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折々の記 2009 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/02〜        【 02 】02/03〜
【 03 】02/09〜        【 04 】02/13〜
【 05 】02/14〜        【 06 】02/20〜



【 05 】02/14

  02 14 人材育成の歴史;日本教育史,閑谷学校
  02 15 江戸時代の儒学;儒教,大塩平八郎の乱,近江聖人
  02 16 <米沢藩の興譲館>気風
  02 18 認知症の予防・介護・治療

02 14(土) 人材育成の歴史;日本教育史,閑谷学校

【写真……日本最古の庶民学校 岡山県備前市の閑谷学校】

人づくりは0歳時からの知徳体食の教育にかかっています。

そして、日本の教育のあらすじについて、その概要を知っていることは大事なことです。

次にその全貌について挙げたい。

  日本教育史 - Wikipedia>

     奈良・平安時代の教育

        <大宝律令(701年)の大学寮>ほか <菅原氏・大江氏の文章院 ><和気氏の弘文院>
        <藤原氏の勧学院><橘氏の学館院><王氏の奨学院>など

     鎌倉から室町時代の教育

        <金沢文庫><足利学校>

     江戸時代の教育

        <昌平坂学問所(湯島聖堂又は昌平黌)>
        <藩校>
            <国宝 閑谷学校><会津藩の日新館><米沢藩の興譲館>
            <水戸藩の弘道館><長州藩の明倫館><佐賀藩の弘道館>
            <熊本藩の時習館><薩摩藩(鹿児島藩)の造士館><各地の藩校>など

     明治時代以後の教育
          明治維新後は学制改革の中で廃止された藩校も多く、生き残った藩校は
          旧制中学校に留まる物が大半であった。

        <学制>
        <教育令>
            <小学校令><国民学校令><中学校令 を編集中>
            <帝国大学令><旧制大学>
            <師範学校令>

     戦後の教育  年表

        <学校教育法>



日本最古の庶民学校 閑谷学校

日本初の藩校は、1641年(寛永18年)に岡山藩主池田光政が設立した花畠教場(はなばたけきょうじょう)が最初である。 しかし、全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年 - 1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。

熊沢蕃山を開いてみると、

   慶安4年(1651年)庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の
   寛文10年(1670年)日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身となった。

とあるから、江戸時代になって約70年ほど経ってのことである。 蕃山は中江藤樹の門下生で儒学で岡山藩主に仕えていた。

全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年 - 1764年)以後で、各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。 発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。 藩校の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする政治家や学者の輩出にも至ったものである。

かくして江戸時代の学問は儒学を主としたものになった。

閑谷学校へ行く機会があれば、次のサイトが参考になる。

   <閑谷学校> - Wikipedia
   <「閑谷学校」公式ホームページ>
   <池田光政「花畠教場」設立は間違い>
   <日本最古の庶民学校 閑谷学校 -岡山県備前市->
   <閑谷学校の歩み -岡山県備前市->
   <国宝 閑谷学校>
   <備前市の観光>


02 15(日) 江戸時代の儒学;儒教,大塩平八郎の乱,近江聖人

中国や朝鮮から伝わってきた文字をはじめとする儒教や仏教、社会制度すべてにわたる文化は、日本文化の根幹をなしている。 これは紛れもないことです。

日本最古といわれる閑谷学校の熊沢蕃山、その師となる中江藤樹、かれらの陽明学も渡来した文化です。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99【儒教 - Wikipedia】

Googleで調べると


儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学(中国語: Ruxue(ヘルプ・ファイル))、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。


と、概要を解説し教義と中国における展開が詳しくのべられています。 大いに参考になります。

‘「王陽明」安岡正篤(やすおかまさひろ)PHP文庫’をみると、昭和49(1974)年王陽明生誕五百年記念にかかわる記念講演を編集した本です。 とても読みやすい本です。 この講演は著者が72才頃のものです。

この本の中にはこんなことも書かれています。


今日の時世に本当に欲しいのは活学・正学であります。 この活学・正学によって、真に人間を鍛えた人材が出なければ、私はこの日本は恐るべき混乱、ことによると忌むべき暗黒時代が来るということを昨今、痛心禁ぜざるものがあります。

時局がやはりそうで、こうなりますと、時代、人心も自ずから霊妙なものがあって、人々は意識、あるいは自覚しませんけれど、何か真実なるものを求める。 何か真剣なものを求める。 これは「良知」であります。

人間が持っておる、皆が本具しておるから、「良知」であります。 これを「致す」、これを完成する、発揮する、これが陽明先生の唱えた「致良知」なんであります。

そして、観念の遊戯ではなく、それを実践するというのが「知行合一(チコウゴウイツ)」であります。

そういうことを、時代・民衆がやはり本能的に(本人は自覚しないけれども)何か求めている。 そこで陽明学というものが自然に囁かれる、期待されるのであると信ずるのであります。




大塩平八郎の乱

さてそこで、この「知行合一」というと、‘大塩平八郎の乱’が脳裏にうかびます。

大塩平八郎の乱については、岩波文庫本でなくてもその概略は歴史の知識:大塩平八郎の乱のサイトを開いてみればよい。



近江聖人

それにしても江戸時代の儒学は深く人々の胸に浸透していたのですね。 この頃のこどもたちは「近江聖人」という言葉を聞いたことはありません。 そういう環境にないから無理もないんです。

親たちにしても中江藤樹ってどういう人? ほとんどの人は知りません。 教えられなくては知ることはできません。

道義が地に落ちたという感がつよい。 仏教も儒教も倫理の歴史も高校でも大学でも必修科目としては教えられていないのです。 東洋的な文化の影はますます薄くなっていきそうです。

これではいけません。


02 16(土) <米沢藩の興譲館>の気風


14日に調べた日本教育史・江戸時代の教育・藩校をみていると、それぞれ特徴があるけれど殊に<米沢藩の興譲館>で眼にとまることがあった。

   細井平洲

   上杉治憲(後の鷹山)

 まずこの二人をひらいてコピーしたい。
 儒学がいかに江戸時代の武士のなかに浸透していったのか、
 あらためて認識を新しくしました。
 そしてまた、直江兼続がいかに配下の武士たちを大切に考えていたのか、
 それが直江兼続の改革を成功に導いた原動力になっていたのか、
 あらためて認識しました。 

細井平洲が上杉治憲を励ました言葉

平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。 要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味であった。

米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。


上杉鷹山について主要なことを取りあげて見ておく。

上杉鷹山は文政5年3月11日(1822年4月2日)、死去。 享年72(満70歳没)。 法名:元徳院殿聖翁文心大居士、墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。 始め上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られたが、1902年(明治35年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。

 伝国の辞

 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。

 内容は下記の通り。

  一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
  右三条御遺念有間敷候事
      天明五巳年二月七日  治憲 花押
     治広殿  机前

伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

 人物・逸話

正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした(但し一度も交接すること無し)。しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで、治憲より10歳年上で上杉家分家の姫である豊姫(お豊の方)を側室に迎えた。

35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広に譲ったのは、重定が存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。

有名な「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり[2]」(『上杉家文書』国宝の抜粋 上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん 『書経』)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[3]。

2007年(平成19年)に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。

米沢藩中興の祖である鷹山は現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。

当時、米沢藩では直江兼続の法要は憚られていたが、鷹山は「上杉家で直江殿夫妻の法要も営まず、香典も添えないのは人情ではない」と述べて、兼続の200回忌を挙行し、香華料を捧げたという。

アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたとして、話題になった事がある(英文で発表された内村鑑三の『代表的日本人』の影響によるものと考えられている)。ケネディが鷹山について発言した際には、日本人から「Yozanとは誰か」と質問が出たとも言われる。鷹山の知名度や人気が上昇した背景には、米国大統領が知っている有名人を日本人が知らなかった、という驚愕の事実が背景にあると言われる。ただし現在の所、ケネディや クリントンがいつ、どこでこの発言を行ったかというソースが存在しないため、この逸話の正確性には疑問があると言われる。


為せば成る 云々………」は子供のころ、母親から何回となく聞かされていた言葉です。 こうしたことは、諺とともに親おら子へ、親おら子へ、と口伝されてきたものです。 人をいじめてはいけない、その子にも親がおって親が悲しがるから、とも教えられていました。 

今ではこの「親から子へ、子から孫へ」という口伝による精神文化の伝承は、小家族制や共働きによって失われてきています。 時代の変化は価値の有無を考えることなく推移していってしまします。


   直江兼続  このページも全部コピーしておきたい。

     父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曾義仲の重臣・樋口兼光の末裔といわれている)。
     母は信州泉氏・尾崎重歳の娘(上杉家重臣・直江景綱の妹説もある)。 
     兼続は、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれる。

兼続は大河ドラマ「天地人」で活躍しています。 

   このウェブサイトで見るかぎり、米沢藩の基礎づくりは直江兼続と
   お船によることが大きい。 上杉鷹山の功績も大きいけれども、
   家臣団を大事にした直江兼続のこころねが脈々として
   伝わってきているように思われます


風土の力は、目には見えない潜在的な底流になっている、その根拠。

「因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男12414名、卒族戸数9474戸、男14029人、であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3425戸、男7565名 卒族戸数3308戸、男11980人であった。この比較から、米沢藩の厳しさは一目瞭然である」という記事があります。


直江兼続とは直接のつながりはありませんが、同じ東北ですから他藩からの影響は多分にあったのでしょう。

私たちが知っている会津の白虎隊を育て上げた<会津藩の日新館>を見ていると、次に取りあげる「什の掟」がでています。

  什の掟 [じゅうのおきて]  あつまるの意、集と同義

 日新館入学前の六歳から九歳までは地域ごとに組を作り、お互いに武士としての心構えを学びました。
 「什の掟」はその時の規則です。

   一、年長者[としうえのひと] の言うことに背[そむ]いてはなりませぬ
   二、年長者にはお辞儀[じぎ]をしなければなりませぬ
   三、嘘言[うそ]を言うことはなりませぬ
   四、卑怯[ひきょう]な振舞[ふるまい]をしてはなりませぬ
   五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
   六、戸外で物を食べてはなりませぬ
   七、戸外で婦人[おんな]と言葉を交[まじ]えてはなりませぬ

   ならぬことはならぬものです。



今でもこうしたことが、日常の礼儀として日本中で行なわれているでしょうか……?

戦後の復興によって、礼儀正しいといわれた日本人の美徳の姿が、「物質文化」「お金の魅力」に気を奪われるようになって押し流されていったのではないでしょうか……?

東洋的な美徳が日本からはやがては大事にされないようになるのでしょうか……?

なにはともあれ日本から儒教文化が薄れて、OECDの世界学力検査の結果に現れているように、知的道義的財産が失われていくのではないでしょうか……?

学力検査に現れるものは人間の知的財産の一角が現れたものなのです。

ドバイのような金の亡者の楼閣は所詮、砂上の楼閣にすぎません。 

一人一人の体の中からお金の欲望をコントロールしなければなりません。

人として恥ずかしくない生き様をしたいものです。


02 18(水) 認知症の予防・介護・治療

歳をとってくると、認知症の予防・介護・治療についての理解をしていなくてはならない。 物忘れが高じてくると、認知症もアルツハイムも‘やがてわが身’の覚悟をしておかなくてはならないからだ。

一連のチェック箇所を調べます。

@ 認知症の予防

    <教えて!認知症予防>

このサイトには認知症の概要が網羅されています。 ですから、内容項目の一覧を下に掲げます。

実際に見る場合には、上のURLを開いてからプリントするか内容を理解すればよい。

認知症の基礎知識Basic Knowledge認知症の種類Kind認知症の予防Prevention
 脳と記憶のメカニズム  アルツハイマー型認知症 食生活と認知症の関係
 認知症(痴呆症)を知ろう  若年性認知症 飲み物で認知症を予防?!
 認知症の症状  脳血管性認知症  生活習慣を見直そう!
 認知症の原因は?  ピック病  海馬を活性化させよう!
 認知症と関係のある病気  パーキンソン病・症候群  簡単な運動を習慣に
 認知症をとりまく社会  レビー小体病  肥満と認知症
 - - いますぐできる!予防の知恵
認知症の介護Nursingヤマブシタケと認知症YAMABUSHITAKE認知症お役立ち情報LIBRARY
 認知症の診断  菌食のススメ  認知症おもしろ雑学
 認知症と間違えやすい状態  ヤマブシタケってなに?  「脳を守る」ための10か条
 症状対応のコツ  ヤマブシタケの臨床データ  「物忘れ予防」の10か条
 認知症の薬物療法  ヤマブシタケの効果効能  「脳を若く保つ」ための9か条
 認知症のリハビリテーション ヤマブシタケでおいしい料理  教えて!認知症Q&A
 バリデーション療法  ヤマブシタケのレシピ募集! 認知症リンク
 介護サービスと介護保険  - -


実際開いてみると膨大な資料が載っている。

A 認知症の介護

    <認知症を知るwww.e-65.net|認知症介護の具体的対応法>

具体的な15項目に分けて介護の仕方を説明してくれます。 介護についても@認知症の予防にでています。

B 認知症の治療

    <アルツハイマー病(痴呆症・認知症)の症状と治療・物忘れ防止・軽度認知障害・一過性全健忘・ピック病>


アルツハイマー病・認知症   最終更新:2009.1.9

日本のアルツハイマー型認知症の患者は推定100万人。脳血管性認知症の患者より2.5倍くらい多い。65才以上の10人に1人は発症すると言われるほど、高齢者に多い病気だが、最近は18歳〜64歳の若年の認知症(アルツハイマー)が増えていると言う。正確な統計はないが、10万人はいると言われている。65才以上の老年痴呆に比べて人生の活動期だけに始末が悪い。今や、アルツハイマー病は高齢者だけの老化による病気ではなく、極端な言い方をすればどんな年齢でも起こりうる。ただ、高齢化が進むにつれて患者が益々増える事は間違いなく、根本的な治療法の確立が望まれている。従来、かかったら治らないと言われてきたアルツハイマー病だが医学の進歩により目覚ましい成果が次々と発表されており将来が期待される。良い治療法が確立するまであと3年、何とかアルツハイマーにならないでいたいものだ。それまでは、1日20分、週2回の有酸素運動、バランスの良い食事、趣味等で脳をせいぜい刺激しておこう。



このサイトは羅列的に項目や内容が取り上げられているが、参考になることが多い。

以上のほかにもいろいろのサイトがある。 @ABは重複している部分もあるが、すべて印刷して製本しておく予定。