祭りの紹介

 渋川の祭り、渋川山車祭りは、八坂神社、惣鎮守八幡宮の例祭に諸町が練り物を出したことから始まりました。現在では、山車の造りと飾りの見事さで北関東一を誇っています。町ごとに趣向を凝らした山車が勢ぞろいし、町中を練り歩くさまは勇壮にして壮観。その威勢のよさから別名「あばれ山車」の異名をとっています。
隔年で行われ、県内はもとより全国からも多くの観光客を集める渋川の夏の風物詩です。

渋川の祭り、澁川祇園の源流とは

 一つは総鎮守八幡宮の“山車”一つは師走の“酉の市”で馴染み深い八坂神社の“神輿”である。

両者は形態的に相似たものとするのが自然だった。担ぐか、曳くかの違いはあるが。しかし、両者の決定的な違いは山車が自主的な風流拍子物であるのに対して神輿は八坂神社の木戸下三町(上ノ町・中ノ町・下ノ町)が役目として出すものであり山車と違い神事と切り離せない存在となっていたのである。

木戸上と木戸下
 江戸時代に入り、幕府は五街道(東海道・中仙道・奥州街道・日光街道・甲州街道)を中心とする街道・宿場の整備令を出し宿割(宿場の建設)を開始した。
渋川においても慶長18年(1613)旧宿の元宿・裏宿・川原町に接続してその東西に長く上ノ町・中ノ町・下ノ町の町割(現在で言う都市計画)を計画し鎌倉街道に沿う集落の民家を移し新しい宿場を建設した。この時、旧宿と上ノ町以東の町屋との境に通行改め・野犬等の害獣の侵入を防ぐなど治安維持の目的で“木戸”を設けた。これ以来、旧宿の三国街道沿いの元宿・裏宿・川原町を“木戸上”と呼び、上ノ町以東を“木戸下”と呼び慣わす事になったのである。

渋川八幡宮
渋川八幡宮

総鎮守渋川八幡宮と渋川源氏
 “はちまんさま”と呼ばれる神社は、全国で3万とも4万とも言われ、実に神社の3分の1は八幡神社と言われる。

 全国の八幡神社・八幡宮の総本社は大分県の宇佐神宮で宇佐八幡と呼ばれている。八幡神は日本で最も早い神仏習合の神・八幡大菩薩とされる。仏教保護・護国の神として大菩薩の称号を贈られ、さらに東国に勢力を伸ばした源頼義が石清水八幡宮を清和源氏の氏神として信仰した。これにより、各地の武士もこぞって八幡神を各領地に祀っていったのである。

 なかでも鎌倉幕府の創設者源頼朝は東国開拓の祖、頼義が厚く信仰したとされる京都の石清水八幡宮を特に尊崇し、源氏の氏神として鎌倉の地に勧請し鎌倉鶴岡八幡宮を建久2年(1191)創建した。

 頼朝は配下の武士達に「神の働きは人間の信仰の深さによって一層活発になり、人の幸せはその神のご加護による」と説いた。やがて、武士の台頭と共に八幡神は多くの武士達の尊崇するところとなり全国各地に勧請されていった。こうして八幡神は武神、軍神として武士達から厚い信仰を集める。頼朝の祖父義家は石清水八幡宮の社頭で元服したので八幡太郎義家と名乗ったほどである。

 渋川の八幡宮は建長元年(1249)源氏の傍流である足利泰氏の二男、足利義顕が渋川保開発の祖として渋川次郎を名乗って八幡平に館を構え、領下10ヵ村の総鎮守として鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して守護神として祀り住民の安泰と武門の繁栄を祈願されたと伝えられる。

総鎮守八幡宮の祭礼と宮の三町
 八幡宮の祭礼は氏子や真光寺が元締めとなり、渋川六ヵ寺の檀家の若者を中心として、木戸上三町の世話人が祭りの相談に当たり、江戸時代には元宿(現元町)の如来寺(現国土交通省事務所)がその采配を行い祭礼の日取りが決まると檀家の若者達が寺の客殿などを片付け踊りの稽古をする。踊りに交えて太鼓などを叩いて男女が稽古をしたのであろう。

 祭礼では踊りの若者が参集近郷近在の人々が八幡宮を参拝し2日間の踊り、神楽、相撲、草競馬、地芝居など様々な余興が催されて万衆の目を楽しませた。秋の収穫を迎える時、渋川近郷に生きる人々の生活サイクルの中でも特に重要な季節の祭りであり、収穫感謝の意もあった。近郷周辺から大勢の村人見物人が訪れ買い物して帰っていくのが常であった。

 練り物(屋台・山車)が何時のころから曳き出されるようになったか詳らかでないが、八幡宮へ向かって“八幡坂”を上って行く“八幡上り”に際しては練り物の練行(曳き廻し)は、共に打ち揃って夜通し行われた様である。神楽などは神社が用意したものであるが、氏子が出す練り物も供奉しむしろ人気の的となっていった。芸能を楽しむのではなく華美や異形のいでたちで練歩くのを主眼とするもので願いや祝祭の喜びを表す主体的な行為である。

 ではこうした練り物の仕掛け人は誰であろうか?それは元宿を中心とする木戸上三町の商業的繁栄の担い手達であり、彼らの祈願や和合の行為がこのようになったと考えられる。

 総鎮守八幡宮の祭礼は江戸時代は旧暦の8月15日に執り行われていた。また総鎮守八幡宮の祭礼を執り行う木戸上三町を“宮の三町”と呼び八幡上りの際に運行の一番先頭に立つ元宿を“宮一番組”続いて裏宿を“宮二番組”川原町を“宮三番組”という。ちなみに後に述べるが、八坂神社の祭礼を執り行っていた木戸下三町は上ノ町から“一番組”中ノ町“二番組”下ノ町“三番組”という。運行の順序はこのように厳格に守られていた。また、江戸末期になって、町火消し組の関係から新町が“四番組”寄居町が“五番組”を名乗った。

木戸上三町と木戸下三町
町名組名参加時期町紋
木戸上三町(宮の三町・八幡宮の祭礼を執り仕切る)
元宿宮一番組・も組江戸時代三ッ扇
裏宿宮二番組・う組江戸時代丸う
川原町宮三番組・川組江戸時代源氏車
木戸下三町(八坂神社の祭礼を執り仕切る)
上ノ町一番組江戸時代ちくわ
中ノ町二番組・な組江戸時代やっこ
下ノ町三番組・し組江戸時代三階菱
町火消し組の関係から番組を名乗った町
新町四番組江戸時代左一つ巴
寄居町五番組・よ組江戸時代蛇の目
鬼五郎の墓

祭礼に伝わる挿話 「鬼五郎の涙雨」
 文化9年(1812)旧暦の8月16日、鎮守八幡宮の祭礼 での出来事である。大芝居の熱演中、本名を五郎と言う見事な体躯の持ち主で通称“鬼五郎”と呼ばれた若者が大観衆の中をめがけて蛇を投げ込んだと言う…。

 これに憤激した若者たちによって“鬼五郎”はよってたかって袋叩きにされついに息を引き取ってしまったと言う。

 哀れに思った真光寺の僧正様や地元の人々は、元宿の東側にある横町の墓地に弔ったが、渋川の祭礼になると妙に雨が降る事から、人々は口をそろえてこれは“鬼五郎の涙雨”だなどと言うことから明治12年8月に、真光寺では自然石に鬼五郎の銘を刻み、これを墓標とし懇ろに供養されたと伝えられている。

八坂神社

八坂神社と祗園 源氏の守り神である八幡宮に対して八坂神社はどんなものなのだろうか?
 そもそも「祗園」とは、京都の八坂神社本社はもちろんの事全国に勧請・分社された“八坂神社”のお祭りを指す言葉なのである。現在でも全国の祭りで「祗園」と名の付くものは全て八坂神社もしくはこれを合祀した神社の祭りなのである。

御霊信仰
 山城の国(現京都府)が平安京として都になり、人口が増大していくに従って、衛生設備の不十分、もちろん抗生物質やワクチンもない当時は毎年夏になると疫病が大流行して都に暮らす人々を不安と苦しみに陥れた。人々はこれを不遇の死を遂げた霊魂・疫病神の祟りであると考えた。(桓武天皇の弟早良親王しかり、このすぐ後の菅原道真しかり…)いわゆる御霊信仰である。位の高い殿上人であればあるほどその霊力も大きいとその無念の霊の鎮魂のために祭りをはじめたのである。

祗園精舎
 このような御霊信仰もあいまって「祗園会」は平安時代、京の都で始った。祗園とは釈尊の寺院であるインドの祗園精舎から名付けた。

 “祗園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり…”

とは「平家物語」の余りにも有名な書き出し。
御祭神は当初は牛頭天王を祀った。牛頭天王は本来祇園舎の守護神である。しかし、中国を経てわが国に伝わって来た時、御霊信仰と結びついて行疫神(厄神)として祀られるようになった。その後、神仏習合思想の影響もあってヤマタノオロチ退治で有名なスサノオノミコト(素戔鳴尊)と習合する。

鉾
山


 朝廷(時の政府)が先頭に立って最初に催した御霊会は貞観5年(863)といわれる。6月7日全国の国の数に準じて(明治維新後の廃藩置県まで日本は旧国名66州に分割されていた。ちなみにわが群馬県は“上野国”と呼ばれ、ここから私達に馴染み深い“上州”の呼び名が導き出せる。)長さ二丈余りの鉾を66本立てて盛大に祭りを執り行ったのである。鉾とは本来剣に長い柄をつけた武器の一つであるが、後になってこれが薙刀に変化する。しかしこの場合は背丈の高い槍状の棒柱であり、これに神を招き宿らせたもので一種の神座である。神座は柱状の物もある。これを真柱とも呼んでいる。この鉾や真柱を屋台枠の上に立てて曳けるようのしたのが今日の各地の祗園祭りになどに見られる山車・屋台の素型である。

山車の登場
 夏が来ると都では疫病が流行しその度に都のあちこちの神社・仏閣では御霊会が行われるようになった。そのうちに祗園社の御霊会が有名になり,数多くの人々が参加し華麗な風俗行列、今日の山車・屋台の原型とも言える組み立て物などが登場し衆目を驚かせた。

山車
山車

全国の祭りに
 祭りその物が本来の農耕儀礼から質的変化をしてショー的要素を強くする都会型の祭りへと変化していくのは当時御霊会と呼ばれた今日の祗園祭が果たした役割が最も大きい。鉾・山が人気を呼び、その数も多くなり室町時代には今日の祗園祭と同じぐらいにその数も揃った。そして各地に広く伝播して全国の祭りに大きな影響と刺激を与えていった。疫病退散の祭りの為、病がはびこる暑い季節を選んで始った。地方で遅れて行うのは農閑期と旧盆で故郷に帰る人や、子供が夏休みの為参加しやすい為であろう。

 祗園社は明治維新の時にその名を八坂神社と改め、御祭神の牛頭天王をスサノオノミコトに定めた。
祗園祭は,発生のいきさつから色々とショー的要素が強いいわゆるイベント豊富な祭りであるが、本来の姿は神輿渡御である。

御旅所祭礼 

 御旅所祭礼は神輿が本社から御旅所に渡御,一定期間留まって盛大に祭られ氏子地区を巡幸して本社に還御すると言う形態の祭りである。渡御があるから“ワッショイ・ワッショイ”と担いで巡幸する事になる。

 霊威ある神々は全てこの形態である。住民にとっての御旅所祭礼は神霊を自分達の生活領域に招き入れるという事である。御霊会で祀られたのは恐るべき祟り神であった。御旅所祭礼は忌み嫌い、避ける祟り為す神霊から、住民の期待に応える神への転位無しには成り立たない。御旅所に迎え祀る神は祟りを除き鎮める威力ある神でなければならないのである。そこに現れたのが、祇園社・感神院の祭神牛頭天王であったのである。

“茅の輪”くぐり

・祟りのパワーを秘める“茅の輪”くぐりの由来
 牛頭天王または武塔天神言うが、いずれもスサノオノミコト(素戔鳴尊)のことである。この神を祀る事で、様々な疫病や厄災から免れようとする信仰である。ここで一つ武塔天神(スサノオノミコト)に関する一つの説話を紹介しよう。

 スサノオノミコトは、この説話からでも推測できるように防疫神つまり疫病を防ぐ神には違いないが、その気になれば疫病を自ら流行させ、人々を滅ぼす事が出来る行疫神としての性格を持つ。しかし行疫神にも地位の低い色々な神が存在する。スサノオノミコトはこれらの行疫神を統御する統帥役の神として成立したのである。北海にいた武塔神が南海の神の娘のところへ求婚に出掛けたが、日が暮れてしまった。そこで、蘇民・巨旦と言う兄弟の家に宿を求めた。兄の蘇民は貧しく、弟の巨旦は大金持ち。だが弟の巨旦は一晩の宿を断り、兄の蘇民は快く引き受け貧しいながらによくもてなした。数年後…、武塔神は八柱の子を連れてきて恩返しをしようと言い蘇民とその妻と娘の腰に「茅の輪」を着けさせた…。その夜この3人を除き巨旦らは疫病で死んだ武塔神は「自分はスサノオノミコトだ。後の世になり疫病があれば蘇民の子孫と言うが良い。そして茅の輪を腰に着けよ。厄災から免れる事が出来るであろう。」と言った

 尚、渋川でも6月30日の八幡宮の“大祓”の際、この“茅の輪の行事”は行われており、中断以前はこの日に氏子惣代会を開き、その年の祭礼について協議・決定したそうである。

山車
山車

渋川の八坂神社―木戸下三町―
 慶長18年(1613)の町割によって川原町の木戸下に上 ノ町・中ノ町・下ノ町が建設された。(故に木戸に近い上ノ町から“一番組”中ノ町“二番組”下ノ町“三番組”と名乗った。又、寛永年間になると、下ノ町に引き続きその東方にも新たに町割を行い木戸下の四番目の町として“新町”が誕生した。新町四番組の名の由来はここに見出す事が出来る。この頃の渋川宿は佐渡奉行街道が三国街道と合流する地点であり、利根・吾妻や越後国へ向かう三国街道の重要な宿場・市場町であった。

 さらに寛永12年(1635)3代将軍徳川家光により参勤交代の制度が定められると北陸・羽越の諸藩が参勤交代のため三国街道を往来する事になり(例えば,加賀百万石で有名な前田家の大名行列も渋川宿を通過したのである)その通行は頻繁を極め木戸上三町(元宿・裏宿・川原町)は商業と宿場の町として必然おびただしいばかりの繁盛・隆盛を見るに至ったのである。しかし、上ノ町以東の木戸下三町は軒は揃ったものの農家ばかりの寄せ集まりで商業の町として繁栄を見るには未だ至らなかった。

 そこで承応3年(1654)時の領主、水野備後守元綱は市日・商売の繁盛を祈願し、市神として京都東山の本社から八坂神社を勧請した。勧請された当時の八坂神社は天王下(八坂町・現在の市営中ノ町駐車場辺り)にあったが貞享3年(1686)平沢川の大洪水によって流されてしまったという。そこで氏子一同は,この社を上ノ町北裏の現在地に移した。

 また、木戸下三町が中心となり正月初市には商売繁盛を祈り夏の祭礼には疫病防除の願いを込めて宿の中ほどになる天王の地(以前八坂神社が鎮座していた所・中ノ町十字路旧石倉人形店前)に御旅所を設け市神を遷座して諸人の参拝を受けるのを慣例とした。

 市日や八坂神社の祭礼になると、近郷の人々は木戸下に集まり買い物や物産の交換等を行った。町では地芝居、義太夫、踊リなど各所に余興が催された。このように渋川の“市”は物資の集散,販売,取引等の上で現在でいう渋川北群馬地方の主要地となっていったのである。

 またこの市の伝統は現在でも継承されているのである。正月の初市、師走の暮れの市、それと師走の二の酉の日に行われる酉の市である。この市の守護神とされたのが“八坂様”こと、牛頭天王(スサノオノミコト)なのである。

 余談になるが、八坂神社の祭神である牛頭天王が市の神・商売の神様として祀られているのは群馬県(上州)の特色である。京の祇園会を例にとって考えてみると、祭礼が華美・風流であり、したがって多くの人々の人気を得てより多くの人が寄り集まる。これは市町繁栄の為には欠かせない絶対条件であり“祭礼市”の成立を可能にさせる。疫病退散とともに夏場の荒天を鎮める神が次第に五穀豊穣、そして商業的繁栄を司る神として人々に受け入れられていったのは当然の事であったのかもしれない。もちろん、これは市を盛んにしようとする当時の政策や商人仲間(株仲間)の営業活動も強く影響したのであろうが、興味深い一事である。

祭礼
祭礼
祭礼

渋川の八坂神社の祭礼―澁川祗園―(上ノ町の鳶頭生活60年の経歴を誇った、故川野満吉老によると…)
 八坂神社の祭礼は“御旅所祭礼”、つまり八坂神社の神輿の渡御である。天王神地八坂殿より吉野組製糸所東側を通り、上ノ町(一番組)の本通りに出て、中ノ町(二番組)下ノ町(三番組)方面に下り四ッ角を北に曲がる。北新道を直進し寄居町境まで至り,反転して四ッ角を東へ曲がり新町境に至る。
南は南新道を南町境まで至り、四ッ角より天王の地となる御旅所へ遷座される。要するに八坂神社の祭礼を取り仕きる氏子の木戸下三町(上ノ町・中ノ町・下ノ町)の地内を巡幸し祓い清め、祭礼の為の結界と為すのである。“八坂様の御神輿”は祭礼の十日前に御旅所に遷座し諸人の参拝を受ける慣わしである。

 渡御される列はまず旗鉾(六尺ほどの細長い先が尖り剣型を為している物・紅白2本)を先頭に旗持ち2人、次に御祓い太鼓2人、賽銭箱2人、次に神官、その後ろに“神輿”である。鳶頭4人が白装束(白い直垂)に烏帽子を冠したいでたちで担ぎ、更に交代の為の者4人が付き従う。次に木戸下三町の役員・世話役などが供物・前飾りなどを持って列の最後尾に付き従う。御祓い太鼓を轟かせて行進すると人々は皆出迎えて参拝しお賽銭などを上げる人もあった。

 尚、神輿は前幅60センチ、棟高1メートルあり、屋根の高さ50センチ、屋根幅1.1メートルあり大ぶりの拵えである。総漆塗りに金箔を散りばめてある。朱の鳥居四周にあり、朱垣にめぐらされている。屋根上には高く鳳凰が翼を広げ、台座には担ぎ棒を差し込む穴があいている。

両社祭礼の合併―八幡大神・八坂大神―
 江戸時代までは総鎮守八幡宮の祭礼は旧暦の8月15日、八坂神社の祭礼は旧暦の6月17日に執り行い祭礼は別々に行われていた。両社ともに家内安全・五穀豊穣・商売繁盛・水神礼拝など住民の安泰を祈願し、更に年中の無事を感謝する催しであったことには変わらなかったのである。

 明治維新後、新政府の政策である「神仏分離令」により八幡大菩薩を“八幡大神”とし“八坂大神”(牛頭天王)をスサノオノミコトとし、“天王宮”と呼称されていた渋川の祗園社も京都の祗園社と同じく“八坂神社”と改められた。

 長らく別々に催されていた両社の祭礼も明治の御一新・文明開化の影響もあってか、ついに今日の祭礼の形・両社祭礼の合併となる…。

 明治7年(1874)7月14日町内惣代会議を催し両社の祭礼を結合して行う事に決まった。新暦(現在と同じ太陽暦の事・ちなみに明治維新前まで日本は太陰暦を使用していた)の9月1日は、“八幡大神祭”により元宿(宮一番組)に集合し「八幡上り」を執り行い、八幡宮に参拝する。翌9月2日は、“八坂大神祭”により木戸下三町の中央、中ノ町を中心に集合し、市神であり天王の地に遷座された“八坂様の神輿”に拝礼し、町廻りを行うと決定した。この祭礼では高さが9メートルもある11本の“波万灯屋台”が各町の財力に応じて作られた。

 明治7年9月1日、祭礼の日取りが統一された最初の「八幡上り」を八幡宮の祭礼を執り行ってきた宮の三町(木戸上三町)から順番に宮一番組(元宿)、宮二番組(裏宿)、宮三番組(川原町)、八坂神社の祇園祭を執り行ってきた一番組(上ノ町)、二番組(中ノ町)、三番組(下ノ町)さらに四番組(新町)、五番組(寄居町)、天王下(八坂町)、南横町(南町)、北横町(本町)の順番に続々と鎮守八幡の杜を目指し“八幡坂”を上って行った…。

 これにより、それ以後の祭りの形式がほぼ整い毎年のように行われてきたのである。

 昭和34年、諸般の事情により中止のやむなきに至るまで、山車運行の順序も含め祭礼の儀式等、厳格なまでに守られてきたのである。

寄居町五番組に伝わる祭礼「寄居の獅子」
 文久2年(1862)北横町(現本町)の『諸人用控帳』に「寄居の獅子」が記帳されているが、その頃の御祭礼の時は、諸町の練り物(波万灯屋台)が八幡上りをする際に屋台の先頭にあって、“露払い”役を務めたと伝えれている…。

 現在、寄居町会館に雄獅子2頭、雌獅子1頭に、抱え太鼓3個が保存されているが、当時の舞も曲譜もまったく継承されず現在に至っている。再興の気運があれば楽しいものになるであろう。

山車について
各町の山車
波万灯屋台

練り物・波万灯屋台
 練り物(屋台など)が何時の頃から現れ、最初はどんな形をしていたか詳らかではないが「八幡上り」に際しては宮の三町はもちろんの事、木戸下の各町内も共に打ち揃って夜通し曳き回しを行ったようである。練り物は華美や異形のいでたちで練り歩くのを主眼とするもので、願いや祝祭の喜びを表す積極的かつ主体的な行為である。

 現在記録に残っているところでは、渋川宿では幕末の嘉永年間(1843~1853・日本はペリーが黒船で来航し明治維新の足音が聞こえ始めた頃である)、各町は競って屋台枠を作ったという。そしてその中心に立てた一本の柱を見事に飾りつけた構造の屋台を作った。先にも述べたが、京都の祇園の“鉾”同様この柱は神の降臨する目印である。

 この頃の屋台は“波万灯屋台”といい、屋台枠を中心に実に高さ9メートル,直径50センチほどの御柱が立てられていた。そして屋台枠は欅の用材を用い、2段式に造作され、下段は子供達が乗り上段を御殿にして前方が囃し場になっていた。車は大きな欅材を輪切りにして車輪と為し、中心柱に丸万灯その上に角万灯を飾り付け更に岩波台を角万灯の上に取り付けその岩から約3メートルほどの波形を両側に数本長く垂らし、青や白の水玉を細割竹の先につけて飾り水神信仰を表現している。その柱の先端に本来の榊や髭篭に変わって人形などを乗せた。そして欅を輪切りにした車輪は厚さが20センチメートルほどあり、直進は出来るが回転が困難な為、御柱の下端に敷板を敷きその上に直径50センチメートルほどの欅製の廻し玉を差し込んで屋台を回転(方向転換)させた。廻し玉を差し入れるときは若連が総力を挙げて屋台の前方を持ち上げたと言う。
このような屋台が数を連ねて八幡上りや町内廻りをしたのだから、壮観であり、観衆を魅了するのに十分であったろう。

明治20年頃(1888年前後)の渋川「渋川近況」“明治20年4月18日『群馬日報』より”
 当所の商人は粒揃ひにて、金融宜しきか僅かに30戸の町内 にして、当今家屋土蔵等建築中のもの7、8箇所在りし。

 市中は荷車を以って毎日2回ずつ塵芥掃除をするゆえ、至って清潔なり。

 清水越新道へ家を建築するにつき諸式の運搬引っ切りなし。

 伊香保へ入浴の内、外人は余程多くなりたる様子にて日々通 行せり。

 県道は其内に修繕を加えられるべしとして車夫其他とも待ち居る由なり。

“四ッ角”誕生
 徳川時代(江戸時代)の初期から約300年間,渋川の中心地はほとんど上ノ町以西(木戸上)にあった。“大石”から“大橋”を渡って川原町に出て、裏宿、元宿を経て金井宿に至る三国街道が重要路であって参勤交代の大名行列もこの街道を往来したのはすでに述べたとおりである。それが明治18年“清水峠越新道”(水上方面から谷川連峰を超えて新潟に至る道)が開通すると渋川の町(下ノ町)に“四ッ角”が出来て十字路より南北に新道が出来た。四ッ角以北を“北新道”以南を“南新道”と呼ぶ。吾妻川鯉沢付近に鉄橋が出来、また下郷から八崎へかけて利根川に大正橋が架せられて袋町といわれた新町・下郷方面から勢多郡に通じる街道が出来た事で活気を帯び街の中心地は下へ下へとくだり、南北へ長くなった。

山車
山車
山車

坂下町(旧栄町)・長塚町・辰巳町の誕生
 明治30年頃、寄居町の北新道沿いは日増しに家屋が増築され、傘松の十字路(ジュヌパン(ケーキ屋さん)前の十字路)より北に当時38戸が軒を並べ通行は日を追って頻繁となり従って商売も繁盛する様相になって来たので、その頃寄居町より分町することになり「栄町」と命名された。そして、現在のところ詳らかではないが、明治39年10月坂下稲荷社新築連名帳に「寄居町・坂下町」の町名が記録されている事から38年か39年の初めに栄町から「坂下町」に改称したのではないかと考えられる。余談であるが寄居町との分町の際に共有林を所有していた事から、この山林を売却しその分けまえを資金として波万灯屋台の屋台枠を購入し会議を重ねた結果町名「栄町」にふさわしい“大黒天”の人形を飾り上げたと言う。それゆえ,栄町の町紋は“打出の小槌”に定められた。

 また、四ッ角・下ノ町から南横町(南町)へかけての南新道においては、明治40年の頃には現在の渋川幼稚園の東側付近まで町並みが建てられ人馬・荷車の往来は日増しに頻繁となった。明治42年頃、平沢川の渋沢橋より南におよそ70戸ほどになり、南横町より分町して“長塚町”と命名された。

 また,前橋・高崎・伊香保・沼田・吾妻への各電車線が新町(旧東武バス停付近)に集まり、大正10年、上越南線が渋川駅まで開通、昭和6年の清水トンネルの完成で全線が開通した。

 新町から辰巳の方向(南東)に道路が開通し運送業者・乗合自動車・食堂などが軒を並べ始めた。当時、仮に“東町”と呼んでいたが、大正11年、下長塚と龍角の地を長塚町から分町し“辰巳町”と命名された。

北新道・南新道の兄弟町
町名組名町紋参加時期と経緯
北新道
寄居町よ組蛇の目別名五番組。北新道の兄山車。
坂下町さ組菱サ明治30年頃、寄居町より分町。弟山車。
南新道
南町み組松川菱旧南横町。江戸時代からの出場を誇る。
長塚町長組三ツ輪明治42年頃、南横町より分町。
辰巳町辰組丸に三ツ星大正11年、長塚町より分町。

各町の山車一覧

澁川祗園各町の山車一覧
町名組名人形と山車購入先
元町(元宿)宮一番組・も組武内宿祢。大正8年鴻巣に依頼して製作。江戸期の参加。
裏宿宮二番組・う組日本武尊。大正3年東京神田から購入。江戸期の参加。
川原町宮三番組・川組神武天皇。大正3年東京神田から購入。江戸期の参加。
上ノ町一番組弁財天。明治28年鴻巣から購入。江戸期の参加。
中ノ町二番組・な組竜神の舞。大正3年高崎市田町から購入。江戸期の参加。
天王下(八坂町)今の市営中ノ町駐車場付近。明治19年下ノ町に屋台を売却し中ノ町と合併。
下ノ町三番組・し組素戔鳴尊。大正4年鴻巣から購入。江戸期の参加。
新町四番組神功皇后。大正2年鴻巣から購入。江戸期の参加。
寄居町五番組・よ組仁徳天皇。大正2年鴻巣から購入。江戸期の参加。
南町(南横町)み組八幡太郎義家。昭和44年購入(加藤虎三氏製作)江戸期の参加
本町(北横町)昭和51年、高崎市下横町より山車を借り受け出場が最後。
坂下町(栄町)さ組猿田彦大神。大正2年高崎市赤坂町より購入。明治36年参加。
長塚町長組菅原道真。大正6年高崎市鞘町より購入。明治42年参加。
辰巳町辰組素戔鳴尊。昭和46年製作(荒川和夫氏製作)。昭和3年参加。
中断以前は、以上12町が八幡宮の氏子惣代会(茅の輪の行事)に参加する事が出来、祭礼の協議をした。辰巳町は若い町なので除外されていた。尚、木戸上の“宮の3町”の意見が尊重された。
並木町並組日本武尊。昭和32年購入(荒川政平氏製作)昭和21年参加。
下郷大国主命。昭和55年製作(渡辺司氏製作)昭和23年参加。
東町(梅ノ木)東組菅原道真。昭和63年製作(入内島秀男氏製作)昭和29年参加。
熊野く組熊野皇太神。昭和49年新宿区花園町から譲り受け51年参加。
上郷源九郎義経。昭和51年製作・53年改造(住民手造り)参加。
入沢い組北条時頼。昭和61年製作(杉田大吉氏製作)昭和61年参加。

文明開化と共に-“山車”の登場-
 祭りにつき物といって良いのが“神輿”と“山車”。屋台とか山とか檀尻とも言う。山車は“出し”で車の上の様々な飾り物を“出し”と言った。兜人形の頭に着けた厚紙で出来た飾り物も“出し”と言い、旗指物の竿の先に付ける布で出来た飾り物も“出し”である。

 では何故、「山の車」と書くのか?

 “山”とは自然界の山を指す他に“山”のような形をしたもの“山”の形に真似て作ったものも含まれるのである。

 天長10年(833)に仁明天皇の大嘗祭(天皇即位後に初めて新穀を神々に供える天皇一代で一度の最大の神事)に標山を立てたとある。

 この山には青桐を植え、鳳凰、麒麟などの作り物が飾られていたという。標山は高さ10メートルを超える巨大な作り物であった。その趣向は大嘗祭の度毎に新しく工夫されたようである。山車の実際の始りは、この標山と言われている。こうした祝い、神事の“山形”の飾りが民間で更に趣向を凝らされ、現在、渋川で曳き廻されているような山車に発展したのである。渋川の山車について言えばその発生の起源は徳川幕府の首都・江戸に見出す事が出来る。

 “江戸型”といわれる、現在渋川で曳き回されている大振りの拵えの山車はその名の如く江戸で発生したもので、“天下祭り”と言われた神田明神の祭りには江戸府内の山車が絢爛豪華に江戸城内に繰り込んでいったものである。江戸城にはいくつもの橋や楼門があり、この楼門をくぐる為に上段高欄部分が昇り降りする構造となったのである。かくしてこの山車の形は関東一円に伝えられたのである。

神田神社と天下祭り
 神田神社は天平2年(730)の創建と伝えられ、後に平将門の霊を合祀した。神田祭とは通称神田明神と言われた神田神社の祭りで、神田神社は江戸幕府が開かれると江戸城の鬼門除けの守護として歴代将軍の尊崇を得て江戸総鎮守の神社となった。祭りは総鎮守の祭りとして華美を極め、山王祭と隔年毎に江戸城内に参入し将軍の上覧に供し御用祭り、天下祭りといわれ氏子の各町は山車や練り物に競って趣向を凝らし、その行列は尽きる事がなかったと言う。将軍の上覧となれば、当然存府の諸大名はその席に連座していたことは言うまでもなく、各大名は華やかな祭りに目を見張ったであろう。このようにして神田祭の形態は関東一円に広まっていったが、徳川氏が江戸に幕府を開く以前の関東には、伝承された大きな祭りや囃しはなかったと考えられ、神田祭の形態が広まった要因と言える。

 一時は京都祗園よりも大掛かりで文字通り天下一の祭りを演出した神田神社の天下祭りも明治に入り大きく変化する。

 明治に入り文明開化と共に東京と改称された江戸の町も急激に近代化への道を歩き出す。電線、電話線等が張り巡らされ、更に、路面電車が走り出すと、自慢の山車が姿を消し始めた。電車のレールや各種の電線を大型の山車“江戸型の山車”ではかわすことが困難だったからである。明治22年、大日本帝国憲法発布記念の祝賀パレードに山車が出場したのを最後に東京の町から山車の姿が消えてしまった。加えて関東大震災による山車の焼失被害も大きかった。東京の祭りは山車、屋台から町内神輿へと一大転換を遂げる。

渋川の“江戸型の山車”
 文明開化・近代化の波は御多分に漏れず渋川にも押し寄せる。明治43年に渋川町一円に電線が架設され、また伊香保電車が市内を走るようになってから高さ9メートル余りもある“波万灯屋台”の運行が困難になった。この時から背の低い売小屋式屋台に改造したり、売却して神輿に切り替える町内が現れた。

 上ノ町では明治28年10月5日に埼玉県鴻巣町から山車を新しく購入した。この山車は明治18年頃、東京浅草で製作されたもので、高欄台と人形が上下に昇降する仕組みになっているので電灯線、電話線に邪魔される事なく移動できる工夫を凝らしたものであった。

 その後、各町内でも大正2年頃から高崎、鴻巣、神田等から競って山車を購入し、大正8年には出揃った。その為、今は失われてしまった江戸天下祭りの伝統を受け継ぐ見事な“江戸型”の山車が渋川の各町に存在するのである。

 それはともかくとして、山車は大変高価なものである。各町内が同じ豪華なものを一斉に揃える事は難しい。この時の資金として、渋川町が所有していた箱島不動尊(東村)の湧水の水利権を「高崎水力電気会社」に売却して得た資金を各町に分配したものを利用したのである。昭和の初期に至っても、その湧水の半分の水利権を持っていたと言う事で、これを上水道・発電に利用しようという話が狩野大六町長の時に持ちあがったそうであるが何故だか実行には移されなかった。当時の技術力や財政面でむりだったのだろうか?

“高崎型”の山車
 余談になるが、渋川とは反対に高崎は、電線の架設や電車の軌道(レール)敷設等で“江戸型”の大型の山車を小型化しなければならなかった歴史を持つ。

 もともと高崎の頼政神社(高崎城内にあった)の例祭の際、“やたい小路”といわれる細い路地をとおって大染寺(現高崎公園付近)の境内に山車を集結するのが慣例となっていたそうである。そのため、山車を大型化できなかった経緯もある。

 大正時代以降、小型の“高崎型”と言われる山車が各町で競って製作されその後高崎以外の西群馬地方に広まっていった。松井田町上町は大正6年、富岡市宮本町は昭和3年に高崎で製作され、高崎市中を引き回しても遜色ない。また吉井町は柳川町の山車を参考に製作されており、“高崎型”の山車として造られるようになった。
『高崎の山車』-高崎市・高崎山車祭り保存会発行から抜粋ー

人形(御神像)
 山車から全身を現した人形は意外と大きくその表情、装束にも各町とも工夫を凝らした傑作ぞろいである。面白いのは同一の神の同じ祈願をする祭りのはずなのに各町によって山車の象徴が様々変化に富んでいることである。

 一つまた一つと、互いに競いあって山車が出来あがっていく過程の中で一つの時代、各町の様々な心情を反映しつつ御神像が決められたのだろうが出来上がったものを並べると…。裏宿と並木町が“日本武尊”、長塚町と東町が“菅原道真”、下ノ町と辰巳町が“素戔鳴尊”と同じだと言う事に気付く。

 かつては精米・穀屋などの「商い」の町として栄えた名残をとどめる白壁の土蔵なども町並みに見受けられ、祭りの花たる山車もその情緒ある風情の中に溶け込んでいたが、新しいコンクリート造りの建物がどんどん増えて町の景観も様変わりすると古き良き時代の風情を漂わす山車とは、不協和音を奏でるようになってしまった。それに各町のシンボルとも言える大きく、見事な人形が市中に張り巡らされた電線のおかげで、運行中は首だけしか覗かせて往来する事が出来ず、なかなか全身を顕にすることが出来ないのは残念な事である。一見に値する見事な人形ぞろいなのであるから一層に口惜しい…。