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折々の記 2009 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/11〜        【 02 】03/20〜
【 03 】03/25〜        【 04 】04/01〜
【 05 】04/08〜        【 06 】04/24〜



【 05 】04/08

  04 08 春の草花 : 甘茶の思い出
  04 09 「わたしの青秀庵 うろちょろ京都散策
  04 13 直江兼続関係史跡ガイド (南魚沼市・長岡市・上越市)
  04 15 恵那市の岩村町訪問
  04 20 画家の安野光雅
  04 22 歴史秘話ヒストリア…長谷川等伯「松林図屏風」

04 08(水) 春の草花 : 甘茶の思い出

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 【左 スギナ】
 【中 ハコベ】
 【右 レンゲソウ】









 スギナは早春、平地や山地に普通にみられる。 胞子茎は淡褐色の1本の茎で「つくし」とよばれ、食用となる。 栄養茎は緑色で、鞘状に合着した舌状葉と節のある枝を輪生する。

 ハコベは日本全土の道端や田畑などにみられる。 茎の先は斜め上に伸び、葉は卵形で先がとがる。 春の七草の一つ。 別名ミドリハコベ。

 レンゲソウは中国原産で、緑肥用に持ち込まれた。 春、10〜30cmに伸びて、花柄の先に多数の花をつける。 別名ゲンゲ、レンゲ。

 【写真】
 【左 オオイヌフグリ】
 【右 ホトケノザ】

 オオイヌフグリは道端や畑に群生し、3〜4月、直径1cmほどの青色の花をつける。
 オオイヌノフグリともいう。

 ホトケノザは葉柄のない仏座状の葉が数段つき、3〜6月、葉腋(ようえき)に紅紫色の花をつける。
 春の七草のホトケノザは本種ではない。

 スギナの画像がきれいで目を惹いたので、ジャパンナレッジの画像を取り込みました。 

 どうしてこんなように色彩豊かに再現できるのか、老生にはその科学的裏づけなどまるでわからない。 判ったほうがいいに違いないのだが、何をどう理解していけばいいのかさえ判らない。 結局はどう操作すれば美しい画像が自分のホームページへ取り入れることができるのかを知っていれば、すべては完了できることだけを知っていることで済ませている。



● 甘茶の思い出

年をとると子供の頃を思い出すという。 お釈迦様がいつ生まれたのか知らないけれど、五寸ほどのお釈迦様の像をたらいの真ん中に安置し、それに竹の節で作った柄杓で甘茶をかけ、甘茶を壜に詰めてもらって飲んだことは知っている。

伊久間の法運寺というお寺、この寺では学齢前の子供たちを集めて和尚さんが地域の子供たちの世話をしていてくれたのである。 そしてお釈迦様の誕生日に甘茶を子供たちに振舞ってくれたのである。 考えてみれば、和尚様というのはその地域での人望を集めていた人であった。

むかしはどこの家でも貧しい生活をしていても、のどかな心で生活をしていたことと察しられます。 

今で言えば、仏教の雰囲気や自然の中に生きる道教の雰囲気に包まれて生活していたように思います。 子供というのは貧富についての感情を持ち合わせてはいなかった。 懐かしい心の豊かな、のどかな子供時代でした。

甘茶の味は子供心の味だったのです。 和尚さん、即ち田中豊春先生は、勿論今はもういない。 和尚さんを知っていたものもだんだんと亡くなっていきます。 こうして甘茶の味も悲しいけれども消え去ってしまいます。

 【写真 ← from ‘http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E4%BB%8F%E4%BC%9A’】

灌仏会(かんぶつえ) ← from ‘http://www.e-butsuji.jp/butsuji6-2.html’

 4月8日。潅仏会は、お釈迦さまが生まれた日に営む法要です。花まつりとも呼ばれています。釈迦の生まれた地が花園であったことから桜などで飾った花御堂がつくられたそうです。

 日本では606年から潅仏会がはじまり、9世紀には宮中の儀式になっています。その後、徐々にひろまり、日本中の寺院で行われるようになりました。

 花まつりといえば、甘茶が有名です。花御堂のなかに安置された釈迦の誕生仏に甘茶をかけて誕生を祝います。これは釈迦誕生のとき、八大竜王が天から降りて香湯を注いだという故事に基づいた儀式です。

 江戸時代までは仏像の頭にかける湯は、沈香、白檀、甘松、丁字などの香を袋に入れて湯にひたしたものが使われていましたが、江戸時代から甘茶が使われるようになったそうです。甘茶はユキノシタ科の甘茶と呼ばれる低木の葉を乾燥させて煎じたもので、参拝者はひしゃくで仏頭に甘茶を注ぎます。甘茶を飲むと、無病息災が得られるとも信じられています。

   今日から <BODY> を <BODY BGCOLOR=#DCDCDC> に変更する。

   「わたしの青秀庵 うろちょろ京都散策」 〔http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/index.htm〕
   というHPのバックの色に魅せられたからである。



04 09(木) 「わたしの青秀庵 うろちょろ京都散策

きのうテレビで常照寺の桜が紹介されたので、調べてみるとわたしの青秀庵 うろちょろ京都散策というHPで載せていた。

自己紹介をひらいてみると、昭和16年生まれというから13も若い。 それでも67才のお爺ちゃんである。 それにしても「名所旧跡めぐり」はちっとやそっとの暇ではなかったはず、その努力にはほとほと感心します。

そしてこれらの写真が素晴らしいこととバックカラーの落着きが気に入りました。

( 目    次 )

【 わたしの青秀庵  うろちょろ京都散策 】


◎名所旧跡めぐり  ◎京の通り名の歌  ◎京の七福神めぐり  

◎京の十三仏霊場めぐり  ◎洛陽三十三所観音めぐり  

◎京の名水  ◎京の水々  ◎京で水琴窟を聞く

◎京の六地蔵めぐり  ◎京を描く

◎掲示板  ◎リンク  ◎自己紹介

04 13(月) 直江兼続関係史跡ガイド (南魚沼市・長岡市・上越市)

史跡の具体的な場所をマップファンネットへ赤印をつけて、車の行動計画を立てていると、なかなか時間がかかる。


04 16(木) 恵那市の岩村町訪問


 【岩村城】

         古  城

     松風さわぐ 丘の上
     古城よひとり 何しのぶ
     栄華の夢を 胸に追い
     あゝ仰げば侘びし 天守閣

     くずれしままの 石垣に
     哀れをさそう 病葉や
     矢弾のあとの ここかしこ
     あゝむかしを語る 大手門

     いらかは青く こけむして
     古城よひとり 何しのぶ
     たたずみおれば 身にしみて
     あゝ空行く雁の 声悲し


写真は北東に面した石垣で、苔むした石積を目の前にすると三橋美智也
の「古城」によって昔が偲ばれる。

ここは本丸の石垣で六段積となっている格好のいい石組みです。 手前の
石垣の間を左へ登って手前の石垣の高さの広場へ出て、さらに右の本丸
へは石段を折れ曲がって進む仕組みになっています。 

14日は天気が悪かったがきのうは天気がよく、カメラも心配がなくなって岩
村へ出かけることにした。 国道153号線の平谷から平谷川(矢作川上流)
沿いに国道418号線を下り、257号線へ出て岩村町へ行きました。

新木の実トンネルを抜けて少し下ると、岩村城へ行く裏道の入口標識があり、そこから城へ行きました。 この道は本丸へ行く裏道で本丸下の駐車場に通じています。

城へ行く道は岩村町からなだらかな斜面を登るのが正しく、昔の藩主邸から800mの標識が出ています。

藩主邸跡には歴史資料館がありますが、ここで「岩村城跡案内図」「城下町略図」(裏表一枚)を頂いて石畳をすすむのがいいのです。 各所に案内板があり、訪れる者にとってはありがたい。

おもな「案内板」は別に記載します。   【案内板を見る】



  【日新館・藩主邸跡】  























           日新館門        日新館               藩主邸太鼓櫓

見学すべてを終わってから、帰りに天気がいいのと桜の見事さに誘われてカメラに収めた一枚です。

   岩村城…【解説】
   三大山城(海抜721m)の一つ、女城主としても知られる…
   大将陣…【解説】
   歴史資料館
   藩主邸太鼓櫓
   佐藤一斉…【解説】
   佐藤一斉と知新館…【解説】
   佐藤一斉座像、言志録の石碑多数
   下田歌子…【解説】
   下田歌子勉学所、歌碑、銅像、顕彰碑
   三好学博士像
   城下町の旧家、木村家…【解説】
   城下町の旧家、浅見家・勝川家の【解説】も木村家のHP最後をasami,katsukawaにすれば見れます。
   鴨長明塚…【解説】

取りあげたものは岩村でについては承知したい事柄です。 老生にとって注目したのは「岩村城」と、人づくりにかかわる「佐藤一斉」と「下田歌子」の三つのキイでした。

オリンパス・デジカメ ‘OLYMPUS SP-565UZ’を入手して最初の撮影でした。 ズームを使わなかったのは操作を調べたりなかったからでした。 全部で89枚で、必要なときに拡大して鑑賞したいとおもう。


04 20(月) 画家の安野光雅


画家・安野光雅という人は老生より二歳年上の島根県津和野町出身です。 17日朝「生活ほっとモーニング」を見ていたとき、戦前戦後の回想を求められ、今百年に一度の金融危機という人がいるが今なぞ贅沢なものを三度食べテレビではやたらにお笑いをしているのを見ると、百年に一度などという言葉は具にもつかないと一笑されていた。

将に不安をかきたてている政治家の認識の甘さにハッと気づかされました。 時の流れを静観できなければ知識人とはいえまい。

テレビ番組の予定を見ると、こんなふうに紹介していました。



 独創的な水彩画で知られる画家の安野光雅(あんの・みつまさ)(83)が17日、NHK総合の生活情報番組「生活ほっとモーニング」(月〜金曜、前8・35〜)に生出演する。

 本紙連載中の「安野光雅が描く『日本のふるさと 奈良』」でモチーフにした奈良の風景への思い入れや、4年前に肺がんの宣告を受けてからの生活などについて語る。

 安野は島根県津和野町生まれ。戦後、小学校の教員を務めながら装丁やイラストを手がけた。昭和43年に「ふしぎなえ」で絵本作家としてデビュー。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの装画などをはじめ、出版した絵本などは200冊を超える。国際アンデルセン賞、菊池寛賞を受賞し、紫綬褒章を受けている。

 本紙連載では「大神(おおみわ)神社の日の出」「法隆寺と柿」「興福寺の阿修羅像」など奈良の風景や仏像などを描画した。奈良を題材に選んだ理由について「どこを見渡しても心打たれる美しさ。『日本の原風景』の理想であり、生まれ故郷の景色とも重なる」と語る。

 当初は雨天の際だけに描く心積もりだった仏像についても「(仏像)作者の創造性には頭が下がる」。

 安野は「がんになってから仕事が増えた。やりたいことをして生きていけるのは最高に幸せ」と前向き。「美しいと感じるものに出合い、描きたいというパッション(情熱)がわき上がり、ほれて描く画家の生涯を貫きたい」と意気軒高だ。(植木芳和)



安野光雅の紹介ではウィキペディア(Wikipedia)を開いてみるとよい。

また、次のような紹介もあった。

安野光雅さん(画家)
ざん新で遊び心あふれる絵や、淡い水彩で描いた風景画など、これまで数多くの作品を発表してきた画家・安野光雅さん。83歳の今も精力的に活動を続ける安野さんが、今、最も関心を寄せているのが奈良です。いにしえの美しさや、豊かな自然に囲まれた奈良の風景を描いていきたいと、安野さんは、1年にわたり作品を新聞に掲載しています。そんな安野さんですが、実は4年前に肺がんを患いました。以来、死を意識し、身の周りのものを片づけ、生き方を見つめ直したと言います。番組では、奈良での創作活動や、安野さんの想像力を育んだ故郷・島根県津和野への思い、人生で最も辛かったと語る戦争体験、そして、肺がんを患う今の心境などについて伺いました。また、スタジオには安野さんの作品もお持ちいただき、不思議で楽しい安野作品の魅力もご紹介しました。

04 22(水) 歴史秘話ヒストリア…長谷川等伯「松林図屏風」


エピソード1 等伯の絵が天下を変える?

高野山・成慶院に伝来する1枚の肖像画
室内なのにタカが描かれた、なにやら不
思議な肖像画だ。実はこの絵、30代の
等伯が戦国武将の武田信玄を描いたも
のとされている。

能登の国・七尾に生まれ、20代から地
元の人気絵師として活躍していた等伯
の運命が大きく変わったのは30代前半、
隣国・越前の朝倉氏から信玄の肖像を
依頼されたのだ。山形大学の宮島新一
教授の説に基づいてこの肖像画を見る
          松林図屏風(左隻)                                     と、新たな視点が開けてくる。
                                                           当時、急速に勢力を拡大していた織田
信長に対して、朝倉氏・本願寺・足利
将軍家は反信長勢力として団結。この
同盟に武田信玄を加えるにあたり、贈
物としての肖像画を等伯に描かせたと
考えられている。絵の中には、朝倉氏・
本願寺・足利将軍家を意味するものが
描きこまれ、反信長包囲網を象徴して
いるとされる。等伯はこの肖像画を通
じて、天下の権力者に仕えて御用絵
師になるという、絵師としての大きな野
心を抱くようになったのだ。

エピソード2 戦国絵師の仁義なき戦い

大徳寺金毛閣の天井に描かれた巨大
な霊鳥、「陵頻伽(かりょうびんが)図」は
          松林図屏風(右隻)                                     等伯51歳の作品だ。40代頃に京に移
                                                           り住んだ等伯は、大きな仕事を手がけ
るための人脈作りに奔走、10年近くかけ てついに千利休の知遇を得る。大徳寺の天井画も利休の庇護の下に手がけたものだった。しかし、この等伯の台頭を苦々しく見ていたのが、天下人や朝廷の仕事を独占していた絵師集団・狩野派の頭領、狩野永徳だ。等伯が御所の仕事を受注するに至って、永徳の怒りは爆発する。すぐさま永徳は政治工作を行い、長谷川等伯への発注はキャンセルされてしまった。美しい数々の絵の背後には、絵師たちの必死の戦いがあったのだ。

エピソード3 2つの国宝 等伯に何が?

大徳寺の天井画も利休の庇護の下に手等伯には、代表作とされる国宝が2点ある。金地に巨大な楓(かえで)を描いた絢爛豪華な「楓図壁貼付」と、それとは対照的に墨一色で描かれた幽玄な「松林図屏風」だ。2つの作品は5年と間を置かずに描かれたと言われている。等伯にいったい何が起こったのか?
ライバル永徳の急死によって、等伯に突然のチャンスが訪れる。秀吉の亡くなった愛児の菩提寺を飾る絵の注文が舞い込んだのだ。そして完成させたのが「楓図」。豊かな色彩やデザイン感覚を打ち出したこの傑作により、等伯は秀吉に認められる。しかしその直後、等伯は跡継ぎの長男・久蔵、そして秀吉の死に相次いで直面する。その頃描かれたのが「松林図屏風」。霧に煙る松林を描いたその画面は、故郷七尾の風景を思わせる。権力者のために描き続けて絵師としての頂点を極めた等伯が、家族や故郷を思う心の内を初めて描き出した絵画、それが「松林図屏風」だったと考えられている。



松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)は、長谷川等伯の代表作で、6曲1双の屏風画である。日本水墨画の最高傑作であり、日本美術を代表する名品。国宝。東京国立博物館蔵。

長谷川等伯が祥雲寺障壁画(現・智積院襖絵)を完成させた頃、息子の久蔵が26歳の若さで亡くなり、その悲しみを背負って描いたと言われる。樹木の描き方には、等伯が私叙した牧谿の影響が見られるが、もはや模倣の域ではなく完全に自己の画風に取り込んでいる。等伯の生まれ育った能登の海浜には、今もこの絵のような松林が広がっており、彼の脳裏に残った故郷の風景と牧谿の技法と結びついて、このような日本的な情感豊かな水墨画が誕生したと言えよう。

右隻の右2扇分と左4扇分との間、左隻の右3扇分と左3扇分との間に紙継ぎのずれが見えるため、もともと下絵として描かれていた可能性もある。継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形の構図になっており、丁度のその延長上の両端に落款が押されている。

本作品が世に知られるようになったのは、比較的新しく昭和7年(1932年)のことである。その後直ちに国宝に指定されており、この作品の高い画質が与えた衝撃の強さを物語っている。1997年には、松林図屏風とそっくりな作品が発見されており、等伯にごく近い絵師が本作を模倣したものと推定される。



Wikipediaの「松林図屏風」では、‘日本水墨画の最高傑作であり、日本美術を代表する名品’ と紹介しています。

芭蕉に代表される俳諧における‘わび’‘さび’の世界、平家物語、徒然草に代表される無常観の世界、日本仏教に共通する五蘊皆空という仏教哲学観の世界、これらとともに一連の東洋独特の生活観念の一角をなしているのが水墨画でありましょう。

これはまた、尺八、竹軸の横笛、和琴、などの楽器をもとにした音楽にも東洋的な特色があるといえましょう。

生活そのものの中に自然との融合を可とする意識を本来持ち合わせているようです。

茶道、華道、茶室、庭園、家屋、それらすべてに独特のニュアンスを求めているようです。

してみると、天地人の上杉謙信が求めたものも「義」に代表される仏教哲学観の世界でありました。 かの不識庵という名号も林泉寺八代目の益翁宗謙(ヤクオウシュウケン)大和尚の薫陶によって自分からつけた号だといいます。

そのいきさつは 「上杉謙信公と禅」 を開くとわかります。


  挙(こ)す。 梁(りょう)の武帝、達磨大師に問う。 “如何なるか聖諦第一義 (しょうたい だいいちぎ) (仏教最高の真理)

  磨云く “廓然無聖(かくねんむしょう)(秋の雲一つ無き、澄んだ青空のごとく、特別これが尊いなどというものは何も無い。すべては仏のお悟りの世界そのものだ)

  帝云く “朕(ちん)に対する者は誰(た)そ” (朕に相対する者は一体何者か。おんみとて尊き生き仏ではないのか)

  磨云く “不識(ふしき)(しらぬ)

  帝契(かな)わず、遂に江を渡り、少林に至って面壁九年 (めんぺきくねん) (壁に向って9年間座禅をした)