませて再びさやかを抱きかかえて急いで引き返した。玩具屋の前で目を覚ましたので、「お医者さんごっこ」を買ってやると急にしゃんとして歩いてくれた。マクドナルドでみんなにアイスクリームを買って帰る。

「お医者さんごっこ」に佐和子はさやかそっちのけで自分が喜んで目を輝かせていた。

三時過ぎから水汲みに行く。土曜日のせいか昼さなかにもかかわらず大勢来ていた。

夜は玄関先で「花火大会」をする。さやかは根っからの怖がりで、花火を自分の手で持つのを怖がる。

 

六時半に起きてサンドイッチを五人前作る。一人前を礼子に叔母のうちに持たせる。

さやかに三角のトーストを作ってやったら、どうしても四角でないといけないと駄々をこねる。ところが、マナが三角のを食べ出すと、さやかもそれを横手からひっさらって食べた。

十一時前に佐和子らは帰り支度をして我々といっしょにタクシーで高島屋へ行く 。ファミリー食堂でスパゲッティーを食べ、玩具を買ってやって、私だけ佐和子に付き添って阪急茨木まで付き添って乗ってやる。そこからは利武君が車で迎えに来ていた。

家に帰って早々に、従兄の幸村民雄がやって来た。長々と世間話をした後で、ちょっと相談がある、と膝を乗り出した。先の勤め先でとんでもないことをしてしまい、松原署から呼び出されている、訴状はまだ出てないが、要するにお金の問題だ、と切り出したので、私はそれ以上は聞かず、きっぱりと、こう言ってやった。

「先日のことなら私は保証人を断わったけど、もし引き受けてたら大変な面倒に引き込まれてた訳やから、準被害者ですよ。被害者のうちへ何の相談ですか!」

さらに続けて、

「もう『民雄ちゃん』とかは呼ばへんし、こちらから用はありません。子供のころ遊んだ民雄ゃんんは今はもうここには居やはらへんのや。あんたとは、はっきり言って今後お付き合いしたくありませんので。自分で蒔いた種は自分で刈ってもらわなしょがないでしょう。」と、立て続けにまくしたてた。

勢いに飲まれてか、腹を立ててか、民雄は正座して頭を畳に付け、

「あの時保証人になってもらわんかって、成夫さんに迷惑を掛けんかったことで少しは気が楽です。いろいろご心配掛けて申し訳ありません。」

そう言い残して席を立った。その間せいぜい十分だった。

「気を付けて帰って下さい。」

私はその背に向かって浴びせた。

すみ子は久田君とビリアードに出かけた。

夜、岩佐の叔母に民雄来訪の報告をしておく。

 

さやかの我がままのお陰でパンの数が半端になったが、なんとかごまかして今朝もサンドイッチを作る。叔母のところへ持って行くが、ほんとうに喜んでいるのかよく分からない。ひとまず「おおきに。いつもすまんなあ。」と礼を言い、「おいしいよばれてるえ。」と慰めるような笑顔で私を見る。

九時に職安へ失業認定に出頭する。九日に振り込んでくれる予定だ。

午後は礼子は出勤。私は一時過ぎに、梨木神社へ水汲みに行く。日盛りで、すいているかと思ったら案に相違して十人以上が並んでいた。

今日も雨のない一日だった。

 

昨日包丁を研いでもらったのでサンドイッチが気持ちよく切れる。

午前中読売旅行に勝浦温泉行きの旅費を払い込み、関汽航空にアメリカ行きの申込書を提出する。国内、国外旅行が一挙に確定した。

昼から水の入ったペットボトルを一本下げて岸辺に行き、梨木神社で汲んできた染井の水の講釈をして、

「ちょっと飲んでみるか?」と、グラスに少し注いで差し出す。

「おいしい!」

と叔母が目を細めた。ちょっと大げさに思えて、どこまでを信じていいのか分からなかった。

香典の帳面を借りて帰って、ワープロで作表に掛かる。コンピュータを今ひとつマスターしてないこともあるが、ソフトの欠陥もあるようだ。時間ばかり掛かった。七時過ぎまで掛かってやっとでき上がった。礼子と読み合わせをしたら八時を過ぎていた。これなら手書きとあまり変わらない。

 

朝七時半ごろから水を汲みに行く。私の前にたった二人しか来てなかった。見知らぬ三人が意気投合し、

「こんなことは滅多にない。」と話し合った。

九時半ごろから岸辺に香典のリストを持って行く。お返しの相談は岩佐の叔母としてもらったらいい、と言うと、

「初子さん(岩佐の叔母のこと)も近ごろちょっとも来てくれへん。来るときはいつもオッサンといっしょや。」

オッサンとは岩佐の叔父のことである。あのおっさんには恨みがあると言い出した。

「だいぶ前やけど、あの人私にここを引っ越しせえて言うたんえ。この家売ってマンションに引っ越せて。お隣にわしが家売る交渉に行く言うねえ。」

叔母はだんだん熱気を帯びてきた。

「あんた雅弘が可愛ないのか、とこうえ。この一言があての胸に突き刺さったんや。一生忘れへん。」

それから延々雅ちゃんを育てる過程の苦労話を三十分。そこへ幸い、勝男君から電話が掛かってきた。電話を切った後も、

「勝男が来るたんびにカツ入れたげてんねん。昔のことがあるさかいにな。」

「昔のこと」とは勝男が以前サラ金から大金を借りて、その清算に岩佐の家宅を売ってしまった時のことを指す。元気もりもりの叔母を後に退散する。

家に帰ってみると鍵が掛かっていた。キーホルダーも小銭も持たずに出てしまったのだ。あっちこっちあてどもなく自転車で回っては時間をつぶし、礼子が帰っているかを何度も確かめるがいつまでも閉まったままだった。

大丸は休みだし、仕方なしに文化博物館の地下にある図書室で時間をつぶした。

十二時前に礼子はやっと帰ってきた。私は締め出された腹立たしさで礼子に大声でわめいた。

二時ごろ岸辺から電話で、

「さっきのこと岩佐には絶対言わんといてや、気い悪るしはるし。」

香典リストの修正版と、半紙二た折りとコクヨのメモ帳五冊を持って行くと、

「やっぱり成夫ちゃんとこを本家思てんねぇ。頼りにしてるえ。」

「本家て言われてもなあ。まあ叔母さんの生家ではあるけど。人間ルーツが欲しいからなあ。僕は叔父さんと叔母さんが仲良うしてくれるのが一番うれしい。」

と殊勝なことを言い残して帰る。

朝から曇り空。しぐれている。

朝のドラマを見てから、雨も上がったようなので、礼子と自転車で知恩院へお参りに行く。礼子の母の月命日だった。

十一時ごろ岸辺の叔母が、郵便局から書き付けが来たから見に来てほしいというから自転車で出掛ける。ついでに額の色紙を取り替えてくれへんかというので、きゅうりを富士山に取り替えた。色紙の束の中に、死んだ叔父の横顔のスケッチがあって、「これ小磯良平の絵や。」と言うので、サインを見ると確かにR.Koisoと署名があった。経緯を聞くと、叔父がデパートのサイン会で書いてもらったのだそうだ。

「百万ぐらいするかもしれんで!」と私が言うと、

「ほんまか?」と叔母が真顔になった。

入院給付金の支払書を持って竹屋町の郵便局へ行ったら、窓口でこれはセンターから支払出来ないとの指図書が来ているので支払えない、回収すると言う。私は思わず大きな声で、そんなバカなことはない、そちらの指示で入院証明を三千円も出して取ってきているのに、このままでは帰れない。よく調べて、駄目でも三千円はそちらで弁償してくれと息巻く。結果を電話で報告するように求めて一旦家に戻ったが、すぐ電話が掛かって来た。済まなかった、実は二枚のうち一枚が無効で、もう一口分の支給が生きている、額面通りお払いするから、とのこと。腹の虫がなかなか収まらなかったが、とにかく受取りに行く。窓口では一言二言で済ませた。今後、叔母の使いで来ることもあろうからと堪えておこうと考えた。

礼子は昼から遅番でパートに出かけた。

四時ごろから少し雨が降る。お陰でだいぶ涼しい。

御池ギャラリー用の自動車十点の折り紙が一応完成する。

 

礼子は岸辺の叔母に頼まれた「真っ赤なりんご」を買いに大丸まで走る。

十一時ごろ岸辺に礼子と行き、りんごと梨とぶどうを仏壇に飾り、お返しの名簿のことになると叔母がまた、岩佐の叔父(彼女の弟)のことを耳の聞こえんオッサンと呼び、初子さん(岩佐の叔母)は電話では江戸弁で親切そうにしゃべるけど、いつも来る時はおっさんを伴って、一人で腰軽に出かけて来てくれないとこぼした。

「いつも二人でつるんでるんえ。」とまた言う。

朝が早かったので昼寝する。

三時過ぎに岩佐夫婦が来る。お返しのことは、身内だけは自分の好きなのを選ばせてもらおうとの初子叔母の提案で、うちは礼子が化粧石鹸がいいと言ったので、あとはすぺて岸辺と岩佐で相談してくれるように頼む。

岩佐は一足先に四時過ぎに岸辺に出かけた。

五時過ぎに岸辺に行ったら、創価学会の吉田さんが来ていて話し込んでいたので、われわれは台所の上がりかまちに座って待つ。叔母が、「雅ちゃん助けてやといつも念じてる。」と言い出したところ、帰りかけてた吉田さんが振り向いて、

「そら岸辺さん考え違いえ。雅ちゃんの足引っぱったら成仏でけへんがな。死んだ人にはそんな力はない。わが身のことは、それはご本尊さんに頼まな。」

叔母はおろおろして、

「そら分かってるのやけど、つい人の情として雅弘に頼んでしまうねん。」

「分かるけど、そこは岸辺さん、しっかりわきまえなあかんえ。」

と長々と説教されてる間私たちはいつまでも座敷に上がれなかった。

やっと吉田の婆さんが帰ったあと、岩佐の叔母が急いでお返しの品物の了解を岸辺に求めたものだから、岸辺の叔母がむくれ出し結論は明日もう一度来てくれということになる。

予定より十五分も遅れて岩佐の叔母の主導で読教が始まる。岩佐家夫婦も創価学会信者なのだ。私達は門徒だから、唱えているのは叔母二人だけ。叔父も黙って手だけ合わせている。

岩佐家の定子ちゃん、勝男君が途中から加わり、やがてお膳が出る。皆あまりしゃべらず黙々と食べる。

「これから忌明けの相談してくれるか。」

と岸辺の叔母が言う。それからは耳の遠い年寄り三人と私たち四人、計七人が、近所中に聞こえるような声で、時間がどうの学会のえらいさんへのお礼がなんぼがええ、仕出し料理の値段と女中さんの心付けなどなどを相談する。と言っても私の意見を岩佐の叔父が書き留めたようなもの。

八時過ぎに解散する。

 

朝はひんやりしたが、昼ごろからはやはりまだ残暑厳しく、涼しいとはとても言えない。    

水汲みも礼子がまだいいと言うし、午前中はほとんど何もしなかった。

昼から礼子が出勤してから折り紙を始める。展示用の自動車の二台目を六台作る。それもビデオを見ながらゆるゆると作った。創作オリガミは私の一番長く続いている趣味である。長らく日本折紙協会の会員だったが、勤めていた会社が解散の憂き目にあったりして、閑もその気もなくして、ある時以来会費を納めなくなり、従ってもはや会員の籍は消滅しているはずである。定年前に、会社に頼まれて、社員相手に「折紙教室」を一年ほどやっていたことがあるが、どんどん遠のいていた。

今ようやく心のゆとりができたのだろうか。

 

日曜なので岸辺にサンドイッチを持って行く。みなぬかの疲れで昨日はかなり参っていたらしい。

「吉田はんに言われたことがまだ胸につかえてるねん。」

叔母はまた声を震わせて蒸し返す。

「なんぼ教義やいうたかて、子に先立たれた親の気持ちは切ないもんえ。長いこと患うてた姑さんが死んでしばらく、かわいそうと思うのとは比較にならへん。わての言うこと間違うてるか?ご本尊さんの前でもあて堂々と言うえ。」

「叔母さんの言う通りや。間違うてへん。」

「成ちゃん、あんた、あての味方やな。」

「味方や、味方や」

九時二十三分のバスで、久しぶりに清滝に出かける。六月の末にお室の裏山に行って以来である。百人の「歩こう会」のパーティーに出会う。ニコマートで買った弁当を、山の匂いを嗅ぎながら食べる。

たいした距離でもないのに、なんだか疲れて昼過ぎのバスで帰る。バスの中で二人とも寝てしまった。私は家に帰ってからもぐうぐう寝た。

すみ子はヨットを乗りに行ったのだが、琵琶湖が風が強くて組み立てだけで一度も乗らないで帰ってくる。

四時過ぎから礼子と自転車で近鉄に行き、少し気が早いが割引券で、さやか達のクリスマスプレゼントを買う。

最近なにかと疲れているのか、九時過ぎから一時間も礼子はぐうぐういびきをかいて畳で寝る。

 

ひんやりした秋の朝を思わせた。

七時半に水を汲みに行くが、この時間にしては待っている人は多かった。十五日から十八日までは萩祭のため水汲みは遠慮願いたいと掲示が出ていた。見渡しても萩の花らしいのはまだ見当たらなかった。開花が遅れていて、ようやくつぼみがふくらんでいる程度である。

昼からは精出して展示用の(折り紙)自動車の二台目を折ってしまう。

夜、岩佐の叔母から岸辺の香典返しの取りまとめ作業が終わったと報告の電話があった。品物は前夜にすべて岸辺の叔母が決めていて、自分たちはデパートの発注書に宛名書きを三時間掛かりで書き、くたびれてしまったこと、岸辺の叔母がまだまだしっかりしていて、自分たちの意見を挟む余地がなかったこと、お金の精算でも、一円まできっちり計算してお釣りを受け取った、などと愚痴まじりでまくしたてた。

 

十時前に岸辺に水の瓶を一本持って行く。叔母は遅い朝ご飯の最中らしく、奈良漬けを切り出していた。粗末な朝飯を見られたと思ったのか、叔母はちょっと困ったような顔をした。

この前約束していたので、余った祖供養のテレホンカード十一枚を借りて、礼子と自転車で京都駅前のディスカウントショップに売りに行く。一枚四百円に売れた。ついでに近鉄に寄って、二割引の券で旅行用のトランクを奮発して買った。

帰りにはちょうど昼時間になったので、大丸の地下でラーメンセットを食べた。ここには前から中国人のウエートレスがいて、甲高い訛のある日本語で、「イラシャイませ。アリガトござました。」と叫ぶのが耳につく。味は今日は少し薄い。

岸辺にカードの換金分を持って行くと、珍しく若い学会の女性がお客に来ていて、二人でチャーハンを食べかけていた。その精で少しはしゃいでいるのだろう、私が帰りかけるとその背中に向かって、「また来てや!」と明るい言葉を浴びせた。

昼寝をして、四時ごろから河原町まで歩いてくる。旅行会社にアメリカ行きの前金六万円を払い込み、本屋に立ち寄って、「ニューヨーク」の案内書を買った。

 

七時半から水汲みに出かけたが、すでにすごい人の列だった。明日から萩祭で休止になるからだろうが、ばかばかしくなって汲まずに帰る。

礼子は今日は特別の早番で八時過ぎにもう出かけてしまった。

展示用のさいころ台を作り直そうと思って製図を始める。台紙が足らないので、文滴堂で一枚四百七十円の台紙を六枚買ってくる。

十時半にもう一度梨木神社に出かけた。さっきよりはましだが、それでも十二人待ちだった。帰りにはまたまた増えて二十人以上が待っている。それが私のような定年を過ぎた世代ばかりでなく、現役世代も混じっているのが不思議だった。

礼子が一時退勤で、遅くなるが昼食はうちで食べるというので、それは私がこしらえる約束をした。みやびホテルで年末に協賛で買った二段おせちの重箱を利用して、冷蔵庫の残り物を寄せ集めて詰め合わせ、豆腐を小刻みにして味噌汁を作ると、ちょっとした料亭の幕の内定食が出来上がった。我ながらなかなかの出来映えだった。礼子が感心してくれた。  

彼女は、昼を食べるやすぐまたリズム体操だと言って五島さんとこへ行ってしまった。

 

夜中の三時半に目が覚め、うとうとしたが結局四時半に起き出す。今日は久し振りの小旅行の当日で、遠足の前に似た心境なのだろう。

しかし何やかやしているうちに七時になった。すみ子が起きてこないので礼子が呼びに上ると、今日は敬老の日で休みとのこと。なるほど、近頃休日の感覚が鈍っている。すみ子に留守番を頼んで、われわれは七時十五分に慌てて出かける。八条口は込み合っていた。申し込み順とかで私達は一号車の最後列だった。ちょっと小言を言ってみたが、添乗員の同情の言葉だけで終わる。

バスは三台で約百五十名の大所帯、予想に反して東に向かう。大津、草津、甲西町三雲でさらに客を拾い、南下して鈴鹿峠、伊勢ハイウエーと進み、勢和多気インターで昼食を摂る。牛肉二切れの一人用鍋ものだった。乗り合わせたバスガイドは見た感じは子供みたいだが、説明振りはなかなか堂に入っていた。

途中下車で見物した鬼ケ城は長い年月かけて作り上げた「海の彫刻」。海岸沿いにライオンの顔をした獅子岩も見た。これは日本のスフィンクスと説明されたが、そこまでの迫力はなかった。

勝浦までは長い道のりだった。夕方四時にやっと到着する。われわれはそこから小さな観光船で紀の松島巡りに出かける。

ホテル浦島の部屋は旅費からしてこんなものだろう。壁に懸かった車海老の色紙が額に落ち込んでいる。西洋人風のメードが来たので、「直してくれる?」と頼んだが、「明日の朝に・・・」とそっけなく行ってしまう。仕方なく自分で直す。

それより名物の岩風呂「忘帰洞」はすばらしく、はるばる来た甲斐があった。

懐石の夕食を食べ過ぎてしまい、早々に部屋に引き上げ、また「忘帰洞」に入る。夜から雨が降りだした。

 

五時半起床。まだ雨が降っていて止みそうもなかった。

もう一つの岩風呂「亀の湯」もなかなか素晴しく、全景に穴の開いた岩山が望めた。さらにもう一度  名残に「忘帰洞」に入る。

ホテルを出て桟橋までは大変な雨だった。ところがバスに乗り込んだころから雨が止み、那智の滝見物では傘なしで歩けた。われわれは二百円払ってさらに滝壷の見えるところまで行く。壮観。落差百三十三メートルは日本一だそうだ。

続いて那智山の石段四五十段を登って、西国三十三ケ所  一番札所青岸渡寺に参詣、礼子はそこでご朱印をもらっていた。隣が那智大社である。  

七里御浜で粗末な松花堂弁当の昼食。                                                                        

その前後、お菓子屋さんお魚屋さんでのショッピング。礼子は買わないと言っていたが、それでも色々買っていた。

帰りもまた長かった。二人とも、うたたねの連続で、京都着が七時。もう暗くなっていた。

 

六時前までよく寝た。雨は降ってない。しかし昨日の雨で琵琶湖の水位が十九センチ上がったらしい。

水汲みも今日明日が萩祭のため休止だった。することもなく、午前中は過ぎる。

昼からは礼子は会社で、私が昼ご飯の後片付けを台所でがちゃがちゃやっているところへ岩佐の叔母と叔父が顔を覗け、岸辺にこれから行くと言う。おとといの敬老の日、岸辺の叔母が電話口で疲れたと泣いたらしい。河原町三条の回転寿司を食べてから、ここまで歩いて来たとのこと。おからの煮つけとお菓子をくれ、玄関先で帰ってしまう。

 

六時過ぎに起床。

岸辺にサンドイッチを届けに行く。両手をついて忌明けの日のことを頼みます、お茶受けのお菓子を礼子さんに見つくろってほしいのやけどと言った。

四なぬかには、学会の人の前でめそめそしてまた怒られ、それでも皆が力づけてくれて、火の用心だけはくれぐれも注意するように 念を押されたそうだ。

「岩佐はんに家売れ言われたこと、まだ胸に残ってるね。」

といつもの恨みごとを言う。

「自分でご飯ごしらえなんかしてるの?」と聞くと、

「この前若い奥さんと一緒に焼き飯たべてたのは、あれ、あてが作ったんやがな。」

あの時の奥さん、年は六十六才と聞いてびっくりした。この奥さんの息子さんも軽度の障害者である。

立ち上がった私に、

「また覗いてや。なあ、また来てな。」と叔母が繰り返した。                                                                                    

 

久しぶりに水汲みに行く。雨がぱらついたのでハイキング用のビニール合羽を着て行ったら、礼子が、「からすが自転車に乗ってるみたい。」と評した。

礼子が大丸の売り出しで一パック五百円のまったけを買ってきて、昼はまったけのいっぱい入った澄まし汁が出てきた。

 

目が覚めたら六時半だった。涼しいとよく寝られる。慌てて起き出した。

礼子は昨日から肩が痛いと言っていたが、今朝はひどく凝っていて首が回りにくそうだった。

町内の田端さんの告別式が十時からだった。今日も帳場を引き受ける。神式なので焼香の代わりに玉串を捧げるのである。拝礼も二礼二拍手、それも打ち鳴らさずにとのことだが、皆まちまちのことをやっていた。出棺の時はほとんどの人が仏式に手を合わせていた。

残って香典を数えたが、無論わたしが指示して一発で合わせる。

礼子が岸辺に行くと、いきなり仏壇からメモを取り出してきて叔母の言うことには、岩佐の叔父が先日やって来て、「庭に捨てるほどお金があるわけやないやろ。お茶受けは一人一つにして、お盆に盛っといたら。」と言ったとかで、そのことがメモに書いてあった。

「もう腹に据えかねて、よんべ寝られんかった。」と礼子に訴えた。

私が四時前に岸辺に行くと、「今吉田はんにお講義を受けたとこや。」と笑いながら叔母。私にも例のメモを見せる。

「兄弟やさかい、ずばずば言うたんちがう?」

「子供の兄弟喧嘩と違うえ。あては岸辺で、あの人は岩佐やないの。」

「吉田さんはどない言わはった?」

「やっぱりひどいて。あてもそう思う。人がなんぼ持ってるか知りもせんと。よう言うわ。お饅の一つが二つになるくらいで百万も二百万も違うわけないやろ。そやけど吉田はんに、そんなメモ早うほかして(捨てて)しまい、て言われた。」

私は雅ちゃんの額を釣る釘を壁に打ちつけ、「まあ、三十五日が過ぎたら、いろいろ昔話なんか聞かせてな。」と言い残して引き上げる。

 

九時前に水汲みに行ったらずいぶん空いていた。私が汲み終わってもとうとう誰も後から来ないので水道の蛇口を閉めて帰った。こんなことは滅多にない。

十一時ごろからお彼岸の墓参りに礼子と出かける。西大谷のお墓に参ってから清水を回って、いつも行く洛匠で庭を眺めながら草蕨を食べる。萩が今を盛りと咲き誇っていた。

丸山海道先生推薦と言って、桂子あてに三光俳句会というところから句会の案内が舞い込んで来た。電話で連絡先に問い合わせて見ると、女の子が出て、向こう側で、「お母さん電話!」と言っているのが聞こえた。推薦の経緯や理由は一切知らないとのこと。会費は月千五百円だからぜひともご出席下さい、奥さまが欠席の時にはご主人が代わりにおいでになっても結構です。投句も受け付けていますのでとも言った。よく考えてみたら、先日桂子が京都新聞の俳句欄に投稿したのが佳作で掲載された。その時の選者がどうやら丸山海道先生だったようだ。桂子はパートがあるから行けないと言うので、ちょっと興味をおぼえて、閑な私がとりあえず様子を見てこようということになる。

 

午前中に住所録の整理を終わる。

昨夜、創価学会の婦人部長さんが来て、雅弘の納骨の日取りが十月十五日午後七時からと決まり、ついては「自分一人で行ってもいいけれど、出来ればどなたか身内の方がご一緒してもらえたら、その方がええと思うんですが・・・」と慇懃に相談にみえた。そこで二時ごろ叔母のうちに行き、

「物は相談やけど、納骨の日にな、叔母さん、僕が一緒に行くさけ、行かへんか。例え仮納骨でも儀式があるのに、喪主が加わらんのは変やで。近くやし、どうせタクシーで行くのや。法要は一時間ほどやし・・・」

叔母は無論行くと言った。

「岩佐さんにはな、成夫に介添えしてもろて、行く、と言うといて。僕が親戚代表と思われたらかなんから。」

と頼むと、また叔母が興奮し出した。

「わては沢村の出えなんやから。稲さん(叔父のこと)は分家やろ。何でそんなこといちいち遠慮せんならんね。」

「それでも僕には叔父さんやし、気い使うねん。」

叔母も毎度まいど 腹立てるのが照れくさくなったのか、

「わかった。わても信心してる身でなあ。カッカしたらあかんなあ。」とか言いながら約束してくれた。

明日の段取りを聞いてたら、健ちゃん(従兄)を一時に呼んでると言うので、「それはやっぱり十一時に言うとかな、気い悪るされるえ。」と、それも「言い直す」ということで帰ってくる。

昼寝を少ししてから折り紙展の案内はがきに宛名書きをする。

その最中に岸辺から電話が掛かってきた。婦人部長さんが来て、明日は支部長と一緒に自分も寄せてもらう、納骨の日の段取りは了解したと言って帰ったとのこと。包みものをどうしょうというので、叔母の意を汲んで一万ずつお礼を包んだらどうやろと、あっさり結論を言う。

「健ちゃんが来てる、来るか?」と言う向こうで、健ちゃんの声が、

「ちょっと急ぐねん・・・」

しばらくして私の家に当の健ちゃんが来た。「明日どうしても仕事の都合で来れない。」と言いに来た。その上、「どうか誤解せんといてほしい、他意はないから。」とわざわざ念を押す。

 

五時半に起きる。すみ子も早く起き出して、会社のお茶会の運び役を頼まれてるので、母親の着物を借りて、着るのに時間を掛けている。

朝食後私は、学会の人に差し出すお礼の包みを岸辺に渡しに行った。

十時二十分ごろ、今度は背広を着て岸辺に出かける。もう岩佐一家は来ていた。結局「お礼」は支部長さん部長さんとも受け取らなかった。

後片付けをしてから、松源さんまで皆でぶらぶら歩いて行く。窓縁にクーラーと狸の置物が傾いたまま押し込まれていて目障りだった。しかし叔母は満足のようで、われわれも立派立派と言って、二時半ごろまで談笑した。

帰りに私のうちに皆で寄ってもらう。昔のアルバムを見せると、いろいろと話題がはずみ、特に岸辺の叔母の精力的なのにはみんな圧倒された。身の上話の中の秘話も披露してくれた。死んだ彼女の連れ合いが女道楽で、ある時背中に入れ墨のあるヒモがやって来て脅すので、危険を感じた姑の手配で、叔母は正弘を抱えて夜道を走って逃げ、姑の持つ貸家の一つに隠れ住んだことがあるとのこと。この話は両親にも聞かしたことがない、初めてこの場でする打ち明け話しだと言った。そのほか娘時代に番頭をお供に家出をした話、その時女中が手回り品弁当の用意までしてくれたとか、きんらんどんすの織り子になりたいと母に申し出て頭から反対された話とか。

四時半ごろまで皆わいわいとしゃべって、帰った。

 

八時半ごろから水汲みに行ったら、土曜日のせいか、すごい行列だった。

十一時ごろ、鮎の佃煮を持って岸辺に行く。表戸が閉まっていて、呼び鈴を鳴らすと叔母が寝起きの顔をして、戸を開けてくれた。庭に、菊の小鉢がいつの間にやら置いてあった。雅ちゃんの額の縁に着いた両面テープをシンナーで拭き取ったりしていて、

「もう疲れて、なんぼでも寝られる。」と言う叔母に、

「好きなだけ寝たらええ。」

と言い残して帰る。

お隣の若奥さんが家の修理をするのでと海老煎餅を持って挨拶に来た。

「屋根を直されるんですか?」と訊くと、

「屋根を早いこと直さな、いろいろご迷惑かけてるので、と思うんですが、先立つものが不足で、とりあえず階段を付けよ思てます。」

とトンチンカンな返事をする。

「いろいろありまして・・」

とそれからも隣に住む姑のこととか言わずもがなのことをくどくど喋り、十五分も立ち話をして帰った。

 

今朝は礼子がサンドイッチを岸辺に持って行った。昨日まではしばしば「本家さん」と持ち上げたところを、今日は「近所やし頼むえ。」と少し変わったと、礼子が報告した。

十一時から岡田さんのおばあさんの法要に近所の観竜寺に呼ばれて出かける。

親戚ばかりが三十人ばかり出席していて、他人は私だけみたいだった。いわば町内代表である。うちのおじゅっさんに引きかえ、ここのお寺さんの読教はさすがコーラスをなさるだけあっていい声で迫力がある。

午後から立命館行きのバスに乗り、お室(仁和寺)に着いたら二時を回っていた。それから八十八か所巡りをする。いつの間にやら雲がなくなり、秋空が広がった。終わったのが五時ごろで、うちに帰ったらすっかり暮れていた。

七時ごろデズニーランドから戻って来たすみ子が京都駅から電話で、「私のご飯ある?」と聞いてきた。「あるから、帰れ。」

 

今日もいい天気である。

午前中何をするともなしに過ぎていく。折り紙展の自己紹介を作ったのみ。

昼からは礼子が出勤だった。

二時ごろに叔母から電話で、葬式費用の整理してほしいと言ってきた。悲しそうな声で言うので、明日と思ったが、これから行くと答えてしまった。ついでに梨木神社の水を一本持って行く。折り紙展の案内と、あり合わせの「クラシックカー」の折り紙を叔母に渡すと、ひどく驚いて、

「あんたは天才や!」

否定しても、

「いや天才や、これ、わての自慢になる。ママさんに見せたらびっくりするやろ。飾っとくわ。」

と奥の間の台の上に紙を敷いて飾った。叔母は半紙にゼリーを二十こばかり、

「これ、おいしいよ。」と包んでくれた。

領収書類を借りて帰って夜まで掛かって整理する。きっちりした叔母も時々、あるはずの領収書が抜けていたりして、思い出しながら推定値で作り上げた。

入院費用約十万円、葬儀費用約七十五万円、法事費用約五十万円、締めて百三十五万円。人間一人死ぬのも出費が大変だ。

 

小雨がぱらついていて湿度が七十五%だった。久しぶりに除湿器をかける。

雨があがったところを見計らって水汲みに行く。なんと礼子と私とたった二人きりだった。

もう一度葬儀費用の明細を点検して、二三ヵ所手直してから、十時ごろ叔母のうちに届ける。一つ一つ領収書の金額を示しながら、明細書の仕分けの説明をする私に、ちょっと付いて行けないところもあるらしく、説明が終わるとほっとしたようだった。

「会社の経理でこんなことしてたんか。よう分かるわ。立派に作ってくれて、おおきに。」

と深々と頭を下げたので、叔母は机におでこを少し打つ。私も気をよくして帰ってきた。

昼から、礼子がリズム体操に行ってる間に、風呂のかびを洗い落とす。この前から気になっていたのでサッパリした。

礼子がニューヨーク・ロスの旅行に、日程上見物のゆとりがないと不服を言いだした。ちょうど佐和子から電話が掛かってきて、「ヨーロッパの方がええのと違う?」と忠告され、キッパリ「もう決まりや!」とトドメを刺したつもりだったが、だんだん礼子の説明に気が変わり、明日一番にキャンセルして、一から考え直すことになる。

 

朝からどんよりと曇っていて、やがて小雨が降り出した。

十時頃に関汽航空に電話でキャンセルを入れる。パンフレットを引っ張り出してニューヨーク・ワシントン・ボストンを有力候補と決めて、昼前に傘をさして歩いて出かけた。河原町三条の近ツーで、パンフレットを見たり話を聞いたりしているうちに、ふとニューヨーク・ナイヤガラに傾いて仮予約する。店を出たとたん、河原町を歩きながら、二つのコース費用を暗算で比較して見て、近ツーが成田発ということもあり、最終的に関汽が良かろうと下相談がまとまった。阪急の「あかさたな」でセットを食べてから、関西汽船でニューヨーク・ワシントン・ボストンにナイヤガラのオプションを付けて仮予約を済ます。

やっさもっさで疲れてしまった。

台風が明日の晩には京都を通るかもしれないとテレビが報じ、礼子の会社から明日の遅番は来なくていいと連絡してきた。

夜腹ごなしに散歩に出て、安売りのアメリカンビールを八本買って帰る。

 

二十六号台風の接近が遅れていて今朝はまだ風もなく時折り薄日が射していた。

水汲みに行く。今日もがら空きだった。

九時前から礼子は肩のマッサージに出かけた。

昼からは礼子は墨絵の宿題の梅を描きだしたので、私は亡父の日記の整理を続ける。思ったより大変な作業である。字句の間違い、句読点がない、当て字、勝手な送り仮名、崩し方や続け方がしばらく考え込まないと理解出来ないことがある。詰まらないことも書いてあり、興味を削ぐこともある。

三時半頃、先日近所の香典返しに貰った永楽屋の佃煮を持って岸辺に様子を見に行く。叔母は盛花をいいとこ取りして生け直していた。台風のことは、

「よんべ来る思もて二階の窓縁に布を敷いてあるね。いつもそこから水が吹き込むさかいに・・・」

と、もう用意万端の様子で落ち着いたものだった。私は父の日記のことをちょっと話し、叔母にも暇を見て、一代記でも書いてみんかとそそのかす。叔母はどういう意味か知らないが、私の父が可愛そうやと繰り返した。

帰宅するや、礼子に、

「叔母さんのうちより、自分のうちの方はどうなるねん?」

となじられ、二階の物干の干物竿を縛りつけ、植木鉢を中に取り入れたりする。

夕食後風がだんだん強くなってきた。すみ子がなかなか帰って来ないので礼子がいらいらしだす。私に聞かれても答えようがない。どこの会社も今日あたりは少なくとも残業はさせないだろう。今夜は着付け教室だということを礼子が思い出した。さっそく礼子は電話帳を引っぱり出して、京都駅近くの着付け教室に電話する。「今日はお休みですよ。」と先方は素っ気ない。それなのに礼子は赤の他人のその電話の主に娘がまだ戻らないとくどくどと説明している。その最中に表戸が開く音がしてすみ子が戻ってきた。

「遅かったなあ、なにしてたん!」

ととがめる母親に、すみ子は、けろんとして、

「なんで?私はこんな早よ帰れてシアワセーて思てたのに。」

台風二十六号は午後七時半に紀伊半島に上陸、北上しつつあった。

 

六時に起きて外に出ると、台風一過の爽やかな秋空がのぞいていた。

九時過ぎに自転車で押小路の吾妻に行く。店の前に立ったとたん、まだ買いもしないのに奥さんが、「毎度おおきに。」と粗品を渡してくれた。そのせいという訳ではないが色々物色してからオリンパスズーム70パノラマが特に安かったので買って帰る。一万五千円程である。

にわか雨が降る中傘をさして、十二時過ぎに地下鉄御池駅に行ったが誰も来ておらず、十二時半が予定時間だったらしい。交通局のMさんが、来るなり、

「円形ブースが辞退してきて空き家なんですけど、いかがですか?」

と持ちかけるので、使用料が追加にならないなら、ということで承諾する。早速うちに帰って「特殊自動車」を取ってきて飾る。何とか十八ブースを満たすことが出来た。はじめ不安がっていた礼子もびっくりする手際よさだった。

文化博物館の中に和紙の店があり、前から私の折紙の本を置いてくれていたので、小さなクラシックカーと御池展の案内を十枚持って行って、置いてもらえないかと頼んだら、気持ちよくOKしてくれた。

四時ごろになって礼子は夕飯の支度で考えあぐねていた。私が、この前作ったような幕の内をまた作ろうと提案したら、礼子はたちまち賛成する。三重おせちの空箱を物置きから出してきて、それに小皿を組み合わせ、あり合わせを盛りつけるとそれらしく「幕に内」が出来上がった。礼子が豆腐の味噌汁にさんしょの隠し味を加えたところ、仕出屋さん裸足の味噌汁が出来上がった。すみ子の分も作ってやったが、いつ帰って来ることやら。

夜、散歩のついでに御池ギャラリーを覗いたら、何人かの知り合いの名前が芳名録に載っていた。

 

おわり