折々の記へ
折々の記 2014 ⑨
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】10/22~
【 02 】10/27~
【 03 】11/03~
【 04 】11/08~
【 05 】11/19~
【 06 】11/25~
【 07 】12/02~
【 08 】01/01~
【 09 】01/12~
【 08 】01/01
01 01 元旦の朝日新聞
天皇陛下が年頭の感想 「歴史を学ぶことが大切」
社説
大江健三郎 と ジョン・W・ダワーの記事
子供たちの世界
子供たちは元気でかわいい
「あなたは、できるように産んであるから大丈夫」
鏡の中の日本 継続記事
01 04 原爆詩
吉永小百合
崩解していく日本文化、私の一番危惧している課題です。
どうしていったらいいのかがこれからの課題なんです。 朝日新聞で目にのこった記事をひろいだして、記録しておく。
2015/01/01
天皇陛下が年頭の感想 「歴史を学ぶことが大切」
http://www.asahi.com/articles/ASGDY5Q85GDYUTIL01D.html?iref=comtop_6_06
天皇陛下は年頭にあたり、宮内庁を通じて感想を発表した。
天皇陛下、新年にあたっての感想全文
昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。
また、東日本大震災からは四度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時、それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことが、いかに重要かということを感じています。
本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。 この一年が、我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年となることを心より祈ります。
皇室とっておき
http://www.asahi.com/special/koushitsu/
2015年は戦後70年の節目にあたると触れ、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」とつづった。
また、東日本大震災から4度目の冬になるとして、「かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます」と思いやった。
2日には皇居で一般参賀があり、天皇陛下は皇族方とともに5回、宮殿のベランダに立つ。成人を迎えた秋篠宮家の次女佳子さまも初めて出席する。(島康彦、中田絢子)
■両陛下の歌を発表
宮内庁は、新年にあたり、天皇、皇后両陛下が昨年1年間で印象に残ったことを詠んだ歌を3首ずつ発表した。年頭に発表される天皇陛下の歌は例年5首だったが、今年は3首になった。宮内庁は高齢の天皇陛下の負担を考慮して「ご年齢に合った形にした」と説明した。
天皇陛下は、10月に長崎市で原爆の惨禍を忘れてはならないとの気持ちを込めて原爆落下中心地碑に供花したことや、式年遷宮を終えた伊勢神宮への参拝、豪雨災害に見舞われた広島市を訪問したことを詠んだ。
皇后さまは、6月に次男桂宮さまを亡くした三笠宮さま(99)の深い悲しみを思う歌などを詠んだ。
▽天皇陛下
〈神宮参拝〉
あまたなる人らの支へ思ひつつ白木の冴ゆる新宮(にひみや)に詣づ
〈来たる年が原子爆弾による被災より七十年経つを思ひて〉
爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往(い)にし彼(か)の日を
〈広島市の被災地を訪れて〉
いかばかり水流は強くありしならむ木々なぎ倒されし一すぢの道
▽皇后さま
〈ソチ五輪〉
「己(おの)が日」を持ち得ざりしも数多(あまた)ありてソチ・オリンピック後半に入る
〈宜仁親王薨去〉
み歎きはいかありしならむ父宮は皇子(みこ)の御肩(おんかた)に触れまししとふ
〈学童疎開船対馬(つしま)丸(まる)〉
我もまた近き齢(よはひ)にありしかば沁(し)みて悲しく対馬丸思ふ
2015/01/01 社説
グローバル時代の歴史―「自虐」や「自尊」を超えて
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
歴史の節目を意識する新年を迎えた。
戦後70年。植民地支配をした日本と、された韓国があらためて関係を結びなおした基本条約から50年という節目でもある。
しかし今、そこに青空が広がっているわけではない。頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年、厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。
それぞれの国で「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまれていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。
■歴史のグローバル化
過去70年間を振り返るとき、多くの人の頭に浮かぶ歴史的な出来事は何だろうか。
震災や台風といった災害、オリンピックのような祝祭、あるいはバブル経済や政権交代かもしれない。たいていは日本の光景だろう。歴史を考えるときの「自分」とは、ふつう日本人としての「自分」だ。
しかし今、その「ふつう」が必ずしも「ふつう」ではすまない時代に入っている。グローバル時代だ。
ヒトやモノ、カネ、情報が軽々と大量に国境を超える。社会が抱える問題も国境では区切られなくなっている。金融危機や地球温暖化、感染症……。日本だけの問題ではない。被害に遭うのは多くの国の経済弱者だったり、農民だったり、人類全体だったり。解決に取り組む人々のネットワークも日本という枠におさまらない。
歴史が自分たちの過去を知り、今の課題を乗り越えて未来を切り開くための手がかりだとしたら、国ごとの歴史(ナショナル・ヒストリー)では間に合わない、ということになる。
では、どんな歴史が必要か。
米ハーバード大学名誉教授の歴史家、入江昭さんは昨年出版した「歴史家が見る現代世界」の中で「グローバル・ヒストリー」の重要性を訴えている。
国や文化の枠組みを超えた人々のつながりに注目しながら、歴史を世界全体の動きとしてとらえ、自国中心の各国史から解放する考え方だ。
現代はどんな国も世界のほかの国や人とつながり、混ざり合って「混血化」「雑種化」していると指摘する。「その流れを止めたり、もともと存在もしなかった『純粋』な過去に戻ろうとしたりするのは歴史を神話にすりかえることである」
■忘れるための歴史
フランスの思想家、エルネスト・ルナンが1882年、パリ・ソルボンヌ大学で「国民とは何か」という講演をした。国民国家についての古典的な考え方のひとつとされる。
そこで彼は、国民という社会を築くうえで重要なのは「忘却」あるいは「歴史についての誤り」だという。国民の本質は「すべての人が多くの事柄を共有するとともに、全員が多くのことを忘れていること」とも。だから「歴史研究の進歩はしばしば国民性にとって危険です」とまで語っている。
どんな国にも、その成り立ちについて暴力的な出来事があるが、なるべく忘れ、問題にしない。史実を明らかにすれば自分たちの社会の結束を揺るがすから――。
ナショナル・ヒストリーについての身もふたもない認識である。
そのフランスで昨年、第2次大戦中の対独協力政権(ビシー政権)について「悪いところばかりではなかった」などと書いた本が出版された。批判の矛先は、これまでの歴史研究のほか家族など伝統的な価値観の「破壊」にも向かう。ベストセラーとなった。
グローバル化でこれまで人々のよりどころとなっていた国民という社会が次第に一体感をなくす中、不安を強める人たちが、正当化しがたい時代について「忘却」や「誤り」に立ち戻ろうとしているかのようだ。
「一種の歴史修正主義です」とパリ政治学院上級研究員のカロリヌ・ポステルヴィネさん。東アジアの専門家だ。「自虐史観批判は日本だけで見られるわけではありません」
■節目の年の支え
東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。
しかし、人と人の国境を超えた交流が急速に広がりつつあるグローバル時代にふさわしい歴史を考えようとすれば、歴史は国の数だけあっていい、という考えに同調はできない。
自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい挑戦だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。
2015/01/01 5面 戦後70年
「戦」の「後」であり続けるために 大江健三郎とジョン・W・ダワー
「戦後」という言葉は、不思議な言葉です。
第二次世界大戦後も、世界で戦火の絶えたことはないからです。
しかし、私たちにとって、「戦後」は他の何ものにも代えがたい言葉です。
民主主義と自由、平和と豊かさに結びついているからです。
「戦争」への深い反省をもとに、「戦後」は始まり、70年という年月が過ぎました。
「戦後」をつくるために、多くの人たちが懸命に努力し、世代をつなぎました。
私たちもまた、「戦後」の精神を、次の世代につないでいきたいと思います。
岩波書店
【大江健三郎】 渡辺一夫の声が聞こえる
漱石は「こころ」の主人公の暗い生の終りに、自分の時代の精神は「明治の精神」だといわせて、次の世代の読者たちに、ひとつ明るい信号を送っている。そう私は思います。
十歳で敗戦、二年たっての新憲法に、九条はもとより十三条もきみたちには明るいのだと、私は森の中の新制中学で教わりました。「すべて国民は、個人として尊重される」。それに励まされて、生活の苦しさは知っていながら私は母親に進学したいと頼んだのです。
入学できた高校の町の書店に、発刊されたばかりの岩波新書が十数冊平積みされている。立読みした私は、渡辺一夫『フランスルネサンス断章』を買い、その語りかけの声に引きつけられました。私は同じ著者の『狂気についてなど』も古本屋で見つけ、もっと個人的な強い声のとりこになりました。いまも持っている本からうつします。
「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない。と申す人々も居られます。それはうそであります。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。真に偉大な事業は、「狂気」に捕らえられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。
五年たって本郷の教室で待ち受けている私らの前に現われ、外套を床に置いて講義を始められた先生は穏やかでユーモアもある方でしたが、その声はずっと先生の本に聞き取っていた通りの声でした……
ここにさきの文章を書き写した後、その続きが、疲れて仮眠する老人に声となって伝わりました。それは古いテキストに久しぶりで接したからというのではなく、次つぎの文章がきわめてリアルに、私の今いる、かつてなかった苛酷さの現状に呼応するからです。先生の声が「狂気」という時、それは「三・一一」の悲惨をもたらした構造についてであり、さらにあの日起こった国民的反省を押しつぶしている強権についてです。
「狂気」は避けねばならないし、他人を「狂気」に導いてもならない。
そして、て冷静とは非行動とは同一ではありませぬ。最も人間的な行動の原因となるものです。但し、錯誤せぬとは限りません。しかし、常に「病患」を己の自然と考えて、進むでありましょう。
私はこの声を新時代に贈ります。
大江健三郎 ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E(ウィキペデア)
【ジョン・W・ダワー】 平和と正義という目標を見失うことなく
第二次大戦終結から七十年のこの年の、なんという矛盾をつきつけていることか!
あの戦争はまるで古代史の出来事だったかのようです。この七十年をじっさいに生きてきた私のようなものにさえもそう感じられます。その反面、たった今の状況、とくに日本、中国、南北朝鮮をめぐってくり広げられている激しい論争と対立は、そもそも第二次大戦に端を発したものなのです。
歴史、「記憶」、ナショナリズム、政治が不可分になっています。東アジアだけでなく、アメリカでも、世界中どこでも。
このような対立の時代に戦争終結を記念する年は、あの戦争とその後の二つの厳粛な側面について、一歩退いて考えるいい機会でしょう。ひとつは自分たちだけではなく他者の苦難と犠牲。 もうひとつは、日本で今もしっかり根付いている理想主義、戦争から生まれた平和とよりよい世界への大いなる希望と夢。
四五年八月の時点での死と破壊を世界的規模で把握することはほぼ不可能です。例えばアジア太平洋地域での死者数。記録が混乱していた中国では、戦争関連の死者数は千三百万、あるいはそれより何百万も多かったとも推計されています。オランダ領東インド(インドネシア)では三百万から四百万が、フランス領インドネシア(ベトナム、カンボジア、ラオス)で百万から二百万が死亡し、フィリピンでは五十万から百万のあいだ、日本統治下の朝鮮人の死者は八万人から何万人も多かったと、幅があります。このどこでも、戦闘員より民間人のほうが多く亡くなりました。
もちろん、日本の被害も甚大でした。しかし、七十より上の人たちを別にすれば、繁栄をきわめ活気にあふれた今日、一九四五年のこの国の荒廃ぶりを思い描ける日本人がいるでしょうか。広島と長崎への原爆投下の前に、すでに六十四の都市が空襲で破壊されていました。陸海兵士二百十万人が死に、空襲、沖縄戦、満州など大陸からの引揚げ等で、民間人の死者数も百万近くに及んだはずです。
アメリカだけが(真珠湾を別にして)直接攻撃を受けずに第二次大戦から抜けだし、経済的にも好調でした。戦死者はわずかな民間人を含め、およそ四十一万人。そのうち四分の一は対日戦線で戦った兵士でした。
うちひしがれた日本は、このような凄まじい状況の中で再出発の難業に立向かい、新憲法に具体化された「平和とデモクラシー」の理想に、社会のあらゆる層の人々が奮いたったのでした。政治やイデオロギーの衝突は戦後日本にいつもありました。しかし、じつに多くの日本人が豊かで平和を愛する社会を懸命に創りあげた。その草の根の回復力、規律、反戦の理想は、どれほど賞賛してもしつくせるものではありません。
この危うい時代に新年を迎えるにあたって、真摯で責任ある批判的学問の伝統が、平和と正義という目標を見失うことなく、世界中で栄えていきますようにと、心から願います。(田代康子訳)
ジョン・W・ダワー ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AF%E3%83%BC(ウィキペデア)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11532161.html
【国を担う宝、できる支援を】 WFP日本大使 ・ 知花くららさん
国連世界食糧計画(WFP)のオフィシャルサポーターと日本大使として、フィリピンやスリランカ、エチオピアなど七つの国と地域を訪れました。途上国の子どもたちに学校給食を提供するWFPの事業が好きで、いつも現場を見ます。
子どもと一緒にいると、どの国に来たかわからなくなる。みんなすごく元気でかわいいし、くだらないことでケタケタ笑い、最初はシャイ。女の子はおしゃれ好き。でも、アフリカのザンビアで両親をエイズで亡くした子がたくさんいたのはショックでした。生まれた場所が違うだけで人生がこんなに変わるなんてと。
でも、日本で生活して仕事も家族もある自分だからできることがある、と考えたら楽になりました。手を伸ばしてできる支援を続けることが大事です。
各国の小学校で「将来、何になりたい?」と聞くと、一番多いのが先生。お医者さんも多い。ふだん背中を見ている人たちなんです。すごく素直で純粋だと思える瞬間です。だから、もっと違う景色を見せてあげられたら、もっと違う夢を描くようにもなり、世界が変わる気がする。教育はすごく大事だと思います。
大学で教育哲学や国際教育学を学んでいたころ、性別も地域の格差もなく、教育が広がるにはどうしたらいいか考え始めました。世界の子どもたちはどんな表情で、何がしたくて何に困っているんだろう。現地を見て声を聞いて初めて分かるんだろうなと。チャリティー活動に参加するきっかけになると考え、ミス・ユニバースに出場しました。
いろんな状況はあっても、子どもたちの命は同じ重さ。将来、国を担う宝物です。難民が何百万人と伝えられるけれど、一人ひとりに顔や名前、人生があると考えると、ひとごとじゃいられなくなるんです。(聞き手・渡辺丘)
*
ちばな・くらら 2006年のミス・ユニバース世界大会2位。07年からWFPオフィシャルサポーター、13年から同日本大使。活動などをまとめたエッセー集を近く刊行予定。上智大卒。32歳。
【可能性は無限、自信持って】 北京五輪銅メダリスト ・ 朝原宣治さん
「あなたは、できるように産んであるから大丈夫」。小学生のとき、勉強や運動で失敗すると、母親がこんな言葉をかけてくれました。そのころ、全力でぶつかって失敗することを恐れ、失敗することが恥ずかしいことだと感じていました。近くにそんな自分を信頼してくれる人がいたのは大きかったですね。この言葉は、人生の励みになっています。自分に自信を持つことはとても大事です。
小さなころの夢は、洋画好きの姉の影響もあって通訳か外国で活躍する商社マン。五輪なんて全く想像していませんでした。高校で陸上を始め、大学生になって力がついてくると、世界で戦いたいという思いが強まり、ドイツや米国にも留学しました。
2008年の北京五輪の前年、引退するかどうか迷いました。その年、地元の大阪で世界陸上が開催され、何がなんでもメダルをとりたいと臨みましたが、かなわなかった後でした。
そのとき35歳。競技を続ける道を選んだのは、「メダルをとりたい」という気持ちからだけではありません。自分に残っている能力をもう一度引き出すことで、競技をやめた後の人生に自信を持ちたいと思ったのです。
陸上では、ケガをして満足に走れない厳しい経験もしましたが、400メートルリレーでメダルをとるという目標を立て、最終的にそれを達成できました。子どもたちも夢の実現を目指して高い目標を立ててほしい。
引退後は、子どもたちに陸上を教えています。足の速い子も、そうでない子もいますが、コーチ陣が熱意を持って接することでやる気は高まっていきます。陸上に限らず、様々な分野で子どもたちが世界で活躍できる可能性は無限にあります。夢をあきらめずに進んでほしいと願っています。(聞き手・益満雄一郎)
*
あさはら・のぶはる 北京五輪の陸上男子400メートルリレーで銅メダルを獲得。引退後は陸上競技クラブ「NOBY T&F CLUB」を主宰。全国の陸上教室でも指導している。大阪ガス在籍。42歳。
逆順配列完 7~1
(鏡の中の日本:7)知る 日中韓つなぐ100冊の輪 戦後70年・第1部(2015/01/08)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11539934.html
知と文化、読んで再発見
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11539866.html
(鏡の中の日本:6)演じる 抗日映画に浮かぶ断層 戦後70年・第1部(2015/01/07)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11538163.html
戦争もの「日中内向き」
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11538213.html?iref=reca
(鏡の中の日本:5)支える 償い、電気と感謝生む 戦後70年・第1部(2015/01/06)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11536565.html?ref=pcviewer
支援の世界、変化の芽
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11536488.html?ref=pcviewer
(鏡の中の日本:4)食べる 明太子、溶け込む日韓 戦後70年・第1部(2015/01/05)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11535577.html
焼き肉、拒み、受け入れた
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11535569.html
(鏡の中の日本:3)学ぶ 隣人のぬくもり感じた 戦後70年・第1部(2015/01/04)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11533851.html?ref=pcviewer
日中つなぐ留学の歩み
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11533846.html
(鏡の中の日本:2)問う 和の心秘め、米に忠誠 戦後70年・第1部(2015/01/03)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11532519.html
日系知事、多様性の重み
http://digital.asahi.com/articles/photo/AS20150103000217.html
(鏡の中の日本:1)装う 個の力紡ぎ、世界に 戦後70年・第1部(2015年1月1日)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11532263.html
平和だからこそ
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11532221.html
■鏡の中の日本〈7〉(戦後70年)日中韓つなぐ100冊の輪(2015/01/08)
http://digital.asahi.com/articles/ASH172TZFH17UCVL001.html
■鏡の中の日本〈6〉(戦後70年)抗日映画に浮かぶ断層 戦争の記憶めぐり(2015/01/07)
http://digital.asahi.com/articles/ASH135WW7H13UCLV007.html
■鏡の中の日本〈5〉(戦後70年)償いから始まったODA 変わる支援の形(2015/01/06)
http://digital.asahi.com/articles/ASGDQ6DGQGDQUHBI02H.html
■鏡の中の日本〈4〉(戦後70年)明太子、韓国に里帰り 味が国境を溶かす(2015/01/05)
http://digital.asahi.com/articles/ASGDZ53V9GDZUCLV008.html
■鏡の中の日本〈3〉(戦後70年)隣人のぬくもり感じた(2015/01/04)
http://digital.asahi.com/articles/ASGDZ4DGBGDZPTIL003.html
■鏡の中の日本〈2〉(戦後70年)日系人、収容の歴史経て向き合う(2015/01/02)
http://digital.asahi.com/articles/ASGDX4HCBGDXUHBI008.html
■鏡の中の日本〈2〉(戦後70年)日系人、米国で咲かせた「多様性」(2015/01/02)
http://digital.asahi.com/articles/ASGDT2W0ZGDTUHBI00G.html
■鏡の中の日本〈1〉(戦後70年)個の力紡ぎ、世界へ挑む(2015/01/01)
http://digital.asahi.com/articles/ASGD053THGD0ULZU005.html
■鏡の中の日本〈1〉(戦後70年)平和だからこそ 認められた和服地ドレス(2015/01/01)
http://digital.asahi.com/articles/ASGDQ1R8CGDQUHBI003.html
原爆詩 吉永小百合
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%A9%A9%E3%80%80%E5%90%89%E6%B0%B8%E5%B0%8F%E7%99%BE%E5%90%88
検索結果 約 40,200 件 (0.19 秒)
◆吉永小百合 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/吉永小百合
2003年(平成15年) - 上記ナレーションや、同じくボランティアである原爆詩の朗読などの平和活動が評価され、「第15回谷本清平和賞」受賞。 ... 遠縁に歌手の佐良直美がいる(佐良直美の母方の大伯父である山口彰夫の妻と、吉永小百合の母が姉妹同士)。
◆吉永小百合、オックスフォード大学で原爆詩を読む - 集英社新書
shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0665-b/
二〇一一年十月、原爆詩の朗読を続ける女優、吉永小百合は、オックスフォード大学の招きを受けてイギリスに向かう。ヨーロッパで初めての朗読会、伴奏は、坂本龍一。百十年前のピアノが哀切なメロディーを奏で、偶然チャペルに迷い込んだ鳩が、長編詩「 ...
◆吉永小百合さん原爆詩朗読 ピアノ坂本龍一さん - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lEalWrdso8w
イギリスで吉永小百合さんが原爆詩の朗読会 坂本龍一さんがピアノ伴奏 オックスフォード大学 吉永さんの朗読は、必ずこ ...
◆Amazon.co.jp: 吉永小百合、オックスフォード大学で原爆詩を ...
www.amazon.co.jp › 本 › 社会・政治 › 社会学 › 平和運動
2011年10月、原爆詩の朗読を続ける女優、吉永小百合は、オックスフォード大学の招きを受けてイギリスに向かう。ヨーロッパで初めての朗読会、伴奏は、坂本龍一。百十年前のピアノが哀切なメロディーを奏で、偶然チャペルに迷い込んだ鳩が、長編詩「慟哭」 ...
◆吉永小百合さん原爆詩朗読 ピアノ坂本龍一さん - Dailymotion ...
www.dailymotion.com/.../xoumx6_吉永小百合さん...
イギリスで吉永小百合さんが原爆詩の朗読会 坂本龍一さんがピアノ伴奏 オックスフォード大学 吉永さんの朗読は、必ずこ ...
◆祈るように語り続けたい 吉永小百合 原爆の詩12篇 - NHK ...
www.nhk.or.jp › トップページ › 番組ライブラリー
1997/08/15 - NHKドラマ「夢千代日記」で胎内被爆した女性を演じた吉永小百合さん。1986年に東京で開かれた平和集会で原爆詩を朗読したことがきっかけとなり、朗読の依頼が多数来るようになった。以来、ライフワークとして原爆詩の朗読にとりくんで ...
◆吉永小百合さん「どんな状況でも、核兵器はノー」:朝日新聞 ...
www.asahi.com/articles/ASG847F05G84PTIL037.html
2014/08/06 - 広島への原爆投下から6日で69年。原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さん(69)が、朝日新聞のインタビューに応じた。終戦の年と同じ1945年に生まれた吉永さんの人生は、広島、長崎への原爆投下で幕を開けた「核の時代」と日本の ...
◆未来へつなぐ 吉永小百合さん、命の朗読 - 朝日新聞デジタル
www.asahi.com/articles/ASG8474Z5G84PTIL030.html
2014/08/06 - 広島と長崎に原爆が落とされた年に生まれ、「核」を手放せない戦後とともに歩んできた。俳優の吉永小百合さん(69)。被爆地や原発事故 ... 詩の朗読で自ら選んだ一つが、「にんげんをかえせ」で知られる詩人・峠三吉の「原爆詩集 序」でした。
◆祈るように語り続けたい 吉永小百合朗読会ヒロシマ、ナガサキ ...
japo-net.or.jp/57
2013/09/21 - 第二部は吉永小百合さんの朗読。はじめに吉永さんは、27年前に原爆詩と出会い、「夢千代日記」の主人公を演じたことなどをきっかけに、原爆詩を「語り継いでいきたい」という思いで朗読のCDを制作したことを語りました。そして、広島の原爆 ...