梅笛について

群馬県渋川地域において祭礼の際に奏されるお囃子に用いる超大型の横笛。その特徴は何と言っても『梅』の木を材料として用いるところでしょう。樹齢50年を超える梅の木を自らえぐり、笛を製作します。笛の作り方も師匠から弟子へ・・・脈々と受け継がれてきた伝統を我々梅笛保存会は頑なに守り抜いてきました。過去から未来へ。梅笛保存会は社会の変化に柔軟に、そしてしなやかに対応しながらも、『梅笛』の伝統を未来のまだ見ぬ後継者たちへしっかりと伝えて参ります。

梅笛の始まり

梅笛

 渋川では笛師を江戸時代後期から明治中期までは、佐波郡・前橋市方面へ飛脚などを使って依頼していたが、明治の後期から昭和の中期にかけては各町内では“横室”(現富士見村)の笛師に依頼した。

 明治30年頃、横室より川原町に萩原元治氏、下ノ町に奈良鷲之輔氏が両町の依頼を受け笛師としてやって来た。萩原元治氏が創案された“梅笛(ばいてき)”を使った囃子の音色は素晴らしく、他の町内(この当時澁川祗園に出場していた町は以下の通り・元宿、裏宿、上ノ町、中ノ町、新町、寄居町、南横町、北横町)は竹笛で奏でる囃子では到底及ばず、人々は「三里響く」と言われた“梅笛”の音色に驚嘆するばかりであったと言う…。

梅笛の説明

梅笛の説明

 歌口から第一指穴までの寸法と七ツの指穴間の寸法が等しく、第七指穴から笛尻までは一握りが原則という。

 細い笛と太い笛を比較してみると、細い笛は甲高い音が出るが、遠くまで音が響かない。太い笛は低音のようであるが、遠くまで音が響く。吹くのに肺活量が多く必要である。

澁川祇園囃子について

 澁川祇園囃子の源流と紹介。そして渋川の祇園囃子は何処から伝えられ何処へ伝えられていったのだろう?

 ・さんてこ(参手古)…代表的な曲目。山車の進行中に奏する。
・吉原神田[よしわらかんだ](神田)
・昇殿[しょうでん]…八幡上りの際八幡宮で奏する。三味線・鼓が加わったそうである。
・夜神楽[よかぐら]
・麒麟[きりん]
・かごまる
・八幡下[はちまんくだり]…八幡宮の境内を出てから八幡坂を下りきった所まで奏する。

祇園囃子

 渋川の山車囃子(祗園囃子)の源流を遡ると“山車”同様、東京の神田祭・神田囃子に行き着く。そのルーツは神田囃子だと言われている。その神田囃子にも元曲がありそれは葛西囃子と言われている。
葛西囃子は古くから葛西方面(現東京都江戸川区葛西)に伝わるもので、享保の初め頃(8代将軍徳川吉宗の頃・暴れん坊将軍)武州葛西領鎮守香取神社(現葛西神社)の神主、能勢環によって創始された囃子と言われ、次第に近隣に普及し宝歴3年、関東郡代の推薦で江戸神田祭に出演したと言う。前屋台、昇殿、鎌倉、仕丁舞、玉、後屋台、投遣り、寿獅子、仁羽が神田囃子の元曲葛西囃子であるが、その構成は7穴の通称“トンビ”と言われる篠笛が一人、“シラベ”と言われる締太鼓が2人、“オウド”と言われる大太鼓が一人、“ヨスケ”と言われる摺り鉦がひとりの計5人で演奏する。
囃子の中心となるのは常に笛で、笛がなければ葛西囃子は成り立たない。この葛西囃子の創始者と言われる能勢環は笛が得意であったことが想像される。

 葛西囃子の演奏は神楽殿などの舞台で演奏するようで、山車などに乗り運行しながらの演奏ではない。曲目は打ち込みに始り、続いて笛から入り、緩いテンポから徐々に速さを増していく。明らかに神楽囃子の趣を持ちこの調子では、山車の曳き回しには合わないように思える。昇殿は緩やかなテンポで昇段して神前に額ずくといった感じで、これも神楽囃子的なものと考えられる。いずれも山車囃子としては不向きな感は否めない。

 神田祭には多くの山車や練り物と言われる飾り屋台が町中を練り歩いており、それには山車を曳く一定のリズムを持った囃子がなければ盛り上がらず、かくして神田囃子が誕生したと考えられる。神田囃子は神田大工町の新井喜三郎によって創作されたとも言われ、また新しい曲の神田丸、亀戸、麒麟、葛鼓などが加えられた。

 神田囃子は、一つには山車の上で運行中に演奏するリズミカルで軽快な曲を、一つには江戸木遣きやりに合うようにゆっくりとした重みを出す事を基本にしているようである。

 神田囃子は、成立時において祭りに参加する町の趣向によって囃子の形が定まったと考えられ、それらの囃子が江戸を中心とした諸街道を伝わり、諸国を治める大名・旗本の肝いりで伝えられていったが、その過程は様々で曲名は同じであっても変化したものが伝えられ、またその土地柄により新しい曲が生まれていった。
山車と囃子が別々に伝わった所もあり(埼玉県川越市・栃木県栃木市がその例)比較的リズミカルなもので、また中山道筋に伝わって行った物はゆっくりとしたもので埼玉県本庄市・高崎市などがその例である。しかし同じ中仙道筋の熊谷市の囃子のように、大きな摺り鉦を3基並べて叩く囃子もある。伊勢崎市近辺で発展した囃子が日光例弊使街道沿いに中仙道筋へ出て伝わったものもあり、江戸を中心とした規則的な扇状の伝達経路ではない。

・手古舞[てこまい]
江戸時代の祭礼の余興に出た舞。元は氏子の娘が扮したが、後には芸妓が男髷に片肌脱ぎで、伊勢袴、手甲、脚絆、足袋、草鞋を着け花笠を背に掛け鉄棒を左に突き右に牡丹の花を書いた黒骨の扇を持って扇ぎながら木遣りを唄って山車の先駈けをする。現在も神田祭などで見られる光景である。
もちろん最近でも手古舞姿で渋川の祭りに参加する女性もいる。この女形を「おつ姿」と言い、反対に、半纏股引姿の男らしい装束を「いき姿」と言う。

・参手古
さんてこ(参手古)は渋川祇園囃子の中でも、中心的な一番馴染み深い曲目であり、「道行き」とも呼ばれ、軽快なリズムを持つ曲で特に山車の道中用に用いられる曲である。
佐波郡境町方面の“世良田祇園”での女塚の囃子(参手古)は1840年代(天保年間・老中水野忠邦の天保の改革の頃・遠山の金さんもこの頃の実在の人物である)より伝えられ、県内でも各地の祇園囃子のルーツ、正調を伝えるものとして定評がある。

 渋川では笛師を江戸時代後期から明治中期までは、佐波郡・前橋市方面へ飛脚などを使って依頼していたが、明治の後期から昭和の中期にかけては各町内では“横室”(現富士見村)の笛師に依頼した。明治30年頃、横室より川原町に萩原元治氏、下ノ町に奈良鷲之輔氏が両町の依頼を受け笛師としてやって来た。萩原元治氏が創案された“梅笛”を使った囃子の音色は素晴らしく、他の町内(この当時澁川祗園に出場していた町は以下の通り・元宿、裏宿、上ノ町、中ノ町、新町、寄居町、南横町、北横町)は竹笛で奏でる囃子では到底及ばず、人々は「三里響く」と言われた“梅笛”の音色に驚嘆するばかりであったと言う…。

 これ以来、各町は競って横室方面の笛師を依頼した。明治後期頃から渋川祗園囃子はこれら横室方面からの大勢の笛師の影饗を強く受けたのである。

 神田→世良田(新田郡尾島町)→横室→渋川の順か?

 横室の塚田金作氏は若い頃放浪中に、新田郡世良田方面の囃子の笛・太鼓を習いこれを横室の田村熊太郎、萩原元治、奈良鷲之輔氏に伝授した。これら横室の人達が依頼されて渋川祇園に笛師としてやって来ている事から、渋川の祗園囃子は世良田方面の物が横室を経て伝わってきた様に思われる。渋川の各町は笛師を手厚くもてなし、帰りには手土産を渡したそうである。