03 06(金) 米沢藩訪問の下調べ (三) |
本校の起源は、歴史を紐解けば、米沢藩の藩校にまで遡ります。学校沿革に拠りますと、元禄十年(1697年)6月15日、上杉五代目の藩主上杉綱憲は聖堂・学問所を建立、これが米沢藩学館の始めであるとあります。次いで、明和八年(1771年)5月2日、折衷学派の碩学細井平州が学問所再興を意図する藩主上杉治憲(米沢藩中興の祖である鷹山公)の招聘に応じて米沢に下向、松桜館において学生に講授し、これが、後の興譲館の始めである、とあります。さらに、安永五年(1776年)9月19日、平州は、落成した学館「興譲館」の講堂に於いて初めて『書経』を講じたとあり、本校では、この日を興譲館創立の日としています。 校名の「興譲」は、儒学の聖典『大学』の中の、「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興る)という言葉に由来します。 本校は、開学以来の、この興譲の精神を教育精神とし、現在は三つに分けて生徒たちに示しています。 「一、自他の生命を尊重する精神。」 生徒たちには、自分の生命を愛おしみ、自分らしく生きることが、他者の生命や生き方を尊重することに他ならないことを知って欲しいと考えています。 「一、己を磨き、誠を尽くす精神。」 生徒たちは、美しいものや人間の真実、永遠なる真理の前に謙虚に頭を垂れて、己を磨く人間であってほしいと考えています。 「一、世のために尽くす精神。」 生徒たちには、志を高く掲げた生き方を目指して欲しいと思います。それは、自分の利益のみを追い求めるのではなく、世のため、人のためにあることを目指して生きる生き方であり、仮に世に認められること少なくとも、かく生きたことを、誇りをもって語ることのできる生き方だと考えています。 興譲館は、開学以来、国の内外に数多の人材を送り出してまいりました。時代は移っても、世に有為な人間を育てることを本校の使命として、学校経営に当たってまいります。 |
江戸時代の日本において、朱子の著述は『四書集註』をはじめとして、『朱子文集』.『朱子語類』に至るまで数多く読まれるが、中でも極めて短い文章でありながら人々に殊のほか愛諦・愛用されたのが「白鹿洞書院掲示」である。「白鹿洞書院掲示」(『朱子文集』巻七十四。以下、「掲示」と略称する)は、南康軍(江西省)知事となった朱子が、煙筒六年(こ七九)、荒廃していた「白落丁書院」を再建した際に、書院に掲げたものである。本文はわずか一七五字で、ほとんどが古典からの引用であり、これに二六〇字の短い艶文が添えられたものである。「掲示」はこのように短い文章であるが、中国明清期の書院規則の模範とされただけでなく、朝鮮朝時代の各地の書院や江戸前日本の藩校などにも掲げられて、学問・教育の指針とされた。「掲示」はこのように近世東アジアの学校教育に大きな影響を与えたのである。また、それだけでなく特に江戸期の日本においては、「掲示」に関する数多くの注釈書が作られており、江戸儒学史の中で大きな位置を占めていたことが分かる。江戸時代に、最初にこの「掲示」に注目して大いにこれを顕彰した人物は、山崎闇斎(名は嘉、一六一九〜一六八二)である。 彼は初め仏僧であったが、二十五歳の時、儒教に転向する。そして、京都において『關異』を著して仏教を排撃し、朱子学一丁の姿勢を鮮明にする中で、『白鹿洞学規集註』を編纂し刊行している。その自序は慶安三年(一六五〇)、三十三歳の時に書かれるが、闇斎はその中で、『小学』『大学』の教えは、いずれも人倫を明らかにするためのもので、「此の規は五倫を教えと為し、而して之を学ぶの序は、実に大学と相い発す」と指摘した上で、次のように述べている。 この規はこのように明確で完備しており、『小学』や『大学』と並んで行われるべきである。しかし、朱先生の 文集の中に隠れていて、知る者も少ない。私はかつてこれを取り出して、書斎に掲げ、思いを潜めて考究した。 最近、李退渓の『自省録』を読んだら、このことを詳しく論じていた。その論を受けて、反復してみたら、この 規の規たる所以が解った。そこで、先革の説を集め、各条の下に註を付け、同志とこれについて講降した。ただ 嘆かわしいことに、『小学』『大学』の書は〔様々な〕学派や人々が説き伝えているが、この書を明らかにした者 はいない。これは時代がかけ離れてしまい、土地も遠く離れているからであろうか。しかし、李退渓の場合は朱 子から数百年も後に朝鮮に生まれながら、白鹿洞書院に学んで直接教えを受けた者と何ら変わらないのだから、 私も感奮興起すべきだろう。 夫規之明備也如此、則宜與小勇之書刊行。耳隠於夫子文集之中、知者鮮 。嘉嘗表出掲諸軍、潜心思索焉。近 看李退渓自省録、論之詳突。得心論反復之、写糊知此規之所以為規者。然後首先儒之説、註於逐條之下、與同 志講習之。離心我国小大之書、家伝人諦、而能明之者蓋未聞其人 。此世遠地去之由乎。甘心器量渓、生於朝 鮮数百歳之後、而無異於洞遊面命、則我亦可感発而興起云。 彼はこのように「掲示」の価値を特別に高く評価し、これを講学すべきことを力説している。また「近思録序」(『垂加撃』巻十)の中でも、「白鹿洞掲示は教学の法(拠り所)であり、『大学』以来の規(規範)である」と高く顕彰している。ここで注目すべきことは、闇斎が「掲示」を顕彰するに当って、朝鮮の朱子学者李退渓(名は滉、字は季重、景浩、一五〇一?一五七〇)の名前を挙げていることである。江戸儒学における本格的な「掲示」研究は闇斎から始まったと言えるが、実はその出発点において李退渓と密接な関係があったことが分かる。この問題に関しては、既に阿部吉雄博士がその著『日本朱子学と朝鮮』の中で詳しく論じておられるが、本稿では若干の資料を補足しながら、中国・朝鮮・日本の朱子学を結ぶものとして、「掲示」と重宝渓との関係について考察を行うものである。 山崎闇斎は「掲示」の註釈を作るに当って、「学殖集註」と表現している。これは明の静黙山が『大学結言補』(巻七十二)で「無規」と称したことなどにもよるが、勇退渓が『聖学十三』(一五六八)において「白鹿弓造」と表現したり、他の文章の中でも「学規」と述べたりしていることにもよると言えよう。 以後、闇斎学派の人々はこの「掲示」を尊重し、講義の中で繰り返し取り上げたり、様々な注釈書を著したりしている.、その最も代表的な人物としては、闇斎の高弟である浅見綱斎(名は安正、一六五二?一七一一)の名が挙げられる。綱斎は、闇斎の『白白蒸学規集註』を詳細に解説した『白鹿洞書院掲示集註講義』(もと『白鹿洞掲示師説』とあったものを改訂)を著し出版している。綱斎はその中で次のように述べている。 方正学も賛せられ、李哀楽もこれについて大に発明あるぞ。山崎先生に至り穿て表宿せられ此くの如き一書と成 たるぞ。まことに聖学に功あると云うべし。 綱斎は、「掲示」については無異渓も大いに明らかにするところがあったが、闇斎に至って始めて一つの独立した書物として顕彰された、と明言している。更に彼は、朱子の半文にあるように、これは「掲示」と称する所に意味があるのに、丘環山や李退渓も「学規」と言っているのはおかしなことだ、と述べている。闇斎の『集註』がごく簡潔な註釈であったのに対して、綱斎の『白鹿洞書院掲示集註講義』はこれを更に詳細に解説したものであった。 また、綱斎は、貞享元年(一六八四)の冬に「掲示」を講義した際、考証した関連資料を収録した『白鹿洞書院掲示考謹』を作っている。この書物は、白鹿洞書院再建に関する朱子の文章などを収録しているが、直接「掲示」の内容に言及したものとしては、方孝儒の「白鹿笹下賛」(『遜装甲集』より)、李退渓の「答金而言書」(『文集』より)、「答黄仲挙指革鹿洞規集解」、「重答黄仲挙」(以上『自省録』より)の四篇である。このうち三篇は貝器渓の著したものである。つまり、綱斎は「掲示」の中に、朱子一李退渓一山崎闇斎へと流れる学脈精神を読み取っていたと言える。 以上の「掲示」に関する浅見綱斎の二つの著述によって、闇斎の『集註』が広く伝播すると同時に、以後「掲示」の注釈書や講義録が陸続と作られることになる。以下に挙げる著作からも分かるように、それは闇斎学派や朱子学派に限るものではなく、古学派や陽明学派にまで及んでいるところに特色があると言える。 『学規仮名直解』中村場斎(名は之欽、1629〜1702) 〔朱子学〕 『白鹿洞学規講義』貝原益軒(名は篤信、1630〜1714) 〔朱子学〕 『白鹿洞書院掲示口義』三宅尚志(名は重固、1662〜1741) 〔崎門学〕 『白鹿洞学規口解』中村蘭林(名は明遠、1697〜1761) 〔朱子学〕 『白鹿洞掲示筆記』稲葉黙斎(名は正信、1721〜1799) 〔崎門学〕 『白鹿洞掲示略解』沢田眉山(名は正業、?〜1859) 〔古学系〕 『白鹿洞書院掲示問』佐藤一斎(名は坦、1772〜1859) 〔陽明学〕 『白鹿洞書院掲示解義』佐藤一斎(名は坦、1772〜1859) 〔陽明学〕 江戸期におけるこのような流れの発端とも言える山崎闇斎と李退渓の関係について、改めて見てみることにしよう。 先ず、浅見綱斎が『白下穿書院掲示考讃』に収録した李退渓の三つの書簡を見ていくことにしよう。それぞれの書簡の典拠を以下に明らかにしておく。 「答金而精書」 『退渓先生文集』 巻二十九 「答黄仲挙論白鹿洞規集解」 『退渓先生自省録』 巻一、『退出先生文集』 巻十九 「重答黄仲挙」 『退渓先生自省録』 巻一、『退渓先生文集』 巻十九 最初の「答金而追書」は、門人の金主精(名は就礪、号は整庵、一五一七??)に答えた書簡であり、「掲示」全文に対する退渓の考え方がよく示されている。金槌精が自分の欠点は「学術が粗雑・固随で、心慮は喧喋・雑駁、自己の修め方は間違っており、物事に対処するのに軽々しかったりでたらめであったり、人と交わるのに浮わっいたりいい加減であったりする(学術贔随、心慮躁雑、行事顛倒、処事宜妄、接物澄忽)」という点にあると述べたのに対して、退渓はこの五つの欠点は自分自身が深く憂慮して矯正しようとしたものであるとして、「貴公は朱先生の白鹿洞規のことを聞いたことがないのか。この五つの欠点を直そうとするなら、この規によるのが一番だと私は思う(公論嘗聞六器生白鹿洞規乎。滉以為欲治五病在此一規)」と述べている。そして、その理由について退渓は次のように説明を行っている。 思うに、この〔白鹿血盟の〕教えは人倫を明らかにすることを根本として、博学・審問・慎思・明弁を窮理の要 点とし、修身から望事・接物までを篤行の具体的項目としている。そもそも学・問・思・弁を行って物に格り知 が至るならば、理は明らかにならないことはなく、学術は精微なものになる。身を修めるのに言葉が忠信であり 行いが篤敬であることを柱として、怒を懲らし欲を塞ぎ善に遷り悪を改めることで補うならば、行いは篤実なも のになり、心慮は喧喋・雑駁なものでなくなり、自己を修めるのに間違うことはない。物事に対処するのに義を 正し道を明らかにし、人と交わるのに他者への思いやりと自己に対する反省があれば、篤実な行いが事物に表れ て、〔物事に対処するのに〕軽々しかったりでたらめであったりすることを心配する必要はなく、〔人と交わるの に〕浮わっいたりいい加減であったりすることを憐れる必要はない。 写声為教書、本意明倫而博学・審問・慎思・明弁讃評理之要、自修身以至置処事詰物為篤行轟轟。夫学問思弁 活物格知至、則理無不明而学術可造於精微夷。修身主群忠信篤敬、而補整溶岩聖遷改、則行無償篤而心慮不在 於躁雑、蓋置不至於顛倒 。処事以正義明道、接恩讐行密話己、則篤行又見於事物、而浮言非所憂、滝忽非所 慮突。 退嬰は、「掲示」の「五教演目」(明倫)、「同学之序」(博学・審問・慎思・明弁・篤行)から「修身之要」「処事之要」「接蝋之要」までのことが、この「五つの欠点(五爵)」を克服する方法であるとここで説いている。彼は、学問を行う者にとって最も重要なことがらがこの「掲示」に示されていると捉えていたのである。綱斎が『白鹿洞書院掲示考謹』でこの文章を引用したのは、「掲示」本文が学問の要点を示したものであるということをこの書簡が端的に語っていたからであった。 次に運定は、門人の黄仲挙(名は俊良、号は錦渓、平海の人、一五一七?一五六三)宛の蒼黒の書簡を二通引用している。退渓五十九歳(一五五九年)の作である。闇斎が「白鹿洞学規集註序」の中で、「最近、李退渓の『自省録』を読んだら、このことを詳しく論じていた」(近看李編垂自省録、論冬蔦突)と言っているのは、この書簡のことであろう。最初の「答弁仲挙黒白鹿洞規集解」を取り上げてみることにする。これは、黄仲挙が朴松堂(名は英、字は子実、密陽の人、一四七一?一五四〇)の『白富里規集解』について論及した書簡に対して、退渓が自分の考えを述べたものである。ここで『白鹿洞規集解』とあるのは、『松堂先生文集』巻一所収の「白鹿洞々解」(以下「規解」と略す)のことである。正徳十三(一五一六)年、松堂四十八歳の時に著されたものである。「規解」は「五教之目第一」「為学之序第二」「修身面高第三」「金事之要第四」「接物理要第五」の五節と践文とからなる。「規解」は典拠となる文章のほか、それに関連した君子や朱子、呂東莱、張南軒等の言葉を引用したものである。松堂は第一から第五までの「規解」の後に『論語』の「子日参広言道一以貫之」(国士篇)と「顔淵問為邦」(雛型公篇)の二章を掲げて、「右二章、論語の中より得て、諸を語末に書し、以て学ぶ者に示す。蓋し能く此の規を行いて此の一貫の妙を暁らかにし、此の邦を為むるの道に達して、挿めて可なり」と述べている。また、それに続いて、「規内の数條は、皆誠敬を以て主と為す。若し敬を以て主と為さざれば、固より下手着力の処無し。…蓋し道に体用有り。唯だ誠、之を主とす」として、「敬」と「誠」についての自説を展開している。蹟文の末尾には次のように見える。 今、主上は四方の学徒の事を思い、朱文公の学規を取り出して学林に掲げられた。学に志す者は〔この規を〕心 に会得しなければならない。 且今聖上念四方為学之士、拮出朱文公之規、掲干儒林。若有志者、其可不心得乎。 つまり、朴松堂の「繋馬」は、天子(中宗)の命で各地の学林に朱子の「掲示」が掲げられたことと何らかの関連があったようである。『松堂先生文集』巻二・附録に収録されている「白鹿洞規五識」(黄孝献撰)に、「朱文公の白鹿洞規には、以前は注解がなかったが、今はこの注解が存在する」(朱文公評鹿筆規、古詳解、今有解)とあるから、「掲示」の本格的注釈はこの「規解」に始まったと言えよう。「識」では、「この学童を理解しようと思えば、必ずこの注解を理解しなければならない」(欲知此規、須知此解)、「規と解は前後、同じ道である。学ぶ者は卑近〔な言葉〕だからといっておろそかにしてはならない」(日干日日、前後一揆。学者不可以其近而忽焉)と述べている。また、『松堂先生文集』巻二・附録にある「議状」(金在野撰)には次のように見える。 また〔先生は〕「白鹿豆苗解」を著し、朱夫子の考えを祖述して、諸儒の説で補足された。末尾に自ら言文を書 かれ、繰り返し解き明かして、世の士民に教えられた。従い教化される者は多かった。 又著白露語規律、祖述朱夫子而補以諸腰説。末韻書為践、反復暁釈、以教江之士民。従而化之響岩。 始めて作られた「掲示」の注釈である「規解」が、士民の教化に大いに役立ったと伝えている。黄仲挙がこの「規解」の内容を取り上げて退渓に質問の書簡を送ったのは、「規解」が著されて約四十年後、この書が始めて刊行された頃のことである。退渓はこれに対して詳細な返事を書き送ったのである。 退渓は返書の冒頭で黄仲挙の次の質問を取り上げている。 正其義不謀其利 以義対利説而又引利者義之和也、融融謀之意如何。 これは、「掲示」の「隠事之要」で取り上げられている董仲之の「正着義不謀勢利」の語について、「増刊」が朱子の「義者当然之理、利者義之和也」という言葉を援用したことを問題にしたものである。すなわち、董子の原文は義と利とを対立的に捉えているのに、「利者義之和也」(『野塩』乾卦文言伝)の語を引用すると、「其の利を謀らず」とある本文の意味と齪酷を来すのではないか、というものである。これに対して退位は、「そもそも利は義の和なるものであるが、つまるところ義と相い対立して消長勝負することになるのは、利がもともとそういうものだというのではなく、人の心のあり方がそうさせるのである」(重利錐登臨義之和、畢寛解義相対為消長勝負者、非利之故然、人心使血判也)と述べ、だから朱子は前言に引き続いて「しかし君子は専らその義を正そうとするだけである。決して予めその利を謀ろうとはしない。利を謀る心があれば、それは何かのためにする心があってそうすることである」(然君子六欲正仁義身為。未嘗預謀雄心。有謀利之心、則是有所為而為之)と説いたのだとしている。さらに、「ここで利と言っているのは、もともと良くないものではなく、利を謀る心によって良くないものになってしまう」(言説利字、初非不好、縁被謀之聖心、翼成不好了)のであるから、「利者義之和也」の語と齪飴を来すものではない、と説明をしている。『退渓先生文集』(巻十九)所収の同書簡では、これに続いて黄仲挙が「規解」の自践の文章を二ヶ所問題にしたところを取り上げて、自分の見解を述べているが、『自省録』ではこの部分が省略されている。 退渓は、以上の回答に続いて、「規解」全体に対する自らの考えを開陳している。先ず退渓は、朴松堂が「規解」本文の後に、『論語』から二章を取り上げて自説を述べていることに対して、「学規」を不十分なものとして、その欠を再おうとしたのであろうが、その必要はないと述べている。更に践文の中で「誠」について述べた文章には六つの弊害があると指摘し、一つずつ論駁した上で、次のように述べている。 集解は啓発する所が多いが、仔細に考えてみると合点のいかない所が数条ある。話説は意図する所は良いが、つ きつめて論じれば前に述べたような問題点があり、恨みなしとするわけにはいかない。それでは今どのようにし たらよいのであろうか。そもそも先輩をあげつらうのは、もとより後学が軽軽しくすべきことではない。しかし、 道理を分析し議論することにおいては、いささかもなおざりにすべきではない。 集解難甚発明而仔細考之、有数条不合者。後喜錐好意思而究極論之、又有如前面云者、使人離能無遺恨於此也。 然則今当如之何而可也。夫非議先輩、固後学総監認定也。然至重析理論道、則一毫不可荷也。 退渓は「如意」に対する自らの姿勢についてこのように述べた後、最終的に次のような結論を提示している。 この「規解」については、道理を知り是非を弁えた門人と一緒になってその得失を考え議論して、削るべき所は 削り残すべき所は残して、改訂して世に出すならば、後学にとって幸いなことだ。 是解也、得與其門人之識道理公是非者前論其得失、置去其所可並存其所可存、改血以行於世、則後学之幸也。 退渓は以上のように朴松堂の「下煮」に対して、自分の考えを歯に衣着せずに論じているが、この書簡の中で朱子の「掲示」そのものについては次のように述べている。 朱先生の学問は、全体大蒜がすべて備わっているが、学ぶ者のために学規を作るに当たっては、ただ五倫を根本 として、これに続けて学を修める順序を記し、最後に篤実に行う事柄について述べるだけで、完全な道の本質に は言及していないが、これはやはり孔門の感量、先王の教法である。 子朱子之学、全体大用素望、而其処学者立規也、特以五倫為本、而壷皿以為学田序、終之以篤行当事、不及於 道体之全、其亦孔門之遺意、先王之教法也。 退渓は、朱子の「掲示」には「道体の全」に関する言及がなくても、「孔門の遺意、先王の教法」が込められていると考えていたのである。『自省録』所収のもう一つの書簡「重答黄仲挙」は、警報が前便で論じたことを更に補足している。 朴松堂の「規解」をめぐる黄仲立と李退渓との往復書簡による議論は、「掲示」に「孔門の遺意、先王の教法」が込められているということ、そして「掲示」及びその解釈自体が、朱子学理解に関わる哲学的議論の対象となる、ということを示すものであった。山崎闇斎が「最近、早退渓の『自省録』を読んだら、このことを詳しく論じていた。その論を受けて、反復してみたら、この規の規たる所以が解った」(前出)と述べたのは、実にこのことによるものだと言える。「掲示」の持つ意味、そして「掲示」をより深く理解することの意味、これこそが闇斎が退渓に強く共感しつつ、『白鹿洞学規集註』を著すに至った、大きな動機であったと言えよう。李退渓は自ら「掲示」に対する詳細な注釈書を著すことをしなかったが、彼が詳細に論評した「規解」のような注釈書が、やがて退渓の文章を読んだ闇斎そしてその門人たちを通して次々に世に出ることになるのである。 最後に、退渓と「掲示」の関係を考えるには、その最晩年(一五六八年)に著した『聖学十図』を取り上げなければならない。退渓は六十八歳の時、宣祖に対して政教の根本を論じた「戊辰封事」をたてまつり、あわせて『聖学十図』を進講した。全体の構成は、「進聖学厩立筍」に続いて、「第一太極図」「第二西銘図」「第三小学図」「第四大学図」「第五白鹿洞規図」「第六心慰性情図」「第七仁説図」「第八心学図」「第九敬斎箴図」「第十夙興夜警図」から成っている(『退渓先生文集』里国所収)。このうち、第三図、第五図、第九図、及び第六図の中毒と下図は、退渓自身の手になるものである。細図の下にその本になっている文章が引かれ、それに続いて退歩の解説が記されている。 退渓によれば、この「聖学十図」は「聖学の大端」「心法の至要」を図と説によって表し、人々に「入道の門、積徳の基」を示したものである。「小学」「大学」の二図の上に置かれている二図は、「事端拡充、体益虫道、極致之処」で「小学と大学の基準・根源」(小学大学之標準本原)であり、下にある六二は「明善誠身、崇徳広業、用力之処」で「小学と大学の立脚地・具体的働き」(小学大学之田地事功)である。そして退渓は、「敬」が上下を貫いており、「,この聖学十図はすべて敬を根本とする」(今繋恋図、皆以敬為主焉)と述べている。 「第五白鹿洞規図」では、「掲示」本文を図示した後、「洞規後装」として朱子の捻文を引き、短い解説文を記しているが、後半には次のようにある。 臣(私)は今、謹んで「白鹿洞規」の本文の項目に従ってこの図を作り、考察・反省の便に供するものです。思 いますに、箋舜の教えは〔父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の〕五品にあり、三代の学はすべて人倫を明らかにす るためのものです。ですから、この「規」にある窮理と力行はすべて五倫に基づくのです。そもそも帝王の学に おける規範や禁令は、普通の学徒〔が守るもの〕とすべて同じというわけにはいきませんが、人倫を根本として 窮理と力行を行って、心を養うための重要な方法を得ようと努めることにおいては、全く同じです。ですから、 この図を謹んで奉り、朝夕の戒めの用に供するものです。 臣今謹依規文本目作此図、以富盛省。蓋唐虞之教主五品、三代之学皆所以明人倫。故規之窮理力行、皆本於五 倫。且帝王之学、其規矩禁防之具、錐與凡学者有不能尽同者、然本田郵倫而窮理力行、農事得夫心法切要処、 未嘗不同也。故拝献是図、以備朝夕賛御之箴。 退渓は「白忙裏規図」までの五図は、「天道に基づくもので、その作用は人倫を明らかにして徳業に務めるものである」(本甲天道、而功在明人倫愁徳業)とし、以下の五図は、「心性に基づくもので、その要点は日常の作用に勉めて畏敬を尊ぶところにある」(畏敬原於心性、雲斎在番日用崇敬畏)と述べている。 以上の退渓の説を総合的に見るならば、「聖学十図」における「白鹿洞規図」の位置付けは、天道に基づく人倫(五倫)を明らかにするための学問のあり方(知と行)について示したもので、「心法面要論」即ち心を養う工夫の要点を明らかにしたものと言える。聖学が「天道」に基づくことと、「人道」(人倫実践)の具体的方法を示すものとして捉えられているのである。とにかく、この「聖三十図」によって、「掲示」が「聖学の大端」「心心の至要」を示すものとして取り上げられ、位置付けられたのである。ここにおいて「掲示」は単なる「学規」の一つではなくなった。このことは、山崎闇斎を初めとする江戸期の朱子学者において、「掲示」が特別に重視されることにもつながる。李退渓との出会いが、江戸儒学における「白無業書院掲示」の顕彰に大きな影響を与えたのである。 【注釈】 (1) 「白鹿洞書院掲示」の本文及び践文を次に掲げる。 父子有親 君臣有義 夫婦有別 長幼有序 朋友有信 右五教之目。発舜常識為書徒業敷五教、即此是也。学者学此而已。而其所以学之之序亦有五焉。其別如左。 博学之 審問之 謹思之 明弁之 篤行之 右為学之序。学問思弁智者、所以窮理也。若夫篤行誓事、則自修身愚書千畑事黒物、卑官有要。其別如左。 言忠信行篤敬 三盆窒慾遷善改過 右修身之要。 正其義不謀其利 明其道不計其功 右処事之要。 己所不欲勿施於人 行有不得反求諸己 右接物之要。 烹漏壷古昔聖賢所以教人為学之意、莫非使之講明義理、以修其身、然後難以騒人。非徒丁霊務記覧為詞章、以釣声名取利禄而已也。 今人之為学者、則既反面 。然聖賢所以教人之法、具存立経。有志之士、固當熟読深思責問辮之。勇知其理之當然而責其身以必然、 則美規矩禁防面素、量待他人設之、爆管有所持黒色。近世於墨髭規、其待学者、為歯面 。而其為法、又未必古人之意也。故今不 隠密霊前此堂。而受取凡聖賢所以教人為学之大端、條列如右、而掲之眉間。諸君其相與講料遵守、而責之前身焉、則夫思慮云為之 際、其所以戒謹而恐催者、必有厳於彼者 。其有不時、而曲節於此言霊子棄、則彼所謂規者、必将取之、固不得将帥也。諸君其亦 念之哉。 (2) 『日本朱子学と朝鮮』(東京大学出版会、一九六五) (3) 「白鹿洞書院掲示」に現れている朱子の思想については、拙稿「朱烹『白鹿洞書院掲示』の思想」(『町田三郎教授退官記念中国 思想史論叢』同刊行会、一九九五)を参照。 (4) 括弧内の各典拠は『白鹿洞書院掲示考謹』の注記である。 (5) 江戸時代の儒学者と「白鹿洞書院掲示」の関係については、拙稿「『白滅菌書院掲示』と江戸儒学」(『中村璋八博士古稀記念東 洋学論集』汲古書店、一九九六)を参照。 (6) この書簡は山崎闇斎の『文会筆録』巻十六にも収録されている。 (7) 現存の『錦渓先生文集』(「韓国歴代文集叢書」o)には内意・巻四に三通、外集・巻七に十四通、馬主業態書簡が収められるが、 当該書簡は未収である。 (8) 『松堂先生文集』巻一所収の「白鹿洞規解」に、「正徳海門春、燈下添書」とある。また『松堂先生文集』巻二・附録に収録され ている「白鹿洞規準賊」(不著撰人)には「戊寅六月十八日書」と見える。正徳十三年は、中宗十三(一五一六)年に当たる。 (9) 「白鹿洞贈爵駿」にも、「方今聖上、学尊孔孟、治具三代、第念学者不可一野草造聖人之域。故以朱子白鹿洞癌掲示四方。此実 登高自卑、徹上徹下之枢紐也。而今君之補解尤有力焉。善悪深嘉其意乎」と見える。 (10) 『退渓先生自省録』の「三親仲卸論白地理規集解」に、「松堂朴公有集解、近廻刊行」と注記されている。 (11) 綱斎の『白鹿洞書院掲示考謹』も、この書簡を『自省録』から引用しているため、その部分は省略されている。 【引用文献】 『退渓先生文集』(成均館大学校大東文化研究院編『増補退渓全書』第一・二冊所収) 『退渓先生自省録』(成均館大学校大東文化研究院編『増補退渓全書』第三冊所収) 『松堂先生文集』(景仁文化社刊『韓国歴代文集叢書』33所収) 〔附記〕 本稿は李退渓生誕五百周目を記念して、二〇〇一年十月十五〜十六日目成均館大学校(韓国ソウル)で開 催された「第十七次退渓学国際学術会議」(国際退渓学会主催)に参加して発表した内容に基づいている。 白鹿洞書院掲示 ?白鹿洞書院掲示:朱子が白鹿洞書院を再建する際に定めた学生心得。日本でも儒教教育の基本として各藩校などで掲示された。 ?『孟子』から引用された「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」という五教を基礎とする。 ?30,40年前まで、日本社会には、この五教の影響が色濃く残っていた(と、本質的に「古臭い」林は思う)。現在、その影は、ほとんどない。 ?しかし、5つの内、少なくとも、他の4つより、影響が続いているらしいものがある。それが… |