【目次へ】
続折々の記へ
【心に浮かぶよしなしごと】
【 検索語一覧(4) 】 【 検索語一覧(5) 】 【 検索語一覧(6) 】
【 憲法改正議論 Ⅱ】 【 憲法改正議論 Ⅲ】 【 憲法改正議論 Ⅳ】
【 憲法改正議論 Ⅴ】 【 憲法改正議論 Ⅵ】 【00】00/00~
【 08 】03/02
03/02 憲法改正議論
00/00
03 02 (火) 憲法改正議論 騒がれる改憲を調べてみる
関係記事 ← ここをクリック
■教えて!憲法 基本のき 1 安倍首相「改憲は党是」(2018/2/6) 2 「最高法規」に反する法律(2018/2/8) 3 「立憲主義」ってなに?(2018/2/9) 4 各章に何が書かれているの?(2018/2/9) 5 国民主権・基本的人権の尊重って?(2018/2/13) 6 9条と自衛隊の関係、どうなっているの?(2018/2/14) 7 憲法は押しつけられたの?(2018/2/16) 8 なぜ改正されなかったの?(2018/2/17) ■憲法を考える 自民改憲草案 ハンガリーで読む:上 「伝統回帰」似通う思想(2016/6/14) ハンガリーで読む:中 国民「まとめあげる」道具に(2016/6/15) ハンガリーで読む:下 「美しい国」立憲主義とは距離(2016/6/16) 「保守」の論理:上 「自民党的な思想」の総括(2016/6/7) 「保守」の論理:中 近代立憲主義と別の憲法観(2016/6/8) 「保守」の論理:下 票にならない、語らない(2016/6/9) 義務:上 権利に条件、「国家の従業員」か(2016/5/25) 義務:中 空気読み黙る「和」、いまも(2016/5/26) 義務:下 国民にも「尊重せよ」、何のため(2016/5/27) 自由:上 責任・公の秩序、自覚求める(2016/5/19) 自由:中 「ほどほど」では、自由でない(2016/5/20) 自由:下 自分の自由、吟味する覚悟も(2016/5/21) 個人と人:上 人権、削られた「獲得の努力」(2016/4/26) 個人と人:中 「利己主義」の抑え役、本来は(2016/4/27) 個人と人:下 「すごい日本人」像、私を縛る(2016/4/28) 家族:上 個人より「家族」、消えた2文字(2016/4/19) 家族:中 「助け合い」実態見ずに期待(2016/4/20) 家族:下 女性の地位向上は個人主義?(2016/4/21) 公の秩序:上 国民向け「道徳」、条文に(2016/4/12) 公の秩序:中 生き方規定、息苦しくないか(2016/4/13) 公の秩序:下 少数派を守るのが立憲主義(2016/4/14) ■信州護憲ネット「憲法を見る眼」 愛敬浩二 (信州大学教員) 第1回 「押しつけ憲法論」を考える (2000/9) 第2回 日本国憲法の可能性--その「原点」 その1(2000/12) 第3回 日本国憲法の可能性--その「原点」 その2(2001/3) 第4回 日本国憲法の可能性--その「現点」 (2001/6) 第5回 有事法制問題を考える (2002/11) ■9条は幣原首相が提案 1 昭和21年3月6日に発行された官報(1946/3/6) 2 9条は幣原首相が提案 東京新聞 印刷版(2016/8/12) 3 日本国憲法第9条 wikipedia 4 幣原喜重郎インタビュー資料(1946/02) 5 幣原喜重郎 wikipedia 6 フーバー大統領 ■憲法を考える/押しつけって何? 1 生い立ち様々、各国で知恵(2016/11/4) 1 64年 調査会、評価踏み込まず(2016/11/4) 2 「自分ではない者」探し、迷走(2016/11/5) 3 「すべて国民」範囲どこまで(2016/11/6) 4 9条改正論にも米の意向(2016/11/9) 5 戦前の家制度、廃止の契機に(2016/11/11) 6 自由の範囲、実践で決まる(2016/11/12) 7 真に押しつけられてるのは(2016/11/15) ■憲法を考える 自衛隊を明記するとは 元内閣法制局長官・阪田雅裕さん(2018/2/7) 国民投票、経験国からの警鐘 首相退陣に追い込まれた英伊を視察、衆院議員団報告書(2018/1/30) 改憲するか、決めるのは国民 法律上の改正手続き…ケンポウさんに聞く(2017/11/28) 「改憲」ってなんのために? 本来はどうあるべきか…ケンポウさんに聞く(2017/10/31) 参議院の性格、位置づけは 都道府県の代表とし「合区」解消する案(2017/9/26) 「9条」をこじらせて 篠田英朗さん、大澤真幸さん(2017/9/12) 釜ケ崎に憲法はあるか 憲法研究者・弁護士、遠藤比呂通さん(2017/8/29) 「全体の奉仕者」どこへ 政治学者・牧原出さん(2017/7/25) 「核保有、否定されず」脈々 政府解釈「必要最小限なら」、学者から疑義(2017/7/25) 自衛隊、変わる受け止め方 「日陰者」から大震災通して「最後のとりで」に(2017/6/27) 自衛隊追記、その先に危うさ 9条改正論 集団的自衛権、新条文で拡大も(2017/5/30) ■この人に聞く 船田元・自民党憲法改正推進本部長代行 発議は早くても19年に(2017/6/15) 高木義明・元文科相 反対一辺倒より積極議論(2017/6/14) 横路孝弘・元衆院議長 70年、今の憲法で支障なし(2017/6/13) 遠山清彦・公明党憲法調査会事務局長 自衛隊明記、簡単ではない(2017/6/9) 下村博文・自民党幹事長代行 改憲向けギアチェンジを(2017/6/8) 石破茂・元防衛相 まず「3分の2」私の趣味じゃない(2017/6/7) 報道、これでいいのか 石橋学さん、林香里さん、山崎拓さん(2017/5/23) 国の財政を律する 藤井裕久さん、片桐直人さん(2017/5/16) ■施行70年 施行70年 条文、柔らかく(2017/5/29) 施行70年 性的少数者、憲法に守られた 「宿泊拒否」違法判断から20年(2017/5/28) 施行70年 獅子舞、かなえた「平等」 参加許されず、差別受けた地区(2017/5/22) 施行70年 子どもの権利は 平湯真人さん、増田ユリヤさん、荒牧重人さん(2017/5/5) 施行70年 憲法は芸術だ 作家・作詞家、なかにし礼さん(2017/5/4) 施行70年 憲法、岐路の70年(2017/5/4) 施行70年 現在地:下 分断、変質する「私たち」(2017/5/4) 施行70年 日本国憲法の運命 東京大学名誉教授・長尾龍一さん(2017/5/3) 施行70年 現在地:中 平和、「非軍事」失い骨抜き(2017/5/3) 施行70年 国民あっての憲法論議(2017/5/3) 施行70年 たどる、制定の原点(2017/5/3) 施行70年 憲法、人生の中に(2017/5/3) ■改憲の足音 1 絵を描く未来、奪った戦争 (2018/1/8) 2 国際貢献、どこまで安全なら (2018/1/9) 3 自衛隊明記案、向かう先は (2018/1/10) 4 自由な暮らし、9条あるから (2018/1/11) 5 議論を敬遠、憲法アレルギー (2018/1/12) 6 平和憲法、沖縄は置き去り (2018/1/13)
Google 検索による
④幣原喜重郎インタビュー資料 (昭和26年2月)
この資料は国会図書館内にある憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)と題されたものを私(今川)が川西市立図書館を通じて国会図書館にコピーを依頼して手に入れ、さらにそのコピーをワードに移し替えたものである。原文は縦書きであるが、ホームページビルダーの性質上、横書きで書いている。from <http://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hiranobunnsyo.html>
幣原喜重郎 憲法昭和三十九年二月 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー 平 野 三 郎 氏 記―
憲法調査会事務局
は し が き
なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
昭和三十九年二月
憲法調査会事務局
第一部
私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、以下はそのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
なお、当日の幣原先生のお話の内容については、このメモにもあるように口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。
問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。 あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。
答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。
問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。
答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。
問 死中に活といいますと・・・・・。
答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。 何故ならこの兵器は今後更に幾十倍 幾百倍と発達するだろうからだ。 恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。 そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。 そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。
問 しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。
答 そうだ。 世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。 しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。
答 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。 つまり世界政府だ。
世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集まるというようなことは空想だろう。 だが何らかの形における世界の連合方式というものが絶対に必要になる。 何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少なくも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。
凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。 しかしその武力は一個に統一されなければならない。 二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。 したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。
すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えばある協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合わせよりも強力である、というような世界である。
そういう世界は歴史上存在している。 ローマ帝国などがそうであったが、何より記録的な世界政府を作ったものは日本である。 徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。 この例は世界を維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。
要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展しその同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行うほかはない。 このことは理論的に昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。 しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋が来たと僕は信じた訳だ。
問 それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。
答 そこだよ、君。 負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言うとおり正にそうだ。 しかし負けた日本だからこそできることなのだ。
おそらく世界には大戦争はもうあるまい。 もちろん、戦争の危機は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。
第二次世界大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。 如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。
したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその死顎の理想に到達するかということにある。 人類は有史以来最大の危機を通過する訳だがその間どんなことが起こるか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。
もしも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起こるだろう。
既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。 常に相手より少しでも優越した状態に己を位置しない限り安心できない。 この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。 すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないとい恐るべき不安状態の連続になるのである。
そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮を身をもって体験してきた。 世の中に軍縮ほど難しいものはない。
交渉に当たるものに与えられる任務は如何にして相手を欺瞞するかにある。 国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。 虚虚実実千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。
軍縮交渉とは形を変えた戦争である。 平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など初めからないものなのだ。
原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。 むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。 不信と猜疑がなくならない限りそれは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。
そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。 軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。 それは分っている。 分ってはいるがどうしたらいいのだ。 自衛のためには力が必要だ。 相手がやることは自分もやらねばならぬ。 相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。 その結果がどうなるか、そんなことは分らない。 自分だけではない。 誰にも分らないことである。 とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。 責任は自分にはない。 どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。
果てしない堂々巡りである。 誰にも手のつけられないどうしようもないことである。 集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。
要するに軍縮は不可能である。 絶望とはこのことであろう。 唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ方法がある。 それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろともすべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。 もちろん不可能である。 それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。 そうだ。誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー 。
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。 次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。 自分は何を考えようとしているのだ。 相手はピストルをもっている。 その前にはだかのからだをさらそうと言う。 なんという馬鹿げたことだ。 恐ろしいことだ。 自分はどうかしたのではないか。 もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。 まさに狂気の沙汰である。
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。 どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。 恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。 何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。 今だ。 今こそ平和だ。 今こそ平和のために起つ秋ではないか。 そのために生きてきたのではなかったか。 そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。 何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。 だが今では正気の沙汰とは何かということである。 武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。 何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。 これは素晴らしい狂人である。 世界史の扉を開く狂人である。 その歴史的使命を日本が果たすのだ。
日本民族は幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。 神の信条は武力である。 その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。
何故なら武力は神でなくなったからである。 神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。 日本人はその悪魔を投げ捨てることによって再び神の民族になるのだ。 すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。 それが歴史の大道である。 悠々とこの大道を行けばよい。 死中に活というのはその意味である。
問 お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。 しかしその日が来るまではどうする訳ですか。 目下のところは差当りは問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したらです。
答 その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。 そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。 しかも次の戦争は今までとはわけが違う。
僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。 もちろん軍隊をもたないと言っても警察は別である。 警察のない社会は考えられない。 とくに世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。
しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。 僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。 その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。
そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。 何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。
もしある国が日本を侵略しようとするそのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。 その第三国との特定の保護条約を生むにかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。 要するにこれからは世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。
問 よく分りました。 そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。 一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。 もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。
答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。 僕が決心をしたのはその時である。
それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。 元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。 まして天皇の問題に至っては尚更である。 この二つに密接にからみ合っていた。 実に重大な段階であった。
幸いマッカーサーは天皇制を維持する気持ちをもっていた。 本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。 所がアメリカにとって厄介な問題があった。
それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。 これらの国々は日本を極度に恐れていた。
日本が再軍備したら大変である。 戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。 日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。 殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。 これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。 豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。 故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。 もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることができる。
この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。 もっとも天皇制存即と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。
元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。 もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。 世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。 日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。 憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君にさえも打ち明けることのできないことである。
幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。 そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。
それは昭和二一年の一月二四日である。 その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。 すべてはそこで決まった訳だ。
問 元帥は簡単に承知されたのですか。
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。 しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。 僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。 それについて僕は言った。
日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。 日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。 原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。 次の戦争は想像に絶する。 世界は亡びるかも知れない。 世界が亡びればアメリカも亡びる。 問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。 問題は世界である。 いかにして世界の運命を切り拓くかである。 日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。 日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。 来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。 その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。 歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。
貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。 歴史の偶然を今こそ利用する秋である。 そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。
また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありうる。 しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。 世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。 それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。 未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。
共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。
現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。 それと同様に共産主義のイデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。 いずれにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。
このことはやがてロシア人も気付くだろう 。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。 世界の共通の敵は戦争それ自体である。
問 天皇陛下はどのように考えておかれるのですか。
答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。 マッカーサーの草案をもって天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。
僕は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。 しかし心配は無用だった。 陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。
この英断で閣議も納まった。 終戦の御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。 もしあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。 恐らく今日天皇はなかったであろう。
日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。 当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。
それを外してくれたのは元帥であった。
だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。 天皇は己を捨てて国民を救おうとさらのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。
天皇は誠に英明であった。 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。
たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。 危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
Google 検索による
⑤幣原 喜重郎 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
1872年9月13日(明治5年8月11日) - 1951年(昭和26年)3月10日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)などを歴任。
■生い立ち
大阪府門真一番村(現・門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城そばにあった官立大阪中学校から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。浜口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であった。
■戦前
外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年(大正4年)に外務次官となり、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議、ワシントン会議においては全権委員をつとめる。
外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。
1926年(大正15年)に蒋介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。
1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた。立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された[1]。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。
第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐の頃に近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かっている陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言した逸話が残っている。
■内閣総理大臣
第二次世界大戦が終結後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任。当時は貴族院議員ではあったが政界の第一線からは引退済みで、本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、吉田茂の後押しもあったといわれるが、昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残るほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている。
GHQのマッカーサーと1946年1月24日に会談。この日のマッカーサーとの会談で平和主義を提案する。天皇制の護持と戦争放棄の考えを幣原の側からマッカーサーに述べたとされる。その前の12月、幣原は風邪で倒れ、病床で「つくづく考えた」のであった。幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは、誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査会(松本委員会)がまとめた「松本案」である。
※ ウィキソースに憲法制定の経過に関する小委員会報告書の原文があります ← クリック
順番からいえば、憲法制定過程は、幣原・マッカーサー会談(これで大筋合意。しかも、幣原から平和主義を提案。幣原は自分で「病床でつくづく考えた」のであり、マッカーサーからの圧力はなかったと思われる)→松本案が完成(松本案自体は45年10月から作り始めていた)→松本案がマッカーサーによって拒否される(46年2月1日頃。『毎日新聞』のスクープでGHQは内容を知る)→マッカーサー3原則(46年2月3日)→GHQの民生局が草案を作成(8日間で草案を作成)→マッカーサー草案ができて(2月13日、松本国務相と吉田外相は「松本案」の返事を聞きに行ったが、逆にマッカーサーから草案を渡される)閣議が大荒れ(2月19日)→幣原はマッカーサー案を原案として採用し修正することを決める(同日)→幣原・マッカーサー会談2回目(21日)→修正を求めることを幣原が閣議でいう(22日)→閣議も了解(2月22日)→昭和天皇も幣原総理を激励という順である。
■晩年
旧憲法下最後、そして女性参政権が認められた戦後初の総選挙となる第22回衆議院議員総選挙で日本自由党が第一党となり総辞職、第1次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣(のちに復員庁総裁兼務)。
1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選。日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加したが、片山内閣の社会主義政策を批判して田中角栄、原健三郎、本間俊一、中山マサ、小平久雄ら幣原派の若手議員とともに民主自由党に参加、衆議院議長に就任する。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてであった(その後も例がない)。1951年(昭和26年)3月10日、議長在任中に心筋梗塞のため[2]死去。78歳。議長在任中の死去であったことから、葬儀は衆議院葬として行われた。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
■逸話
外交官当時の幣原外交官として英米勤務が長く、英語が非常に堪能であった。入省直後のロンドン領事官補時代には、高級紙のタイムズを和訳しその和訳文を再び英訳することを繰り返し学習したという[25]。 「幣原」という語彙は欧米人、とくに英語圏の人間にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から英語で次の様な質問をされた。
記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です」
旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。幣原は書道や文章に優れていることで外務省内には知られており、幣原が外務大臣だったときに次官を務めていた吉田茂は、省内の文書が次官の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。
だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
■家族・親族
幣原喜重郎は幣原九市郎の婿養子である幣原新治郎の次男として生まれた[26]。新治郎の長男、つまり喜重郎の兄にあたる幣原坦(幼名・徳治郎)は東洋史学者で教育行政官[26][27][28][29]。坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ[27][30][29]。由正・澄江夫妻の長男が「コザイの式」で知られている天文学者・古在由秀であり[27][29]、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である[27][29]。古在由秀は最後の東京天文台(国立天文台の前身)台長及び国立天文台の初代台長を務め「星の手帖」(既に廃刊)の編集委員としても知られており、2009年(平成21年)には文化功労者に選ばれている。また坦の孫にあたる幣原廣は弁護士で、古在由秀の従弟にあたる。第二東京弁護士会所属であり、副会長経験あり。多数の委員会活動に関与しているため、弁護士会では「多重会務者」などと呼ばれている。
幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟にあたる[31]。ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。したがって雅子は春路・久弥・磯路の異母妹にあたる。喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。長男・道太郎は元獨協大学教授[26]、次男・重雄は元三菱製紙勤務[26]、三男・平三は夭折。なお幣原内閣で大蔵大臣を務めた渋沢敬三も磯路の婿にあたる姻戚である[31]。渋沢敬三は渋沢栄一の孫にあたり、日銀総裁や大蔵大臣を務める傍ら、日本における民俗学の発展に多大な貢献をした学者でもある。また、1947年、岩崎家との縁から、財団法人東洋文庫の理事長に就任し、三菱財閥解体をうけて運営危機に陥った同文庫を翌年に国立国会図書館支部として維持させることに成功した。戦前より続く日本の東洋学研究の中心であった同文庫を解散の危機から救ったその功績は今日少なからず評価されている。
※ 【下平】
栴檀は双葉より芳し 環境遺伝
「蓬、麻の中に生ずれば、扶けざれども自ら直し」荀子 勧学篇は、「学は以て已(や)む可からず」の語から始まる。人間は終生学び続けることによって自らを改善しなければならないと説く。「青は之を藍より取りて、藍よりも青し」は勧学篇の言葉であり、「青は藍より出て藍より青し」の成語で有名である。学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、信頼できる師の下で体系的に学び、かつ正しい礼を学んで身に付けた君子を目指さなければならない。荀子にとっての君子は、礼法を知って社会をこれに基づいて指導する者である。進化とは 環境遺伝 something great による。
遺伝子(=gene・発音dʒíːn)
Google 検索による
⑥ハーバート・フーバー Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC
フーパ―大統領「裏切られた自由」を読み解く
「誰が第二次世界大戦を起こしたりか」
ハーバート・フーバー著;ジョージ・H・ナッシュ編;渡辺惣樹訳 草思社
フーバー大統領の考え方を見ていると、昔の諺;「ない袖は振れぬ」の教えが胸に広がる。 私財を投じて学校を建て、堤防を築き、或いは橋を架けた故人の話に、胸の血が騒ぐのです。 できれば、『 裏切られた自由 』 が出版されているから、手に入れて読みたいと思う。
ここでは、Wikipedia で紹介している彼のあらましを掴んでおきます。
ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)は、アメリカ合衆国の政治家、鉱山技術者。第31代大統領、第3代商務長官を歴任した。
■生い立ち
フーヴァーはアイオワ州ウェストブランチでクエーカー信者の一家に生まれた。幼くして両親を亡くした後、オレゴン州ニューバーグに転居した。
1885年夏、フーヴァーは11歳のときに、おばハンナの手製のごちそうの入ったバスケットを持ち、2枚の10セント硬貨を衣服に縫い込み、ユニオン・パシフィックの列車に乗って西のオレゴン州へ向かった。アメリカ大陸の反対側で彼を待ったのは、おじで医者であり教育長のジョン・ミンソーンだった。後にフーヴァーは彼を「表面上は厳しいが、全てのクエーカー信者同様に底では親切だった」と回想した。
フーヴァーはオレゴンでの6年間で独立独行を覚えた。フーヴァーいわく「私の少年時代の希望は誰の支援もなしでいかなる場所でも自分の生計を立てることだった」。おじのオレゴン・ランド・カンパニーの使い走りとして、彼は簿記とタイピングをマスターし、夜にはビジネススクールに通った。学校教師ジェーン・グレイのおかげで、彼はチャールズ・ディケンズとウォルター・スコットの小説に夢中になった。『デイヴィッド・コパフィールド』(世の中を機知で切り抜けていく孤児の話)は、生涯のお気に入りだった。
■スタンフォード大学へ
1891年秋にカリフォルニア州パロアルトのスタンフォード大学に入学する。在学中、野球チームやフットボールチームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を集めた。
キャンパスの上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識もない学生自治会の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の負債を拭い去ることに成功した。
フーヴァーは地質学を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強をした。ブラネル教授は彼のために夏休みの間アーカンソー州のオザーク山脈で地形の地図を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイーズ)・ヘンリーとそこで出会い、1899年に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人とも、スタンフォード大学を卒業している。
1895年5月、フーヴァーに知識と職業、妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りのない人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。
■卒業後
卒業後、フーヴァーはオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、その後に清で鉱山の開発に従事した。1900年6月には天津租界で義和団によって、1か月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っている。
1907年から1912年にかけてフーヴァーとルーは、1556年出版という最も古くに印刷された技術的な論文の一つであるゲオルク・アグリコラの論文を翻訳をし、この翻訳はアグリコラの論文では最も信頼される英語翻訳となっている。
ヘンリー・カボット・ロッジと他の上院の共和党員の反対にもかかわらず、フーヴァーは商務長官在任中の1921年、ロシア革命後の混乱により飢饉で苦しんでいるソ連や大戦後のドイツの人々に食糧支援を提供した。その結果、評論家が共産主義ロシアを助けていなかったかどうか問い合わせたとき、フーヴァーは、「2千万の人が飢えている。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである」と反論した。『ニューヨーク・タイムズ』は「10人の最も重要な生きているアメリカ人」にフーヴァーを選んだ。
■大統領職
前年の選挙で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、1929年3月4日に行われた就任式の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている……」と語った。しかし、その見通しは甘すぎた。
既に陰りが見えていたアメリカ経済は、10月の世界恐慌で未曾有の大不況に突入、フーヴァーは振り回されることになってしまう。彼は、「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫き、国内においては、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続した。その一方で、対外的にはスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策をとった。このことは、世界恐慌を深刻にさせた一因とも指摘される。
恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中、フーヴァーが発表した政策として有名なものが、第一次世界大戦で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「フーヴァーモラトリアム」である。彼は、この政策を実行すれば、その1年間の間に景気は回復するだろうと考えており、次代の大統領フランクリン・ルーズベルトがニューディール政策で民間経済にも積極的に介入したのに対し、フーヴァーは政府や国家レベルでの対策しか講じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることになってしまう。
シカゴのギャング・アル・カポネの逮捕については、精力的であったものの、一方で、ボーナスアーミーと呼ばれた退役軍人の恩給支払い要求デモの鎮圧を、陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーに指示したが、越権され強力な弾圧を加えてしまい、大統領の管理能力を問われた。
結局フーヴァーは、世界恐慌に対して有効な政策が取れず、赤十字頼みとなり、1932年の大統領選挙で対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)に40州以上で敗北する歴史的大敗を喫した。1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。
なお、在任期間中の1931年3月3日にフーヴァーは、『星条旗』をアメリカ合衆国の国歌として正式採用する法案に署名した。第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンの下で食糧庁長官、第29代大統領ウォレン・ハーディングと第30代大統領カルビン・クーリッジの下で商務長官(1921年 - 1929年)を務めたフーヴァーは、主要閣僚でない閣僚を経験して大統領の座についた数少ない大統領である。
※ 【下平】
前記の渡辺惣樹訳本を見ると、こんな記事がある。
大戦期そして休戦後の混乱期における食糧支援事業を終えたフーバーはアメリカに戻った。1920年3月、フーバーはアメリカ鉱山・冶金エンジニア協会会長に就任した。就任演説に彼の思想が垣間見える。
「エンジニアの職分は資本(家)と労働(者)の間に立つ(潤滑油のような)存在である」
「我々はワシントン議会から何かの施しを得ようとは思わない。我々の望むのは効率の良い政府である」
「連邦政府はあまりに中央集権化してしまった。そのためにまだまだ無駄が目立つ。多くの会社が借金を抱え、高率の税に苦しんでいる。金融による信用創造は巨額となり、(経済活動は)投機的になり、生産性の低下が顕著である」
今わたしたちの国の国会予算審議中の「働き方改革」のやりとりを見ていると、フーバーの言葉はそのまま受け入れてよい考え方であると思う。与党と野党が勝つか負けるか、その勝負をしているだけに見えてならない。
国会議員一人ひとりは、国民一人一人の代表者とは思えない。 深い知識と代表者のとしての責任を果たすという自負が感じられない。 わたしたちが今まで知らなかった忖度という言葉か巷にあふれている。 そんな風に感ずる。 フーバーを学んでほしいと思う。
今国会で見える忖度のホコロビ
「森友学園」 "森友学園 朝日新聞"googleで検索してみてみると、課題(約 1,810,000 件)満載のままで押し切っている姿これらは将に、「衣の館はホコロビにけり」 そのものと見えます。
「加計学園」 "加計学園 朝日新聞"googleで検索してみてみると、課題(約 2,030,000 件)満載のままで押し切っている姿
「働き方改革」 "働き方改革 朝日新聞"googleで検索してみてみると、課題(約 4,440,000 件)満載のままで押し切っている姿
汗を流して肉体労働をしている人々の苦労の体験がないことに、その原因がある。その確率が大きいことに、間違いはないと私は思う。昔読んだカール・ヒルティの幸福論の結論が思い出される。多くの人が皮相的な凡欲に負てしまったのか。
額に汗する人を大事にする政治が望まれるのです。