| 04 01(水) SoftBank 携帯電話の購入 historia放映始まる |

| 04 02(木) 辰巳会 |
| 04 04(土) 妻女山・雨宮渡・勘助墓の見学 : MYRTEN-65 コンサート |
【デジカメ→妻女山から飯綱山・川中島方面を望む】
【デジカメ→「雨宮之渡」石碑と秀】 千曲川の流れは右に寄ったり左に寄ったりしており、川中島の戦当時はこの辺りが右岸だったのでしょう。 随分右に寄っていたものです。雨宮渡は、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点であり、戦術戦況を左右する場でもあった。 史上名高い川中島の戦いは、天文22(1553)年から永禄7(1564)年までの間に、戦いは5回あった。 その最大の激戦が永禄4(1561)年の9月9日夜半、上杉謙信は敵武田信玄の策略を事前に察知し、人馬ともに声なく鞭声粛々とこの雨宮渡を渡り川中島平に兵を展開し、主力同士の戦いが両雄一騎打ちで知られる第4回の八幡原の戦いである。 今は当時の要衝雨宮渡も時変わり星移るにつれて、千曲川の流れも来たに移り、往時をしのぶよすがもない。 これを地元先覚者は惜しみ、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽の直筆を得てここに碑を建立し、渡河地点を保存す。 |
【デジカメ→「山本勘助の墓」】 ここから松城町に戻り、松代文化ホールの駐車場へ車を留め、「丸新本店」でそばのお昼をとる。 ここのソバは格別の美味さであった。 お店のご主人に山本勘助の墓のありかをお聞きすると、要領よく道順を教えてくださった。
【 左 デジカメ→「孫の涼羽と爺婆」】 【 右 デジカメ→松城文化センター】 十字名号は、十方世界に遍満する阿弥陀仏の光明の徳が衆生をよく安心成就 せしめる姿を表し、初期真宗教団の中で広く本尊として依用されてきたものです |