02 23(月) ミトコンドリアDNAで日本人のルーツを探る |
現人類のルーツ・・・それはアフリカのブッシュマンであった! 我々はみな、世界中の人々はみんな、ブッシュマンの子孫である。 |
http://honda4377.hp.infoseek.co.jp/rootsofjananease.html <日本人のルーツを探る………ミトコンドリアDNAを辿る> |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2DNA <ミトコンドリアDNA - Wikipedia> |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2 <ミトコンドリア - Wikipedia> |
http://www.dai3gen.net/mt00.htm<MtDNAで判ること> |
http://j_coffee.at.infoseek.co.jp/mitokondoria.html<ミトコンドリアは、かく語りき> |
ミトコンドリアDNAについて■最近ミトコンドリアDNA解析による研究が盛んに行われています。ここでは、ミトコンドリアDNAについて簡単に紹介します。詳しいことを知りたい方は、色々な本が出ていますので、それを参考にしてみましょう。このホームページでは基礎だけ触れます。
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ミトコンドリアは私たちが空気を呼吸して取り入れた「酸素(さんそ)」と食事をして取り入れた「ぶどう糖(ぶどうとう)」を、「二酸化炭素(にさんかたんそ)」と「水」と「エネルギー」に変える働きを持っています。エネルギーは体温を保ったり、運動したり、物事を考えたり、その他の化学合成をする時などに使われます。つまり、ミトコンドリアがないと、私たちは生きていけない非常に大切な細胞内の器官(きかん)なのです。ミトコンドリアは「生命エネルギーの製造工場」とも呼ばれています。 |
mtDNAは母親のものだけが子供に伝わることが分かっています。父親のmtDNAは卵と精子が受精した後、排除されることが確認されています。みなさんの体の中のmtDNAはすべておかあさんと同じmtDNAなのです。なぜおとうさんのmtDNAが伝わらないのかは、色々と説がありますが、いまだによく理解されていません。 さて、この特性は生物の進化を調べるのにある利点があります。それは、ある特定の祖先にたどり着くと言うことです。 |
01 | 核小体 Nucleolus | 08 | 滑面小胞体 Smooth endoplasmic reticulum |
02 | 核心 Nucleus | 09 | 糸粒体 Mitochondrion |
03 | 細胞の細胞質にあってタンパク質合成の場となる小顆粒 Ribosome | 10 | (細胞中の)液胞, 空胞 Vacuole |
04 | 小嚢 Vesicle | 11 | 細胞質ゾル ((細胞質の液体部分)) Cytosol |
05 | 粗面小胞体 Rough endoplasmic reticulum | 12 | 水解小体 ((細胞小器官の一つ)) Lysosome |
06 | ゴルジ体 Golgi apparatus (or "Golgi body") | 13 | (細胞分裂の生じる)中心体 Centriole |
07 | 細胞骨格 Cytoskeleton | - | - |
ミトコンドリアはよくカプセル状の絵で表現されますが、実際は神経のように細胞内にクモの巣のごとく広がっており、なおかつ目に見えるスピードで互いにくっついたり離れたり常に形を変化しています。この特徴は名前にも反映されていて、「ミトコンドリア」とは「ミト(mito=糸)」と「コンドリオン(chondrion=粒子)」という言葉から出来ています。 |
目 次 1.現人類のルーツ・・それはアフリカのブッシュマンであった! ”ブッシュマン”!!それが、私たちの祖先である。 我々は、ジャワ原人の子孫でもない。北京原人の子孫でもない。 皆、世界中の人々は、共通の親の子孫である。 ネアンデルタール人は、3万年前に絶滅した。 彼らの特徴については諸説があり、まだまだ今後の調査が興味深いところだ。 しかし、真実はすべて、必ず、いつか明かとなる。 そういうものだ! 2. ところで、日本人はどのようにして来たのであろうか? 今、日本人のミトコンドリアDNAを分類すると、16群に分けることが出来るそうです。 ・・・・・ということは、日本人の起源をなす母親は16人居たと言うことです('07年修正)。 もっと、先を辿っていきますと、元は、アフリカに突き当たります。最初の母親はアフリカの 一人の母親であったそうです。突然変異で塩基の並びが変化し様々なタイプが生まれる。 (数百世代で一つの変異がおこる)いろいろな分け方もあるが、今、世界中で約80種類。 卵子と精子が受精した瞬間に、精子の持っているミトコンドリアは、卵子の中で消えて無く なってしまいます。従って、女性が代々とミトコンドリアDNAを受け継いで行くのだそうです。 (子供は、女子を産んで、その女の子が子供を産んでも、それが女の子でないと、次の 世代にはミトコンドリアDNAは伝わりません。) ところで、現在の日本人のミトコンドリアDNAのタイプは、16である。 2007年11月に16タイプと発表された。 3 日本人のルーツは ?? 祖先は、3つに大別できる! 祖先は、3つに大別できる! ・・・・「日本人遙かな旅」 NHK より 人類は、20万年前 アフリカ大陸で誕生し、その後、10万年前にある集団はヨーロッパ大陸へ、 或いは東南アジア大陸へと移動を始めた。 @ シベリアにはぐくまれた知恵 A 大海原を越えた南の海の民 B 中国大陸からイネを携えそして日本へ 従って、 アジアの様々な顔を持つ日本人となった。 :複雑に混じり合うDNA。それが日本人の姿である。 世界平和を願わずにはいられない。 元は、皆、一人の母親なのだから!! (1) 一つは、シベリアから・・ @ 現在のブリアート共和国人 A オボンキ遺跡発見。 サハリンエニセイ川河口付近で ここで細石刃を発見。 B 柏台T遺跡 C 帝釈峡遺跡 (広島県油木町) D 百人町三丁目遺跡 (新宿) (2) 黒潮に乗って、南から北への、海のハイウェイを渡る祖先 貝殻文様の土器 @ 南九州の民・・・・・縄文時代の初め花開いた民族 ・・・現代人や、後の縄文人よりも背丈は小さい (男155cm女144cm)。 A 沖縄人の暮らしぶり ・・・ 熟年男性骨格9体の港川人骨発見。 B 9,500年前 鹿児島・上野原で定住生活 日本の他の地域に先駆けて・・・。 C その後、北に移動していた (3) 東京 多摩ニュータウン 1,000を越える住居跡 土器も多い。 @ 青森県山内丸山遺跡・・・ 5,500年前 A 集落の衰退 B 小高い丘から平野に移動を始めた。 (4) 稲の栽培を・・ (5) 水田技術の伝来 (6) 渡来人 稲作技術 (7) 渡来人の持ってきたもの。 (8) 交流と通婚 |
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タイプ | 人口% | タイプの起源と特徴など |
D | 34 |
6万年前にバイカル湖畔に定着し住んでいた人々だ。 このタイプはベーリング海を渡ってアメリカにも渡った。アメリカ先住民(ネイティブアメリカン)が、このタイプ。 日本へは朝鮮半島を経て渡った。 耐寒性あり。 後にこれは、D4とD5に細分された。 このタイプの人類もベーリング海を渡りアメリカ大陸に渡って、タイプ:Aの人びとの住んでいた場所にも赴いて、インカ帝国を築いた。 |
B | 15 | 6万年前に定着。環太平洋に移動を開始。後にこれは、B4とB5に細分された。 |
F | 5 | 4〜5万年前やせ形のタイプ。 朝鮮半島を経て日本にも・・。 |
M7 | 15 | 4万年前に定着した中国南西部から移動を始めた人々。 多くはフィリピン方面に行ったが、一部の人々は、やはり朝鮮半島を経て、日本にやってきた。 2万4千年前にこれはM7a(日本にのみ存在するタイプ)・M7b及びM7cに細分された。 日本にしか居ないグループ。沖縄・九州に多く日本の南から北へと広がったと考えられる。 M7aは、日本以外にはこのタイプは居ないので、他の国からこのグループを捜すことはできない。 このタイプは現代日本人と縄文人には共通して存在。 しかし、弥生人にはない。 |
M9 | 3.4 | 4万年前にヒマラヤ山の民として定着。 中央・東アジア 朝鮮半島を経て日本にも・・。 2007年11月放映時に、タイプ名M10に変わったか?! |
M10 | - | 2007年11月放映時に追加された。 |
C2 | 3.2 | 3〜4万年前に定着。 フィンランドへも及びラップ人にも。朝鮮半島を経て日本にも・・。 2007年11月放映時に、タイプ名Cに変わったか?! |
G | 7.5 | 3万年前に定着。 酷寒のシベリアから移動開始。 アジア人に最も多い。途中でY型に変わり樺太を経て日本に・・。アイヌの祖先か。 |
A | 6 | 2〜3万年前に定着。北米人(ネイティブアメリカン)の祖先となる。朝鮮半島を経て日本に・・。 このタイプの人類は、ベーリング海を渡ってアメリカ大陸に渡り、後にインカ帝国前の住民でもあった。 |
N9 | 7 | 2〜3万年前に定着。これらの中では新しい日本人。「渡来人」ともよばれる。 後にこれはN9aとN9bに細分された。 N9aはアジア中のどこにも極めて少ないグループで、ルートを極めにくい。似たようなグループは北に多いので、北から渡ってきたことは推定できる。 縄文人にはなく現代日本人と弥生人に共通して存在。 |
Z | - | 2007年11月放映時に追加された。 |
※ 一万年間語り継がれたモンゴロイドの大いなる旅路 ※ ポーラ・アンダーウッド 星川淳 訳 翔泳社より 抜粋 (180ページ〜)
”はじまりの歌”が、歌われるに至るまでのいきさつ ・・ 彼らが北米大陸にまで達したときに、苦難の末安住の地かと思われる場所にたどり着いた。 しかし、そこには先住民たちが居た。彼らは海上を移動してハワイを経てやってきた、カヌーを上手に扱う人々<水を渡る民>であった。 しばらくの年数、彼らの近く<大海のほとり>に居住したが親しくなれないまま時が過ぎて、ある日、突然のように別な地に立ち退くように言われた。 行き先を思いあぐねたが、どの方向も先行きの難儀な旅になりそうであった。そこで、老人と子供たちだけは、そのまま留まることを依願して、それが受け入れられた。 さて、旅立ちに先立って、共に旅の出来ない老人が、去りゆく一族たちに口承をした。 それは、彼らがベーリング海を渡ってからおよそ78年後のことだった。86才の老婆が語る話は、三日間かかって、一族に口承された。 それは、これまでに聴いたことのない話であった。 旅立たなければならない人々には、初めて聴く話が三つあった。 ここに、誠に興味深いその話の一部をご紹介する。 「はじまりの歌」・・ さて言っておくが、わが一族のはじまりは<大海のほとり>の里よりはるか昔に遡る。それはあまりにも遠い昔で、だれ一人時を数えることも出来ないほど。であるにもかかわらず、われらのあいだには次のような物語が伝えられてきた。 遠い昔、遠い昔、遠い昔・・・・・わが一族は緩やかな群れをつくって暮らし、太陽がたまにしか見えないほどの背の高い木々のあいだを縫って日々を過ごしていた。それは呑気な時代。手を伸ばしさえすれば何かしら熟れた果実に恵まれる時代であった。 それはまた、滝をなして降り注ぐ雨が木の葉や枝のつけ根にたまり、大地からばかりか木々からも水を求められる時代であった。木々の下の地面はしばしばぬかるんで危険に満ちていたから。【アフリカに大地溝帯が誕生する前の話のようだ】 こうして、一族は時を超える時のあいだ心安らかに暮らしていたがやがて世界が変わり始めた。木のない土地が近づいてきて、大きな木々が大地に倒れ、かわりに新しい木が生えなくなったという知らせが伝わった。大地にしっかりと根ざし、長い長いあいだ揺るぎなくそびえていた巨木たちが、大地とのつながりを失って一つ、また一つと、退く森の方へ倒れはじめたのだ。【乾燥が押し寄せて大木が次々と枯死して倒れた。時間の経過も推し量られる。森の反対側の根が枯れて浮き上がって、木々は森の方向に倒れた。アフリカに大地溝帯が誕生してからの変化であろう。】 このため、それまでわれらの住みかであった木々がわれらを大いに脅かすようになった。【樹上には住めない。また、木々のあいだにも安住できない】そしてこのありさまを見た者たちは、草地へ歩み出すことを学んだ。だが、そこでの暮らしは困難をきわめたため、多くの者は森に住み続け、最後には木々たち自身から振り落とされるはめになった。 いっぽう新しいやり方を楽々と身につけた者たちは、一族にすばらしい贈り物をもたらした。それは果実ではないけれども栄養になるものを見つけ、水野探し方をおぼえて、生きていく新たな方法を学んだ者たちであった。というのも、雨の降る回数はますます減り、大地のあちこちに水たまりをつくりはしても、木々の上にたまることなど珍しくなったから。 そこで、一族のある者たちは大岩や丘などの高い場所を見つけ、ぐるりと遠くを見渡しては、水野ありかを示す大きな獣たちの群れを探すのであった。そしてわれらは、この仕事に一番巧みな者たちを重んずるようになったのだ。【視力の良い者が、一番巧みだったのであろうか?モンゴルでは、視力9.0の人がいるそうな?!】 さて、わが一族の習性として、ゆるやかな群れで、ほぼ北の方角へ移動していくことになった。 (中略・・・移動しながら、水も食べ物も不測に事態に備えて蓄えることを学ぶ。飲める水と飲めない水のあることを学ぶ。やがて、<大海のほとり>にいたる。) さて、ものごとの習いで、この<大海のほとり>に住む一族の数がふえはじめ、暮らしは前ほど楽ではなくなった。ただし、大海の岸ぞいに北と南に旅した者たちが、あちこちに新しい村を作ってはいた。すでに大海の性質と生きる糧を得る可能性について理解がゆきとどいていたため、そうした移住はたやすいことだった。 それにしても、一族の数は望ましくないほどふえていた。なんらかの答えを探し、見つけねばならないことは、みなよくわかっていた。 (中略・・一族でいろいろと考えた末、次のような実験をした。) さて、大海のほとりの生活は、このほかにも絶えざる学びをもたらした。 たとえば、一族は水の中を動く技をめきめきと磨き、水面の下のたくさんの場所を知識に加えていった。というのも、一番簡単に食べられる小さな生き物たちは、さまざまな方法で水中の岩の表面にしがみつくことが多かったし、もっと動きまわるほかの生き物も、砂や岩の中に隠れることが少なくなかったからである。そのため、こうした生き物を探すには、しばらく【口承の「しばらく」は、随分と長い時間の経過を言う。この間に浮力によって、二本足歩行はより容易となり、体型もヒトらしくなったかも?!】水中で過ごさなければならなかった。 さらに、水中での採集は次のようにするのが一番だった。 まず、手と足を使って水面からなるべく下のほうまで潜る。泳いだりあわてて逃げたりするものたちを探すのに適した場所を見つけたら、じっと止まって待つ。やがて、何かが自分なりの食べ物探しを再開するはずなので、こちらに向かって歩くか泳いでくる手ごろな獲物が見つかるだろう。そうしたら、その生き物をうまく捕まえて連れて帰ればいいのである。 さて、こうした学びのかたわら、もう一つのことが起こりはじめた。 ときおり<大いなる泳ぎ手>【イルカか?】がやってきたのだが、彼らはわれらと同じくらいの大きさか、ときにはもっと大きな体をしていた。得体が知れなかったので、最初のうち、われらは彼らを疎ましく思った。けれども親近感が強まるにつれ、心配はいらないことがわかった。 むしろ、これらの生き物はわれらと一緒に泳ぐことが大好きらしく、われらも彼らとともに泳ぐことを心がけるようになり、大海(おおうみ)の性質をいくつか教わった。われらが大海の深みについて、また幼いものたちに泳ぎを教える方法について学んだのは、この生き物からだったのだ。 【この時代だろうか? 体毛がそぎ落とされて、今の人類のような状態になったのは・・・・?しかし、頭髪は伸びて(猿人は短かいままだった。)、子供がそれにしがみついて、溺れることなく親子が共に生活したのであろう。】 彼らとわれらでは体の形がちがうため、彼らそっくりに動いたり泳いだりすることはできなかったが、彼らのすることの多くはわれらにもできた。われらは彼らから、泳ぎのあいだなるべく長く息を止め、少しずつ楽にこの状態をしのぐ方法を学んだ。 彼らの意思疎通の形式には、どこかわれらを驚嘆させるものがあった。彼らどうしが理解し合うとき、そのやり方がわれらにはよくわからないので、われらは自分たちが彼らにどう映るのかを思いめぐらすようになった。われらに意思疎通は主に空中で行われるのに対して、彼らは水中でそれをする。だが彼らとわれらも、もっと不器用ではあるにせよ、互いに少しは通じ合えるのではなかろうか、とーー。 こうした交流を通じ、われらはそれまで考えられなかったようなやり方で自分たち自身を理解しはじめた。そしてわれらは、これら<大いなる泳ぎ手>とわれらが互いを生きる糧として求めるのではなく、仲間として、また学びの道ずれとして求めていることに気づいた。 われらはこれに大きな意味を見いだし、このような学びの大切さを心にとどめようと誓った。 「われらは彼らにどう映るだろう」という問いを、つねに問い続けようと。 さて、こうしたさまざまな学びや暮らしぶりの変化があり、さらには一族の数を野放しにふやさない方法を身につけたにもかかわらず、多くの村の<中つ地>となった砂地を歩く足は、やはりふえすぎていることがわかった。 そんななかでときおり、一族の中から生まれた集団が大海から内陸に向かい、山地を越えて大地の未知の部分に旅立っていくことがあった。時がたつと、自然に一つ、二つと出発する集団が現れたのだ。 ところが最後に、新しいことが起こった。そういう集団が一つ生まれ、たいそう後ろ髪を引かれながらも、山地を越えて未知の明日へ旅立つことにしたのである。そして、これだけではそれまでとは変わらないが、このときは次のようなちがいがあった。 この新しい集団にはわれらの祖先が含まれていて、それ以来今日まで、われらのだれ一人として、二度とふたたびその<中つ地>を見ることはなかったのだ。 |
一万年の旅路 A Native Anerican Oral History ネイティヴ・アメリカンの口承史 ポーラ・アンダーウッド 星川淳=訳 / 翔泳社 ・非神話的歴史書 ・苛酷な旅の中で学びを続けて ・他民族との交流 仏教との共通点も多いネイティヴ・アメリカンの知恵 ◆ 非神話的歴史書 西洋人からかつて「インディアン」と呼ばれていたネイティヴ・アメリカンは、民族的な共通点から、かつてアジアに住んでいた人々がベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移動したのではないか、という説が有力なのだが、まさにこの説を裏付ける一資料となるのがこの本。それも、単なる移動の記述だけではなく、その時々の心理的な面まで詳細に伝えている。もしこの内容が真実だとすれば、読者はまさに一万年の時を超え、面前に人類の移動の場面を目の当たりにすることになるだろう。そしてその可能性は案外高いのかも知れない。 著者のポーラ・アンダーウッドは、ネイティヴ・アメリカンのひとつイロコイ族の口承史を親から継承し、先祖の遺言に随ってこれを英訳出版した。その内容たるや、かつてのどの歴史書にも書かれていないような、今では想像するしかない事柄を、まるで舞台の上で再現したかのように鮮明に写し出している。たとえば、壁画を最初に描いた人間の心理、農業が始まったきっかけ、服を着た最初の人物、ネアンデールタール人とおぼしき一族との交流等々、これらが日常的な動機から起こったことが述べられている。大抵、こうした余りにも古い事柄は、他の民族では、たとえば服を着ることなど失楽園の物語のような神話的な記述になってしまっているが、ここにはそうした超越的・教条主義的なものはなく、人間の行動と知恵の結晶として語られている。 彼らの語りは何かに似ている・・・そう思って読んでいると、大乗仏教との共通性が多々あることに気付く。イコールではないが、人生を読み解く姿勢が似ているのだ。以下、そうした点にも注目し、本書を読む機会が無い人のためにも、多くの伝承を紹介したい。 ◆ 苛酷な旅の中で学びを続けて イロコイ族が、長く住んでいた東アジア地域から北方に向かうきっかけとなったのは天災(火山と津波)で、その時に長老たちが死し、先祖からの伝承や文化のほとんどを失ってしまった。
若者だけの集団となった一族は、いわゆる「常ならぬ命」に敏感になり、また自分達の知恵の足りなさを補うことを最重要課題とする。
一族の学び方は独特で、単に他人の真似をすることをよしとせず、能動的な学びと、それを活かす方法を伝える。また、話し合いの重要性と、その場に年少者も加わることを重んじ、さらに他の民族に好印象を与えることも願っている。これは、常に苛酷な環境に耐えつつ移動し生活するという中で身についた姿勢だろう。
また、日々の生存にのみ執われるのではなく、目的を持つことの重要性が説かれる。彼らの旅は、目的のない「さすらいの旅」ではないというのだ。これはベーリング海峡を渡りきった一族の自負であったのだろう。そして、様々な意味をこめた言葉の誕生により、豊かな文化を獲得したことが読み取れる。
「大きな意味を宿す短い音声」というのは、宗教を語る上でも重要であろう。大乗仏教の経典などは特にこうした言葉であふれている。 そして、次の子どもの言葉などは、「三世の諸仏が集う場」そのものではないだろうか。
彼らは、新しい大陸に渡り、望みの場を得ても、なお目的を求める心であふれていた。喜びは目的を達成することにあるのではなく、目的を見出すことにあるというのだ。
◆ 他民族との交流 一族は、ついに西海岸に到着し、そこで他の民族<水を渡る民>とであう。彼らは海に生き、舟を移動手段としていたので、歩いて移動するイロコイ族に驚き<歩く民>と名をつける。 <水を渡る民>の歴史は以下のようなものだった。
交流は一族に大きな学びをもたらした。特に、単なる取引的な関係ではなく、仲間としての意識が芽生えたことが重要だった。
そして、ついに人類共通の場を、そして生命共通の場を見つけ出す。
こうして、交流が大きな成果を生み、様々なグループとしての交流も生れた。そして少しづつ「歴史」という観念も生れてくる。
ところが一転して、この交流は悲劇に終わる。<水を渡る民>から追放を言い渡されたのだ。旅の準備のできていない一族は、子どもたちを安楽死させるというつらい決定をし、行い、そして大いに後悔する。
取り返しのつかない悲劇から得た知恵を「祝う」という感覚には違和感もあるが、先人たちの失敗から学ぶということは、とても尊いことだろう。 さて、先に「大乗仏教との共通性が多々ある」と書いたが、もちろん相違点も多々ある。たとえば、彼らの中にある<予見に対する信頼>という性質である。ただし、それが大きな悲劇をもたらしたことも述べられている。ある種類の木苺が食べられるかどうかを予見によって判断したため、多くの死者を出したのである。そして当然、この経験からの学びも重要となる。
こうしたバランス感覚があるとはいえ、予見に対する一定の信頼までは失っていないことは読み取れる。 その後も多くの学びを重ねる。たとえば移動する民族ゆえ身障者は一族の負担となるため、障害のある赤子は産まれてすぐに安楽死させることが慣しだった。しかし、その習慣を破る男が登場し、歩く生活の中で自ら仕事を見出すのだった。
ここで、一族の学びはついに以下のような主体を見出すに至る。
「われらとともに行く」・「一人ひとりの中に宿るもの、全員の中に宿るもの――そのすべて、そのそれぞれ」とは何であろうか。もしこれを固定的実体としてとらえていないのであれば、これは大乗仏教でいう仏性の報いであり「報身」なのではないか。つまり浄土経典でいう法蔵比丘もしくは法蔵菩薩につながる何かを一族は見出したのではないだろうか。 もちろんこれには異論もあるだろう。例えば――「これは単なる宿命[シュクミョウ](シュクメイではない)である(参照:{令識宿命の願})。なぜなら一族は本願を見出していないのだから法蔵菩薩も見出せないはずだ」という論である。 ここで自問自答を披露しても仕方がないし、結論はもっと深く探ってから出すべきだろうが、もしかしたらここに、おぼろげながらも、一切衆生に宿る如来蔵・法蔵比丘の一表現が仏教書以外で見出せるのではないか、と私自身は期待している。 オハイオ川にたどり着いた一族は、ここでかなり長い世代を過すことになる。定住することによって健康の向上を得たのだが、同時に精神の向上も目指す。
オハイオ川定住の終焉は、大西洋を船で渡ってきた<太陽の民>と出会うことから始まった。ここで彼らの<大いなる大地の蛇>を作る作業を手伝うのだが、奴隷的立場を嫌って、ある日、いともあっさりとこの場を去ることにする。おそらく<歩く民>としての文化が継承されていた結果だろう。やがて東の大海にたどりつき、<石の丘の民>とであうのだが、以前の<太陽の民>と民族的共通点が多く興味深い。 イロコイ族が最後の定住地として選んだのは<美しい湖>周辺で、おそらくこの湖はオンタリオ湖であろうと推測される地であった。ここは他民族が後の住みかとして確保していた土地なのだが、一族は今までの経験をふまえ、老獪な手法で占拠することに成功する。そのため、幾世代にも渡って他民族と争い、また融和の歴史も繰り広げられることになる。 ここからは、現代の民族紛争にも通じる歴史になるのだが、文化交流や使節団の活躍もあり、また模擬戦(一種のスポーツ)を行なって戦争を回避したりと、平和への試行錯誤は続いた。しかし模擬戦が敵意剥き出しの戦いになることもあり、後世はますます腕力がものを言う時代になってきた。そこで、そうした時代にこそ、かつては人を殺さない一族であった歴史を皆に思い起こさせるため、腕力に長けた若者にもこの歴史を伝えることにする。
あまりにも長く遠い一族の歴史が、驚くほど身近に感じられるこの書。紛争の絶えない世界で、そして歴史の教訓を忘れて戦争に向かいつつある日本で、平和への道ゆきを照らす一つの知恵に加えてほしいと思う。そして仏教徒としても、経典との多くの共通点をいくつか見出すことを喜びとしたい。 |