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す インパール作戦 nhk 検索語
① 無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170922/index.html
② NHKスペシャル | 戦慄の記録インパール - NHK
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170815
③ NHKドキュメンタリー - NHKスペシャル「戦慄の記録
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586939/index.html
④ [NHKスペシャル]ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?
⑤ NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」が放送 - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2150263441515314801
⑥ インパール作戦 NHKスペシャル 2017.8.25 - YouTube ▶ 1:12:58
https://www.youtube.com/watch?v=56tvnhmAEeU
⑦ NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」20170815 - YouTube ▶ 1:13:02
https://www.youtube.com/watch?v=DTsRiFeTOIo
⑧ インパール作戦 #NHKスペシャル - Togetter
https://togetter.com › カテゴリー › 学問・教養 › 歴史
⑨ NHKスペシャル「インパール作戦」。大事なことを報じない視野の狭い ...
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34850875.html
⑩ 『メディアの権力』を監視する : NHKスペシャル「インパール作戦」とメディア
blog.livedoor.jp/catnewsagency/archives/24522423.html
※ 関連索引
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2017年9月28日 記事 NHK読むスペシャル
① 無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録
73年前、日本軍が決行したインパール作戦。およそ3万人が命を落とし、太平洋戦争で最も無謀と言われたこの作戦は、なぜ決行されたのか。新たにイギリスで見つかった膨大な機密資料や兵士の証言などから、その真相を追う。
上層部の人間関係が優先された意思決定
かつてビルマと呼ばれていた、インドシナ半島西に位置するミャンマー。1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。
インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。
1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに進攻し、全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走した。日本軍の最高統帥機関である大本営はインド進攻を検討するが、すぐに保留。しかし、1943年に入ると太平洋でアメリカ軍に連敗。戦況の悪化が再び計画を浮上させる。
そのころ、アジアでも体制を立て直したイギリス軍が、ビルマ奪還を目指し反撃に出ていた。 1943年3月、大本営はビルマ防衛を固めるために、ビルマ方面軍を新設。司令官に就任した河辺正三は着任前、首相の東條英機大将に太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げられていた。
同じ時期、牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。しかし、大本営では、ビルマ防衛に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。
それでもなぜ、インパール作戦は実行されたのか? 大本営の杉山参謀総長が最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。
「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記)
冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。
photo インパール作戦を認可した大陸指
軽視された命
インパール作戦は雨期の到来を避けるため、3週間の短期決戦を想定し、3つの師団を中心に、9万の将兵によって実行された。南から第33師団、中央から第15師団がインパールへ。北の第31師団はインパールを孤立させるため、北部の都市、コヒマの攻略を目指した。大河と山を越え、最大470キロを踏破する前例のない作戦だった。
photo 地図
1944年3月8日、作戦が敢行。3週間分の食糧しか持たされていなかった兵士たちの前に、川幅最長600メートルにおよぶチンドウィン河が立ちはだかった。空襲を避けるため夜間に渡河したが、荷物の運搬と食用のために集めた牛は、その半数が流されたという。
さらに河を渡った兵士たちの目の前には、標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。車が走れる道はほとんどないため、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかなく、崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たちは、戦いを前に消耗していった。
. 作戦開始から2週間。インパールまで直線距離110キロの一帯で、日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起こる。南からインパールを目指した第33師団は、イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1,000人以上の死傷者を出す大敗北を喫した。
第33師団の柳田元三師団長は、「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として、牟田口司令官に作戦の変更を強く進言。牟田口司令官のもとには、ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次いでいたという。牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していた。
「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録)
作戦継続に固執した大本営
インパール作戦は敵国イギリス軍の戦力を軽視した戦いでもあった。終戦直後、イギリスなど連合軍がインパール作戦に関わった日本軍の司令官や幕僚17人から、その内実を密かに聞き取っていた資料が見つかった。この中でインパール作戦の勝敗の鍵を握ったある戦いについて細かく聞き取られていた。
photo イギリス軍の史料
北から進攻した第31師団、1万7,000人が、イギリス軍側と激突した「コヒマの闘い」である。連合軍の調書によると、コヒマに攻め込んだ第31師団の佐藤幸徳師団長は、コヒマに至った時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。
「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長 調書より)
photo コヒマでの戦、新聞記事
3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。
. 日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。東條大将の元秘書官は、現地で戦況を視察した大本営の秦中将が東條大将に報告したときの様子を語っている。
「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた。」(元秘書官 西浦大佐の証言)
この翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。
「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」(上奏文)
作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。
さらに牟田口司令官は自ら最前線に赴き、南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮を執る。全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのだ。しかし、牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑通りだった。
「われわれは、日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。敵は雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた。」(ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言)
photo レッドヒルと呼ばれている丘
インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。
「白骨街道」と呼ばれた撤退路
1944年6月、インド、ビルマ国境地帯は雨期に入っていた。この地方の降水量は世界一と言われている。当時の降水量のデータを解析すると、その前のひと月の降水量は、すでに1,000ミリを超え、30年に1度の大雨。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落としていたと見られる。
司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。6月5日、牟田口司令官のもとにビルマ方面軍の河辺司令官が訪れた。お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始した。
2人が作戦中止の判断を避けたあとも、戦死者はさらに増えていった。大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月がたっていた。しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていったのだ。
photo 戦死した兵士を示した地図
レッドヒル一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。
一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団。後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退した。しかし、ようやくたどり着いた村に、食糧はなかった。分隊長だった佐藤哲雄さん(97)は、隊員たちと山中をさまよった。密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。
「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」(佐藤さん)
衛生隊にいた望月耕一(94)さんは、武器は捨てても煮炊きのできる飯盒を手放す兵士は 1人もいなかったという。望月さんは、戦場で目にしたものを、絵にしてきた。最も多く描いたのが、飢えた仲間たちの姿だった。
photo 望月耕一(94)さんの描いた絵
「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ。」(第31師団 衛生隊 元上等兵 望月耕一さん(94))
作戦中止後、牟田口司令官は、その任を解かれ、帰国した。牟田口司令官に仕え、「味方5千人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた齋藤博圀少尉は、前線でマラリアにかかり置き去りにされた。
雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていった。死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。
前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。
「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の日誌)
死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。いったい何人がこの河を渡ることができたのか、国の公式の戦史にもその記録はない。
作戦の責任を転嫁する上層部
太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。
photo 日本軍の最高統帥機関・大本営。インパール作戦を認可した数々の押印
牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関・大本営。インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、次のように答えている。
「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。」(大本営 服部卓四郎 作戦課長)
牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、敗戦後連合軍の捕虜となり、1946年に帰国。その後、結婚し家族に恵まれたが、戦争について語ることはなかった。
73年前、23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、戦慄の記録を書き続けた。
「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれ程の悲惨事があろうか」
この記事は、2017年8月15日に放送した 「戦慄の記録 インパール」 を基に制作しています。
この番組はNHKオンデマンドで配信中です
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上掲①の ※関連索引 インパール作戦 より
※ インパール作戦 あまりにも悲惨 !!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に[3]日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。
当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。この記事はコヒマの戦い(英語版)も併せて解説する。
日本軍作戦立案の経緯
二十一号作戦 1942年(昭和17年)8月下旬
武号作戦 1942年(昭和17年)10月以降
ウ号作戦 1943年(昭和18年)5月
本作戦案は、1944年(昭和19年)1月に大本営により、その実施が南方総軍司令官に発令(大陸指令第1776号)[15]されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いていた。
ここから
連合軍の作戦立案の経緯
ビルマ作戦
東南アジア指揮地域の分離
英国の守勢方針
カイロ会談
スマトラ作戦
アンダマン作戦
チンドウィン川渡河作戦
レド公路の建設計画
評価の修正
サーズデイ作戦による兵力分散
準備および戦場の状況
日本軍の状況
連合軍の状況
地理的状況
参加兵力
日本軍
インド国民軍
イギリス軍
ここまで省略 詳細はURLを開いて見ること。
戦闘経過
①日本軍の攻勢
物資の不足から[要出典]補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は1個師団(第31師団)を要衝ディマプルとインパールの結節点であるコヒマに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみ(但しこれは連合軍側の重点防御地域でなく最初から放棄地帯とされ防御を固めたインパールへ日本軍をしむける罠)で、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開として考案した、牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した[35]。所々にある狭く急な坂では重砲などは分解し人力で運ぶ必要があり兵士らは消耗していった[35]。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。
物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と電文を返していたとされる[35]。また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を戦車、火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退した。これに加え、イギリス軍は迫撃砲、機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。
日本軍の攻勢に対して連合軍は、このころまでに確保しつつあったビルマでの制空権を存分に活用して対応した。連合軍航空部隊はイギリス軍第4軍団に近接支援を行う一方、日本軍の集結地点のほか、チンドウィン川に至る交通路を攻撃したが、雨季の到来もこうした作戦行動に影響を及ぼさなかった。また、連合軍は米英両軍のC-47を中心とする輸送機を動員して大量の人員や物資をインパールまで空輸したため、陸路で遮断されていたにもかかわらず補給線はかろうじて確保されていた。戦闘開始当初は、ビルマ戦線にあった連合軍輸送機の多くは援蒋ルートの中でもヒマラヤ山脈を越えて援助物資を輸送する「ハンプ越え(英語版)」に使用されており、しかもウィンゲート空挺団やアラカン方面の第15軍団の支援にも駆り出され、輸送機が不足した。苦心の末に3月中旬からハンプ越え用輸送機のうち20機を抽出してインパールへの空輸に振り向けたが、なおも不足した。パレル飛行場が酷使による滑走路破損や日本軍のコマンド攻撃で使用不能になったため、インパールの仮設滑走路が頼みの綱であった。第4軍団は食糧を定量の2/3に減らし、インパールに残っていた非戦闘員43000人を空路で脱出させるなどしてしのいだ。その後、イギリス空軍の輸送司令部の改編が効果を上げたことで、第4軍団への補給不足は解消された[36]。
②戦線の膠着
第15師団は4月7日にインパールの北15kmのカングラトンビまで到達し、第33師団は5月20日にインパールの南15kmのレッドヒルまで到達したが、連合軍の激しい反撃を受けこれ以上の進撃はできなかった。雨季が始まり、補給線が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。しかし、牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわり、
1.天長節マデニインパールヲ攻略セントス。
2.宮崎繁三郎少将ノ指揮スル山砲大隊ト歩兵3個大隊ヲインパール正面ニ転進セシム。
3.兵力ノ移動ハ捕獲シタ自動車ニヨルベシ。
と、作戦続行を前線部隊に命令した。しかし、この頃では、各師団は多数の戦病者を後送出来ないまま本部に抱えており、肥大化する戦病者と、欠乏した補給に次第に身動きが取れなくなっていた。中には武器弾薬が尽きて石礫を投げて交戦する部隊まで出始めた。
さらにこのような戦況をよそに、司令部が400キロも遠方のメイミョウに留まっていることに対する風当たりが次第に強くなったため、牟田口は4月20日インダンジーまで15軍司令部を進出させた。
第31師団は「山を越えてやってくるのは一個連隊が限度」と見ていたイギリス軍を一個師団丸ごとで急襲することに成功し(但し、31師団は戦力を抽出していたため二個連隊の戦力)、4月5日インパールの北の要衝コヒマを占領していた。コヒマはディマプルとインパールを結ぶ街道の屈曲点に当たる要衝で、コヒマの占領は通常ならばインパールの孤立の成功を意味するはずだが、連合軍はコヒマ南西の高地に後退し、大激戦となった「テニスコートの戦い(英語版)」(日本側呼称:コヒマ三叉路高地の戦い)において連合軍の駆逐に失敗したため、インパールへの補給路は遮断しきれず、豊富な航空輸送能力による補給も可能だったため、効果は薄かった。
実はこの時点で、最重要援蒋ルートの1つレド公路への要衝ディマプルまで、遮る連合軍部隊が存在しない状態であったために、日本軍が前進を継続していたらディマプルは陥落していた可能性が高いと、戦後のイギリス軍の調査で結論付けたものも存在する。ディマプルはベンガル・アッサム鉄道とコヒマ・インパールを結ぶ道路の結節点であり、そうしたところは通常、補給物資の集積所になる[37]。もしここを陥落させた場合、英軍は敗走を余儀なくされ、対して日本軍はしばらくの間、補給の問題を解決でき、この作戦に勝利することができたと英第14軍司令官のスリム中将らは指摘する[38]。戦後、この調査報告を知った牟田口中将は、反省を一転し、作戦失敗は佐藤の独断撤退によるという主張をするようになった。他方、日本軍の補給線は伸びきっていて、前線の部隊には一粒の米、一発の弾薬も届かないような状況であった。つまり、明らかに攻撃の限界点を超えており、日本軍はディマプル攻略どころかコヒマ維持も不可能な状態であり、たとえ強引にディマプルを攻略したとしても、そこで得られる物資が万一少なかったり、英軍の撤退がなく、戦いが長引いた場合には、敗走の運命は変わらなかったろうとする者もいる。また、記録によれば、牟田口中将もディマプル攻略を強く要請したわけではなく、作戦開始前に佐藤中将に一度示唆し、作戦中に上官の河辺中将に一度、要請しただけであった。河辺中将に作戦範囲でないとして断られると、なおも要請はしていないので、命令にはディマプル攻略は含まれていなかった。よって、第31師団がディマプル攻略をしなかったとしても、その責任が佐藤中将の抗命にあったとは言えず、その命令を明示的に下さなかった牟田口にもあると言える。
③日本陸軍内の抗命事件
現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。
1.余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
2.余は第十五軍を救わんとする。
3.軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。
さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため[39]、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った[40]。
④日本陸軍の作戦中止及び退却
この時期、中国軍のインド遠征軍にアメリカ軍の小部隊を加えた空挺部隊及び地上部隊がビルマ北部の日本軍の拠点であるミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し占領しており、守備隊の歩兵第114連隊や援軍として投入された第56師団と激戦を繰り広げていた他、ビルマ東部では中国軍雲南遠征軍が怒江を渡河して日本軍の守備隊のいる拉孟や騰越を包囲していた。このためインパール方面の戦線は突出していた。
6月5日、牟田口をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており[注釈 7]、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止を逡巡している間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。
7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。杖を突き、飯盒ひとつで歩く兵士たちは、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」という、撤退の視察に乗馬姿で現れた牟田口の怒号にも虚ろな目を向けるだけで、ただ黙々と歩き続けた。だれも自分を省みないことを悟った牟田口は、泥まみれで悪臭を放つ兵たちを避けながら帰っていった。
7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」[42]
退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「'白骨街道」と呼ばれた[35]。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病に罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した他、日本軍によって動けなくなった兵士を安楽死させる“後尾収容班”が編成された。また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者に乾パンと手榴弾や小銃弾を渡し自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている[35]。
悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、佐藤の命令で配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め多くの将兵の命を救った。
牟田口ら第15軍司令部は、指揮下の部隊の撤退に先行する形でチンドウィン川を渡って、シュエジンへと移動した。さらに牟田口は、7月28日ころに副官のみを伴って司令部を離れ、さらに後方のシュエボへと向かった。牟田口によれば、シュエボへの先行は同地にいた方面軍兵站監の高田清秀少将との撤退中の食糧補給に関する打ち合わせのためであった。しかし、部下よりも先に後退するこの行為は将兵の強い不満を招き、河辺方面軍司令官も牟田口らを非難した。牟田口は、その後、8月4日頃にシュエボ北西で軍主力の退路に予定されたピンレブ付近を視察、シュエジンに戻る途中でシュエボまで後退中の第15軍司令部に出会い合流した[43]。
一方、イギリス軍は、第33軍団を投入して追撃戦を行った。雨期に入っていたため、イギリス軍もマラリアなどの戦病者が多発する結果となった。イギリス側は、追撃を強行したからこそ日本軍の再建を有効に阻止することができたと自己評価している。
8月30日に牟田口軍司令官と河辺方面軍司令官はそろって解任され、東京へ呼び戻された。
⑤日本軍の苦戦の様相
現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。
1.余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
2.余は第十五軍を救わんとする。
3.軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。
さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため[39]、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った[40]。
⑥航空戦
補給・偵察・攻撃と航空機を活用した[35]イギリス軍に対して、日本軍の航空支援は皆無だった。「制空権がなく航空作戦は無理」という陸軍第5飛行師団に対して、牟田口が「それならばチンドウィン渡河まででよい」と、むしろ支援を断る結果になったためである。
しかし、作戦中補給を求めても、空返事しか返さない牟田口に業を煮やした各師団は、指揮命令系統を超えて第5飛行師団に窮状を訴えた。第5飛行師団もそれに応じて、敵制空権下を突破して手持ちの食料医薬品を投下したが、襲撃機の武装を外しても輸送できる物資はわずかであり、全くの焼け石に水だったという。
⑦両軍の馬匹運用
本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄は、英印軍の軍馬の使用について次のように分析している。日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存した。作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったと言う。
騾馬:73日
中国馬:68日
日本馬:55日
ビルマポニー:43日
現地民から軍票と交換で入手した牛も山道を移動中、崖崩れで失われていった[35]。
これに対して英印軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸馬で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったと言う[34]。
結果
本作戦は参加した日本陸軍部隊・インド国民軍に多大な損害を出して、7月1日に中止された。日本陸軍の損害は、『戦史叢書』によれば、戦死者が第15軍の主力3個師団で計11400人・戦病死者が7800人・行方不明者1100人以上(計20300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3700人の戦病者が発生した[27]。インド国民軍も、参加兵力6000人のうちチンドウィン河まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅した。イギリス軍は、まだ生きている日本兵にガソリンを撒いて、火を付けて焼き殺したとされる[46]。
一方、イギリス軍の人的損害は、ルイ・アレンの調査によれば前哨戦で920人・コヒマ周辺で4064人・インパール周辺で12603人の計約17500人の戦死傷者が出た[1]。また、作戦末期に日本軍を追撃した第33軍団は、7月から11月まで週平均兵力88500人が投入されたうち、戦死者はわずか49人であったが、2万人を超えるマラリア患者を中心に47000人の戦病者が発生し、死傷病者は総計50300人にも上る容易ならざる損害を受けた[2]。『戦史叢書』はスリムの回顧録『敗北から勝利へ』による数字として、作戦期間中の英印軍の死者15000人および戦傷者25000人という値を挙げている[27]。
この作戦失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ=ベンガル湾戦線は崩壊、続くイラワジ会戦ではイギリス軍の攻勢の前に敗北を喫する。翌1945年(昭和20年)3月には、アウン・サン将軍率いるビルマ国民軍が連合軍側へと離反し、結果として日本軍がビルマを失陥する原因となった。
本作戦を特集したTV特番『NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 〜ビルマ・インパール〜』(1993年6月13日放送)では「一将功成らずして万骨枯る[注釈 8]」とこの作戦を総括した。
戦後、インパールのあるマニプール州などのインド東北部は、隣接するナガランド州などの分離独立運動による政情不安のため、インド政府は外国人の立ち入りを規制している。このため遺骨収集などは進まなかったが、1993年には多数の遺骨が発見されたチェンマイにある学校の敷地内に慰霊碑が建立される[47]などし、1994年には日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立した。地元住民の中には、食料と交換した軍票やヘルメットなどの遺品を保管し、遺族の訪問に備えている者もいる[35]。
イギリスの国立陸軍博物館(英語版)は2013年、インパール作戦及びコヒマの戦いをイギリス最大の作戦に票決した。またインドのヒンドゥスタン・タイムズは2017年6月、戦いに関する遺物保存や記念活動の取材ビデオを公開し、当事者の証言や、マニプル州の住民は多くは英軍のほうに従軍していたことなどを紹介した[48]。
NHKは2017年8月15日、新資料や日英双方の参加者、地元住民の証言からなるドキュメンタリー番組をNHKスペシャルの枠で放映した[35]。
日本軍敗北の責任
インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した[49]。牟田口第15軍司令官も軍司令官を解任され、予備役に編入される懲罰人事を受けた[49]。独断撤退を行った佐藤中将は作戦当時「心身喪失」であったと言う診断が下され、軍法会議で刑事責任を追及されることなく、やはり予備役編入とされた。佐藤中将自身は軍法会議で撤退の是非を論じることを望んでいたが、河辺方面軍司令官は、親補職の師団長を軍法会議にかけるには天皇の親裁を要することから、不祥事が重大化することを懸念して軍法会議を回避した[50]。責を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされることと、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したとも言われる[要出典]。河辺中将は方面軍司令官を退いたものの、翌1945年3月に大将に昇進し、終戦時には第1総軍司令官の要職にあった。
戦後、日本軍敗北の責任は主に牟田口にあるとする評価が支配的である[51]。戦時中からも、戦病死した山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語っていた[要出典]。この点、伊藤正徳は、牟田口が作戦の主唱者であった以上は責任甚大であるのは当然としたうえで、牟田口一人に罪を着せるのは不公平であると述べる。仮に牟田口が暴走したのだとしても、これを断固として押さえつけるのが上層部の責務であって、インパール作戦の無謀の責任は牟田口と大本営が少なくとも五分と五分[52]、あるいは引きずられた上司の罪をさらに重いものと見るのが公平であると評している[53]。
戸部良一は『失敗の本質』において、インパール作戦でずさんな計画が実行された原因について、牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張している[54]。
インパールの戦いを描いた作品
脚注
注釈 出典 このサイトは戦争証言の宝庫です ここを開いて
NHK 戦争証言アーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/
コピーし いろいろと利用するとよい
参考文献
関連書籍
関連項目
外部リンク