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折々の記 2009 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/12〜        【 02 】01/17〜
【 03 】01/21〜        【 04 】01/23〜
【 05 】01/27〜        【 06 】01/29〜



【 01 】01/12

  01 12 水の危機
  01 13 NHK解説委員室 1
  01 14 NHK解説委員室 2
  01 15 ガラスびん : 刃も凍る北海の…… : 実母の命日

01 12(月) 水の危機

 【目ざめよ! 2009-1…4pより】

「アフリカのチャド湖は、かつては地球を周回する宇宙
飛行士の目印となっていたが、今では見つけることすら
難しい。

 ……カメルーン、チャド、ニジェール、ナイジェリアに
囲まれたこの湖は、1960年代以降、95%も小さくなった。 

灌漑用水の需要が高まり、チャド湖に注ぎ込む河川の
水を使い果たしてしまっているのである。

そのため、チャド湖はやがて完全に姿を消すかもしれ
ない。 そうなれば、いずれはどこにあったかさえ謎に
なってしまうだろう」 レスター・R・ブラウン著「ブラウンB2.0 ― 病める惑星と悩める文明を救う」

デジカメ写真は薄かったけど、カメルーン、チャド、ニジェール、ナイジェリア、チャド湖はわかる。 右側の言葉は水面、植生、土壌です。 40余年前のチャド湖が写真のようだったとすれば、その急激な変容の姿に唖然とします。 

……………………………………………………………………………………………………

 地球にはたくさんの水がある。私たちが知っている中で、こんなに水に恵(めぐ)まれているのは地球だけだ。だから「水の惑星(わくせい)」といわれている。

 私たちだけでなく、 すべての動物や植物は、水があるから生きていける。

 でも、地球の水のほとんどは、海にある塩水で、私たちは飲むことはできない。そして、塩水でないものも、ほとんどが南極や北極の氷だから使えない。私たちが使うことのできる川や湖の水や地下水は、地球にある水の0.8%だけだ。

 そして、その水の多くは、森林が雨水をたくわえてつくりだしたものだ。森林があるから雨も降る。

……………………………………………………………………………………………………

「ものみの塔」と「目ざめよ!」の一月号を届けてくれたのは、40代の落ち着いた青年でした。 きのう配ってくれました。

01 13(火) NHK解説委員室 1

時事問題を調べていて、NHK解説委員室に出会いました。 今回細かく見ていたら、役に立つデータがたくさんあることに気づきました。

その内容を簡単に見ます。

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朝日新聞の社説や特集、連載記事とともに、NHK解説委員室の各記事は常時チェックしたい情報源です。

01 14(水) NHK解説委員室 2

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そこには次の記事が出ている。 はじめてこんな記事を読んだ。 今まで聴いたことがないので、知らなかった。


    2008年11月24日 (月)

  視点・論点「競争社会」と「連帯社会」

    東京大学名誉教授 田端博邦

1 はじめに

 最近、民間のテレビで放送されましたのでご覧になった方も多いのではないかと思いますが、フィンランドでは、大学生に月7万円とか9万円とかの生活費が支給されるということです。学費はもちろん無料ですので、大学に行きたい人はだれでも自活しながら通学することができるということになります。大学の授業料が無料というのは、フィンランドだけではありません。北欧はもちろん、欧州諸国のほとんどで無料になっています。もちろん、これらの国では、大学だけが無償なのではなく、小学校から大学までの教育が、原則として、すべて無償です。教育費が高いのは日本とアメリカです。

 ここには、教育に関する基本的な考え方の違いが存在しているといえます。フィンランドのような無償の教育制度がとられているのは、大学の教育が、教育を受ける本人の利益になるだけではなく、社会全体の利益にもなる、という考え方があるからです。他方、日本やアメリカでは、教育の利益を受けるのは個人であり、その個人または親が、教育費用を負担すべきだと考えられています。

 つまり、この日本やアメリカのような考え方を基礎にする社会は、社会を個人の利益を中心に構成する「自己責任」の社会であるということができます。そして、「自己責任」を基礎とする社会では、教育だけでなく生活のさまざまな部面で個人に対する強いストレスがかかることになります。さらに、そうした社会では、すべてのひとが少しでもよい生活をしたいと考えますので、個人の間に、あるいは、家族と家族との間で、さらには子どもと子どものあいだでも激しい競争が生まれます。こうしたわたしたちの社会を「競争社会」ということができるとすれば、フィンランドや北欧の諸国は、それとかなり違った原理を基礎にした社会であるということができます。そうした社会のあり方を、仮に「連帯社会」といっておきましょう。「協力社会」とか「共同社会」とかいうこともできるかもしれません。そこでは、個人が互いに協力して支えあう、助け合うということが、より重要な原理になるのです。

2 「競争社会」と「連帯社会」

 「競争社会」と「連帯社会」との違いは、教育にとどまりません。学校を出て、社会で働くときの、労働時間などの労働条件や、失業したときの生活保障や教育訓練の機会、医療や年金などの社会保障についても同様です。

 たとえば、「競争社会」では、失業した場合には、失業保険があるとしても、基本的には自分自身で生活を立てなければなりませんし、また再就職のための教育訓練なども自前の費用でまかなわなければならないというのが原則になります。日本の最近の若者の貧困問題は、こうした「競争社会」の負の側面を示しています。北欧やヨーロッパでは、こうした場合に生活保障付きの教育訓練機会が提供されるのが普通です。老後の生活保障についても、同じようなことがいえます。つまり、年少期の教育、成人後の労働生活、引退後の老後生活という一生にわたる生活のあり方について、非常に異なる社会のあり方が存在しているということがいえるのです。

 ここで簡単な図(図表1)をご覧いただきたいのですが、世界の国々をおおざっぱに特徴づけて見ますと、アメリカや日本のような「競争社会」あるいは、競争に重心をおく社会から、北欧のような「連帯社会」に重心をおく社会までのあいだに、さまざまな国を位置づけることができます。

 このような地理的な社会のあり方の違いに注目して言い換えますと、「連帯社会」は通常いわれる「ヨーロッパ型資本主義」に、「競争社会」は「アメリカ型資本主義」にあたります。前者を「社会的市場経済」、後者を「自由主義的市場経済」などと呼ぶこともあります。それぞれの社会のあり方について、やや難しい言葉も入っていますが、最近よく使われる言葉を整理して当てはめてみますと、このような表(図表2)にすることができます。ただ、ここで注意していただきたいのは、どちらのタイプの社会も、個人の自由や人権を保障すること、経済システムとしては市場経済あるいは資本主義経済であること、そして、政治的には民主主義の政治制度をとっているという点では共通しているということです。これらの共通の前提のうえに、世界各国では、異なる社会のあり方がつくられている、と理解すべきなのです。

  3 社会の違いを生み出したもの

 では、なぜ、このようなアメリカとヨーロッパの違いがもたらされたのでしょうか。さまざまな要因を考えることができますが、ひとつの注目すべき現象は、一般に、「連帯社会」の程度が強まるほど労働組合の組織率が高くなるということです。現在の日本の組織率は18パーセント程度ですので、労働組合というものに関心をもつ人は少ないかもしれませんが、例えば、北欧のスウェーデンなどでは、80パーセントの雇用労働者が労働組合に加入しています。主要な国の組織率を棒グラフにしてみますと、このようになっています(図表3)。一見して明らかなように、フランスなどの例外的なケースがありますが、労働組合の力の強さは、社会のあり方とかなり強い関連性をもっています。労働運動の強い国ほど、つまり働いている人が強い発言力をもつ国ほど連帯社会的な社会になる傾向があるといえます。

  4 歴史の変わり目

 最後に、最近の金融危機にふれておきたいと思います。世界金融危機は、1929年の大恐慌以来の経済危機であるといわれていますので、時代のあり方を大きく変える可能性があるからです。

 歴史的にみますと、29年恐慌以前のアメリカ経済は非常に自由主義的な、「競争社会」的な経済体制でした。30年代のルーズベルト大統領のニューディール政策は、労働組合の団結権や団体交渉権を認めるなどして、そうした体制をかなり「連帯社会」的なものにシフトさせたのです。ニューディール的な体制を再び「競争社会」化したのが、80年代以降の“新自由主義”といわれる政策体系です。

 先日の金融サミットでは、アメリカとヨーロッパとの考え方の違いがかなりはっきり出ていますが、金融危機の解決には、政府や中央銀行の役割が重要であるということが共通に認識されています。金融危機を生んだヘッジ・ファンドなどの自由な行動を規制するルールと監視が必要だとされています。また、各国政府は、内需を喚起して経済を安定させなければならないとされています。

 ここでは、「競争社会」の土台になっている自由市場のあり方が問題にされています。金融危機が「競争社会」の欠陥を露呈するものであったとすれば、身近な問題である、行き過ぎた受験競争や過労死・長時間労働などの働き方は「競争社会」の弊害が限界点に近いものになっていることを示唆しています。このような社会のあり方に代わる新しい社会のあり方を考えるべき時代に入りつつあるということができるでしょう。

【注記 : ヘッジファンド】
ヘッジファンド(hedge fund)の正確な定義は難しいが、公募によって一般から広く小口の資金を集めて大規模なファンドを形成することを目指す通常の投資信託と異なり、通常は私募によって機関投資家や富裕層等から私的に大規模な資金を集め、金融派生商品等を活用した様々な手法で運用するファンドのことを指す。 投資の最低額が、日本円で1億円以上と高額である場合が多く、ヘッジファンドの参加者はアメリカで99人以下、日本でも49人以下(証券取引法で規定する少人数私募の場合の勧誘数上限。適格機関投資家向け私募投信の場合は、人数制限はない)と少人数に限られる。


 HREF="http://www.mofa.go.jp/Mofaj/area/finland/index.html">外務省 フィンランド共和国

ここにはフィンランド共和国の概要があります。

 http://www.moimoifinland.com/index.php
   フィンランド政府観光局

 http://www.arukikata.co.jp/country/europe/FI_general_1.html
   フィンランド 地球の歩き方

ネットだけでは情報収集を充分することはできない。





01 15(木) ガラスびん : 刃も凍る北海の…… : 実母の命日

安曇野・有明の叔母から五味子の枝を頂いてきたのは平成6年頃でしたから、今から十数年前のことになる。 はじめて五味子の果汁を造ったのは平成九年でした。

それ以来、たくさん採れたときには一升瓶・三十本位になった。

瓶の確保には毎年苦労してきた。 そこで「ガラスびん.COM」へ問い合わせをし、その返事がメールできたんです。

E-Mil : y_shimo@cd.wakwak.com 着信
    2009/01/15
    ガラスびん.COM 関守  お問い合わせの件  2009/01/13 22:09


   下平好上 さま

   お問合せありがとうございます
   お問い合わせの件、下記の通りです

   @ 食品用細口 HP画面左側二番目
           内容量 OF 212ml
           胴径 60mm
           全長 173mm 四角瓶
           黄色or金色ヒンジCAP付き
           販売数量 120本
          【販売数量120本の値段はいくらですか】

           数量120本x単価80円=9600円
     消費税              480円
     送料                756円
     合計              10836円

   A 食品用細口 HP画面右側八番目
           スリムワイン500
           内容量NET500ml 胴径62mm
           全長291mm 黒orアルミCAP付
           販売数量 1ケース24本 2ケース
          【販売数量2ケース48本の値段はいくらですか】
           ※ @とA、及び送料を教えてください。

           数量48本x単価120円=5760円
     消費税             288円
     送料               756円
     合計               6804円

   よろしくおねがいいたします

   〒132-0031
   東京都江戸川区松島1-39-4
   ガラスびん.COM
   有限会社 関守製作所
   担当     関守滋男
   TEL 03-5662-9455
   FAX 03-3651-2805
   e-mail sekimori@gamma.ocn.ne.jp
   URL http://www.garasubin.com


さっそく2ケース発注しました。 内容はメールの記録に残っている。

● 刃も凍る北海の……

今週は寒気が南下してきたので、寒くなった。 きょうの気温は最高で3度だと伝えていた。

寒いときにはおりおり、アッツ島の玉砕が偲ばれる。 「山崎大佐指揮を執る 山崎大佐指揮を執る」の歌詞が口から飛び出しそうだ。 戦争はいやなことだ。 人殺しは誰でもいやに違いない。 なんで無法な戦争をするのか!!!

   @http://www.geocities.jp/torikai007/war/1943/attu.html <アッツ島玉砕戦:山崎保代大佐への玉砕命令 鳥飼行博研究室>


写真(右):アッツ島で万歳突撃して殺害された日本軍将兵 ; 藤田嗣治の戦争画では,日本軍が追い詰められて最後を全うした姿が非情に描かれている。 実際,野ざらしになった戦死した日本兵が,米兵の前に晒されている。 勇敢に最期まで国体護持の使命を全うした日本軍といった構図は真実を表したものなのか。
U.S. Army Signal Corps引用. Japanese soldiers used hand grenades to commit suicide when it was clear that their final banzai attack on Attu on May 29, 1943, would fail. This photograph shows a group of approximately 40 Japanese soldiers who died in this manner; the rest were killed by Americans. The photo shows just where the soldiers fell. Later these bodies were removed and buried.

日本軍2500名のうち生存者は29名。 米軍1万5000名のうち死者550名,負傷者1500名。 さらにアッツ島の悪天候のために1200名の負傷者があった。 これは不適切な軍靴と外套のためである。 日本の大本営は将兵は全員玉砕と報じた。 29名の捕虜は不名誉な存在として黙殺された。 皇軍将兵たるもの戦陣にあっては「生きて虜囚の辱めを受けず」であり,降伏することは許されない。 死ぬまで戦い降伏を拒否することは,日本軍が頑強に戦うことにつながる。 火力,航空兵力の絶対的不足を,精神力,士気の高さで補おうとしたのである。

1943年5月23日,大本営からアッツ島放棄の命令を受けた樋口季一郎中将は,山崎保代大佐に,玉砕命令を告げた。 「軍は海軍と万策を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡百の手段を講じて、敵兵員の燼滅を図り、最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神の精華を発揮あらんことを望む」

図(右):藤田嗣治1943年作「アッツ島玉砕」 ; 最期の一兵まで戦い捕虜を出さないことを誇りにした日本軍にとって,殉教画にも等しいと感じてもらえれば,その意図を達成したことになる。 日本軍は,勇ましい勝利しか戦争画として認めないというのは,あまりにも単純化した見方である。 荘厳な死を迎える「殉教画」を高く評価する日本の軍事的指導者も少なくないはずだ。 凄惨な体当たりに,神風特別攻撃隊「敷島」「大和」「朝日」「山桜」部隊という国学者本居宣長の短歌由来の典雅な部隊名を考案しているのであるから。 これは源田実中佐が軍令部で「愛国百人一首」を眺めて命名したのであろう。

1943年「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が波平暁男/伊藤武雄/伊藤久男によって歌われた。作詞 裏巽久信,作曲 山田耕筰。

藤田嗣治は,1943年5月29日、アラスカのアリューシャン列島西端での『アッツ島玉砕』を描いた。 アッツ攻防戦は,米軍の戦死550名に対して日本軍の戦死は2,638名という殲滅戦であるが,日本の大本営は翌日,「玉砕」と呼んで公表し,国民の士気を高めようとした。 守備隊長山崎保代(やすよ)陸軍大佐は「軍神」とされ,死後,中将に二階級特進した。 敗北を糊塗するために「玉砕」という美名を冠して,英雄叙事詩を作り出そうとした。 この戦いに感動したのか,芸術家として活躍の場を嗅ぎ取ったのか,3か月後開催された「国民総力決戦美術展」に藤田嗣治は「アッツ島玉砕」を出品した。

写真(右):1943年5月,万歳突撃が行われたアッツ島「工兵隊の丘」 : 近年になってのカラー写真。 沢山の米軍関係者やその遺族が,アリューシャン列島の戦跡を訪問している。 サイパン島,レイテ島のように大群が殲滅された島ではないので,日本人の訪問は,ほとんどない。 ただし,慰霊碑は篤志によって立てられている。

  1943年「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」  山田耕筰 作曲

   1.刃も凍る北海の    御盾と立ちて二千余士 
     精鋭こぞるアッツ島  山崎大佐指揮をとる  山崎大佐指揮をとる 

   2.時これ五月十二日   暁こむる霧ふかく 
     突如と襲う敵二万   南に迎え北に撃つ  山崎大佐指揮をとる 

   3.陸海敵の猛攻に     我が反撃は火を吐けど 
     巨弾は落ちて地をえぐり 山容ために改まる  山崎大佐指揮をとる 

   4.血戦死闘十八夜    烈々の士気天を衝き 
     敵六千は屠れども   我また多く失えり 山崎大佐指揮をとる 

   5.火砲はすべて砕け飛び 僅かに銃剣手榴弾 
     寄せ来る敵と相撃ちて 血潮は花と雪を染む  山崎大佐指揮をとる 

   6.一兵の援一弾の    補給を乞わず敵情を 
     電波に託す二千キロ  波頭に映る星寒し  山崎大佐指揮をとる 

   7.他に策なきにあらねども 武名はやわか汚すべき 
     傷病兵は自決して    魂魄ともに戦えり  山崎大佐指揮をとる

   8.残れる勇士百有余   遙かに皇居伏し拝み 
     敢然鬨と諸共に    敵主力へと玉砕す  山崎大佐指揮をとる


   Ahttp://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/AttsuTouKessenYuushi.htm <アッツ島血戦勇士顕彰国民歌>

「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」この歌をうたうと、涙が流れてどうしようもない。 くそまじめに戦争に従事し、生死に直面したものにしかわからないのかもしれない。

それにしても、<アッツ島玉砕戦>を読んで、山崎大佐の心中を察すると自分の心血が穏やかでなくなる。

きょうは実母の命日です。 十四年になります。

葬儀が翌々日に行なわれました。 葬儀の十七日に神戸淡路大震災がありました。 忘れることはありません。 あれから十四年です。

四季の移ろいはなんの語らいもなく過ぎ去ります。 生滅の移ろいもなんの造作もなく過ぎ去っていきます。

過去の記憶は、頭の中で水泡(アワブク)のように浮かんだり消えたりしています。

【胎内記憶】

胎内記憶と言っていいのかどうかわからないが、子供の頃から折に触れ見た夢がある。 水中ふかく入って、ああ、困ったなと思っているのだが、息ができているのだ。 どうしてこんな夢を折々見たのか、歳をとってから胎内記憶だったんだろうと思うようになった。

母との胎内でのつながりが、大脳に残っている。 脳内記憶は水泡とおなじで、一人の人の頭の中だけのことであり、他の人との共通になる記憶ではない。 他の人にはこんな記憶はないんだろうか。

大きくなるまで育ててくれたのだが、そのお礼の言葉を直接口に出して言ったことがなかった。

唯一の気残りである。

何回も何回も、手を合わせて感謝してきたのだが、いまだに気残りである。

たとえ形でもいい、花を手向けて、大きくなるまで育ててくれて有難うございましたと、手を合わせて口に出して言うつもりです。

午後は墓参りに行ってきます。

 【伊久間の法運寺】  旧道からの様子

石段を登りきった右側に見事な枝振りの松があったが、
20年ほど前に枝が折れて切り倒されたと記憶している。

右側に見える道を登って寺へいくと、右側に駐車場があって何台か停めておける。

住職の田中豊春さんが亡くなってから、後任の住込住職がいなくなった。 
この住職さんは私の小学校四年生のときの担任の先生をしてくださった。

お寺の左から裏手の墓地へ行く道がある。
ちょうど本堂の裏の方向に桐生家の墓がある。


 【桐生家の墓地】  

右側、南天の裏は、分家初代の長作夫妻の墓です。
中央「桐生家の墓」は三代目長一が昭和42年07月に建てたものです。

  長叟鶴寿居士  大正05年09月04日 長 作   87才 1830(天保01生)
  鶴寿貞松大姉  大正07年10月29日 も よ    78才 1841(天保12生)
  如幻禅童女    明治01年11月17日 わ か   03才 1866(慶応02生)
  喜讃玄宗居士  昭和11年01月23日 喜代太郎 75才 1862(文久02生)
  雪窓明鏡大姉  昭和20年12月19日 よ し    78才 1868(明治01生)
  春月智光童女  明治31年03月26日 す み   02才 1897(明治30生)

上記中、青字の西暦年と和暦年は勝手に算定した数字です。

【法運寺裏手から西方伊久間田圃と風越山の景観】 

故郷の山、伊久間で育った人にとっての「ふるさとの山」はこの風越山だった。

冬の気象のため山並がぼやけています。 手前の家々は昔田圃だったところで、寒中、学校から帰るときなど、氷を滑るのがおもしろくて道草をして家まで帰ったものです。





       銀も くがねも玉も なにせむに

                 まされる宝 子にしかめやも