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  02/26 憲法改正議論  
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 02 26 (月) 憲法改正議論     騒がれる改憲を調べてみる

関係記事


■教えて!憲法 基本のき
 1 安倍首相「改憲は党是」(2018/2/6)
 2 「最高法規」に反する法律(2018/2/8)
 3 「立憲主義」ってなに?(2018/2/9)
 4 各章に何が書かれているの?(2018/2/9)
 5 国民主権・基本的人権の尊重って?(2018/2/13)
 6 9条と自衛隊の関係、どうなっているの?(2018/2/14)
 7 憲法は押しつけられたの?(2018/2/16)
 8 なぜ改正されなかったの?(2018/2/17)
■憲法を考える 自民改憲草案
 ハンガリーで読む:上 「伝統回帰」似通う思想(2016/6/14)
 ハンガリーで読む:中 国民「まとめあげる」道具に(2016/6/15)
 ハンガリーで読む:下 「美しい国」立憲主義とは距離(2016/6/16)
 「保守」の論理:上 「自民党的な思想」の総括(2016/6/7)
 「保守」の論理:中 近代立憲主義と別の憲法観(2016/6/8)
 「保守」の論理:下 票にならない、語らない(2016/6/9)
 義務:上 権利に条件、「国家の従業員」か(2016/5/25)
 義務:中 空気読み黙る「和」、いまも(2016/5/26)
 義務:下 国民にも「尊重せよ」、何のため(2016/5/27)
 自由:上 責任・公の秩序、自覚求める(2016/5/19)
 自由:中 「ほどほど」では、自由でない(2016/5/20)
 自由:下 自分の自由、吟味する覚悟も(2016/5/21)
 個人と人:上 人権、削られた「獲得の努力」(2016/4/26)
 個人と人:中 「利己主義」の抑え役、本来は(2016/4/27)
 個人と人:下 「すごい日本人」像、私を縛る(2016/4/28)
 家族:上 個人より「家族」、消えた2文字(2016/4/19)
 家族:中 「助け合い」実態見ずに期待(2016/4/20)
 家族:下 女性の地位向上は個人主義?(2016/4/21)
 公の秩序:上 国民向け「道徳」、条文に(2016/4/12)
 公の秩序:中 生き方規定、息苦しくないか(2016/4/13)
 公の秩序:下 少数派を守るのが立憲主義(2016/4/14)
■憲法を見る眼(1)
 第1回 「押しつけ憲法論」を考える (2000/9)





■憲法を考える/押しつけって何?
 1 生い立ち様々、各国で知恵(2016/11/4)
 1 64年 調査会、評価踏み込まず(2016/11/4)
 2 「自分ではない者」探し、迷走(2016/11/5)
 3 「すべて国民」範囲どこまで(2016/11/6)
 4 9条改正論にも米の意向(2016/11/9)
 5 戦前の家制度、廃止の契機に(2016/11/11)
 6 自由の範囲、実践で決まる(2016/11/12)
 7 真に押しつけられてるのは(2016/11/15)
■憲法を考える
 自衛隊を明記するとは 元内閣法制局長官・阪田雅裕さん(2018/2/7)
 国民投票、経験国からの警鐘 首相退陣に追い込まれた英伊を視察、衆院議員団報告書(2018/1/30)
 改憲するか、決めるのは国民 法律上の改正手続き…ケンポウさんに聞く(2017/11/28)
 「改憲」ってなんのために? 本来はどうあるべきか…ケンポウさんに聞く(2017/10/31)
 参議院の性格、位置づけは 都道府県の代表とし「合区」解消する案(2017/9/26)
 「9条」をこじらせて 篠田英朗さん、大澤真幸さん(2017/9/12)
 釜ケ崎に憲法はあるか 憲法研究者・弁護士、遠藤比呂通さん(2017/8/29)
 「全体の奉仕者」どこへ 政治学者・牧原出さん(2017/7/25)
 「核保有、否定されず」脈々 政府解釈「必要最小限なら」、学者から疑義(2017/7/25)
 自衛隊、変わる受け止め方 「日陰者」から大震災通して「最後のとりで」に(2017/6/27)
 自衛隊追記、その先に危うさ 9条改正論 集団的自衛権、新条文で拡大も(2017/5/30)
■この人に聞く
 船田元・自民党憲法改正推進本部長代行 発議は早くても19年に(2017/6/15)
 高木義明・元文科相 反対一辺倒より積極議論(2017/6/14)
 横路孝弘・元衆院議長 70年、今の憲法で支障なし(2017/6/13)
 遠山清彦・公明党憲法調査会事務局長 自衛隊明記、簡単ではない(2017/6/9)
 下村博文・自民党幹事長代行 改憲向けギアチェンジを(2017/6/8)
 石破茂・元防衛相 まず「3分の2」私の趣味じゃない(2017/6/7)
 報道、これでいいのか 石橋学さん、林香里さん、山崎拓さん(2017/5/23)
 国の財政を律する 藤井裕久さん、片桐直人さん(2017/5/16)
■施行70年
 施行70年 条文、柔らかく(2017/5/29)
 施行70年 性的少数者、憲法に守られた 「宿泊拒否」違法判断から20年(2017/5/28)
 施行70年 獅子舞、かなえた「平等」 参加許されず、差別受けた地区(2017/5/22)
 施行70年 子どもの権利は 平湯真人さん、増田ユリヤさん、荒牧重人さん(2017/5/5)
 施行70年 憲法は芸術だ 作家・作詞家、なかにし礼さん(2017/5/4)
 施行70年 憲法、岐路の70年(2017/5/4)
 施行70年 現在地:下 分断、変質する「私たち」(2017/5/4)
 施行70年 日本国憲法の運命 東京大学名誉教授・長尾龍一さん(2017/5/3)
 施行70年 現在地:中 平和、「非軍事」失い骨抜き(2017/5/3)
 施行70年 国民あっての憲法論議(2017/5/3)
 施行70年 たどる、制定の原点(2017/5/3)
 施行70年 憲法、人生の中に(2017/5/3)
■改憲の足音
 1 絵を描く未来、奪った戦争 (2018/1/8)
 2 国際貢献、どこまで安全なら (2018/1/9)
 3 自衛隊明記案、向かう先は (2018/1/10)
 4 自由な暮らし、9条あるから (2018/1/11)
 5 議論を敬遠、憲法アレルギー (2018/1/12)
 6 平和憲法、沖縄は置き去り (2018/1/13)

2016年5月19日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・自由:上
責任・公の秩序 自覚求める
   http://mokuou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_91.html

 自由ってなんだ?

 自民党憲法改正草案12条には、こうある。「国民は、これを濫用(らんよう)してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」

 説教くさい。

 迷惑かけない「当然のこと」

 あなたたちは自由です。でも濫用はだめ。責任と義務を自覚しなさい。公益及び公の秩序に反してはいけません - 。条文に新たに付けられたタイトルは「国民の責務」。自民党はQ&A集で説明する。「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです」

 当然のこと・・・。あれ? この言葉のトーン、「あの時」に似ている。20年前の光景を、ふいに思い出した。

 「そんなわがままは社会で通用しないぞ」

 小学6年の夏。私が「中学で坊主にはせんから(しないから)」と切り出すと、先生からこんな答えが返ってきた。通うことが決まっていた岡山県倉敷市立の中学校は「男子は丸刈り、女子はおかっぱ」が校則だった。いがぐり頭に詰め襟の学ラン姿。一面に広がる田んぼの中をヘルメットをかぶって一列に並び自転車を走らせる。ださい。おしゃれに目覚めつつあった私は、どうしても嫌だった。

 日ごろは優しく、親切な先生だった。最初は諭すように。次第に声が冷たくなり、最後は怒声に変わった。

 「校則は社会のルール。守れないやつは犯罪者と同じだ」

 自分の髪形が、どうして社会のルールの話になるのかよくわからなかった。でも先生には「当然のこと」のようだった。

 結局、受験して私立中学に入学し、丸刈りは免れた。でも、私と先生の「当然」が違う時、先生の「当然」が正しいのが社会なのか? 私は「犯罪者」なのか? 少し後ろめたかった。

 中学入学後、そんな後ろめたさを解消してくれる本を偶然、書店で手にした。1990年に出された「生徒人権手帳」だ。89年に国連で採択された「子どもの権利条約」に基づき、「体罰をうけない」「集団行動訓練を拒否する」「自分の髪形は自分で決める」といったことは、子どもが持つ権利だと説明していた。他人がなんと言おうとも個人の自由は尊重される、と。

 現行憲法97条も、わざわざ明記している。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると。

 ではなぜ、自由を主張すると警戒されるのか。「大人は、鋳型のような『よき子ども像』を勝手に描いていますからね」。「手帳」の筆者の一人で、当時、学校の校則問題に取り組んでいたノンフィクションライターの藤井誠二さんは、そう振り返る。「鋳型」から外れると子どもは不幸になる。規則で縛ってあげないといけない。それが子どものためなのだ - 。

 だが藤井さんは言う。「仮に善意でも、相手を縛る規則をつくるのは結局、相手を信用していないからです」

 なるほど。改憲草案をつくった政治家には、国民が「子ども」のように見えているのかもしれない。 (高久潤)



2016年5月19日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・自由:中
「ほどほど」では、自由でない
   http://mokuou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_91.html

 「ほどほどの自由」

 自民党の憲法改正草案の「自由」に対するスタンスを追うと、そんな印象を持つ。

 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」だと明記した現行憲法97条は、削除。

 表現の自由を定めた21条には「公益」や「公の秩序」を害することを目的にしてはならないとの文言が追加され、「自由」は念入りに制限を掛けられる。

 だが、「ほどほどの自由」しか許されない社会とは、どんなものなのだろう? 今年1~3月、TBS系列で放送されたテレビドラマが、ひとつの答えを与えてくれる。

 「わたしを離さないで」

 原作は英国の作家カズオ・イシグロの長編小説。他人に臓器を提供する目的で作られた「クローン人間」が主人公だ。

 人為的に作られたということ以外「普通」の人間とほぼ変わらない主人公たちは幼少期から「あなたたちは臓器提供の使命を持った天使だ」と教え込まれる。クローン同士の恋愛や、生活の自由はあるが、臓器提供の拒否は決して許されない。

 ドラマでは原作にない独自の設定として、そんな「ほどほどの自由」を疑う少女「真実(まなみ)」が登場する。真実は仲間とひそかにクローンの権利を訴える活動を計画する一方、周囲に順応しがちな主人公に、私たちの人権は侵されている、と伝えようとする。「誰にだって幸せを追求する権利があるのよ」。紙切れに記されたのは現行憲法13条。

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 美しいはずの「他者」や「公」への奉仕が個人の身体や心を侵食していく不気味さ - 。

 自民党の伊吹文明元衆院議長が4月、講演でこんな発言をしていたことを思い出した。

 「皆が公のことを考える強靱(きょうじん)な日本人をつくらなければならない」

 今の日本社会を「パチンコ屋の前で良い台を取ろうとして、開店を待っていてもなんとか食べていける国」と嘆く伊吹氏。憲法に直接関係する発言ではないが、自民党議員からは幾度となく、個人が自分のことばかりを主張し、公の秩序が乱れているのではないかという危機感が表明されている。

 憲法学者の山元一・慶大教授は言う。「公の秩序と個人の自由を対立させ、『公』に『自由』を服属させた途端、権利としての自由の価値は根幹から破壊される。もはやそれは、自由とは言えません」

 ドラマの第6話。真実らの権利活動は警察の知るところとなる。追いつめられた真実は街頭で手首を切り、自分は天使などではなく人間だ、と訴える。自分の心も身体も、自分のもの。それが許されないなら「どうか何も考えないように作って」。

 「ほどほどの自由」は、自由ではない。自ら命を絶った真実の姿が、その「真実」を私たちに突きつけてくる。(高久潤)



2016年5月19日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・自由:下
「ほどほど」では、自由でない
   http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20160805/p5

 「リベルテ(自由)! リベルテ!」

 2015年1月、パリ中心部の共和国広場に、無数の声が響き渡った。

 イスラム教の預言者ムハンマドへの風刺画などで知られる週刊新聞社が、イスラム過激派によって襲撃され、12人が死亡したテロ事件。市民たちは抗議の意思を「リベルテ」の言葉に託し、練り歩いた。その数はパリだけで120万人以上。1944年、第2次世界大戦中の「パリ解放」以来の大行進だった。

 怒りと高揚が渦巻く中、うつむき立っている女性の姿が、取材中の私の目に留まった。

 友人に誘われてきたというパリ郊外在住のドルカス・マキーヤさん(25)。なぜ参加したのか尋ねると、テロへの抗議、言論の自由の大切さをよどみなく語り、少し間をあけて、付け加えた。「私はイスラム教徒。この状況で、参加を断れないでしょ」

 自由という理念は輝かしいし、なんだか人をワクワクさせる。ただ同時に、ある人の自由が、他人の自由を侵したりする場合もあることを私たちは経験的に知っている。自分が大事に思う価値や権利を主張することが、他人のそれを抑圧したり、侵害したりしていないか?

 私の自由と、他人の自由。それがぶつかったときの調整弁として、現行憲法が設けているのが「公共の福祉」だ。13条は、自由については国政上、最大の尊重を必要とするが、「公共の福祉に反しない限り」との条件をつけている。

 だが、調整はなかなか面倒だ。2004年、自民党憲法調査会憲法改正プロジェクトチームの議論では「こういう風にものを考えれば幸せになれる、ということを国に規定してほしいと多くの国民は願望しているのでは」と発言した議員もいた。

 経済的自由が行き過ぎた結果としての格差拡大が問題視されたり、表現の自由の名の下でのイスラム教への風刺が強い批判にさらされたり。昨今、とかく自由は分が悪い。自民党改憲草案にあるように、自由より「公の秩序」を優先した方がいい。その主張に同意しないまでも、ひかれる人は多いと思う。「こうしなさい」と誰かに決めてもらった方が、正直楽だ。「公の秩序」を優先して、ややこしい問題が解決するなら結構なことではないか。

 しかし、法哲学者の井上達夫・東大教授は「『公の秩序』に委ねたところで問題は解決しない」と指摘する。

 「自由への不信の根幹にあるのは、自由の主張が他者への不正な支配に転化することへの怒りや反発です。自由を主張する者が、同じく自由を求める他者の視点からでも、それを正当化できるか、批判的に吟味し続けるしか、自由を守ることはできません」

 なんとも面倒くさい。でも、時にぶつかりながら、自分と他人の自由に折り合いをつける面倒くささを個々人が引き受ける以外に、自由な世界を成り立たせるすべは、おそらく、ない。

 自由には責任が伴う。自民党改憲草案12条の言葉が、そのような意味で用いられるのであれば、正しい。(高久潤)



2016年04月26日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・個人と人:上
人権、削られた「獲得の努力」
   http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20160624/p5

 自民党の憲法改正草案は、現憲法97条を丸ごと、削除している。

 97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬(しれん)に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 なぜ、削ったのか。

 自民党のQ&A集は、草案11条《「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」》と内容が重複するからだ、と説明している。

 確かに、似ていなくはない。「重複表現は無駄」と子どもの頃から教えこまれてきた者としては、納得しそうにもなる。

 だが、基本的人権の保障こそ、憲法が最高法規であることの実質的な根拠だ。人類の多年にわたる努力の成果であること。幾多の試錬に堪えて現在と将来の国民に信託されたものであること。それらを「なかったこと」にしてしまっていいのだろうか。草案11条の「人権」は、過去からも未来からも切り離されて、はかなげに見える。

 さらにQ&A集は、こうも言っている。「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました」

 「天賦人権」は西欧だけの概念なのか。福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず」の「天」は、西欧だけのものだったのだろうか。

 「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です」。2012年12月、起草委員として草案づくりに携わった片山さつき参院議員は自身のツイッターにこう投稿した。

 みなに等しく天から与えられる「西欧の」人権と違い、日本の人権は、義務を果たさなければ手に入らないということなのか――。疑問がさらなる疑問を呼ぶ、無限ループへ。さらに草案をめくると、102条に新たな義務が規定されていた。

 《全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。》

 ……なんなのだ、これは。

 憲法で権力を縛るのが近代立憲主義の要諦(ようてい)なのに、国民に憲法尊重義務を課す。これは近代憲法といえるのだろうか。

 「草案の根底には、近代化そのものを否定したい、個人主義など『近代の病』にむしばまれた社会を救済したいという欲求があるんじゃないでしょうか」

 日本の近代を研究してきた片山杜秀・慶応大学教授は、こうみる。「ただそれは、単純な復古とは違って、『安上がり』な国家にしたいという希求をはらんでいると思います。このまま少子高齢化が進めば福祉の切り下げが必要になる、でももう国家は面倒をみませんよ、個人主義を排して、家族や共同体で助け合ってくださいね、と」

 基本的人権に対する「幾多の試錬」は今ふたたび、始まっているのかもしれない。(守真弓)



2016年04月27日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・個人と人:中
『利己主義』の抑え役、本来は
   http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20160626/p1

 たかが1文字、されど1文字。自民党改正草案13条は、現行憲法の「個人」から「個」が削られ、「全て国民は、人として尊重される」となっている。

 憲法には「権利」という言葉が20回以上でてくるのに「義務」という言葉は数回しかない。この権利偏重の憲法が「行きすぎた個人主義」を育み、利己的な今の社会を作った――。

 憲法学者の小林節・慶応大学名誉教授によると、こうした考え方は、自民党議員の間で広く共有されているという。「30年近く自民党議員と議論してきたが、もはや、自民党の中の『常識』ですよ」

 2004年に自民党の憲法改正プロジェクトチームが出した「論点整理」では、「近代憲法が立脚する『個人主義』が『利己主義』に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながった」と分析する。自民党の改憲草案づくりに携わった礒崎陽輔・前首相補佐官も、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言が「個人主義を助長してきた嫌いがある」とホームページに書いた。しかし、現行憲法ができる前の社会は「利己的」ではなかったのだろうか。

 「明治憲法下では、社会福祉を定めた条項もなく、炭鉱の過酷労働など、強者や権力者が『利己的』にやりたい放題の社会だった。それを変えたのが、権力に対する『個人』の尊重という考えだったのですが……」と小林さんは言う。

 個人主義と利己的な社会と憲法。その関係を考えたいと、静岡大学に笹沼弘志教授を訪ねた。研究のかたわら、ホームレスの人々の法律相談に20年以上のっている憲法学者だ。

 「多くの路上生活者の自意識は『究極の個人主義者』ですよ」

 笹沼さんが生活保護を受けるよう勧めると、「生活保護をもらうやつは怠け者」「仕事さえあれば何とかなる」という返事が返ってくることが多い。「自立しなければという強迫観念に近い思いを抱えている。ただそれは、『世間の常識』を彼らが内面化した結果です」

 考えてみたい。

 餓死寸前で救急車が呼ばれたのに、病院への搬送を拒否され、市役所で非常食の米だけを渡されて、そのまま亡くなった静岡県の女性がいた。

 彼女は、確かに人である。だが本当に、生命や自由や幸福追求の権利を持った「個人」として生きているといえるだろうか。笹沼さんは言う。

 「自民党草案の前文は『活力ある経済活動を通じて国を成長させる』と、国民の、国への貢献を強調しています。国の成長が何よりも優先する、役に立たない人間の面倒を国が見る必要はない、そうした『常識』が『個人』の尊厳を傷つけ、社会の公正さを損なわせている。そのことを私たちに気づかせてくれる物差し、それが憲法です」

 真に一人一人が「個人」として生きるということはどういうことか。「個人」を「人」に変えようとする自民党改憲草案もまた、私たちに問いかけているのかもしれない。(守真弓)



2016年04月28日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・個人と人:下
「すごい日本人」像、私を縛る

検索できなかった。



2016年04月19日 覚え書:「憲法を考える:自民改憲草案・家族:上
個人より『家族』、消えた2文字
   http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20160612/p1

 自民党憲法改正草案24条2

 《婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。》

 間違い探しではないけれど、現行憲法の条文と比べて、2文字、消えている。「両性の合意のみに基いて」の「のみ」だ。

 草案Q&A集をひもといても、その理由については触れられていない。いったいどう考えたらいいのだろうか。

 いまから55年前、神奈川県の主婦、渋谷正子さん(79)は24歳で結婚した。8歳の時に終戦を迎え、妹たちの面倒をみるため高校には行けなかった。事務をしていた母校で、同級生だった夫と再会。後に求婚された。

 だが、義母は大反対し、会ってもくれなかった。「息子の嫁は私が選ぶ」「中卒は許さない」。定時制高校に通い、卒業した。心が折れそうになっていた渋谷さんを後押ししたのは、夫の一言だ。

 「憲法24条を読んでごらん。僕たちの結婚は、憲法で保障されているんだ。両親は必ず説得するから心配しないで」

 旧憲法下では、結婚は家のためにするもので、家長や親の同意が必要だった。いわゆる「家制度」だ。新憲法はこれを否定し、「両性の合意のみに基づいて成立」と規定することで、親や親族ら第三者の意思によって妨げられることのない、婚姻の自由を保障した。

 ところが、自民党草案には「のみ」がない。渋谷さんは思う。「のみ」がなかったら、自信をもって結婚できなかったかもしれない、と。

 「のみ」が保障する婚姻の自由は、いつ、誰と結婚するかはもちろん、結婚しない自由、離婚する自由をも含む。13条の「すべて国民は、個人として尊重される」も踏まえれば、どう生きるかは、個人の決定にゆだねられているのだ。

 一方、草案はどうだろう。「個人」より「家族」を重視しているようにみえる。24条1項には、こんな条文を新設する。

 《家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。》

 Q&A集は「昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われていることに鑑みて」と、新規定を置いた理由を説明する。「個人と家族を対比するものではない」「家族のありかたに関する一般論を訓示規定として定めた」とも言うが、先に引いた現行13条の「個人」が、草案では「人」になっていることに鑑みれば、素直に受け取るのは難しい。そもそも家族のあり方は多様化し、「一般論」でくくりきれるはずはないのだが――。

 安倍晋三首相は自著「新しい国へ」で、こう書いている。

 「『お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ』という家族観と、『そういう家族が仲良く暮らすのがいちばんの幸せだ』という価値観は、守り続けていくべきだ」

 今年度予算では、「3世代同居」住宅への支援が決まった。(杉原里美)

 <憲法24条>

 1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。



2016年04月20日 覚え書:憲法を考える:自民改憲草案・家族:中
「助け合い」実態見ずに期待
   http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20160613/p5

 新憲法の制定をめざす運動団体「日本会議」の機関誌、「日本の息吹」3月号のインタビューで、自民党の山谷えり子参院議員は、同党の憲法改正草案24条「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」に触れ、こんなふうに語っている。

 「社会の基礎単位としての家族については、かつてのように三世代の同居・近居が増えて行けば睦(むつ)み和らぎの心も豊かになっていくはずです」

 山谷氏は、草案を作った起草委員会のメンバーだった。

 昨年11月、「1億総活躍国民会議」がまとめた「緊急対策」にも「家族の支え合いにより子育てしやすい環境を整備するため、三世代同居・近居の環境を整備する」とある。

 郷愁と実利と。家族、とりわけ3世代同居への期待がじわじわと膨らんでいる印象だ。

 実態はどうだろう。2010年の国勢調査によると、3世代の世帯(4世代以上も含む)は、一般世帯総数の7%。00年は10%だった。

 首都大学東京の阿部彩教授の分析では、12年、3世代が同居する世帯の子どもの貧困率は15・2%。夫婦と未婚の子のみの世帯の子どもの11・4%を上回る。ひとり親が子連れで実家に戻ることもある。ふたり親であっても、高齢化と晩婚化が相まって育児と介護の負担が重なり、貧困率がさらに上昇するのではないかと危ぶまれている。

 実態を知れば、「睦み和らぎ」は空疎に響き、「互いに助け合わなければならない」が、なんとも言えない切迫感を帯びてくる。

 3年前の本紙生活面には、こんな記事が載った。

 大手企業に勤める40代の男性。両親は幼い頃に離婚し、母親に育てられていたが、小学3年生の時、父親が目の前で母親を刺殺した。刑務所に入った父親とは以来会っていなかったが、ある日、福祉事務所から通知が届いた。父親が生活保護を申請し、男性に扶養義務があることが書かれていた――。

 ひとくちに家族といっても内実はさまざまだ。3世代仲のよい家族があれば、親に虐待されている子どもも、夫に殴られている妻もいる。憲法に家族の相互扶助義務が書かれれば、家族に強い扶養義務を課す法律が作られても、憲法違反を問うことが難しくなるかもしれない。

 明治大学法科大学院の辻村みよ子教授(憲法)は「現憲法は個人の尊重に裏付けられ、家族は自由で平等な個人の結びつきとして想定されている。それが、国のための家族や集団のための個人に変質してしまうのではないか」と懸念する。

 そもそも10年の国勢調査で最多だった家族の形は単独世帯、つまり、ひとり暮らしだ。32・4%。彼らは誰と助け合えばいいのか。低所得ゆえに結婚も出産も諦めるという若い世代の声に、政治はどう応えるのか。「家族は、互いに助け合わなければならない」。訓示を憲法に盛り込むことに、どれほど意味があるのだろう。(杉原里美)



2016年04月21日 覚え書:憲法を考える:自民改憲草案・家族:下
女性の地位向上は個人主義?
   http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20160616

 自民党の憲法改正草案は各条文に「見出し」をつけている。1条は「天皇」、9条は「平和主義」、そして24条は「家族、婚姻等に関する基本原則」だ。一方、現憲法に見出しはないが、出版社などが付したものが流布している。例えば有斐閣の「六法全書」では、1条「天皇の地位・国民主権」、9条「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」、24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」。比べてみると、なかなか味わい深い。

 2004年、衆院憲法調査会で自民党議員が発言していた。「(24条が)行き過ぎた個人主義という風潮を生んでいる側面も、私は否定できないと思う」

 どういう意味だろう。

 自民党が作った憲法改正PR漫画「ほのぼの一家の憲法改正ってなあに?」を読んでみる。

 ひいおじいちゃん(92)が、「現行憲法では男女平等が大きく謳(うた)われて 事実この70年で女性の地位は向上した」と語る横で、おじいちゃん(64)がつぶやく。「でも、個人の自由が強調されすぎて なんだか家族の絆とか地域の連帯が希薄になった70年かもしれませんねぇ」

 憲法を「家訓みたいなものかしら」とするこの漫画、女性の地位が向上したから家族の絆が薄れたと言いたいのだろうか。

 「女性にとって最も大切なことは、子どもを2人以上産むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります」。大阪市の中学校長の発言を思い出す。2月29日の全校集会でのこと。高校入試を控えた女子生徒もいただろう。どんな思いで聞いたのだろう。

 私は、長崎県の離島で生まれ育った。母は20歳で結婚。父方の祖父を介護し、その間の家事は、私が担った。「女は勉強せんでもいい」という風土が、息苦しかった。法事のときは、地域の女性みんなで炊事をする。親戚付き合いは、何より優先されていた。「家族の絆」という美しい言葉では表せない、たくさんの葛藤があった。

 小学校高学年のとき、憲法に男女平等が書かれていることを知った。自分の生き方は自分で決められるんだ――。心の支えにしてきた。それでも、新聞記者になって地元に帰ったとき、中学時代の担任は開口一番、こう言った。「仕事もいいけど、子育てもちゃんとせんとね」

 1970年代は「日本型福祉」が称揚され、私の母のような専業主婦は、介護や育児の担い手として期待されていた。その後、経済が停滞し、97年には共働き世帯数が専業主婦世帯数を本格的に上回り、差は広がり続けている。それに伴い、保育所整備は進んだが、予算は圧倒的に不足している。

 一方で、少子化も進行した。安倍政権は「希望出生率1・8」を国の目標として掲げる。昨年9月には菅義偉官房長官が芸能人カップルの結婚に「ママさんたちが一緒に子どもを産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたら」と発言。「1億総活躍」の号令が響く。

 産んで、働き、活躍して、家族の絆も守って。一つでもできないと「行き過ぎた個人主義」と言われてしまうのだろうか。(杉原里美)



2016/4/12 憲法を考える 自民改憲草案 公の秩序(上)
国民向け「道徳」 条文に
   http://mokuou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_92.html

 自民党の憲法改正草案12条は、こう規定している。

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 「公の秩序」とは何か。自民党の草案Q&A集は、次のように説明する。

 「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません」

 Q&Aと併せて条文を素直に読めば、私たちの自由や権利は、社会に迷惑をかけない限りでしか認められないということになりそうだが、そもそも迷惑は、そう感じる人がいれば成立するので限りがない。

「権力縛る役割」が逆立ち

 現行憲法12条は、国民は自由や権利を「常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ」と定める。それに比べると、草案の「常に公益及び公の秩序に反してはならない」は、命令口調で違和感を覚える。憲法は本来、権力を縛るためのものなのに、この逆立ちした発想はどこから来ているのだろう。

 15年ほど前から、国会の憲法論議をみているが、驚いたのは、自民党の国会議員がしばしば「十七条憲法」を引き合いに出すことだ。実際、自民党草案の前文にも「和を尊び」の文言が入り、Q&A集はその理由を「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である」との意見が出たからと説明している。

 しかし、聖徳太子が作ったとされる十七条憲法は、どう生きるべきかを書いた道徳である。和をもって貴しとなす。人に迷惑をかけるな。なるほど自民党草案は、日本社会の「見えない掟」を可視化したものなのかもしれない。でも、それでいいのか? 京都大学の曽我部真裕教授(憲法)は言う。

 「社会のルールは、異議申し立てを受けながら、常に問い直され、発見されていくものです。『公の秩序』を憲法に書き込もうという発想からは、その視点が抜け落ちています」

 和は尊いし、迷惑はかけないに越したことはない。しかし人間、そうはいかないこともある。 (編集委員・豊秀一)

憲法12条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。



2016/4/13 憲法を考える 自民改憲草案 公の秩序(中)
生き方規定 息苦しくないか
   http://mokuou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_92.html

 「誓約書」と書かれたA4判1枚の紙がある。

 「パチンコ、競輪場に立ち入った事は、まじめに努力している他の被保護者に迷惑をかけることとなり誠に申し訳ありません。今後は(生活保護)法第60条を順守し、もし違反した場合は保護廃止されても異存はありません」

 大分県別府市の福祉事務所が作った。同市の職員は年に1回パチンコ店を見回り、生活保護受給者を発見した場合は誓約書にサインさせ、違反が重なると支給停止の処分をしていた。

 昨年末、このことが報じられると、全国から200件を超えるメールが市に届いた。

 「この素晴らしい取り組みを続けていただきたい」

 「もっと税金を投入して強化していいと思います」

 同市社会福祉課によると、9割以上が市を支持する内容で、賛同の意思を示すふるさと納税も4件(9万円)あった。

 しかし、生活保護法にパチンコなどを禁じる規定はない。県から「不適切」と指摘を受け、市は3月、パチンコ店にいたことだけを理由に処分はしないと方針を変えたが、「見直し反対」のメールがいまも届く。

(略)

 生活保護への世間の厳しい視線を反映するかのように、兵庫県小野市は2013年、生活保護費をパチンコや競輪などに使っている人を見つけたら、速やかに市に通報する「責務」を市民に課す条例を作った。

 改めて考えたい。自分の生き方は自分で決める。これが憲法の大原則だ。私たち一人ひとり、自由と権利を有している。

 申し訳なさそうに肩身を狭くして、清く、正しく生きることを求められる受給者。「常に公益及び公の秩序に反してはならない」(自民党憲法改正草案12条)。憲法がそう規定する社会はおそらくとても、息苦しい。(編集委員・豊秀一)



2016年4月14日 憲法を考える 自民改憲草案 公の秩序(下)
少数派を守るのが立憲主義
   http://mokuou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_92.html

 4月3日朝のNHK「日曜討論」。自民党憲法改正草案12条「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」の文言をめぐり、激しいやりとりがあった。

 志位和夫・共産党委員長
「『公益及び公の秩序』のためには、基本的人権を制約できるという内容が入っている」

 高村正彦・自民党副総裁
「いまの憲法の『公共の福祉』という言葉を置き換えただけ」

 志位氏
「『公共の福祉』はいろんな人権がぶつかりあった時にそれを調整する概念。『公益及び公の秩序』は、国家目的のために人権を縛る。まったく違う。立憲主義の破壊です」

 高村氏
「それはまったく違います。『公共の福祉』なんて言葉はわかりにくいですよ、いままでの日本語からいって。我々の概念も(公共の福祉と)同じです」

 議論は平行線をたどったが、さて、単に言葉が置き換わっただけだろうか。

 私たち一人ひとりの顔かたちが違うように、考え方も価値観も違う。人も国も自分が正しいと思うことを他人に押しつけたくなるもので、ゆえにそれぞれの大切な権利がぶつかり合うこともある。

 そんな時、「公共の福祉」という考え方を用いて、全体のバランスの中で調整していくというのが、憲法の知恵だった。そのものさしが「公益や公の秩序」に変われば、状況は大きく動きかねない。

 世の中には、社会に迷惑をかけてでも、守らなければならないものがある。

 例えば、デモ。石破茂・地方創生相はかつて、特定秘密保護法反対デモをテロに例え批判を浴びたが、うるさくても、交通の邪魔になっても、議会制民主主義を補完する、主権者に認められた大事な手段だ。

 歴史は教える。憲法を真に必要とするのは、多数派に異論を唱えたり、社会的に少数派だったり、要は「変人」だということを。憲法の教科書のページをめくれば、自らの尊厳や権利を守るために裁判で闘ってきた人がいて、幾多の判例の積み重ねが、単なる文字の羅列に過ぎなかった憲法に内実を与え、その蓄積の上に、私たちが立っていることに気づかされる。

 自分は少数派にはくみしない、多数派の流れに沿っていくという選択も、当然あるだろう。そのような人はおそらく憲法なんて意識せずとも生きていける。幸せな人生に違いない。

 憲法を考える。それは、国家権力から私たちの自由や権利がちゃんと守られているかどうかを点検する作業だ。憲法は権力を縛るためのものだという立憲主義の考え方が、安全保障法の審議を通じて広く一般に知られるようになったことは、立憲主義が危うくなっていることの裏返しでもある。

 この70年、多くの人は、立憲主義なんか意識せずに生きてこられた。振り返ってみれば、幸福な時代だったと言えるのかもしれない。 (編集委員・豊秀一)