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折々の記 2009 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/11〜        【 02 】03/20〜
【 03 】03/25〜        【 04 】04/01〜
【 05 】04/08〜        【 06 】04/24〜



【 04 】04/01

  04 01 SoftBank 携帯電話の購入 historia放映始まる
  04 02 辰巳会
  04 04 妻女山・雨宮渡・勘助墓の見学 : MYRTEN-65 コンサート

04 01(水) SoftBank 携帯電話の購入 historia放映始まる

● SoftBank 携帯電話

会合や旅行で家をはなれてから家内との連絡をしたいとき、携帯電話があるとよい。 このまえauの家族割引携帯電話を利用していたが、あまり使う機会がなかったので期限切れになっていた。

あらためて俊成に継続の話をしてみると、家族割引ではなく SoftBank携帯電話 二年契約なら一ヶ月1000円足らずの基本料金で利用できるということがわかった。

ゆうべ、それを調べてみると夫婦して二つ利用しても、購入費用なしで利用できることもわかった。 さらに夫婦間の通話であれば経費がかからないという。



  ヒストリア放映始まる


4月1日から毎週水曜日22:00から45分間・渡辺あゆみ担当

☆「ヒストリア」とは“HISTORY”の語源。ギリシャ語で「探求」「物語」「明らかにする」。“秘密の物語を明らかにする”という題名です。

枠タイトル「歴史秘話ヒストリア」は、「歴史を作るのは1%の大事件と、99%の秘話」をキャッチフレーズに、歴史番組の新たな可能性を探る企画名。 美しいCGの異空間で歴史秘話を語る“歴史姫”のナビゲートで、個性的で意外なショートストーリーの数々を紹介し、歴史の秘話の魅力を楽しんでもらう、いわば日本史版「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」です。

概要

大阪局では以前から、通常の『その時歴史が動いた』とは違ったアングルで歴史の側面を描くドキュメンタリー番組をいくつか制作してきた。それは番組の放送が長期化したことに加え、担当する松平定知が高齢化し定年延長の後退職した2007年12月から「番組契約出演」に移行したこともあり、その後継となる番組の候補を見つけ出すためであった。

まず、2008年7月23日に“番組たまごトライアル2008”の一環で『その時-』の特別編として放送された。このときの放送内容は、当時放送されていた大河ドラマに関連した企画となった。

内容が好評だったこともあり、2009年度の編成見直しで『その時-』の後番組として正式に採用された。4月1日に放送開始。テーマ曲は梶浦由記が担当。

放送時間

本放送  総合テレビ 水曜 22:00 - 22:45
再放送  総合テレビ 翌週水曜 16:05 - 16:50
       BS2 翌週水曜 8:15 - 9:00

パイロット版の概要

サブタイトル:  幕末 殿様たちの恋・夢・涙
放送日時:   2008年7月23日 総合テレビ 22:00 - 22:43
内容:      当時の大河ドラマ『篤姫』に登場する老中首座・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬、大老・井伊直弼の3人を
          ターゲットとし幕末時代の殿様方は普段何を考え、また恋や夢、仕事に悩んでいたかを描く。
ナビゲーター: 池澤春菜(声優)
語り手:      上田早苗アナウンサー(2008年6月に大阪局へ異動、阿部正弘編担当)
          小澤征悦(俳優、島津斉彬編担当。『篤姫』では西郷隆盛役)
テーマ曲:    『in the land of twilight,under the moon』(梶浦由記作曲/『.hack//sign』サウンドトラックより)

スタッフ

主なキャスト:  渡邊あゆみアナウンサー(日本語センター出向中。基本的に前番組のスタイルを踏襲し、収録ごとに大阪へ移動)

サブタイトル

第1回 - 愛あるケンカ 武士の世をひらく 北条政子 源頼朝 夫婦の革命 (2009年4月1日)

  産経ニュース

 NHKの人気歴史番組として9年間放送された「その時歴史が動いた」の後番組として、4月1日から始まる「歴史秘話ヒストリア」の記者会見が同局で開かれました。

 会見には同番組を担当する渡邊あゆみアナウンサーとプロデューサーが出席。プロデューサーは「その時〜」も担当していた方ですが、「『その時〜』は叙事詩。出来事を通して歴史を描いていた。それに対して今回の『歴史秘話〜』は叙情詩。人の気持ちから歴史を描いていきたい」と説明。

 渡邊アナは「歴史を身近に引き寄せるには、登場人物の心情に寄り添えるかどうか。私たちの日常生活と同じように、100年前も1000年前も同じように日々営んでいたということが分かれば、もっと歴史が近いところに来るのではないか。時代を身近に感じていただければ」と期待感を話していました。

 4月1日の第1回放送は「愛あるケンカ 武士の世をひらく〜北条政子・源頼朝 夫婦の革命〜」。ナビゲートする渡邊アナが着物姿で出てきますが、「知り合いの老舗の人が写真を見て『すごくいい着物だ』と言われたのですが、実際には着物の古着にCG用の緑の布を張り付けて、安く作っている衣装なんです」と“秘話”を公表。

 着物については、「着物の下に着るものも省略しているのですが、着付けの人に『裏地もなければ長襦袢も着ていないなんて、これは着物なんて呼べない!』なんて怒られてしまいました。本当の着物好きが見たらアレ?と思うかもしれませんが、でも動きやすくていいんですよね。仕事着としてベスト。O脚も気にしなくていいですし」とも、笑いながら告白していました。

 それから、「完投140『Q』」という言葉がスタッフ内部にあるのだとか。これは、元NHKアナで昔は渡邊アナとニュース番組でコンビを組んでいた「その時〜」の松平定知アナが発した言葉とのこと。

 ナレーション撮りの際に、「キュー」、つまりスタッフからの出だしの合図が番組1回分につき約140回もあるそうで、それは「ナレーションの量としては膨大で、読み手としてはチャレンジングなことなんです。『NHKスペシャル』でも140回はないですね。そんな結構しんどいことを、松平さんはやってきたんだなあ、と」と渡邊アナ。「私も私なりの140Qを、いろいろな読み方でやってみたい。先輩の松平アナに負けないように」と、抱負を話していました。

 最後に、もう1つ秘話を。

 この番組ポスターで、渡邊アナの後ろで座っている十二単の後ろ姿の女性。この方、渡邊アナの娘さんなのだそうです。娘さんは「20は過ぎている」そうですが、「ポスター撮りの時に休みでヒマそうにしていたので、『ちょっと手伝って』と言ってノーギャラで来てもらったのですが、ずっと着物姿でカメラマンから『もっと扇を下に』とか言われて意外と大変で。撮影中はずっと娘のゴキゲンを取ってましたよ」と明かしていました。

 今夜もお読みいただき、ありがとうございました(松平アナ調で)。

※ちなみに「その時歴史が動いた」の最終回は18日放送です。

※「歴史秘話ヒストリア」は、2回目は上杉謙信、3回目は安土桃山時代の絵師・長谷川等伯、4回目は同志社創立者・新島襄の妻で個性的な人生を送った新島八重を取り上げるそうです。
<2009/03/16 23:55>

04 02(木) 辰巳会

飯田市長姫の三宜亭、4:30から辰巳会(同級会)です。

今年は飯田市の当番で、毎年やっているので出席者は少ないようです。 この辰巳会という名前は大平雅司君がつけたのだが、彼はもう亡くなって何年にもなる。 同級会は60回余にはなるだろう。

春らしい雰囲気はもう昔のこと、夏らしい溌剌とした活動時代も昔のこと、秋らしき実りのときも過ぎ去ってしまった。 いまはもう、草木も枯れる冬の老年期になった。

静かな余生といえば聞こえはいいのだが、ポツリポツリと懐かしい人が亡くなっていく。 

04 04(土) 妻女山・雨宮渡・勘助墓の見学 : MYRTEN-65 コンサート

この日始めてETCを組み込んだ軽自動車で松代まで走った。 当然のことながら、「料金は千円です」とアナウンスされた。

時間が遅くなっていたから予定変更して「妻女山」、「雨宮の渡し」、「勘助の墓」を見ることにした。 妻女山は標識が出ていて判りやすかった。 

 【デジカメ→妻女山から飯綱山・川中島方面を望む】

展望台の解説板はこう説明している。

 1561(永禄4)年9月10日(現在の暦では10月28日)、八幡原を中心とする川中島平の広い範囲で武田・上杉両軍による4回目の戦が行なわれた。

 上杉軍は8月16日に13,000の本隊を率いて海津城を眼下に見ながらここ妻女山に着陣した。 一方、海津城を守る高坂弾正からの援軍要請をうけた武田軍は20,000の兵を率いて8月29日に海津城に入った。 両軍とも過去3回にない多数の兵を動員し決戦の準備に臨んだ。

 武田軍は山本勘助の進言により兵を二手に分け、主力である12,000の兵を夜中妻女山へ向かわせ、残り8,000の信玄の本隊が八幡原でこれを迎え撃つ作戦をとった。 いわゆる「きつつき戦法」と呼ばれるものである。 これを察知した上杉軍は夜中に山を下り、千曲川の雨の宮の渡しや犀川を渡って川中島平に出て夜明けを待った。 この夜は霧が深く、夜明けとともに霧が晴れた瞬間、両軍がすぐ間近に遭遇することになった。 上杉軍の予期せぬ「車がかりの戦法」に劣勢となった武田軍は苦戦し、信玄の弟信繁、諸角豊後守、山本勘助らが戦死した。 その後、妻女山からの別働隊の参戦によって形勢は逆転し、上杉方も多くの戦死者を出し退却した。

 直接対決を避けてきた信玄がこの戦で多くの犠牲をはらいながらも上杉軍を押し返したことで川中島一帯は信玄の支配下となり、上杉を頼った村上義清、高梨政頼は信濃川中島への復帰の願いをたたれる結果となった。

   ただ12,000の上杉軍が海津城の武田軍に知られずこの山に来ていたというのは信じられない。
   一般には「のろし」などを使って敵の動勢を自陣に知らせることは当時の常識だったから、このことは解せないのです。

   ここの便所は掃除をした形跡もなく、観光地としてははずかしい。



 【デジカメ→「雨宮之渡」石碑と秀】  千曲川の流れは右に寄ったり左に寄ったりしており、川中島の戦当時はこの辺りが右岸だったのでしょう。 随分右に寄っていたものです。

    不識庵機山を撃つの図に題す  頼山陽 作

        鞭聲粛粛夜過河     鞭聲粛々夜河を過る

        暁見千兵擁大牙     暁に見る千兵の大牙を擁するを

        遺恨十年磨一剣     遺恨十年一剣を磨き

        流星光底逸長蛇     流星光底長蛇を逸す   吟詠

解説板「史跡雨宮渡案内図」によると、鳥瞰図とともに次の説明が載っている。


川中島合戦と雨宮渡

 雨宮渡は、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点であり、戦術戦況を左右する場でもあった。

 史上名高い川中島の戦いは、天文22(1553)年から永禄7(1564)年までの間に、戦いは5回あった。 その最大の激戦が永禄4(1561)年の9月9日夜半、上杉謙信は敵武田信玄の策略を事前に察知し、人馬ともに声なく鞭声粛々とこの雨宮渡を渡り川中島平に兵を展開し、主力同士の戦いが両雄一騎打ちで知られる第4回の八幡原の戦いである。

 今は当時の要衝雨宮渡も時変わり星移るにつれて、千曲川の流れも来たに移り、往時をしのぶよすがもない。 これを地元先覚者は惜しみ、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽の直筆を得てここに碑を建立し、渡河地点を保存す。




 【デジカメ→「山本勘助の墓」】 ここから松城町に戻り、松代文化ホールの駐車場へ車を留め、「丸新本店」でそばのお昼をとる。 ここのソバは格別の美味さであった。 お店のご主人に山本勘助の墓のありかをお聞きすると、要領よく道順を教えてくださった。

お聞きしたとおりに車を走らせていくと、すぐ見つかった。 

お墓のそばにいた人に「ありがうございます」と挨拶されて面食らった思いでしたら、お聞きすれば調べていた吉池さんその人でした。

ここで他の三人としっしょに墓の由来や説明をお聞きすることができました。 そしてその話は、詳細なものでした。 

印刷物を受け取ってみますと、説明してくださった方の祖父、吉池忠治さんこそ、山本勘助の実在が云々されていたのに対してその反論に心を砕き、証拠文書を収集、「甲越川中島戦史」を編纂出版された人でした。

めったにない幸運に恵まれ、この日は充実感に満たされました。 この本を注文することにしました。



 【 左 デジカメ→「孫の涼羽と爺婆」】  【 右 デジカメ→松城文化センター】

加納悟郎(歌曲伴奏)氏に学ぶ伴奏者の会として‘MYRTEN’が発足し、第65回のコンサートがここ松代文化センターでひらかれた。 それに招待されて出かけたのです。

  Vocal 遠田  歌子    Piano 児玉 淳子   ショーソン
  Vocal 福田百合子    Piano 加納 悟郎   ドビュッシー
  Vocal 下平  真弓    Piano 児玉 淳子   ラフマニノフ
  Vocal 中澤  恵子    Piano 森山 純子   マーラー
  Vocal 竹内  直美    Piano 加納 悟郎   シューベルト

真由美さんは、星の女神のようで歌唱は素晴らしかった。

デジカメは失敗だった。 

「あぐりの湯こもろ」〔泉質/ナトリウム塩化物泉 効能/リウマチ性疾患・創傷・婦人病・慢性湿疹・更年期障害等〕 で夕食をとり、入浴して帰る。 夕食では涼羽と同じ‘カレー’にした。

五日は涼羽、真介、爺婆の四人で小諸遊園地で遊ぶ。 11時半ころお暇して帰宅の途につく。




帰命尽十万無擬光如来  〔親鸞上人十字名号〕  

十字名号は、十方世界に遍満する阿弥陀仏の光明の徳が衆生をよく安心成就
せしめる姿を表し、初期真宗教団の中で広く本尊として依用されてきたものです