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続折々の記 2021③
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 08 】05/01
        平和の遠大な構想を掲げよう   17条憲法
        ユネスコから読みとるもの   ユネスコ憲章前文

平和の遠大な構想を掲げよう
   17条の憲法 日本の初めての憲法をまず学ぶこと
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「以和為貴」
いろいろの思想や論理をたずね、その根底になっている人の心の持ち方を読み解いてみると、すべてが一つの糸に集まっていることにたどりつきました。 その糸の束ねは和の心でした。

宗教にはいろいろの考え方がありますが、共通している基本は和の心でした。 哲学にしても、政治にしても、倫理にしても、科学にしても、文学にしても、家庭にしても、いろいろの考え方がありますが共通している基本は和の心でした。

どのような人と議論したにしても、人として持つべき心の最高位には和であることに間違いはありません。 私がたどりついた価値観の最高位に位置する言葉でした。

人によっては愛であると言い切る人もいます。 人によっては生活する最低限の経済的収入だという人もいます。

人が多くいると、集団の決まりが大事になってきます。 意見が異なる場合にはどう解決すればいいのでしょうか。 これが家庭でも、地域でも、村でも県でも国でも、昔からの人がもつ命題かもしれません。

意見の違いはどこから生まれるのでしょうか。 このことは誰でも徹底的に考え抜かなければなりません。 考えた末に何が残るのでしょうか。

ある程度のところまでは共通する意見の人たちもいます。 意見の違いは話し合ってもどこかで妥協してしまいます。 多くの場合、ある程度の妥協する方便が必要になってくることも事実です。 誰にしても人のもついろいろの特性があります。 この特殊性は排除して議論してはなりません。 すべて特殊性にするような考えでは、集団としてのきまりが成り立たなくなりますから、 特殊性ということで除外を多くしてもいけないのです。

課題に戻りますが、意見の違いはどこから生まれるのでしょうか。

私が到達した「意見の違いはどこから生まれるのか」の結論は、人ばかりではなく生物そのものはすべて、環境の相違によって異なるから、意見の相違も育ってきた環境によって違ってしまうということだと思います。

環境によって生物すべての成長や反応は相違してきますから、この例はあらゆるものに実証されているのです。

アマラ、カマラのように狼によって育てられた人間は、両手両足で歩き真夜中になってうなり「ゥオーーーッ」と咆哮するのです。 農家の方は野菜の種をまきいろいろと面倒をみないとその野菜はとんでもなくなることを体を通して知っています。 テレビを通してわかるのですが、小さい体格の女の子が世界一のジャンプ女王に輝いたのは、親の指導と本人の努力によってそうなったことも誰でも知っていますね。 うら若い少年が将棋七段に輝いたのも驚くほかありません。

子どもは親の環境次第でどんなようにでも変わって育っていきます。 はたち過ぎての環境設定では成長や反応は子供時代の成長や反応のようなわけにはいきません。 「三つ子の魂百までも」<https://matome.naver.jp/odai/2139446140423601501>という日本には古来の諺があります。 このURLを開いてみても間違いなく環境によって成長や反応が位置付けられていることが納得できるでしょう。

ユネスコから読みとるもの
   ユネスコ憲章 前文をまず学ぶこと
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中核1
 戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
Since Wars began in the minds of men. It is in the minds from men that the defences of Peace must be constructed.

中核2
 ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。

The great and terrible war which has now ended was a war made possible by the denial of the democratic principles of the dignity, equality and mutual respect of men, and by the propagation, in their place, through ignorance and prejudice, of the doctrine of the inequality of men and races;

私たちは、この無知と偏見という翻訳語からくる解釈の意味に齟齬(ソゴ=(~スル)物事がうまくかみ合わないこと。食い違うこと)をきたしていると思います。

無知 ignorance 情報や知識が不足していること
          (~についての)無知 (~を)知らないこと
          (ワードパワー英英和辞典による)
偏見 prejudice (特に~の人種、宗教、性別に基づく場合、~への好きではない
          または信用できないという、強くて道理に合わない感情)⇒
          偏見、先入観、悪感情
          (ワードパワー英英和辞典による)

これはユネスコの中核になるバックボーンです

戦争時代の卒業を願いとする私にとっては、戦争の原因になっているものは何かを、心の持ち方とその中身、すなわち「知らないということと我流に固執した偏見が戦争の原因だという結論として、端的にそして明確に表現した宣誓書だと思います。

ユネスコ(国連教育科学文化機関)憲章は、1945年11月に国連教育文化会議で定められました。 翌年11月に憲章が発効(力・働きが発生すること)すると ともに、国連(国際連合)の専門機関として、ユネスコが発足しました。

私が時事通信社発行の「ユネスコの解説」を手に入れたのは、青年師範の三年生の冬だったと思います。 年の暮れが迫った12月、下宿の檀田地籍の弥勒庵の近くに浅川小学校に勤めていた老先生から、「クリスマス前夜祭をしませんか」と誘われて佐々木賢明さんと先生の下宿へ参上した時、老先生の紹介でユネスコ憲章があることとその概要を知ったのがきっかけでした。

早速注文して手に入れた本です。

当時の出版事情を考えると、1946年の11月発足したばかりのユネスコ組織であり、日本での出版は1948年ですから1年ちょっとで出版された本です。 本の出版が戦後始まったばかりの仙台ユネスコ協力会の本だったのです。 冒頭の句が全身に染みこんだのも当然だといえば当然だったのかもしれません。 それは新鮮な、そして論理的で格調高い表現だったのです。


日本ユネスコ協会連盟のあゆみ  http://www.unesco.or.jp/unesco/role/

仙台から、パリのUNESCO本部へ。

世界初の民間ユネスコ運動を伝える第一報は、障子紙に書かれていた。

世界で最初に、民間ユネスコ運動がはじまった国は、日本だった。それは戦後間もない1947年7月19日のこと、まず仙台でユネスコ協力会が産声をあげ、すぐに京都、神戸、大阪と続き、全国各地に協力会が次々に誕生した。

当時は、食糧さえ不足する厳しい生活事情であったにもかかわらず、国内の民主化を求める声とともに、平和と文化の国際協力への運動が盛り上がっていた。すでに同じ年の11月には、東京の日比谷公会堂で「第1回日本ユネスコ運動全国大会」が開かれている。大会当日は、会場に入りきらない大勢の聴衆が、場外スピーカーの声に熱心に耳をかたむけるほどの盛況だった。

「仙台ユネスコ協力会」の創始者の一人である土居光知は、当時のUNESCO(パリ本部)の事務局長あてにメッセージを起草。
これが、日本の民間ユネスコ運動を世界に伝える第一報なったが、その手紙は戦後の窮乏生活のため、土居宅にあった障子紙に書かれていた。

日本から世界へと広がっていった民間ユネスコ運動。いまでは世界118カ国で5000を超えるユネスコ協会やユネスコクラブが活動を続けており、また、仙台が民間ユネスコ運動発祥の地であることを記念して、モロッコのカサブランカに「センダイ・パーク」という名の公園が残されている。


温故知新の教え

私は第二次大戦に土浦の予科練生として参加した。 戦争をした軍隊に籍を置いた少年だった。 昭和20年4月茨城県の土浦航空隊へ入隊し、6月10日の土浦爆撃に出会い、その後千葉県の茂原海軍航空基地(http://www.shimousa.net/kaigunkichi/mobara.html)へ出むき掩体壕造成の任務につき敗戦となってから土浦へ戻り、8月末除隊となって帰郷することとなった。

合 掌 の 心     2018 08 26

忘れもしない36災害、その頃の一人の女性から数年前に手紙をいただいた。 人生においての感謝をしみじみ心に刻んでいるという内容であった。

もう70歳くらいになる。 どういう心境なのかは書いてなかった。 住所も書いてなく、名前は昔のままFとしたためてあった。 さもあらんと私も彼女の心根に感動したのだが返信は出せなかった。 そんなことが時々思い返されてきた。

話は違うが、28歳のころ冨士見の公園にある伊東佐千夫の万葉仮名をつかっての句碑を拓本に取ったことがあった。 その後山間の浪合につとめていたとき、春秋の季節によって山肌の色合いの変わりようが素敵だったのを見ていて、伊東佐千夫の句を思い出したのです。

それは

  寂志左乃 極尓堪弖 天地丹 寄寸留命乎 都久都九止思布

  さびしさの きわみにたえて あめつちに よするいのちを つくづくとおもふ

でした。

これについては次のような記録を残しています。

窓辺から (45:4:15)

  寂しさのきわみに耐えて天地に
         寄するいのちをつくづくと思ふ     左千夫

 学校の教室から、流れゆく小川に迫っている小さいいくつかの山の稜線、それにこの山あいに造られているダムにたたえられてた水面を眺めていると、左千夫がうたった詩が頭に浮かぶ。日本の山水のうつくしさは古来、人の情緒を温かく抱擁していることが偲ばれる。

 左千夫がなにを意味していたかわからないけれど、私は感傷的な意味あいのものてはなく、弱い人間が自然にむかい謙虚な心持ちで一歩さがって自然を賛美し、そしてそうしている自分をしみじみ感ずる、というように思う。人というものは思うように生活できない極めて弱いものであるから、それを自分で悟りその寂しさにじっと耐えて、天地自然の雄大さに自己を托して泰然として生きてゆくことができる自分を、自然がある故にそうできる自分の幸せをたたえていくことができよう。

 この詩には誇張も感じられないし、他にはたらきかけようという気持ちも感じられない。私がこのように受けとめたせいか、気持ちのよい詩である。

 浪合の山や川は私にそのような気持ちをすなおに投げかけてくれる。窓辺の感じをわすれるのが惜しく、しるす。

私は、今まで長い間に見たり、聞いたり、考えたりしてきました。 今では朝起きてから居間のカーテンを開け、玄関の戸締りを外して、そこにある4つ5つの植木鉢の葉にふれ、下駄箱の上にある小さな石の地蔵様に合掌するのです。 そして 「分子のレベルではみんな同胞なんだと思い、人も生物もその生涯でいろいろの “もの” を残し、自分の役目を閉じて(ただ人は自分が残したものを文化だと言って)逝くのだ。 自分はこうした自然の働きによって今まで生かされてきたのだと気づき、合掌するのです。

植木鉢の花たちは水を注いであげずにいると、「かなしてな」と言っています。 水差しで水を注いでやると、次の朝は 「元気ですよ」 と言っているのです。 細胞レベルでは同胞だと感じています。

合掌の心というのは、小さいことでもいい自分にとって一つの有難い気持ちになったときに合掌の心と思います。手を合わせてもいいし、形になくてもいい。 よく考えてみると、生活そのものは合掌の連続によって成り立っていると思います。 合掌

生きるためには他の生命を奪う 矛盾

「絶対矛盾的自己同一」という言葉を聞いたことがあるだろう。いま google で検索してみると、<底本:「西田幾多郎哲学論集III」岩波文庫による、索引解説>には次の記述が載っており、
時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多 ..... かかる意味において自己自身を形成する形が、歴史的種というものであり、それが歴史的世界において主体的役目を演ずる ...
さらにURLをクリックすると、青空文庫による全文を読むことができる。 だが西田幾多郎さんの説明は難しすぎて何のことだかわからない。

それで「絶対矛盾的自己撞着」という言葉で調べると、高坂正顕さんの解説のなかに
西田幾多郎先生の追憶: 西田幾多郎没後50周年記念
https://books.google.co.jp/books?isbn=492452039X
高坂正顕 - 1996
世界が世界自身を限定する根本形式が矛盾的自己同一としての永遠の現在、絶対現在なのである。世界はこのようにして、時間即空間、 ... 我々は絶対矛盾に撞着することによって、却って死して生きる道が開かれるのである。先生はそれを一と多の矛盾的自己 ...
という「絶対矛盾的自己撞着」の言葉がうかぶ。 青年のころどうしたことかこの「自己撞着」という言葉が残っていた。

一昨日注文しておいた半藤一利さんの「歴史と戦争」が届いた。この本は ‘ 暴走する権力者。熱狂する国民。繰り返される戦い ’ という小文字と ‘ 歴史に学ぶことは、なぜこんなに難しいのか ’ という副題がついていた。
戦争時代の卒業を目標としていた私には、匕首あいくちを突きつけられたような思いでした。
人は生死の極限(=Hamletの to be or not to beにあたる)に出会ったとき、相手を蹴飛ばしてでも生きようとする。 私は少年のころ天竜川べりに家があったから年長者の泳ぎを見て泳ぐことを身につけていた。 13才のとき溺れた友達を救おうとした。 だが、溺れた友達は必死になって私にしがみついた。 浮きつ沈みつし……これはヤバイと感じたのか友達を蹴飛ばしていた。 あとになって恥ずかしかった。 大人になってから命を救われたとお礼を言われたが、なんとも間が悪かった。

別の話だが、昭和20年6月10日は土浦海軍航空隊は爆撃で破壊されつくした。 この日は航空隊警備の任務で指令部トーチカの近くに避難していた。 初めての爆撃に耳を覆った。 第一練兵場では引き返し爆撃で身近に何発もの爆弾が破裂した。 並木謀君は負傷し、私は当座の手当てをして彼を助けようとした。 折からまたもや総員第二練兵場へ至急退避せとの軍刀をかざしての厳命が下った。 私は彼を畑のように土がやわらかになった場所に彼を寝かせて第二練兵場へ退避した。

爆撃後の兵舎は崩れ、焼夷弾による火の手はあちこちからあがった。 航空隊はこの爆撃で跡形もなく使用不能になり、同じ千葉県の茂原航空隊へ移ることになった。 並木君はどうなったのか、消息は途絶えたまま今に至っている。 左手首の破片による彼の苦痛の表情も、彼は気が付いていなかったと思われる左太もも裏をえぐられた大きな傷も、私の脳裏からは離れてはいない。 復員してからは人には一切このことを話さなかった。 自分を責める気持ちもあったし、戦争そのものが残した彼の両親を思うにつけ、語ることもできなかった。

人ヘの思いやり、戦争の拒否、混ざり合ったそのままの感情はそのまま今に至っている。 Hando Kazutoshi さんの「歴史と戦争」はそのまま私の中に混在しているのです。

アフリカのライオンがシマウマを襲う。 それは生きものの矛盾そのものであるし、私が焼肉料理が好きなのも生きものの矛盾そのものである。 だが、人が人を殺すという戦争は、明らかに「思いやり」とは矛盾そのものなのです。

「温故知新」現実の実相を理解することはとても大事なことであり、そのために命を懸けることも人の生き様です。 だが、現実の実相から将来展望するのに、矛盾そのままの過去の軌道修正は私たちにとっては、かけ甲斐のない大切なことなのです。

北朝鮮と韓国は同じ言葉を使い同じように過去を担っている民族です。 戦争のない、争いのない国の統一のために日本人としても協力しなければ平和はこないのです。 「戦争放棄」を毅然としてアピールした日本国憲法の心は、今どこへ行ってしまったのだろうか。 小銃も戦車も戦闘機もすべては人殺しの道具であり、それをすことずつ認めてきた私たちの心は、どうなってしまったのだろうか。

この矛盾をどうすればいいのか、一人一人の心に今決断が迫っているのです。

自分で旧皮質へのインプットしたもの 宿業

宿業というと仏教用語だということで理解されている。 では何か、というとどうも誰しもはっきりしない。 Google で宿業 意味を調べてみても、ピッタリこない。 宿業の意味 - 歎異抄講読<http://tannisho.a.la9.jp/13_SyukugouImi.htm>ここにはちょっと腑におちる意見がみられた。 お釈迦様は後世の仏典で扱う宿業などという言葉は使わなかったに違いない。 だからこんなことは苦にしなくてもいい。

それよりも、子供の日の朝日新聞第一面「学校行かず、ゲーム16時間 ネット依存症」の記事を見て驚いたのは私一人ではなかったと思う。 新聞記事は次の通り。
 歴史的な寒波が東京を襲った1月下旬、都内在住の女性(44)は自宅アパート前にとめた乗用車で夜を明かした。車内は零下8度。息で窓が真っ白になった。でも、自宅に戻るのが怖くて寒さに耐えた。

 自宅には、面倒をみている当時中学3年の男子生徒(15)がいた。学校にも塾にも行かずに家でスマートフォンのゲームばかりしているのをとがめたら、キレて襲いかかってきた。

 「うるせえ」「死ね」

 髪をつかまれてひきずり回され、殴る蹴るの暴行を受けた。身の危険を感じ、家を出た。

 暴力は日常茶飯事だった。肋骨(ろっこつ)にひびが入ったり、腰を痛めて動けなくなり救急車で運ばれたりした。椅子を投げつけ、壁や家具はボコボコだ。

 男子生徒は「ゲームにはオーラがある」という。はまっていたのはキャラクターを集めて育て、対戦させるオンラインゲーム。常にバージョンアップされて新しいキャラが次々に登場し、終わりがない。ネットを介して見知らぬ人とつながり、一緒に戦ったり敵になったりする。「まったく飽きなかった」

 ゲームを始めたのは小学5年の時。当時同居していた母親にスマホを買ってもらった。いじめられて不登校になり、暇つぶしで始めた。当初は罪悪感があったが、2カ月もするとゲームが生活の中心になった。「学校で嫌な同級生と顔を合わせるより、家でゲームをしている方が楽だった」

 ゲームに費やす時間は1日16時間。昼過ぎに起き、まずサイトで特別に点数を稼げたり、希少キャラが登場したりするイベントの時間帯をチェックする。それからおにぎりをほおばり、ゲームを始める。イベント前に夕食を済ませ、翌朝5時まで没頭。食事中も片手でゲームを続け、スマホを手放すのは入浴中だけだ。

 たまに学校に行ったが、授業にはついていけず、同級生とはうちとけられない。ゲームが話題の時だけ「ここまで達成した」と言うと、同級生たちから「スゲー」と感心された。ますますゲームがよりどころになっていった。

 そんな男子生徒にいらだちを募らせた母親とは怒鳴り合い、殴り合うようになった。中学生になると母親の元を出て、別居していた父親と暮らし始めた。しかし、父親も生活ぶりを受け入れられず、見かねた女性に引き取られた。
この状況は単なる事例ではなく、大なり小なりあちこちの家庭で起きているのではないか。 近隣の社会の大人の問題とはならず、地教委の大きな課題ともならず、学校内の課題ともなってはいない。 取り返しがつかない深刻な日本の課題です。

私たちは東洋の智慧を学んできました。 「隗より始めよ」という言葉がある。 それにはこのURLが参考になると思います。
  
隗より始めよ」の話の現代語訳

燕の人々が太子の平を擁立して君主としました。 これが昭王です。 昭王は戦死者を弔い生存者を見舞い、丁重な言葉使いと礼品を用意し賢者を招こうとしました。王は郭かく隗かいにこう尋ねます。「 斉は、我が国、燕が乱れているのに乗じて襲ってきて我が国をやぶりました。 わが燕は小さな国で斉に報復する力がないことはよくわかっています。私はぜひとも賢者を得て共に国務に励み、それによって先代の王の恥をすすぎたいのです。先生、ふさわしい人物をお教えください。その方を師として学びたいと思っています」。

郭隗はそれに答えて、
「昔、ある君主が大金を出し使用人に駿馬を買いに行かせたそうです。ところがこの使用人は死んだ馬の骨を五百金で買って帰ってきました。君主が怒り出すと彼は『死んだ馬の骨でさえこんな大金を出すなら、それを聞いた人は生きている馬ならもっと高く買うに違いないと思うはずです。駿馬はすぐにも手に入りましょう』と言うのです。やがて一年もたたないうちに三頭の駿馬が手に入りました。今、王がぜひとも賢者を招きたいと思われるならば、まずはこのわたくし、隗からお始めください。さすれば私よりも優れた者が千里の道も遠しとせず、王に仕えるためにやってくるでしょう」と言うのでした。

そこで昭王は郭隗のために彼の屋敷を建て、郭隗を師としてその教えに耳を傾けるようになりました。こうするうちにやがて賢者たちが争って燕にやってくるようになったということです。

「いいだしっぺからはじめろ」という。 自宅前零下8度の自家用車の中で一晩寝たという、この母親はどんな子育てをしたのでしょうか。

「親に似ぬ子は鬼子」という言葉がある。 親に似るというのは、どの時期をいうのでしょうか、このことを知っていましたか? 実は私は知らないで過ぎてしまったのです。 親になる前に教育機関でこのことを教わらなければならないことが、その後よくわかってきたのです。 私の知るかぎりでは、義務教育なりその後の教育機関なりには、この教育をしているところがありません。 物質文化の変化や科学文化の日進月歩のはやさは素晴らしいものでした。 ところが、わが子をどう育てるのかについては、社会生活上での組織体では何の教育もしてきませんでした。

近江聖人ってだれと聞かれても判らず、中江藤樹といっても知らず、ましてその母親の教育観となればなおさらのことです。 松下村塾や吉田松陰の名前を知っていても、幼少時から叔父玉木文之進の厳しい指導によって教育されたことはあまり教わってはきませんでした。

教育は百年の大系、という言葉を耳にしています。 だが、子供の教育大系にしても教え導き方については何も改善されてきませんでした。 時代は進み、経済生活に追われるようになって、わが子をほったらかしている親が増えてきているのです。 それは無理もないことで、子供をどう導き、どう育てたらいいのか、まったく教えられずに親になってしまう社会になってきたからです。

それでも、本来親が赤ちゃんに対しての尽きせぬ愛しい情緒ゆえに、先人から学び取ったり、家族の子供の成長を願う考えからわがこをりっぱなひととして育ててきた多くの人たちがいました。 また、育児教育のあり方についてのいろいろの提案がありました。 でもそれは、個人任せにゆだねられていたことで、全体社会を見通しての提案ではありませんでした。

キタキツネの愛情にしても、小鳥が猛禽類の攻撃をされるための心がけなど、動物の親子の愛情の根源に係わることは、数多くの書籍や映像によって私たちを啓蒙しつづけてくれました。

こうした今までのことを考えてきても、社会全体から見ますと、まさにテンデンコに任されてきていたというほかありません。 子どもたちの姿を見てみると、校内暴力に始まって学校の先生たちは何をしているのかという批判に傾きました。 さらに進むと、一人の子供をみんなでいじめる風潮に代わってきました。 文科省てはいろいろと指導対策の方法をうちだしてきましたが、収まる気配はありません。 今度はさらに進んで、子供の虐待という悲惨の社会問題が多発するようになり、不登校の子供から登校拒否へと泥沼化したいると読み取れるのです。

根底となることは何か?

それは一部の親の、子供養育指導の無関心が、事の起こりだと私は考えています。 ではどうすればよいのか。 ことは、一部の親の問題でかたつくものではなく、地域社会全体の問題にかかわってきます。 考えなければならない課題は何か、思いつくままに挙げてみます。 だが、これはみんなで話し合って課題解決の全貌をつかまなくてはなりません。

  自分とは何だろうか?
  子どもはどのように自分を築き上げているのか?
  教育とは何のことか? 指導とは何のことか?
  絆とは何のことか? 過去から何を学べは良いのか?
  喬木村ではどういう道筋を目指したらよいのか?

子どもは母親の胎内で命をいただいてから、自分の大脳皮質の遺伝子の伝承するままに成長を遂げてきていたのです。 おなかの中にいるうちから大脳の記憶活動が始まっており、言葉にしても音楽にしても親が体験しているすべてのことを取り込んで成長しているのです。

生まれてからも嬉しければにっこりし、腹がへったりウンコが出たりすれば声を出して連絡しているではありませんか。 大脳は猛烈な能力とスピードによっての記憶回路が出来上がってくるし、五感の働きも親が考え及ばぬ分野と深さを備えて自分を築き上げているのです。 絶対音感も難なく記憶できるし、欧米人の r と l の識別や発音も何の苦もなく身につけてしまうのです。 東北弁の方言もそのまま苦もなく身につけてしまうのです。 こうした不可思議な大脳活動は4~5才前後に無くなっていきます。

この大脳の活躍時期に母親は何をしていたのだろうか。 社会制度ではこどもが満三歳になると保育園へ行くようになっている。 生まれてからの丸三年間その家庭の人たちは何をしていたのだろうか。

社会制度では今までは何も規定はなかった。 子育ての学習も標準になるようなことはなかった。 この時期の幼児教育については現代社会の一大欠陥なのですが、それはさておき、子守歌は歌わなかったのだろうか。 昔話をしてあげなかったのだろうか。 桃太郎の話をしなかったのだろうか。 おててつないでの歌を歌わなかったのだろうか。 いないいないバーもしなかったのだろうか。

子供に絵本を買ってお話してあげなかったのだろうか。 ここで、いちいち言うまでもないのだが、赤ちゃんの幸福を願って知能の開発や人としての躾、遊び、お歌などなど、三年間に何をして育ててきたのだろうか。

自分とは何だろうか「我思う、ゆえに我あり」 2018 05 11

この命題は、昔からの課題でした。

自分という意識はどう始まってどう終わるのか。

生命科学はいろいろと生命に関することを明らかにしてきました。 私が青年時代の知識レベルと比べると、格段の進歩をとげ驚くしかありません。 「我思う、ゆえに我あり」の課題は昔からの哲学的課題だったと思います。

「我思う、ゆえに我あり」を検索していると【ざっくり1分】まとめのサイトがある。 それを開くと、<Home >モチベーション雑学 > 我思う、ゆえに我あり>が現われます。
「我思う、ゆえに我あり」は、哲学史上もっとも有名な言葉の一つです。
近代哲学の父と呼ばれるフランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1650)の著書「方法序説」の中に登場します。

デカルトは、絶対的な真理を求めて全てを徹底的に疑った(これを方法的懐疑と呼ぶ)。
疑わしいものを全て疑って、どんなに疑っても疑えないものが残るなら、それは真理と言えるのではないかと考えた。

そうして、少しでも疑いのあるものを排除していったところ、今現在そのように疑っている自分の思考だけは排除できなかった。
つまり、その思考をしている自分だけは確かに存在する、ということに気がついた。

「自分は本当は存在しないのではないか?」とどれだけ疑っても、「疑っている私」という存在は疑うことはできない、というわけです。

だから、「自分はなぜここにあるのか」と考える事自体、自分が存在する証明である。

それをデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言ったのです。
ラテン語では「コギト・エルゴ・スム」と言います。

これは、自分という存在や意識というものの発見であり、ここからまた新たな思想や哲学が生まれていくことになります。

哲学の問題は別として、自分という意識は大脳の旧皮質の働きから新皮質の働きへの移行あたりから、自我意識は始まっていると私は考えています。

この移行時期のことを初めて目にしたのは、恥ずかしながら、40才を過ぎてからのことでした。

テンデに生まれて死んでいく「人も雀もアリゴも」 2018 05 29

05 27 この日は1905年の日本海海戦のあった記念日だった。 敬愛するZ先生が亡くなった。 明日の葬式です。

野性味のある伊久間言葉を多分にもちつづけた一人であった。 人にへつらうことなく、年下の者へもへだたりない独自性があった。 今流にいえば平等感を多分にもちあわせた人柄に特徴があった。 私がそうした影響があったのか、今でも伊久間言葉が身についているし、自分でも気恥ずかしい思いがする。

人はそれぞれの特質をもっている。 その特質を比較するような狭量さは、持つべきではない。

この先輩は、極めて端正な性分をもちあわせていたと言ってもよい。

モーゼの十戒 ウソを言ってはいけない

日本の宰相はウソを言っている。 そのために、財務官僚はとんでもない目にであっている。 それとともに官僚の倫理観をへし曲げてしまった。

モーゼの十戒を開くと、こんな解説がでている。


モーセの十戒

モーセの十戒(十誡、じっかい、ヘブライ語: עשרת הדיברות‎、英: Ten Commandments)とは、モーセが神から与えられたとされる10の戒律のこと。

旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれており、エジプト出発の後にモーセがシナイ山にて、神より授かったと記されている。

十戒の内容は神の意思が記されたものであり、モーセが十戒そのものを考え出し、自らもしくは他者に記させたものではない、とされている。出エジプト記本文では神が民全体に語りかけたがそれが民をあまりにも脅かしたためモーセが代表者として神につかわされた、とされる。シナイ契約、または単に十戒とも呼ばれる。二枚の石板からなり、二度神から渡されている。最初にモーセが受け取ったものはモーセ自身が叩き割っている。

正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合

  1.主が唯一の神であること
  2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4.安息日を守ること
  5.父母を敬うこと
  6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  7.姦淫をしてはいけないこと
  8.盗んではいけないこと
  9.隣人について偽証してはいけないこと
  10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと

1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。

ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教ではイエス・キリストの復活の日である日曜日を「主の日」と呼び、日曜日を主日として礼拝している。


「軌道修正」間違ったら直せ 2018 07 27

子曰、過而不改、是謂過矣。 出典:『論語』衛霊公第十五29

今朝起きると朝から蒸し暑い。 なんだもんで?  地球の温暖化のせいだ。

人は宇宙空間へ人工衛星を打ち上げて科学の真相を知ろうとして科学的知識を進めてきた。 ちょっとの設計ミスや方向指示のミスによって、打ち上げに失敗したりあらぬ方向に向かってしまう。 失敗したら次の設計では、細部の点検ミスや計算ミスの修正は必須となる。 人工衛星には軌道修正が欠かせない条件となる。

地球温暖化は、なんだもんで?  今までの間違いがあればそれを直さない限り元に戻ることはなくなる。

人はウソを言ってはいけないと同様に、間違ったらやり直さない限りその間違いが続く。 論語の教えでこのことも耳から入っている。

お釈迦様はどうして出家したのかも教えられた。 親鸞聖人は「歎異抄」で ‘善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや’ と説いた。 自分は善人だと思っている人だって、芥川龍之介が「蜘蛛の糸」で自分の思いを表出し自分自身の内部崩壊を痛烈に感じて命を絶つにいたっている。 哲学者西田幾多郎の「禅の研究」 ‘絶対矛盾的自己同一’ の立脚地は、三人の子供の死、母と妻の死に直面し生きる死ぬという極限の境地にたっての彼の心情吐露のことばだった。 夏目漱石の「心」を中核とした彼の実存意識の表出として「則天去私」の言葉がうまれた。

間違ったらなおせ !!  上に簡単に書いたとおり、私たちの先人はそれぞれ自分が今おるところの一番奥深いところに、考え方や意思の根っこをすえていたと私は思っています。 それまでに辿りつくのに考え方の軌道修正は日々の生活の中でおこなわれていたと思います。

私たちが年を取るほどに生きる死ぬという生涯の締めくくりの思いを、てんでに持ちたいものと思うのです。

私たちが道義的な生き方とか倫理的な生き方とかとことん考えてみると、どうしても生きるということは、死をのりこえなければ不可能なことだと認めなければならないのです。 私たちは植物の命を食べ生物の命を食べなければ生きていけないからです。 「絶対矛盾的自己同一」の言葉をお借りして「絶対矛盾の自己撞着」の立場に生まれながらに立たされてきています。

私は「お天道様」に手を合わせます。 あの光り輝きは something great (何か壮大なエネルギー)によってこの地球上の生き物を生き続けさせているからです。 いうならば太陽神であります。 すべての恵みの源は太陽あってのことと改めて思い知ることとなったからです。

身近な方、本島武治さんからは「人は三つの恩に報いなければならない」と教えられました。 命の泉、それは神ともいうし SOMETHING GREAT ともいう。 生命科学が極められてきて、命の発生にはじまって命の伝承が 明らかにされてきて、母親が子供を産むけれど子どもの手の指一本にせよ髪の毛一本にせよ自分で創ったわけではなく、摩訶不思議な大自然の力というのか神の力というのか、それに報いることが一つ。

二つ目の報恩とは、人は自分で大きくなったわけではなく、おっぱいの一滴に始まり乳作りからお粥や離乳食、など食べるもの飲むものすべて母親が精魂をこめて元気に育つことを願って努めぬいてきたことへの感謝報恩。 さらに寒さの夜は風邪をひかぬように暑さの夏は食あたりに気を配り、体の具合が悪いときはいろいろと心配し、寝ずの看病にれを忘れる苦労をかけてきたことへの恩返し。 年を重ねるとともにそんな親の心配を何も考えることなく大きくなってきたことに少しずつ気づき、孝行の「こ」の字にも当たらない自分の身勝手さを悔やむようになるのです。 だから何でもいいから、親を大事にしなくてはならないというのです。 男親はまさに働きバチの任に当たってきたと思います。 家族の生活全体について気を配り黙って家族が進んていく方向を熟慮し全体の軌道修正もしてきたと思います。 そこには処世の根源となる何らかの規範が誰しも持たされてきたと思うのです。

そして三番目の報恩は、人様への恩返しでした。 鉛筆一本にせよお皿一枚にせよ、着るものから勉強の対象になるものすべてにわたって、現代生活の技術とその成果の恩恵は、数えあげるまでもありません。 大きく言えば人類の文化すべては、人様の一つ一つのそれぞれの技術の失敗と習練の連続による成果の結晶なのです。 ですから、短くなった鉛筆一本にせよ古くなったお皿一枚にせよ、質素倹約という言葉の中身の理解をし、文化の細かい部分であってもいいから細かい事象に手をつけて何かを作り上げるようにしたいものです。

私たちはいろいろの恵みものに取り囲まれ、その恩恵に目を注ぐことをおろそかにしないように暮らしていきたいのです。