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折々の記 2009 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/11〜        【 02 】03/21〜
【 03 】03/25〜        【 04 】04/01〜
【 05 】04/08〜        【 06 】04/24〜



【 01 】03/11

  03 11 子育て(0歳教育)の実践記録公開を

03 11(月) 子育て(0歳教育)の実践記録公開を

子育ての実践記録といってもそのつもりで書いて残していた例は少ないようです。

古代アテネのポリスには歴史にその名を残している人が多くいるのだが、子育てについて書き残したものは少ないようでまだ見たことがありません。 

古代ギリシア【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】によると、戦士であり政治家でもある古代ギリシア人は労働を蔑み女性や奴隷に任せて、体力の鍛錬と政治談義に日々を過ごし、その中でギリシア哲学や科学が発達した。また年長者が精神的・肉体的に年少者を一人前に教育することが理想とされ、云々とあります。

今日では、ジツコ・スセディック「胎児はみんな天才だ」という胎教の詳しい実践記録が出ています。 だが、これを真似て実践したという情報をまだ聞いていません。 老生が女であり赤ちゃんを育てるとすれば、館林実子さんがやり遂げた育児法をやり遂げたいものです。

ここまで徹底しなくてもストーナー夫人のようにできるだけ多く赤ちゃんに話しかける方法を真似るだけでも、能力開発の育児法としては相当な成果を上げることができるはずです。


  @  小さいときから一つのことを繰り返していく「個人によるインプット法」で、
      才能開花を実現したという実例は、 一般に知られています。



 ■ 千住 真理子

      2歳半より鷲見三郎氏に、11歳より江藤俊哉氏に師事する。12歳でNHK交響楽団と共演する。 第26回パガニ
     ーニ国際コンクールに最年少で入賞する。慶応義塾大学文学部哲学科卒業。その後、ヨーロッパにて活動を
     行う。
     ハーモニーインタビュー:千住真理子

 ■ 浅田 真央

      5歳の時、姉の舞と共にスケートリンクに遊びに行き、スケートと出会う。
      舞と共に門奈裕子コーチが教える名東フィギュアスケートクラブに入会。
      当時、同クラブには安藤美姫も所属していた。
      3歳から9歳まではバレエのレッスンも受けていた。

      2000-2001シーズンからグランプリ東海クラブに所属し、山田満知子・
      樋口美穂子両コーチに師事。

      小学6年生の時に特例で出場した全日本選手権で不完全ながら
      3回転-3回転-3回転のコンビネーションジャンプ(3回転フリップ
      -3回転ループ-3回転トウループ)を跳び、「天才少女」と呼ばれた。


 ■ タイガー・ウッズ 

      元陸軍特殊部隊「グリーン・ベレー」の将校で、スクラッチ・プレーヤーでもあった父親アール・ウッズの手ほどき
      を受け、生後9か月からゴルフを始めた。

      2歳の頃には南カリフォルニアで著名な幼児ゴルファーとなり、4歳になるとSCJGA(南カリフォルニア・ジュニアゴ
      ルフ協会)に加盟、すぐに「10歳以下」クラスの9ホールの試合で10歳児を破る。

      小学館から大前研一監訳の「TRAINING A TIGER」が出ている。 5頁には、

         ただ事実としてはっきりしていることは、両親の愛と支援、そして導きがなければ
         僕の人生は違うものになっていただろうし、ゴルファーとしての成功もなかった
         だろうということだ。

      という言葉が載っている。

 ■ 石川遼

      ゴルフを始めた時の年齢 6歳 父につれられて練習場に行ったことからゴルフを始めた。

      2007年に発足した「チーム・ジャパン・ジュニア」のメンバーで、春の全国中学校ゴルフ選手権で優勝した石川
      遼。5月に開催された男子プロゴルフツアーで史上最年少優勝を飾り、一躍注目を集める選手となりました。20
      07年8月の日本ジュニアでは、男子15〜17歳の部に初出場し、第1ラウンドから首位を独走する圧倒的な強さ
      を見せ、JGA主催競技初優勝を果たしました。

      プロ2年目の石川はメジャー初出場となり、主催者によると17歳6カ月で大会を迎えるのは、52年にアマチュア
      のトミー・ジェイコブス(米)が17歳1カ月で出場したのに次ぐ、年少出場記録。

 ■ 北島 康介

      5歳から東京スイミングセンターへ通っていた。

      平泳ぎ 50m 長水路 27秒65 2008年 ジャパンオープン 東京辰巳国際水泳場 日本記録
      平泳ぎ 100m 長水路 58秒91 2008年 北京オリンピック 中国・国家水泳センター 世界記録
      平泳ぎ 200m 長水路 2分07秒51 2008年 ジャパンオープン 東京辰巳国際水泳場 世界記録
      平泳ぎ 50m 短水路 27秒14 2007年 日本短水路選手権 東京辰巳国際水泳場 日本記録

 ■ 山崎一哉

      「03 09 子育ての要諦」 の中で、天声人語の記事を取りあげました。(再掲)

      横浜市の中学1年生、山崎一哉君が気象予報士に合格した。好きこそ物の上手なれという通り、幼時から図鑑
      を眺めるのが好きで、面白い雲を見つけるのが楽しみという。最年少記録の13歳7カ月にして「好き」と「上手」を
      重ねてみせた。

      94年に始まった予報士の試験に、年齢制限はない。合格率は平均6%の狭き門で、山崎君は小5から4度目
      の挑戦だった。抱負も「台風や大雨に慌てない予報士になりたい」と堂に入る。

人の成長期には環境が大事だということは、誰でも知っております。 百姓ならいい野菜を採ろうとするならばまず苗作りが大事なことだと知っています。 

『孟母三遷の教え』は聞いて知っていても、実践法には気がつかないものです。


  孟子の母は、子供の教育に適した環境を選んで居所を三度引っ越したという故事。

  故事:「古列女伝−母儀・鄒孟軻母」

   初め墓所の近くに住んでいたところ、孟子が葬式の真似をして遊ぶので市中に引っ越した。
   今度は商売の真似をするので学校の近くに引っ越した。
   すると礼儀作法を真似たのでそこに居を定めた。


『門前の小僧習わぬ経を読む』は聞いて知っていても、実践法には気がつかないものです。


  常に見たり聞いたりしていれば、知らず知らずのうちにそれを学び知るようになるということの喩え。
  環境がその人に与える影響は大きいということの喩え。 

  類:●勧学院の雀は蒙求を囀る 反:■習わぬ経は読めぬ


   『千住真理子』 については聞いて知っていても、その能力をどう伸ばしたのかわからないものです。
   『石川遼』 はテレビで見て知っていても、その能力をどう伸ばしたのかわからないものです。
   そして、どう能力を伸ばしたのか調べて真似ようと決意し実行するする人は少ないのです。

このことが「うっかり者」の重大なミスなのです。

ここへ取り出したのはこの頃、多くの人が知っている人を思いつくまま拾い上げた人たちです。 わかって実践しようにも、その年齢をすぎてしまったのです。 チャンスは二度と戻らないのです。

このことをどう解決していくかが、これからの私たちの課題なのです。

「個人によるインプット法」を整理してみると、次のように分析することもできます。


  運動、音楽、趣味分野    浅田真央(スケート)   タイガー・ウッズ、石川遼(ゴルフ)   北島康介(水泳)

                   千住真理子(バイオリン)

                   山崎一哉(気象予報士)

  子育て分野   (記録のあるもの)  カール・ビッテ〔要約した書物「早教育と天才」〕

                        ジツコ・スセディック〔市販された書物「胎児はみんな天才」〕

            (育児方式による)  「ドーマンメソッド」(「折々の記」で紹介。)

                        市販された書物 「子どもの知能は限りなく」
                                   「幼児は算数を学びたがっている」
                                   「親こそ最良の教師」

  ※ 運動、音楽、趣味分野の人たちの記録はタイガー・ウッズのものがあるだけです。できることなら、
     親たちの育児記録がほしいのです。


私たちは誰にしても、アマラ、カマラのようではなく、親に温かい愛情がこもった膨大な量の言葉がけによって育てられています。 大脳旧皮質の働きによって言語脳は猛烈な勢いで活性化されて誰でもが自国語をしゃべれるようになります。

この言葉がけが愛情に満ち足りたものかどうかとか、継続されてきたかどうかとか、計画的なものであったかどうかとか、発展的なものであったかどうかとか、そうした言葉がけの質や量によって千差万別の結果が生まれていたのが事実です。 少なくとも、現代においてはそうした科学的なともいえるような考え方によって、子供の大脳の成長とその能力が大きく左右されることがわかってきているのです。

この時期は命がはじまったときから大脳の旧皮質の働きと新皮質の働きがバトンタッチしていくまでの四年間、この時期がピークになっています。

絶対音感の習得にしても、言語発音の基盤確立にしても、人としての基盤ができるようになっているといいます。 老生がまとめたピアスのMagical Childの「人間が未熟児で生まれる、その自然の意図に添って環境を供与するならば、想像を絶する能力が育つであろう」という主張は、理解しなければならない大事な要点だと思います。

  ●人間が未熟児で生まれる、その自然の意図に添って環境を供与するならば、想像を絶する能力が育つであろう。
       [例]
       ・ウガンダの子育て     (「マジカルチャイルド」62〜65p参照)
       ・ジツコ・スセディックの胎教(「胎児はみんな天才だ」参照)
       ・カール・ビッテの教育   (「早教育と天才」15〜104p参照)
       ・ストーナー夫人の教育   (「早教育と天才」203〜278p参照)
       ・茨城科学万博のトマト栽培 (私製本「0歳教育」9〜13p参照)

子育ての基本的な形態は、繰り返しによる「個人によるインプット法」であるけれど、次の四年間(満三歳から満七歳)も、第一期の四年間(受胎から満三歳)に続いて大脳能力開発のきわめて大事な成長の時期です。

それでは次に移りましょう。


  A  方向性をもった組織の中で繰り返しによって能力開発をしていく「集団によるインプット法」で、
      才能資質を築き上げる方法もあります。



「個人によるインプット法」だけでは社会性を身につけていくことができません。 ですから個人の構築を基本としながらも社会的な感覚、能力も培っていくことが大事になります。

今年の大河ドラマ「天地人」を見て調べていますと、後年の直江景続にはじまる青雲の志は後々日本全体に広がった士族の藩校となって姿を現すことになりました。  そして、この気骨、この気風がふたたびその息吹を蘇らせる風潮になっています。

米沢藩の藩校「興譲館」は今では米沢興譲館高等学校となっていますが、この学校のホームページを開いてみると、学校長の挨拶の中に脈々と興譲館の精神が伝わっていることがわかります。


ごあいさつ

 本校の起源は、歴史を紐解けば、米沢藩の藩校にまで遡ります。学校沿革に拠りますと、元禄十年(1697年)6月15日、上杉五代目の藩主上杉綱憲は聖堂・学問所を建立、これが米沢藩学館の始めであるとあります。次いで、明和八年(1771年)5月2日、折衷学派の碩学細井平州が学問所再興を意図する藩主上杉治憲(米沢藩中興の祖である鷹山公)の招聘に応じて米沢に下向、松桜館において学生に講授し、これが、後の興譲館の始めである、とあります。さらに、安永五年(1776年)9月19日、平州は、落成した学館「興譲館」の講堂に於いて初めて『書経』を講じたとあり、本校では、この日を興譲館創立の日としています。

校名の「興譲」は、儒学の聖典『大学』の中の、「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興る)という言葉に由来します。

本校は、開学以来の、この興譲の精神を教育精神とし、現在は三つに分けて生徒たちに示しています。

  「一、自他の生命を尊重する精神。」

生徒たちには、自分の生命を愛おしみ、自分らしく生きることが、他者の生命や生き方を尊重することに他ならないことを知って欲しいと考えています。

  「一、己を磨き、誠を尽くす精神。」

生徒たちは、美しいものや人間の真実、永遠なる真理の前に謙虚に頭を垂れて、己を磨く人間であってほしいと考えています。

  「一、世のために尽くす精神。」

生徒たちには、志を高く掲げた生き方を目指して欲しいと思います。それは、自分の利益のみを追い求めるのではなく、世のため、人のためにあることを目指して生きる生き方であり、仮に世に認められること少なくとも、かく生きたことを、誇りをもって語ることのできる生き方だと考えています。

興譲館は、開学以来、国の内外に数多の人材を送り出してまいりました。時代は移っても、世に有為な人間を育てることを本校の使命として、学校経営に当たってまいります。


飯田から近いところでは伊那市高遠城址の進徳館がありました。 


この藩校からは伊沢修二〔明治近代教育開拓者、東京音楽学校(現芸大)初代校長、「小学唱歌集」生みの親〕、伊沢多喜男〔修二の弟、各県知事、台湾総督、東京市長-高遠城址公園に有名な「無字の碑」がある-〕、中村不折〔洋画家、書家〕、池上秀畝〔日本画家〕、中村弥六〔国際法の東大教授〕、坂本天山〔荻野流砲術と学問で知られ、西駒ヶ岳の前岳に石碑が残っている〕、高橋白山〔学者、信州教育の開拓者〕などなどを世に送り出しました。


江戸時代の藩校として岐阜県恵那市岩村藩の知新館がありました。


 岩村藩校・知新館は元禄15年(1702年)に藩主松平乗紀(のりただ)によって創立されました。美濃国においては最初の藩学であるばかりでなく、全国的に見ても藩学としては古く、十指に入ります。藩学の確かなものは全国で255校ありますが、設立の状況を時代的に見ますと寛文(1661年)から貞享年間(1684―1687年)期に設立されたものが4校、元禄(1688年)から正徳年間(1711―1715年)に設立されたもの6校、合せて10校にすぎません。知新館はこの10校のうちに入ります。

 全国の藩校の多くは享保以降の設立で、いかに岩村藩が早くから文教政策に重点をおいたかがわかります。

 別な資料では岩村藩より創立の古いものは、摂津有馬(兵庫県)の造士館、米沢(山形県)の興譲館くらいのもので、五指に入るといわれています。

 知新館が創立された頃の岩村藩はまだ2万石で、3万石になったのは享保20年(1735年)松平乗賢(のりかた・乗紀の子)の時代でした。2万石の小藩でありながら、全国的に見ても早くから文教政策に重点をおき、有能な藩士の育成を図り、松平氏代々の伝統的政策の基を築いた松平乗紀の先見の明には敬服のほかはありません。

 江戸時代に日本の学問をリードした林述斎、佐藤一斎等を岩村藩から出したことは決して偶然ではなく、元禄から知新館という藩学の土壌が培われていたからです。


こうして見てきますと、江戸時代の士族の藩校や庶民の寺子屋という教育機関は多くの人材を育ててきたことがわかります。

県歌『信濃の国』に謳われている飯田生まれの‘太宰春台’は、その著『経済録』のなかで次のように論じています。


 春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻からなっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。 春台は「学政」で次のようにいう。
 

「学政というは、学術の政令なり。天下国家を治むるには、人才を得るを先とす。人才は学問より出るなれば、天下の人に学問をなさしめて、人才の出る様にする政を学政という。‥‥およそ学政はただ人才を多く得るを要とす。人才は国家を治むる道具なる故なり」


では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それは、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台によれば、このような人物は学問をすることによって育成されるのである。だからこそ、学校という組織が必要なのである。
 

「学問なき者は、今日、目に見、耳に聞きたるばかりを知りて、遠き古の事、広き天下の事を知らざる故に、聞見狭く知識少なくして、一己の身を修め、小さき家を治むるにも是非に惑い、処置に惑うことあり。‥‥書を読み学問したる者は、この国に居りて異国のことをも知り、今の世に生まれて千万年の遠き古をも知り、聖賢の教えを守り、歴代の治乱、政事の得失を考えて、今日の時宜にしたがう、これ学問の益なり」


続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。
 

「今の世に、七八才以上の童子を師の所に集めて、物書くことを教え、小謳を教え、今川状、庭訓、式目などを読まして、九九八算などを教える如くなり。‥‥さて十五にして大学に入りて、先王の礼楽を学び、士大夫となりて朝廷に立つべき礼義を習う。‥‥総じて中華の風は、古より今の世に至るまで、学問才芸によりて立身して、庶民の子も爵禄を得て、富貴にも進むが故に、人々競って学問を励むなり」



太宰春台が活躍したのは1710年代、八代将軍吉宗の治世の頃です。 徹底した学問中心の人材論を展開しています。 しかし、ただ学問だけではない、「徳行才芸ある者」でなければならないと説いています。

福沢諭吉の「学問のすすめ」より遥かむかしのことです。

こうして見てきますと、江戸時代には生活の困窮とは別に教育機関というものについての認識が、みんなに染みわたっていたのだろうと思うのです。 庶民にとっての教育の意識は「読み 書き そろばん」として定着していたといえます。 これは昭和初期に老生もお寺に行ってお話しを聞いたり、皆と遊んだり、お菓子を頂いたりしたことが思い出されます。

こうした江戸時代からの藩校や寺子屋が人のモラルを養い大脳の諸能力を養ってきたことがわかります。

第二次大戦後、日本の目覚しい発展はなぜなのか、アメリカの調査団が日本へやってきて調べた結果、労働者にいたるまでのすべての人の教育の高さであると結論付けていました。 アメリカの分析力、考察力は優れていると驚いたものです。

それから、現代に必要だと考えて「その時歴史が動いた」が取りあげたと思えるのが‘白州次郎’でしょう。 彼がバックボーンとして堅持したのはケンブリッジで身につけたものでした。 このページには、‘その生涯を貫いたのは「プリンシプル、つまり原則に忠実である」という信念です。「まことにプリンシプル、プリンシプル、と毎日うるさいことであった」と正子は回想しています’とあるのです。

日本で「武士道」が大事にされていたと同様に、英国では「騎士道」が大事にされており、日本が教育機関として藩校をあげるとすれば、英国ではパブリックスクールをあげてよいでしょう。

このパブリックスクールについては、池田潔の「自由と規律」に詳しい。 古き善きものはそのまま踏襲する、それがジェントルマンを作り上げてきたバックボーンになっていたと思います。

さて、Aの繰り返しによって能力開発をしていく「集団によるインプット法」を整理してみますと、次のようにまとめていいと思います。


  ■ 海陽学園…全寮制の私立学校〔4/09,4/10,4/14〕

    ちょうど米沢興譲館高等学校が藩校「興譲館」の精神を受け伝えているのと同様に、イギリスの
    「パブリックスクール」の精神を受け伝えて全寮制の海陽学園を発足しています。
    * 多くのサイトがあるから、調べるとよい。

    海陽中等教育学校の建学の精神
        1  高潔で明朗闊達な人材の育成
        2  基礎学力の徹底した修得
        3  健全な身体、強靭な意思の涵養
        4  学問の楽しさを知る教養豊かな人材の育成
        5  日本の伝統・文化に立脚し、国際社会で活躍できる人材の育成

  ■ 興譲館高等学校(岡山県井原市)…嘉永六(1853)年創立

     米沢藩の興譲館を使ったのはなぜなのかわからないが、「白鹿洞書院掲示」を日常の教育活動
     の中に具現化し「人としての生き方、考え方」を教え、質の高い人間力を備えた生徒を育成する
     ことを目標としています。

  ■ 育児のグループ化

     一番望ましい方法は、数人のグループで能力育成を実践することです。



赤ちゃんの能力開発で大事なことを整理しておきますと、

一番目に大事なことは、日々の言葉の繰り返しを大事にしなければならないことです。

休んでいては息をしているだけの生活になることを知っていなければならないのです。

赤ちゃんは外部からの刺激に対応して大脳の活動や組織化や記憶化などあらゆる機能を自分で築きあげていくのです。 大人のように日曜休日だといって休んでいては、赤ちゃんはほったらかしにされていると同じなんですね。

二番目に大事なことは、理屈をさけて、事実だけを提示していくことです。 

鈴木鎮一さんは赤ちゃんは誰でもこの難しい日本語をわずか二〜三年でしゃべるようになる、ことにハッと気づいたと言っています。

ドーマンによるドッツ法でも、理屈は一切なくて事実だけを提供していくやり方だけで、赤ちゃんはちゃんとすべて理解し自分で算数数学の運用ができるようになるのです。

だから、赤ちゃんの能力を信じ、事実を提供することを基本にしていいのです。

三番目に、記憶の訓練をして定着させることです。

記憶の訓練は思考のプロセスを作りあげます。 その結果として連想する力をつけ、創造力を築きあげていくのです。 カードに書かれた言葉を言われたとおりに指示するときの赤ちゃんの表情は生き生きしています。

生き生きしているといえば、日々の言葉の繰り返しをしているときも、もう判っていていやにならない限り、赤ちゃんの目を見ていると、生き生きしています。

この目をしているときは赤ちゃんはその活動方式に全神経を動員して自分を創りあげているときです。 面白くて仕方がないときなのです。 このことは接するものの基本として知っていなければなりません。

赤ちゃんは同じことがいやになれば、よそを向いてしまいますから、このことも知っていなくてはいけないことです。 赤ちゃんとの対応の仕方は、接している人自身がわかってくることです。

四番目に、知っているかどうか、理解したかどうか、決してためしてはならないことです。

独りでやっていると、これでいいのだろうかとか、よその子はどうなんだろうかとか、心配になったり不安になったりしやすい。 でも、決して試してはならないといいます。 たしかに、試さなくても赤ちゃんはどんどん自分の能力開発をすすめているのです。

これは後になって明らかになってきます。

ですから、幼児教育の手法に自信をもち、 比べず、あせらず、休まず、 をモットーにしたい。



さて、育児のグループ化とはなにか? 

独りでスセディック育児法なり、ドーマン育児法なり、三石式育児法なり、さて実行していくとすると、いろいろと試行錯誤がおこってきます。 そして心配が広がってきます。 判らないこともでてきます。

これは誰でも子育てをしているとき生じてくる不安なのです。

この不安は適当に自分の判断に任せて最良と思う方法をとってかまわないのです。 それでも心配になるのであれば、ほっておいていい筈がありません。

自分の悩みに答えてくれる助言者をほしくなります。 だれでもそれを可能にしようとすれば、助言者が何人も要ることになります。 何人も見当たらないとすれば、自分たちでグループを作って「お互いが知恵をだしあい、体験をだしあい、励ましあう」ことが課題解決の方法になりましょう。

それが「グループ化」という手段なのです。

「グループ化」で考えたいことをあげてみます。

 グループ構成は七人が適当だといわれています。 これには根拠もあるんです。 
 全部が七人とはなりませんから、最低四人くらいがいいだろうと思います。

 共通意識にたつことが大事なので、基本的な育児法を決めなければなりません。
 そのために、次のような本を準備するとよいでしょう。

   「0歳教育参考資料」
   およその本は挙げてありますから、話しあって決め、手に入れたい。

   「私製本「0歳教育」」
   手元に残部がありますので、ほしい方は連絡してください。

   老生が感動したのはジツコ・スセディック「胎児はみんな天才」の実践力でした。

 グループ開催の回数や日時は各グループできめることがいい。 できれば週一回位か?
 会合の中身や場所もグループ内で決めればいいが、助言者を交えてがよいか?

 赤ちゃんの年月齢がまちまちになってもいいように、
 「お互いが知恵をだしあい、体験をだしあい、励ましあう」 ことを、
 理解しあうことが大事です。 わが子も、社会の人たちのために育てるのです。

今回のところ以上にします。