03 11(月) 子育て(0歳教育)の実践記録公開を |
@ 小さいときから一つのことを繰り返していく「個人によるインプット法」で、 才能開花を実現したという実例は、 一般に知られています。 |
孟子の母は、子供の教育に適した環境を選んで居所を三度引っ越したという故事。 故事:「古列女伝−母儀・鄒孟軻母」 初め墓所の近くに住んでいたところ、孟子が葬式の真似をして遊ぶので市中に引っ越した。 今度は商売の真似をするので学校の近くに引っ越した。 すると礼儀作法を真似たのでそこに居を定めた。 |
常に見たり聞いたりしていれば、知らず知らずのうちにそれを学び知るようになるということの喩え。 環境がその人に与える影響は大きいということの喩え。 類:●勧学院の雀は蒙求を囀る 反:■習わぬ経は読めぬ |
運動、音楽、趣味分野 浅田真央(スケート) タイガー・ウッズ、石川遼(ゴルフ) 北島康介(水泳) 千住真理子(バイオリン) 山崎一哉(気象予報士) 子育て分野 (記録のあるもの) カール・ビッテ〔要約した書物「早教育と天才」〕 ジツコ・スセディック〔市販された書物「胎児はみんな天才」〕 (育児方式による) 「ドーマンメソッド」(「折々の記」で紹介。) 市販された書物 「子どもの知能は限りなく」 「幼児は算数を学びたがっている」 「親こそ最良の教師」 ※ 運動、音楽、趣味分野の人たちの記録はタイガー・ウッズのものがあるだけです。できることなら、 親たちの育児記録がほしいのです。 |
A 方向性をもった組織の中で繰り返しによって能力開発をしていく「集団によるインプット法」で、 才能資質を築き上げる方法もあります。 |
本校の起源は、歴史を紐解けば、米沢藩の藩校にまで遡ります。学校沿革に拠りますと、元禄十年(1697年)6月15日、上杉五代目の藩主上杉綱憲は聖堂・学問所を建立、これが米沢藩学館の始めであるとあります。次いで、明和八年(1771年)5月2日、折衷学派の碩学細井平州が学問所再興を意図する藩主上杉治憲(米沢藩中興の祖である鷹山公)の招聘に応じて米沢に下向、松桜館において学生に講授し、これが、後の興譲館の始めである、とあります。さらに、安永五年(1776年)9月19日、平州は、落成した学館「興譲館」の講堂に於いて初めて『書経』を講じたとあり、本校では、この日を興譲館創立の日としています。 校名の「興譲」は、儒学の聖典『大学』の中の、「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興る)という言葉に由来します。 本校は、開学以来の、この興譲の精神を教育精神とし、現在は三つに分けて生徒たちに示しています。 「一、自他の生命を尊重する精神。」 生徒たちには、自分の生命を愛おしみ、自分らしく生きることが、他者の生命や生き方を尊重することに他ならないことを知って欲しいと考えています。 「一、己を磨き、誠を尽くす精神。」 生徒たちは、美しいものや人間の真実、永遠なる真理の前に謙虚に頭を垂れて、己を磨く人間であってほしいと考えています。 「一、世のために尽くす精神。」 生徒たちには、志を高く掲げた生き方を目指して欲しいと思います。それは、自分の利益のみを追い求めるのではなく、世のため、人のためにあることを目指して生きる生き方であり、仮に世に認められること少なくとも、かく生きたことを、誇りをもって語ることのできる生き方だと考えています。 興譲館は、開学以来、国の内外に数多の人材を送り出してまいりました。時代は移っても、世に有為な人間を育てることを本校の使命として、学校経営に当たってまいります。 |
この藩校からは伊沢修二〔明治近代教育開拓者、東京音楽学校(現芸大)初代校長、「小学唱歌集」生みの親〕、伊沢多喜男〔修二の弟、各県知事、台湾総督、東京市長-高遠城址公園に有名な「無字の碑」がある-〕、中村不折〔洋画家、書家〕、池上秀畝〔日本画家〕、中村弥六〔国際法の東大教授〕、坂本天山〔荻野流砲術と学問で知られ、西駒ヶ岳の前岳に石碑が残っている〕、高橋白山〔学者、信州教育の開拓者〕などなどを世に送り出しました。 |
岩村藩校・知新館は元禄15年(1702年)に藩主松平乗紀(のりただ)によって創立されました。美濃国においては最初の藩学であるばかりでなく、全国的に見ても藩学としては古く、十指に入ります。藩学の確かなものは全国で255校ありますが、設立の状況を時代的に見ますと寛文(1661年)から貞享年間(1684―1687年)期に設立されたものが4校、元禄(1688年)から正徳年間(1711―1715年)に設立されたもの6校、合せて10校にすぎません。知新館はこの10校のうちに入ります。 全国の藩校の多くは享保以降の設立で、いかに岩村藩が早くから文教政策に重点をおいたかがわかります。 別な資料では岩村藩より創立の古いものは、摂津有馬(兵庫県)の造士館、米沢(山形県)の興譲館くらいのもので、五指に入るといわれています。 知新館が創立された頃の岩村藩はまだ2万石で、3万石になったのは享保20年(1735年)松平乗賢(のりかた・乗紀の子)の時代でした。2万石の小藩でありながら、全国的に見ても早くから文教政策に重点をおき、有能な藩士の育成を図り、松平氏代々の伝統的政策の基を築いた松平乗紀の先見の明には敬服のほかはありません。 江戸時代に日本の学問をリードした林述斎、佐藤一斎等を岩村藩から出したことは決して偶然ではなく、元禄から知新館という藩学の土壌が培われていたからです。 |
春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻からなっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。 春台は「学政」で次のようにいう。
では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それは、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台によれば、このような人物は学問をすることによって育成されるのである。だからこそ、学校という組織が必要なのである。
続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。
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■ 海陽学園…全寮制の私立学校〔4/09,4/10,4/14〕 ちょうど米沢興譲館高等学校が藩校「興譲館」の精神を受け伝えているのと同様に、イギリスの 「パブリックスクール」の精神を受け伝えて全寮制の海陽学園を発足しています。 * 多くのサイトがあるから、調べるとよい。 海陽中等教育学校の建学の精神 1 高潔で明朗闊達な人材の育成 2 基礎学力の徹底した修得 3 健全な身体、強靭な意思の涵養 4 学問の楽しさを知る教養豊かな人材の育成 5 日本の伝統・文化に立脚し、国際社会で活躍できる人材の育成 ■ 興譲館高等学校(岡山県井原市)…嘉永六(1853)年創立 米沢藩の興譲館を使ったのはなぜなのかわからないが、「白鹿洞書院掲示」を日常の教育活動 の中に具現化し「人としての生き方、考え方」を教え、質の高い人間力を備えた生徒を育成する ことを目標としています。 ■ 育児のグループ化 一番望ましい方法は、数人のグループで能力育成を実践することです。 |