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折々の記 2009 @

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 05 】01/27

  01 27 中学数学の問題集
  01 28 長野県歌信濃の国(歌詞と太宰春台の学校論)

01 27(火) 中学数学の問題集

中学生の勉強を支援するため、パソコンで勉強する方法を調べてみた。

こうも沢山のサイトがあるので、そのことに対し良心的な気持ちに感謝します。 学習塾へ行けば勉強ができたような気になってしまう人が多くあります。

PCの問題を解いて、「ああ、こうすればいいのか!」と自分で大脳へインプットしていけば、時間もお金もかからず絶大な効果が得られます。

サイトを立ち上げた方々へ厚くお礼を申上げます。

では、参考になるサイトを取り上げて見ます。

【参考になるサイト】

  http://math.005net.com/mondai.htm
    中学数学・練習問題

  http://www.geisya.or.jp/~mwm48961/math/index_m.htm
    中学数学の基本問題

  http://www5a.biglobe.ne.jp/~atmark2/testguide3.htm
    あとまあく数学演習

  http://web2.incl.ne.jp/yaoki/index.htm
    数学の部屋

  http://cherry.webdos.net/~print/
    中学英語・数学の学習プリント

  http://netlessonlab.hp.infoseek.co.jp/index_math.html
    ネットレの中学数学問題(無料)

  http://www.study-x.com/1000_/
    中学 数学 問題[無料学習プリント教材]

【出題チャレンジのサイト】

このサイトは中学数学とは関係なく一般向けの問題でなかなか難解のものがあります。 参考のため取り上げました。

  http://www2.nkansai.ne.jp/users/yoshioka/challe_f.htm
    数学算数問題にチャレンジ

  http://www.mowmowmow.com/math/index.htm
    MOW? MOW? MOW?数学の部屋

01 28(水) 長野県歌信濃の国(歌詞と太宰春台の学校論)

県歌に出てくる太宰春台については、調べてもあまり判らなかった。 ところが今回調べてみたら、なかなかの人物であったことがわかりました。

まずは、県歌をあげておく。

  長野県歌・信濃の国

    信濃の国
               作詞;浅井 洌(1849-1938)
               作曲;北村季晴(1872-1930)

 一 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
    そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
    松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
    海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき

 二 四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
    浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
    流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川
    南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり

  三 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
    民のかせぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある
    しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け
    細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり

  四 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
    木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
    来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姥捨山
    著き名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる

  五 旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
    春台太宰先生も 象山佐久間先生も
    皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
    山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず

  六 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
    穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
    道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
    古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い

「信濃の国」について

 1899年(明治三十二)、長野師範学校(現信州大学教育学部)教諭の浅井洌が作詞、翌1900年に同校教諭の北村季晴が曲をつけて、当時の師範学校の行事などで歌われました。学生が教師として県下に赴任して全県に広がり、連綿と歌い継がれたことで、1968年(昭和四十三)5月20日には県歌として制定されました。

 長野県の唱歌教育推進のために信濃教育会の意向を受けた同校教諭の依田弁之助が、同僚の浅井に作詞を依頼して作曲しましたが人気はなかったようです。東京音楽学校で依田の2年後輩だった北村季晴が青森県から同校に招聘され、浅井の詩に深い感銘を受けて作曲したところ、多くの生徒に歌われるようになり、運動会の女子部生徒の遊戯に使われ、運動会の終わりに全校生徒で合唱するのが恒例となりました。(昭和十年に私は小学校へ入学しましたが、その頃からすでに運動会では高学年の女の子は全校で遊戯の振り付けもあって歌は聞きなれていました)

 軽快で親しみやすいメロディーが印象的で、四番のみが穏やかな調子の詠唱として全体のバランスに工夫が凝らされています。作曲した北村は東京に生まれ、東京音楽学校を卒業後にしばらく教師をしてから本格的な音楽家として一家を成しました。1901年2月には師範学校を退職していますから、長野滞在は一年ほどの短い間でしたが、まことに大きな足跡を残したものだと思います。

浅井洌(あさいきよし、1849〜1938)

 1849年(嘉永三)十月十日、松本藩士大岩昌言の次男として生まれる。十二歳のときに同藩浅井家の養子に入り、浅井継之助勝弥となる。1869年(明治二)二十歳のときで松本藩漢学科句読掛となったが、まもなく廃藩置県となり、政治運動にかかわる。

 1886年(明治十九)九月に長野県尋常師範学校教諭(国文)となり長野市に移る。1926年(大正十五)六月に七十七歳で長野師範学校を退職し、松本市に帰る。1938年(昭和十三)二月二十七日、九十歳の長寿をもって他界した。

北村季晴(きたむらすえはる、1872〜1930)

 1872年(明治五)四月十六日、東京に生まれる。北村家は江戸時代初期に「湖月抄」を著した北村季吟を輩出した。1893年(明治二十六)七月東京音楽学校師範部を卒業し、青森県尋常師範学校教諭となる。1899年(明治三十二)に長野師範学校に招かれ1901年(明治三十四)二月まで勤務した。

 長野師範を退職後は東京に戻り、本格的な音楽活動に入る。「唱歌教科書」「中等音楽教科書」などの編纂、「ワシントン」「離れ小島」「須磨の曲」「汽車の旅」などを発表し、長唄などの邦楽の採譜に務めた。  1931年(昭和六)六月十七日に六十歳をもって世を去った。

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  太宰春台の学校論

 【11B】太宰春台の学校論──学問と徳行才芸が兼備する人材の養成

【荻生徂徠】
 江戸思想史には幾人かの巨人が存在するが、中でも伊藤仁斎(いとうじんさい・1627〜1705)と荻生徂徠(おぎゅうそらい・1666〜1728)の2人は中期を代表し、以後の思想史に影響を与え続けた2大学者である。仁斎は京都在住の町人学者として、徂徠は5代将軍綱吉の側用人として絶大な勢力をふるった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の儒臣として、活躍した。特に徂徠は、赤穂浪士への対応問題で主君柳沢吉保を動かしたことで知られる。徂徠は彼らの行動は法的には幕府の法度・決定に反し、道徳的には忠義という君臣関係のあり方にかなうものとして、切腹という、武士らしい死に方が可能な処断を主張したとされるが、事実、そのようになったのである。

 徂徠に始まる学問傾向は、徂徠学とか、塾の名を取って〓園学(けんえんがく)、また古文辞学(こぶんじがく)とか言われる。それは同じ儒学でも、思想的性格の強い朱子学と違い、文献学的傾向を持つものであった。古典は、具体的には儒学の古典である『論語』や『孟子』のことだが、後世の解釈や注によってはならない。古典は、それと同時代の資料によって読まねばならない。中国古代の思想界は儒学を含む「諸子百家」と言われた学者思想家たちが活動した時代であった。老荘家、墨家、法家、縦横家、兵家などの諸流派が儒家と並んであった。前漢王朝以来、儒学が国定思想となったために他の学派は異端と見なされることとなった。だが、儒学から見ると異端思想と言われるものであっても、『論語』や『孟子』と同時代の文献であるから文献的、言語的、歴史的な研究対象となる。これまでの儒学の歴史の中で冷遇されてきた、中国古代の非儒学あるいは反儒学の立場から書かれた諸子百家の著作もまた、重要な文献となったのである。 (注)「〓けん」は「茅かや」の異体字。荻生徂徠が日本橋茅場町に塾を開いたことにちなむ。

 しかし徂徠学は文献学を重視したために、その政治性・思想性と同程度に文学的・人文科学的性格を帯びることとなった。徂徠自身はバランスを保っていたものの、彼の弟子たちは2つの傾向に分裂していった。服部南郭(はっとりなんかく・1683〜1759)は文学派、太宰春台(だざいしゅんだい・1680〜1747)は思想派を代表する徂徠の2大弟子である。文学派の方は、文学自体が持つ怠惰な傾向に流れたが、太宰春台はすぐれた学者・思想家として活躍している。

【太宰春台】
 春台、太宰氏、名は純、字は徳夫、俗称は弥右衛門。春台は号で、別に紫芝園とも号す。正徳5年(1715)、江戸川に自分の紫芝園塾を開いたことによる。春台の詩文を集めた『春台文集』を1名『紫芝園稿』というのはこの別号にちなんでいる。春台は織田信長の守役をつとめた平手政秀の子孫で、信州飯田に生まれた。父は飯田藩・堀親昌に仕えたが、その姻戚・太宰氏の跡を継いだために姓を変えた。15歳の時、春台は出石藩・松平忠徳に仕えたが、病気を理由に辞職した。以後10年ほど学問の為に遊歴したのであるから、病気というのは口実であった。

 彼は初め、朱子学を学んでいたが、正徳元年(1711)32歳の時、朱子学を放棄して徂徠の門下に入った。したがって春台の学問の基礎的部分は、すでに出来上がっていた段階であった。事実、彼の学識は高く、入門後すぐに徂徠門下の思想的傾向を継ぐ弟子として見られている。

 春台は、孔子の儒学は「古代の聖人が政治の道具として述べたものだ」と考えた。だから学問とは、「経世の学」すなわち世のため民のためのものであるべきだ、とした。春台は徂徠の弟子として文献学的業績『論語古訓』などの著作を残しているが、本領は経世学方面にあった。

 春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻からなっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。  春台は「学政」で次のようにいう


「学政というは、学術の政令なり。天下国家を治むるには、人才を得るを先とす。人才は学問より出るなれば、天下の人に学問をなさしめて、人才の出る様にする政を学政という。‥‥およそ学政はただ人才を多く得るを要とす。人才は国家を治むる道具なる故なり」



では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それは、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台によれば、このような人物は学問をすることによって育成されるのである。だからこそ、学校という組織が必要なのである。


「学問なき者は、今日、目に見、耳に聞きたるばかりを知りて、遠き古の事、広き天下の事を知らざる故に、聞見狭く知識少なくして、一己の身を修め、小さき家を治むるにも是非に惑い、処置に惑うことあり。‥‥書を読み学問したる者は、この国に居りて異国のことをも知り、今の世に生まれて千万年の遠き古をも知り、聖賢の教えを守り、歴代の治乱、政事の得失を考えて、今日の時宜にしたがう、これ学問の益なり」



続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。


「今の世に、七八才以上の童子を師の所に集めて、物書くことを教え、小謳を教え、今川状、庭訓、式目などを読まして、九九八算などを教える如くなり。‥‥さて十五にして大学に入りて、先王の礼楽を学び、士大夫となりて朝廷に立つべき礼義を習う。‥‥総じて中華の風は、古より今の世に至るまで、学問才芸によりて立身して、庶民の子も爵禄を得て、富貴にも進むが故に、人々競って学問を励むなり」



徹底した学問中心の人材論である。しかし、ただ学問だけではない。「徳行才芸ある者」でなければならない。

 春台が学校教育によって養成する人材とは、学問と徳行才芸を兼ね備えたものであったのである。そのような人物こそが、天下国家を治めるにふさわしいことは、言うまでもない。

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引用した太宰春台の学校論は、聖徳大学 講義案内というサイトの一部でした。

講義案内の内容は次のようです。

■聖徳大学『日本思想史T講義』案内■     (version 3.2)

 聖徳大学(千葉県松戸市)の人文学部日本文化学科において、主に3年生を対象として1996年度から99年度までの4年間、専門科目として「日本思想史」を講義した。97年度を第1版、同年夏に改訂して第2版、以下は98年度の第3版である。  1992年に設置された初期の日本文化学科は日本文学系を主とする教育内容であったので、それなりに考慮した講義にしたつもりであった。

  目 次

【0】日本思想史学とは何か──(付)参考文献案内
【1】誤り多い歴史的常識──江戸時代の農民、実は苗字使用

【2】フランシスコ・ザビエルの日本人観(1)──ヤジロウの知的な能力を見抜き日本への布教に意欲
【3】フランシスコ・ザビエルの日本人観(2)──今は失われてしまった美徳も

【4】日本近代化のキーを考える──寺子屋の功罪
【5】寺子屋の起源──江戸以前に「全盛」への萌芽
【6】寺子屋修了後に読む本──好色本、文芸・ハウツー物
【7】江戸時代の書籍広告と教育成果──支持を得た「詰将棋」や「生花」
【8】江戸時代の教科書・参考書──世界的に高水準の出版世界
【9】忙しい江戸町娘の1日──朝から夜まで稽古事

【10】江戸時代の教育観と人間観──人間自体の価値の差認めず
【11】山鹿素行の教育思想──人としての学問が必要
【11B】太宰春台の学校論──学問と徳行才芸が兼備する人材養成
【12】閑谷学校──庶民の教育機関
【13】咸宜園──江戸時代の代表的私塾
【14】歴史的人物を輩出した適塾──教育とは切磋琢磨すること
【15】江戸時代の哲学者・教育者──三浦梅園

【16】昌平坂学問所の設置──家康の好学で幕府の官学に
【17】昌平黌の発展──寛政の改革で幕府の機関に
【18】明治維新をになった佐賀藩の教育
【19】長州藩明倫館──挙藩一致政策を推進
【20】旗本の出世・昇進──試験で官僚を採用
【21】大田南畝と昌平黌におけるテスト──江戸時代も試験は重要
【22】貝原益軒の教育思想(1)──現代に教訓残す体系的教育論
【23】貝原益軒の教育思想(2)──良き師と良き友を選ぶ
【24】女性のための倫理道徳教科書──『女大学』

【25】最後に

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こうしてみてくると、福沢諭吉の「学問のすすめ」の先駆として『経済録』の「学政」であったことがわかる。 県歌の作詞者、浅井洌はこんなことも知っていたのでありましょう。

明治になったとき浅井洌は19才の青年であった。 当時としては青年の学問の主流は漢籍によっていたから、信濃出身の太宰についての知識はもっていたものと思われます。

要 諦

「学問なき者は、今日、目に見、耳に聞きたるばかりを知りて、遠き古の事、広き天下の事を知らざる故に、聞見狭く知識少なくして、一己の身を修め、小さき家を治むるにも是非に惑い、処置に惑うことあり。 ‥‥書を読み学問したる者は、この国に居りて異国のことをも知り、今の世に生まれて千万年の遠き古をも知り、聖賢の教えを守り、歴代の治乱、政事の得失を考えて、今日の時宜にしたがう、これ学問の益なり」